呼吸


最初に十字手。
鼻から息を吸い、手を挙げて十字を作り、今度は息を吐きながら十字にした手を解く。
そして起勢。
息を吸い、息を吐きながら腰を落とす。
呼吸は、止めないことが大事だった。


冬らしい寒風が頬を切るようだ。
気温が上がらない時間に身体を動かすと、薄っすらと関節が痛む。
それでも、ゆっくりと動きを続けていくうちに、少しづつ頭がクリアになり、身体は暖まっていった。
「譲介君、どうして今日も来たんだい?」
踵を伸ばすいつもの準備体操をしながら、隣で身体を動かす青年に尋ねた。先日百貨店に行った時に見たティファールの鍋のような、落ち着いた淡い水色のジャケットを着ている。今の気候では、寒色のジャケットが寒そうに見えるけれど、彼の面立ちには良く似合っていた。
「TETSUさんが、今週はずっと仕事というので暇だったんです。それに、身体を動かした後で台本を読むと、台詞がいつもより頭に入って来る気がしたので。村井さんさえ良ければ、顔バレするまではここに通わせて貰えたらと思います。」
目深に青いキャップを被った青年は、朗らかな気配を言葉に滲ませた。
こちらに気を使っているに違いない。
仕事で忙しい上に、きっと大学の課題もあるだろうとは思うが、仕事の先輩として立てて貰っているというこの感じは、気分としては悪いものではなかった。
「君が、ここを気に入ったのなら良かった。」
何しろ、最初に彼をここへ連れて来た師匠のTETSUくんは、寒い季節が大の苦手だ。
酒を飲むと言う口実があればこそ、意気揚々と出掛けることもあるが、基本的には、この時期にプライベートで外に出るくらいなら、暖房の効いた中で蜜柑を食べているというのが彼の冬の過ごし方だ。そのくらいのことは、彼と結構な長さの付き合いを続けている譲介君には、すっかりお見通しだろう。
二度目からは、こんな風にして、一人でここに足を運ぶことになることが分かっていたはずだが、彼は素直な顔つきで「この公園、朝のうちかもしれませんが、静かでいいところですね。」と言った。
当たり障りも初々しさもない、こうした大人の雑談の方法を、彼は、私と出会った時には既に身に着けていた。
「太極拳も、思ったより面白いです。一度やってみて、村井さんの背筋がぴんと伸びてる理由が分かりました。」
「TETSUくんも、また始めればいいと思うけど、譲介君から見て、どう思う? 君の師匠、時々猫背になるだろう。一時期、ここに通っていた間は、すっと背筋が伸びてたんだけどね。」
そう言って正面に手を伸ばすと、譲介君は「僕も、その時のTETSUさんを見たかったな。」と言ってはにかむように笑った。



筆不精で仕事以外のメールは見るのも返事も億劫がる癖がある年下の友人が、次の日曜に顔を出していいか、と連絡を取って来たのは先月の末のことだった。
聞けば、この青空教室に興味がある人物を見つけたから、連れて来て引き合わせたいのだという。
もしかすると、新しい恋人候補を連れて来るつもりだろうか。
さてどんな人だろう、こんな引退後の人生の余禄のような太極拳の教室を口実に、搦手でTETSUくんにお近づきになろうとするとは。
彼のメールの文面に全く浮かれたところが感じられないところからも分かる。見た目はきっと、これまで彼が付き合って来た女性たちとは全く違うのだろう。
いつぞやの、ぽっちゃりした体形の愛らしいスタイリストさんか。
あるいは、彼が舞台で知り合ったという切れ長の目のほっそりした女性か。
年下の友人は、繊細だが、人の気持ちには多少鈍感なところがある。
そういうところが、見ていて面白いこともあるけれど、少なくとも、ことが色恋沙汰となれば、彼の所業には嘴を挟まないことと決めている。
考え過ぎかもしれないが、付き合いの長い私から懐柔しようという思惑で、こんな最果ての公園――とは言っても、一応は都内のうちではあるが――にやって来るとしたら、今までに関係のあった見目好い女性たちのように、あっという間に彼と破局するのではないか、と危惧しないでも良さそうだ。とはいえ、これまでの彼はずっと、そういった彼に一途な女性には目もくれず、彼の周りにいる中で、彼が自分にとって親友だと心に定めた唯一の女性以外では一番に美しい女性を――それと見定めて求愛して来た。
今回こそは、やっと、彼に相応しい人の手を取る心づもりがあることを周囲に示すのだろうか。
そんな風に、深読みと好奇心で胸をワクワクさせていたというのに、今や俳優として名の知れた年下の友人に連れられてやってきたのは、互いに旧知の間柄の、この和久井譲介君だった。
役者というのは、基本的には交友関係が狭いことを、すっかり忘れていたのだ。
それにしたって、共通の知り合いであれば、わざわざ名を伏せる必要もないだろうに。
TETSUくんはきっと私に対してしたのと全く同じ無精を彼にしたのだろう、先週の譲介君が私の顔を見た時も、明らかにTETSUくんと私の顔を見比べて「……TETSUさんの太極拳の知り合いって、もしかして。」とひとこと、そのまま絶句したのだった。
まさか、絶世の美人講師がいるとだまして連れて来たのかと思ったが、それに近いことは言ったのかもしれない。
彼のその言葉は、嘘ではない。この青空教室の講師は、元気いっぱいで美しく輝く、小さな真珠のような女性だ。きっと道行く人が全員振り返っただろう。
これが五十年前なら、という但し書き付きだが。
年輪を経て、丸くなったその道の達人に教わる方が、教わる方も気楽でいいが、このレクチャーの参加者には、譲介君のような若い世代はほとんどいない。
私がここに通うようになってからこれまでの三十数年、これほどまでにカルチャーセンター染みた高齢化になったことはなかったのだが、若い人は皆、結局は、大学を卒業して地元に戻ったり、転勤、子育て世代に突入、仕事が忙しいなどの理由で別れの挨拶に来るか、そうでなければ、ひとり、またひとりと櫛の歯が欠けるようにして欠席が多くなってしまい、最後には自然と音信不通になることも多かった。近隣に自営業を構え、子育てがひと段落した世代になれば戻って来ることもあるが、皆、四十代前半から五十代。
今の日本社会で生きる、ということは、おそらく、何かひとつのことを長続きさせるには、不向きに出来ているのだ。私が役者としての生業を伏せていることもあって、彼があの『和久井譲介君』であることに気付いた人もほとんどいない。


白鶴亮翅。
搂膝拗步。
手揮琵琶。
順に身体を動かしながら「TETSUくんの仕事は、今日からだったのかい?」と譲介君に尋ねる。
「ええ。舞台の仕事で沖縄だそうで。」
そう。私と譲介君を仕事以外の場所で引き合わせた当の本人は、今日は遥か南国の空の下である。
「この時期に沖縄か。きっと暖かくて快適だろうな。」
「そうですね。TETSUさん、僕が顔を見た時も、普段の仕事よりずっと楽しそうでした。泡盛を買って来るって言ってましたよ。」
荷物を詰める時に長袖と半袖で迷ってたなァ、と寒さに鼻を赤くした青年は小さく呟いた。
「駅とか空港で売っている普通のちんすこうでいいのに。」と言うと、譲介君は「村井さんは緑茶派でしたっけ。」と言ってくすっと笑った。
今では仕事で一緒になることもほとんどないのに、良く覚えているものだ。
「舞台を見に行けなくて、残念だね。」
「仕方ないです。大学の試験勉強も重なっているので。」
譲介君は、今日もこれから仕事が一本入っているらしい。どうしてまた日曜日に仕事など、と思ったが、週間のテレビ雑誌に載せる写真撮影とインタビューで、今週はその時間しかスタジオの予約が取れなかったらしいと聞けば納得だった。
仕事を選びに選んで月末に素寒貧になりがちな不出来な師匠とは違って、若く優秀な弟子は、すっかり仕事に忙殺されている。
時々は、彼の師匠と同じように美しい女性との浮名を流すこともあるらしいとは聞いているが、実際、本当にそうなら、こんなところで三十近くも年上の先輩の、そのまたロートルの友人の横で身体を動かしたりはしていないだろう。
ちらりと隣に視線を遣ると、譲介君は、細く呼吸を続けながら、丁寧な所作で身体を動かしている。なかなかどうして、良い感じの脱力具合だ。
「譲介君、初めてにしては筋がいいね。」
「ありがとうございます。」
「これまでに、合気道とか何かやっていたのかい?」
「いえ、僕自身は特に。以前に、母のやっているピラティスをかじってみたり、一也から仕事の前に緊張しない呼吸法を教えて貰ったくらいで。」
「緊張しない呼吸?」と尋ねると、彼は、ええと、と頭の奥から何かを引っ張り出すような顔つきになった。
「ラテラルブリージングだったかな。背中に息を入れるとか。すいません、台詞のようにはすっと単語が出て来なくて。確か、あいつがバレエをしていた最初のうちに習った呼吸法らしいです。ひとつの動作で吸って次の動作で吐く、の繰り返しで、息を止めずに運動するためだとか。くるくると回るでしょう、あれは。確か……三十回転でしたっけ。」ピルエットだったかな、と言って首を傾げている。
「なるほど。」
確か、一也君はこの世界に入るまではずっとバレエを習っていたらしい。休憩時間は、その話題を振って随分と仲良くなった、といつかの日にKEIくんも言っていたな。
「時々、家で柔軟するときに、あの頃、一也に習った呼吸を思い出したりすることがあるので。」
「仲がいいんだな。」
「そうでもないですけど。第一、時々親より口うるさくなる相手のことを友達だなんて言わないですよ。」
そう言って何かを思い出すように口を尖らせた譲介君は、ふわあ、と大きく欠伸をした。
TETSUくんは、色んな女と寝てすぐに別れていると言って譲介君の私生活を心配していたけれど、こんな風に、まだ子どもの部分はあるようだ。
とはいえ、すっかり子ども扱いが出来るような年でもない。そのことは確かだ。今はまだ大学生で、TETSUくんが彼にとっては厳しい師匠であろうとしているとはいえ、私生活への口出しはそろそろ控えるべきときが来ているのだろう。
まあ、実際のところ、見栄っ張りの彼が私やKEIくんに対してはあんな風にこぼしているだけで、本人には何も言わずにいるのかもしれないが。
「呼吸して目を覚まそうと思っても、やっぱり欠伸は出るときには出ちゃいますね。」と笑顔を向けられると、譲介君と撮影現場で顔を合わせていた頃のことを思い出した。
TETSUくんが見学に来ると、決まって、リテイクで疲れた顔をさっと立て直して、一目散に彼の前に駆けて行った。あの横顔は、一端の役者のもので、背中は、師匠にいいところを見せたい、いじらしい弟子のものでもあった。
彼は、本当に師匠とよく似た弟子だ。
今でもお互いに仲が良くなければ、こんな西の果てまで素直に来ることはなかったのだろう。
今後は私から、一本気な師匠の押し付けを躱す秘訣を教える必要があるかもしれない。今朝、ここにいた彼を見つけてからずっと、そんな風に思ってはいたが、それもまた、余計なお世話かもしれなかった。
「朝が早かっただろう。今住んでいる部屋からここまでは、やはり遠いんじゃないのか?」
おっと、考え事をしていたら、勾手の高さがうまく行かなかった。
うむ。
年経た師姉の背中から、散漫になってるわよ、とこちらを睨んでいる気配がする。そろそろ口を閉じるべきか?
「村井さんの御想像の通り、ここから今の部屋は近くはないですね。今朝も、寝坊しそうだと思ったから、TETSUさんの家に泊めて貰いました。」
あの家、ほんと寒いです、と言って後輩の愛弟子は鼻を啜った。
以前に、TETSUくんが、譲介君に鍵を預けたせいで、勝手に家に泊まり込んで戯曲を読んだりビデオを眺めたりするようになったから、仕方なく夜っぴいての演劇談義に付き合っていると言う奇妙な弟子の惚気のような話を聞いてはいたが、これだけ仕事が増えている今も、師匠の家に入り浸っているらしい。
この譲介君の恋愛沙汰が引き起こしたバタフライ効果で、これまでに二度の転居を繰り返したTETSUくんの部屋は、今はどうなっているだろう。
「引っ越してから随分経つけど、彼の家は、もうすっかり片付いていたかい?」
「あの大量の本が、本棚の中にすっかり納まってる、って訳じゃないですけど、大方は。……映画のディスクは段ボールの中だったから、そろそろ出して片付けないと。」
その言葉を聞いて、まるで自分の部屋の片付けのことのように話す、後輩のお気に入りの弟子の横顔を、まじまじと見つめた。
譲介君の、高校時代から変わらないように見える白い細面は、浮世離れした美しさ、という形容がぴったり来る。

――TETSUさんが、今週はずっと仕事というので暇だったんです。

TETSUくんは――私の知るあの可愛い年下の後輩は、これまでいつも、そう、ひどく面食いだった。
いつかの夜に、KEIくんと一緒になって、新しい彼女といつまで持つだろうか、と言う話になったことがあった。
彼が若い頃に手ひどく失恋をした時、朝まで飲むのに付き合わされたとか、告白も出来なかったような相手をいつまで引きずっているのかしら、とTETSUくんのことを心配する口調になっていたのを、どことなく妙だな、と思った記憶がある。
私が見たところ、彼はいつも、オレと付き合わないか、とまず脈の有り無しを測るための告白をして、別れる時は、逆に相手任せの成り行き任せになることの方が多かった。
美しい女性と別れるとき、あいつにはオレより似合いの男がいますよ、と言うばかりで、自分から追いかける気配などは皆無。失恋にも恰好を付けるのが信条だと思っている節があるTETSUくんのような男が、若い頃とはいえ、好いた相手に告白も出来ず、大親友であっても、女性であるKEIくんに醜態をさらけ出すような別れを経験していたとは。
あの夜は、酒が入っていたせいですんなり受け入れてしまったが、今思えば、かなり不可思議な話ではあった。
その失恋の相手というのは一体、どんな人だったのか。
あの時、彼女に問いかけてみれば良かっただろうか。


「次は海底針。」
猫背にならないように、といつもの先生の声が朝の公園に響き、思考と一緒に止まりそうになった身体が、反射で動き出した。
「譲介君、君は――。」と隣の青年を見る。
彼と付き合っているのか、という言葉を飲み込んだ。
TETSUくんは気付いていないだろう。
譲介君の気持ちにも、恐らく、自分の心にも。
「村井さん、どうかしましたか?」
「いや、これが終わったら、どこか近くの喫茶店に入って朝飯を食べないか?」
「朝食ですか?」
「ああ。この辺りに厚切りのトーストを出す美味しい店があるんだ。モーニングに卵がついて、コーヒーも旨い。昔TETSUくんがここに通っていた頃に何度か入ったことのある店だから、味は保証付きだ。」と言うと、彼は耳か尻尾があるなら、ピンと立てるようなきりっとした顔つきになって「お付き合いします。」と言った。
「譲介君、今、呼吸を忘れてないかい?」
「あ、はい!」
「太極拳はたったの二十四式だ。緊張しなくても君ならすぐに覚えられる。」
そもそも、本当の初心者向けは、いつも八つの型から始めるのだ。先生はどうやら、TETSUくんが連れて来た彼を、全くの初学者とはみなしていないようだった。
如封似閉。
また十字手。
そして収勢。
ゆっくりと呼吸を整える私の横で、彼は「なるべく早く覚えたいです。次のステップは、四十八式もあるんですよね。」と軽く尋ねて来た。
君なら大丈夫だ、と答えると、キャップの下でもそれと分かるほどに大きく微笑む。

譲介君はきっと、来週も、隙間風が吹くという師匠の家に泊まってから、ここへ来るのだろう。
鈍いTETSUくんは、いつか気付くだろうか。

その時がもう少し先に延びますように、と思いながら、また来週逢いましょう、という師姉に並んで礼をした。
ジャケットを羽織ると、首回りが暖かい。
「腹が減ったな。」と言うと「そうですね。」と譲介君は小さく笑い、恐らくは泊まりの荷物が入っているのであろうリュックを、よいしょ、と言ってその背に抱え直した。

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