明晰夢

 これは夢だと、端からわかっていた。

 真面目な顔をしたレポーターが『治験のため入院中のモニター十数名が一斉に病院から逃亡』と話しているのを、聞くともなしに聞いていた。“ゾンビ映画の導入みたい”とぼやいた誰かの言葉を、馬鹿馬鹿しいものとして一笑に付したのが間違いだったとは思わない。だってこれは、夢なのだから。



 逃げ込んだ雑居ビルのエレベーターはとうに稼働していなかった。階段を使って屋上へ向かうつもりが、途中階は既にゾンビの群れに制圧されており、絶望してトイレに籠ったのが約一時間前。
 こんな時ですら正しく時を刻み続ける三本の針から目線を外し、モップの柄で押さえているドアを見やった。見つかるのも時間の問題だ。
 いかにも柄の悪いデザインのごつい腕時計が巻き付いた手首を離すと、その手は俺の腿を控えめに撫ぜた。
「まだ……走れる?」
「……」
 肩にかかる重みは彼のもの。頬に触れる髪は汗やら何やらでしっとりと湿っている。元から赤い髪の一部が黒っぽく変色しているのは彼自身の血液と、敵の──あるいは味方だったものの──返り血。綺麗な赤がくすんでしまうのは勿体ないな、などと場違いにも浮かびかけた考えは、慌てて打ち消した。
「……、ひとりでなら、なんとか」
 古い雑居ビルの蛍光灯が心許なく明滅している。冷たいタイルの床にふたり、壁に寄りかかって座り込み、来たるべきその時が来るのをただ待っている。
 仲間は死んだ。やむを得ずこの手にかけた者だっている。家族は──どうだろう、わからない。もし奇跡が起きて無事でいるのだとしても、会いに行く手立てがない。肩を寄せ合った男が額を押さえて呻く。
「俺っちは……いてて、ここまでかもなァ」
「あなたは──」
 自分たちが腰を下ろしている水色のタイルの隙間を、彼の流した赤色が、埋めていく。
「殺しても死なないのだと思っていました」
「おうおう、知らねェようだから教えてやンよ。俺っちも人間なの、優しくしてもらわなきゃ死んじまうの」
「ふは、いやすみません、笑ってる場合じゃないのはわかってるんですけど」
 事実、それだけ頼りにしていたということなのだろう。こいつがいれば大丈夫、なんとかなるはずだと、心のどこかで思っていた。俺と同じただの人間である彼が、神のごとき御業で救ってくれるなんてこと、あるわけないのに。
「あァいや、いいンだよ。おまえは今から俺に優しくしなくていい」
「え?」
 コロコロ、ジー、と蛍光灯がちいさく鳴いた。瞬きのうちに辺りは暗くなっていた。灯りが切れたのだ。
「あの窓を割って、雨どいを伝って外へ出ろ。ここで身動き取れねェまま終わるよりマシっしょ。すこしでも近くへ行ってやれ。まだ諦めるには早ェ」
「……なに、を」
 まるでずっと以前から用意していた台詞みたいだった。淡々とした言葉が、甘えるように肩に擦り寄る仕草とちぐはぐだ。急激に冷えはじめた己の指先を強く握り込む。
「言っ……、……ッ」
「はは。つーか、おまえが俺に優しかったことなんてなかったろ。いつも通りでいいンだよ」
 彼の腕が俺の背中を通って肩を抱いた。まだあたたかい、吐息が薄暗がりの中、こぼれる。
「生き延びろ」
 言って強く背を叩いた掌に振り向けば、成程そいつの人を食ったような笑い方は『いつも通り』だった。
「……。天城」
 人間の血のにおいを嗅ぎつけたゾンビたちが扉の前に集りだした。つっかえ棒代わりのモップがガタガタと音を立て始める。
「うん、なに?」
 これは夢だ。夢ならば、拳の一発でゾンビを吹っ飛ばせるくらい強くてもいいじゃないか。だと言うのに俺の腕は現実と変わらず細いし、ひとりで逃げることもままならない。つまらない夢だ。
 ──ああなんだか、嫌になってきた。夢の中ですら天城燐音と心中することを選べない自分が。
「……行きたくないと、言ったら?」
 こんな時ですら、あいつに選択を委ねる自分が。心底嫌いだと、思った。



「──、夢、か」
 俺は星奏館の共有スペースでうたた寝をしていたらしかった。夢。そりゃそうか。
 見回すと各々好きなように時間を過ごすアイドルが数人いて、テレビの中ではレポーターが真面目な顔をして話している。『治験のため入院中のモニター十数名が一斉に病院から逃亡』。へえ。
「ゾンビ映画の導入みたい」
 そう、誰かが呟くのを聞いた。





(ワンライお題『ゾンビ』)

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