法外速度

「カスクート美味しかったです」
 車に乗り込んできた七海さんにそれを伝えたら少しだけ和らいだ目元で「そうですか」と言ってくれた。本当は教えてもらった日に気になってすぐに買って帰ったから、食べたのは今日が初めてではなかったんだけど恥ずかしくてそれは言わないでおいた。
 ちらりと後ろに座る彼に視線を向けるといつもの真剣な顔で携帯を眺めていたので声をかけるのも忍びなく、わたしは大人しく前方に視線を戻した。
「菓子パンは好きですか」
「え?」
 ふいに後ろから飛んできた問いに一瞬理解が追いつかなくて聞き返してしまった。すぐに頭の中で咀嚼し直して「好きです」と慌てて答えると、「良かったです」と感情の読み取れない声色で返事があってわたしは戸惑った。気になってバックミラーで七海さんを見ると相変わらず真剣な顔で携帯を眺めているので、話を続けづらかった。
 珍しく変な感じの空気が車内に漂う。お互いにどこか探り合っているようなそんな雰囲気で少しだけ居心地が悪い。思わずハンドルを握り直してみたけどこの沈黙を打破する案は浮かんでこなくて、結局先に沈黙を破ったのは七海さんのほうだった。
「…アップルパイとかは、好きですか」
「……アップルパイ」
「りんごがシャキシャキのタイプです」
「す………好きです………」
 七海さんは眼鏡のズレを直すようにしながら言葉を続ける。
「美味しいと評判のところを見つけたので買おうと思うのですが、よければどうですか」
「え!?わっ、わたしの分もですか…!?」
「はい。よければ。いつもお世話になってますので、差し入れとして」
 そんなの悪いです!と言おうとしたけれどわたしは少しだけ食い意地が張っているタイプなのと、あのグルメの七海さん(伊地知くん情報)が気になるというアップルパイには猛烈に興味があったのでお言葉に甘えることにした。
 七海さんはわたしの期待に満ちた返事を冷静に受け止めると携帯をしまって、そのまま外のほうを眺め始める。その横顔はさっきまでの少し緊張感のある面持ちではなくなっていた。
「七海さんはアップルパイ好きなんですか?」
「…嫌いではないですが普段はあまり食べないですね」
「そうなんですか?じゃあよっぽど評判のアップルパイなんですね!」
「……そうですね」
「でもなんだかちょっと意外です。そういうのはあんまり食べない派なのかと思ってました」
「………そうですね」
 だんだん返事が小さくなっていってるような気がしなくもない七海さんの声に気づかないふりをして話を続けた。
「意外と言えば五条さんも結構庶民派というかジャンキーな食べ物好きなんですね」
 わたしが言うと七海さんは少しだけ反応したようだった。五条さんについては1、2回ぐらいしか担当になったことがないのでよく知らないのだけど、伊地知くんから七海さんと仲が良いと聞いたことがあった。
 道路は赤信号に差し掛かっている。ここの信号は長いのでゆっくり話していても問題ない。少し喋りすぎかなという不安はありつつも、七海さんと話せるのが嬉しくて口を止めることができなかった。
「この前、五条さんすごく機嫌が良かったみたいで、帰りにご飯連れてってもらったんです」
「…ご飯に?」
「はい。五条さんが行きつけって言ってたのでどんな凄いお店なんだろうお思ってたらなんと………マックだったんです!」
「…マック?」
「いやあの!わたしもマックは好きなんですよ!でも五条さんが行くお店だからって勝手に期待しちゃって…しっかりクーポン使ってるし、なんだか他の人から聞いてたイメージとちょっと違かったっていうか…」
「…2人で行ったんですか?」
「はい。でも色んな話が聞けて楽しかったです!今度、夜パフェしたいねって話になりました。五条さんってすごく気さくな人なんですねえ」
 七海さんと仲の良い人が素敵な人というのが分かってなんだか嬉しかったわたしは軽やかな気持ちで話したのに、気づくと当の本人からはもう分かりやすい反応がなく「へえ…」という空返事が愛想で返ってきただけだった。
 そんなにつまらない話だったかなと不安になってバックミラーを見ると彼は窓のほうを向いて外を眺めている。つまらなかったみたいだ。わたしはちょっぴり凹んだ。
 気まずいようなそうでもないような、また変な感じになってしまった空気を誤魔化すのに神様が手助けしてくれて、信号はちょうど青になった。
 七海さんには聞こえないように小さく溜息を吐く。ちょっぴり仲良くなれたと思ったのにすべっちゃったかなと自分の行いを反省した。明日、伊地知くんに話を聞いてもらおう。
 そんなことを考えていると七海さんから名前を呼ばれた。「はい?」と返したものの運転に集中し始めたわたしは彼のほうは確認しなかった。
「今日、何時に終わりますか」
 いつもより小さい声だと思ったけれど狭い車内ではしっかり聞こえるくらいのボリュームだった。
「えっと、今9時なので、あとの任務も問題なく祓っていければ18時には、」
「私ではなくあなたのことです」
「わたしですか?今日は1日七海さんの担当しか入ってないので、七海さんが終わり次第わたしも直帰しようと思ってますけど…」
「予定は空いてますか」
「え…………え?」
 自分でもびっくりするぐらいの間抜けな声が出た。2回も「え」と言ってしまった。
 予定?わたしの?仕事終わりの予定?
 そんなことをどうして七海さんがと思ったところで、やめてほしいのに、心臓が速くなっていくのが分かる。
「空いて、ますけど…」
 思わずハンドルを握る力が強くなる。わざわざ仕事終わりの予定を聞いてくるって。そんな期待をしたけどもしかしたら、なんかそういう、ただの世間話かもしれない。そっちのほうが確率が高い。でももしかしたらもしかするのかもしれない。
 バレるに決まっているのにバレませんようにと変なことを願いながらバックミラー越しに七海さんを見た。いつもは見えにくいそのレンズの向こうの瞳と、目が合ったのがわかる。
「よければ、そのまま空けておいてもらえると嬉しいです」
 七海さんの口元がしずかに笑みに変わるのを見た。その瞬間に自分の心臓の音が急にしっかり聞こえてきて、なんだか足の先や指先がぴりぴりしてきたような気もした。
 「それから、」と言葉を続ける彼の手はまた眼鏡の位置を直している。
「今夜食べたいものを考えておいてください。パン以外で」
 五条さんのときはこんなんじゃなかったのに。
 わたしの心臓はわたしを煽るみたいにどきどきと高鳴ってしまって、そのせいでうまく言葉が出てこなくなってしまって、情けないくらい小さい声で返事をするしかできなかった。

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