絵画:ミツメテ
ふわりと柔らかな風が頬を撫でる。レースのカーテン越しに差し込む光もどこか優しく見えた。そのカーテンの向こう側、窓の外にはまさに春うららとばかりの光景が広がっている。気持ちいい季節だ。仕事中でなければ散歩したいくらいである。
俺は店よりも奥にあるキッチンからお盆を持って、暖簾代わりのカーテンをくぐった。たっぷりとした布が重たげに揺れる。窓の外、雲は薄くたなびき空は青い。窓の近くに見えるのは、これからが盛りとばかりに咲いた桜たちだった。満開の桜は、ほんのりと紅を差したかのような色合いで咲き誇っている。
綺麗だ。明智と出会ったのもこんな季節だった。
二人で迎える何度目の春かはもう覚えていないけれど、四季が巡るたびにこの出会いの季節に思いを馳せることをやめはしないのだろう。
お盆の上に乗ったマグカップからはふんわりとコーヒーの香りが立ち上る。少し乱雑に置かれた本や小さな棚、使い道のわからない小箱、何らかのお守り、吊るされたドライフラワーじみた何かたちを器用に避けながら、俺はそれを冷めないうちにあいつの元へと運ぶ。色々なものがみっしりと詰まった俺達の店、その奥に鎮座するマホガニーの机に陣取る彼の元へ。
積まれた本や転がったペン、何かがメモされた紙きれにチラシのようなものをちょいちょいと避けてマグカップを静かに机の上に置く。ことり、と無くしきれなかった音がするも、こいつはそれに顔を上げるような男ではない。相変わらず見るたびに違う本を読んでいる気がするなあと覗き込んでみるが、書かれた内容にあまり興味が持てなかった俺は二、三行ほど目を通した後すぐに顔を上げてしまった。
それと同時に、ちりん、とドアベル代わりにしている鈴の音が響いた。微かに軋む扉の音に、そろそろ油を差さないと駄目な時期かと思う。前に差したのはいつだったか。
「いらっしゃいませ」
反射的に来客を迎える声を発して、俺はぱっと柔らかな表情を浮かべた。店用の顔。お前は目力が強いんだからもっと穏やかそうな顔をしておけ、と言われてから頑張って練習した表情とも言う。上手くできているかどうかはよくわからないけれど。
ゆっくりと扉を押し開けて入ってきた人物は、すらりとした男性だった。例えるならば雪解けの氷みたいな雰囲気の男。切れ長の目がしっかりとこちらを捉えている。反射的に背筋が伸びるような視線を感じて、俺は思わず小首を傾げた。どこかで出会ったことがあるのだろうか。ここ最近の俺の記憶の中に合致する顔ではない。
「あぁ……すまない。不躾になってしまった」
見つめ合ってしまったのは数秒だったはずだが、彼は丁寧に頭を下げた。室内に舞う微かな埃が扉から差し込む光に反射していて、そこに立つ彼の雰囲気を実に不思議なものへと仕立て上げていた。それはまるで、季節外れのダイヤモンドダストみたいな。
「店主はいるだろうか」
「はい、こちらに」
所作を丁寧にした礼をひとつ。ちらりと見えた明智の顔は、お前……と文句が飛んできそうな表情をしていた。いやだってどう見たってでかいマホガニーの机の前に堂々と座ってるお前の方が店主に見えるだろうが。そんな無言のやり取りを何一つ気にせず、来客はそうか、と小さく頷いた。
「すまない、俺は喜多川祐介、画家だ。ここはいわくつきの品を見てくれると聞いてやってきたのだが」
「うちはしがない雑貨屋ですよ」
「おや、噂と違うのか」
ぱちぱちと瞬きをして不思議そうに目を見張る祐介は、店の奥に視線をやった。その先では、気だるそうに机に肘をついて明智が微かに首を傾げている。これは間違いなくしらばっくれるつもりだ。けれど、彼が自分で入ってきたのだから、この店の案件であることは間違いない。いくら面倒だろうと、こうして飛び込んできたものを追い出すことは俺達にはできない。
「ただの雑貨屋だよ」
それを知ってもなお繰り返す明智の声に、はて、と祐介は明智と逆方向に首を傾げている。うん、これは明智の分が悪い。というかここまで嫌がることもないだろう。一体何なんだか。
「そうなのか?」
ちらりと視線をこちらに向けて再度確認するように問われてしまった。祐介は純粋に不思議そうな顔をしている。うん、仕方がない。俺はにこっと笑いながら小さく肩を竦めた。
「なんでも扱う雑貨屋とも言う」
「余計なことを言うな、蓮」
間髪入れずに飛んでくる明智の声を黙殺して、俺は祐介が胸に抱えているものを指差した。スケッチブックくらいのサイズのそれは、大事そうに布を被せられている。
「それの話?」
「あぁ」
「……君が責任取ってよね」
「オッケー」
祐介の返事と共に大きな溜息が聞こえる。明智だ。まあいいけど、という声に頷いて、俺は祐介に向き直った。ではこちらに、と店の衝立の奥へと案内する。雑貨で埋まっているスペースとは違い、大きな窓から外の光がたっぷりと差し込むそこは圧迫感がないように作られている。丸いテーブルの上には清潔感のある真っ白な布がかかっていて、それぞれ向かい合うように椅子が並べられている。その椅子に腰を下ろすと、繊細な彫刻が施された微かに透ける衝立の向こうに明智の姿が見えた。とりあえず、俺達の話を聞くことはするらしい。面倒がるくせにそういうところは真面目なんだからなぁ。
「店主はああ言っていたが、君でいいのか?」
少し訝しげな表情をした祐介に、俺はこくりと頷いた。本当に問題がないからだ。
「俺も店主だからな」
「……二人とも店主なのか」
「まあ詳しく言えば二人しかいないから、どっちも店主でどっちも店員。その時に気になった方が対応する形だな。あっちは明智。俺は蓮」
「なるほど……不思議な仕組みだな」
「まぁ、ね。柔軟ってとこ」
そう言って祐介は抱えていたそれを丁寧にテーブルの上に置いた。そうっとかかっていた布を退ける。薄い布の下から現れたのは、柔らかな色合いで描かれた春の景色の油彩だった。温かくて柔らかくて爽やかな風が吹いているように見える。油彩独特の曖昧な輪郭が、その絵にとても似合っていた。
そんな絵画の縁を指先で愛おしそうに撫でながら、祐介がぽつりと呟く。
「俺が描いた絵の一枚だ。何百枚もあるうちのたった一枚なんだが、魂を吸い取るという噂が流れていてな」
「へぇ?」
目を伏せながら困ったものだ、と呟く祐介はそれでもどこか穏やかに見える。不思議と困惑や怒りといった感情があまり見えない。ただ淡々と、その事実を述べ続けている。
「美術館に飾っているのだが、気付くと誰かがこの絵の前で倒れているらしい」
「病気とか意識障害じゃなくて?」
「ああ。医務室に運ばれた後、少しすると元気に帰っていくようだ」
「なにそれ…」
「俺もその場に居合わせた訳じゃないからよくわからないんだが……」
窓から差し込む春先の太陽の光を受けて、その絵画はまるで天国のような柔らかさと穏やかさを纏っている。そんな仰々しい言葉が出てくるようなものには到底見えない。
「勿論俺はこの絵を描くにあたって変なものを使った覚えはない。美術館側も飾ってはおきたいが、そういった現象が起こるせいでこの絵が持て余されていてな」
「へぇ……」
美術館に飾っておきながらも持て余されるとは。美術館の主はよっぽどこの絵を気に入ってはいるが、付随する怪奇現象に手を焼いているらしい。絵の前に警備員を増やしてみたものの、その現象に変化はなかったんだと続いて、俺もふむ、と手を顎に当てた。ない話ではないが、そう頻繁に聞く話でもない。
「で、だ。この店がこういったものをなんとかしてくれるという噂を聞いて来た訳なのだが」
「なるほど」
俺はまじまじとその絵画を見つめる。至って普通の油絵だ。油彩独特の筆跡の凸凹に艶めく光が混じってとても綺麗だと思う。まさに今の時期、春の一瞬を切り取ったかのような絵。柔らかでほんのりと温かくて、そしてどこか寂しさも漂っているような気がする。俺の主観ではそう感じる、というだけで、目の前の祐介はどんな気持ちでこの絵を描いたのかはわからないが。
「本人からの直接搬入か……」
小さく呟いて椅子にもたれる。繊細な模様が彫ってある背もたれが、ぎしりと小さく軋んだ。腕を組んで少しだけ離れたところから見てみる。何も変わらない春の絵画がそこにあった。
「どうだ、頼めるか?」
「ええ、お預かりします」
ここまで聞いて断る選択肢など俺達にはない。俺の返事に、祐介はほっとしたように笑った。
「で、どうするのそれ」
「まずは飾って様子を見る、だな」
祐介が去ってから、丸テーブルの上に置いてある絵を見に来た明智が小さく溜息を吐いた。まあ君が責任をとるんだからいいけど、と呆れた風を装っているが、なんだかんだでこの絵画と俺の事を気にしてくれている事は知っている。素直じゃないなあと思いはするが、そんなところが明智らしいし俺も好ましいと思っているのだ。そんなところに、俺はどうしようもなく惚れている。その自覚はあった。
「直射日光はよくないけど……まぁ、その絵ならここが良さそうかな」
この店にはモノがあふれている。ここに出せていないものが蔵には山とあるし、それらはほとんど減らずに増えていくばかりだ。
積み上げられたものばかりでほとんど見えない壁の一部を綺麗にして、明智が指をさす。俺は黙って示されたそこにその絵を掛けた。古い本や日に焼けたようにも見える柔らかな布の近くに設置されたおかげで、そこだけ明るい春の一角になっていた。
「数日様子見ってとこかな」
「あぁ。でも、なぁ……」
「何?」
俺は少しだけ眉を寄せる。じっと正面からその絵を見つめてみるが――何もないのだ。変な気がしない、というか、違和感がない、というか。何かしらの異変を持ったものは、一目見るだけで何か気になるものを感じることが多い。ただ、この絵画からは何も感じない。
「この絵……なんにもない、んだよな……」
「絵が?」
「そう。あの喜多川祐介の執念、というか、この絵に込められた感情、というか。そういうやつはなんとなく感じるんだが」
「ふぅん?」
「……ま、様子見だな」
「それしかないね」
自分の嗅覚は自分が一番信じている。良くも悪くも、俺は『不思議なもの』を嗅ぎ分ける力が強い。それは今もずっと変わらない特性だと思っている。今回は俺が感知できないような何かがあるのか? と首を傾げてみるも今わかるわけもない。壁の一角に飾られたその春は、穏やかにそこにあった。
「何もないね」
「何もないな……」
数日様子を見ていたが、春色の絵画はただそこに飾られているだけだった。ぱっと視界に入れば、どこか穏やかな気持ちになるようなそれ。現実の季節も春ではあるが、それ以上に穏やかで柔らかく心地よさそうなのはこの絵画の方だ。
窓の外で、ちらちらと桜の花びらが風に攫われていく。
「僕から見ても、特に変わったことはないし」
ぽす、と明智が口元に扇子を当ててじっと絵画を見つめている。
「となると……現地か」
「それしかないね」
結局二人でこの絵画が飾られていた美術館へと赴くことになった。昼間に一般として二人でうろうろするには今の服は酷く目立つため、店で着ているチャイナ服は脱いで普通のスキニーと少しゆったりめのサイズのシャツを着る。明智はきっちりと襟元までボタンを閉めたシャツとベストにジーンズで出てきた。物珍しさに、俺はまじまじその姿を見つめてしまった。その不躾な視線に、なに、と明智は眉を寄せる。当然の反応である。いつものカラーグラスの眼鏡がないぶん、明智の表情もよく見える。不機嫌そうに見えるけれど、多分そこまで嫌がられてはいない。それくらいはわかるようになった。それだけで俺はちょっと上機嫌になる。
「いつもと雰囲気が違うの、いいな」
「そう」
「明智は何着ても似合うな」
「いいから行くよ」
「りょーかい」
俺の褒め言葉に居心地が悪くなったのだろう、明智がふいとそっぽを向いて携帯端末をポケットに突っ込んだ。そのまま店の入り口に向かうのを追い掛けて、俺は店の扉にcloseの看板を掛けきっちりと鍵を閉める。
店から少し歩き、路面電車に乗って二十分ほど。この辺りでは有名で色々な催し物もしている美術館ではあるが、こうして改めて訪れるのは初めてだ。俺はさっさと二枚分のチケットを購入して一枚を明智に渡す。スタッフが半券をもぎるのを確認しながら美術館の中へ入った。
建物の中に入ってすぐに感じた空気は、外での春先の温かさとは違った。ひやりとした空気は湿度と温度を完璧に管理されている証拠だ。どこか懐かしい古いインクのような匂いがするのも印象的で、なんとなく気圧されるような雰囲気がある。古いものに囲まれている場は総じてそう感じることがあるので、きっとそういうものなのだろうと大雑把に認識している。
「……思ったより人が多いね」
「あぁ、ほら、あっち。特別展があるからだな」
「ふぅん」
ぐるりとまわりを見てみると、向こう側の通路には『特別展の順路はこちらから』と書かれた看板が設置されていた。そりゃあ会期が決まっている特別展があれば人も多くなるのは当然だった。俺達の用事があるのは常設展だ。
向こう側は、こちら側よりもだいぶ人が多い。少し離れたここまでざわめきが聞こえてくるくらいだった。
「ま、人が少ない方が都合がいいしね」
「そうだな」
俺達はその特別展、入り口はこちら、と書かれた看板が掲げられている通路を横目に常設展の方へと入っていく。また一段と周囲がしんと静まり返ったような気がする。心地いい冷ややかさは不思議な感覚だ。春の合間に吹き込む、冬の名残のような気配がする。
かつ、こつ、と俺達の足音が響く。絵画の展示なのだから当然だが、太陽の光は差し込んでこない。展示されている絵画は、どれもが痛まないように最低限の光で照らされている。鮮やかな色彩で描かれているのであろう花束はどこか落ち着いた雰囲気にも見えるし、カフェテラスが描かれた一枚絵は柔らかな光で石畳が照らされている。
「蓮」
「ん?」
「……行くよ」
思わず足を止めて見入ってしまっていたらしい。いつもよりひっそりとした声で名前を呼んだ明智の方をぱっと見れば、微かに眉を寄せていた。もしかしたら、名前を呼ばれたのは一度や二度ではないのかもしれない。俺が気付かなかっただけで。
「ごめん、見るのに集中してた」
「まぁいいけどね」
かつ、こつ。先程よりも少しだけ歩く速度が緩んでいるのは……俺のためだろうか。絵画を見るのは好きだ。こうして美術館へと赴くことは少なくなってしまったが、誰かの感情や情熱が込められた絵を見るのは好きだった。時折俺が足を止めると、少し先を歩く明智も律儀に止まってくれる。放っておくと何時間も見てそうだから、と言われたのはいつだったか。その集中力恐れ入るよ、と苦笑された時の顔もはっきりと思い出せる。なんだかんだと明智は俺に優しい。これを口に出すことはしないけれど、その分俺もきっちりと返すようにはしている。
進んでは時々止まりを繰り返していくと、俺達の前にはぽっかりとあいた空間が現れた。間違いなくここだ、とわかる場所。あの春の絵画が飾られていた場所。
「……」
「……明智」
「しっ。ちょっと黙ってて」
言われるがままに俺は口を噤む。今目の前にあるのはただの壁だ。ピクチャーレールだけがぽつんと寂しげにつり下がっている。ここは絵画が無いからか、今俺達以外の人はいない。……思い返せば、ここに近付くにつれて人が減っていったような気もする。肌にひんやりと触れる空気が、一段と冷たくなったような気がした。
なんとなく、落ち着かない。そわそわする。肌がどこかぴりついている気もするし、もしかしたら酸素が薄いのかもしれない。ほんの少しだけれど、呼吸が浅くなって、きた、かも。
「あけち」
これ以上はだめだ、と本能が警告しているのがわかる。俺は重りをつけたみたいに緩慢にしか動かせなくなってしまった腕を持ち上げて、明智の服の裾をつまんだ。それ以上腕が上がらなかったのだ。いつもの服と違うせいでなかなか掴めなかった事には――多分、気付かれている。ちくしょう。
見られている。睨まれている? 観察されている。舌なめずりされている…? 圧迫感を覚えた俺は、不意に訪れた耳鳴りにぎゅっと目を瞑った。キイキイと金属をすり合わせられるような不快な音。じっとりと嫌な汗が背筋を伝った。
寒いのに汗が出る。喉に何かがべったりと張り付いたみたいな気持ち悪さを感じて気分が悪くなる。酷い眩暈を覚えた瞬間、ぱしりと手を掴まれた。温かい手。ぬくもりのある手はしっかりと俺の手首を握っていて。
「戻るよ」
ぐい、と手首を掴まれてずんずん大股で道を戻る明智に、半ば引きずられるようにして俺は連れて行かれた。あの場を少し離れただけで、その違和感は波のように引いていく。肺に一気に酸素が流れ込んで、げほ、と小さく咽てしまった。
「う……」
眩暈は少し残っているが、不快さはすっかりあの場に置いてきてしまったようだ。深く息を吸ってゆっくりと吐くことを数度繰り返したところで、ようやく一息吐けるようになった。
「おまえ……餌にしただろ……」
「あんなところでぼーっとしてる君が悪い」
隣で明智が小さく溜息を吐いた。きつく掴まれていた手首がぱっと解放される。じんと痺れる感覚があることに、俺はどこか安堵した。多分、あの場に一人でいたら祐介が言っていたように倒れていたのは俺だろう。それだけはよくわかった。
「とりあえず判ったから、今日は帰るよ」
「……カフェ」
「……」
「……」
「……はぁ…」
こんな状態のまま店に帰れる気がしない。お前が勝手に餌にしたんだから休憩させろ、とじとりとした視線に乗せて俺はカフェを指差す。無言で見つめ合うこと数十秒。明智は全くどうしようもないなと言わんばかりに大きな溜息を吐いて、俺が指差したカフェに向かった。
カフェで一休みしてなんとか体調を戻した後、俺達はさっさと店へと帰った。店に飾られている春の絵画をまじまじと見つめる。じっと見つめていると、散りかけている桜の花びらが今にも舞い落ちてしまいそうに見えた。
「これで確定だね」
「そうだな」
店に戻ると同時に、俺達は洋服からいつものチャイナ服へと着替えた。ここ数年はこちらの服を着ていることが多く、いつの間にか洋服よりも着慣れてしまったのだ。ゆとりがある分、少しだけ無茶な動きをしても困らない――という理由もあるが。あと単純に収納力がある。結構便利だ。
明智はふう、と息を吐いて時計を見上げた。未だにアナログな時計は規則的な音を立てて時を刻んでいて、古めかしい振り子が型にはまった動きを繰り返している。窓の外へと視線を向ければ、もうすぐ空の端の茜色が滲んで消える頃だった。夜の帳が降りてくる。もうすぐだな、と呟くと、明智は小さく頷いた。ぱちり、と扇子の閉じる音が店の中に響いた。
天鵞絨みたいな夜空に浮かぶ、まあるい月を見上げる。ほんの少し欠けているから、多分満月には少しだけ足りないのだろう。おそらく明日か明後日か。月齢にはあまり詳しくなかったが、きっと明智に聞けばすぐわかる気がする。あいつは、俺よりもそういったことを気にしている。そういう性質なのだろう。蓮は気にしなさ過ぎ、と叱られたことまで思い出してしまった。だって俺はそういうの得意じゃないし。
「何してるの」
「ん? ん。別になんにも」
じとりとした目で見られていることをするっと流して、俺は小首を傾げた。しゃり、とピアスの飾りが揺れる音がする。今日のピアスの飾りには、厄除けと称した翡翠があしらわれていた。ないよりはあった方がまし、と明智が選んでくれたもの。いつものお守り代わりだ。
静かな夜に、俺達はとんと空中に足を踏み出した。氷のような透明な床が足をつけた瞬間だけうっすら見える。とんとん、と階段を上るかのように並んで空中へと昇っていく。ある程度の高度を確保すると、その床はまっすぐになった。相変わらず、足をつけた瞬間だけ微かに床が見える。まるで凍った水面の上を歩いているみたいな光景。明智が好きそうだなと思った。
「もうさ、近くまで電車で行った方がよくないか?」
「この時間は治安が悪いだろ」
「成人男性二人に絡むような馬鹿いないって」
「どうだかね。そもそも電車を使うよりもこっちの方が早いし」
「まぁ……それはそうだけど……」
足元の遥か下に街の明かりがきらめいているのが見える。ひとつひとつが人の営みの光だ。昔はこんなに明るくなかったなあ、だなんて思ってしまう。春の夜の風は穏やかで、こんな高さでも地上と変わらずどこか柔らかく甘く感じた。
俺達専用の空中回路をとことこ歩く事十数分。電車を使うよりずいぶんと早く、昼間に訪れた美術館の真上に俺達は立っていた。
「ありがとう、ロビンフッド」
明智が虚空に話しかけると、一瞬だけその姿が見える。白い影に青いマント。その姿を認識した次の瞬間、ぱっと俺達の足元にあった床が消えた。ひゅう、と風が吹き抜けると共に、身体は重力に引きずられてあっという間に落ちていく。ナインポイントエイト。耳元で空気が過ぎ去る音がひどくうるさい。
「お、あ、ちょっ……!」
「行くよ」
明智は涼しい顔をして空を滑り降りていく。多分、ロビンフッドが手助けしているのだろう。ばさばさとはためく服の裾がその下降速度を物語っている。俺は慌ててアルセーヌを呼んだ。途端に首元を掴まれたかのように落下速度が緩くなる。ぐえ、と一瞬だけ息が詰まって眉を寄せてしまった。
「猫みたい」
「誰のせいだと……?」
「さあ?」
くすくすと笑いながら、明智は優雅に夜の空を降りていく。二人とも落ちる速度は同じはずなのに、俺の方はどうにも格好がつかないのは何故だろうか。
「君は予測してないことが多すぎるんだよ」
「心の中を読むのやめてくれないか」
「読む以前の問題。表情に出過ぎ」
「……」
思わずむすっとしてしまった。これをやめろと言われている事は判っているけれど、俺は明智みたいに表情を取り繕うことが得意じゃないんだから無理を言わないで欲しい。
そんなやり取りの少し後、俺達は美術館の屋根の上に音も衝撃もなく着地していた。四階建ての屋根の上から見つめる街の光は、先程よりも近い。摩天楼こそないものの、遠くに見えるビル群の光がまるで地平線に近い星みたいに見える。
「行くよ、蓮」
「オッケー」
手近な出っ張りに飛び降りて、そのまま足場を伝って内側のバルコニー状になっているエリアへと移動する。ふ、と明智がいつもの扇子に息を吹きかけて数秒後、かちゃん、と小さな音が響いた。先程まで施錠されていたであろう窓が開いている。
「相変わらず便利だなぁ」
「まあ、これくらいはね」
俺にはできないことだ。いや、できなくもないが明智程スマートに行える自信がない。するりとその窓の隙間から照明の落ちた美術館へと滑り込む。昼間に来た時よりももっとひんやりと静かなここは、静謐さを湛えているように感じた。どこか肌がぴりぴりするようにも感じるのは、昼間に起こった現象のせいだろうか。警戒されている、ということか。
本来ならば警報が鳴り響いているだろう空間は、しんと静かなまま俺達を迎え入れている。昼間とは違い足音はひとつもしない。いや、しないようにしている。聞こえるのは俺達の衣擦れの音と小さな会話ばかりだ。
「……なあ、明智」
「なに?」
「昼間より嫌な気配がしないか?」
「そうだね、餌がのこのこ戻ってきたからかな」
勝手に餌にしておいてこの言い分である。まあ平和ボケしてぼんやりしていた俺も悪いところはあるけれど、流石にその扱いには物申したい。別に俺だって好きでぼうっとしていたわけじゃないし、そもそも俺は元々絵画を見る事自体は好きなのだから仕方ないだろう。反論しようと口を開いた瞬間、肌で感じる温度が一段と下がった気がした。
「花冷えの時期だからってよくないぞ、こういうの」
「蓮」
明智の声が聞こえるとほぼ同時に俺は真横に跳躍する。ちょうど手をついた壁のところに、なんの絵画も飾ってなくてよかったと思った。コンマ数秒の差でなにかが飛んできたのがわかった。
先程まで俺がいた場所には、なにか黒く蠢くものが存在している。夜の闇の中でもはっきりとわかる、明らかに質感の違う黒いもの。隣にいたはずの明智も気付けば距離を取って口元に開いた扇子を当てていた。君がやってね。そう視線が物語っている。言われなくとも。俺は少しだけ口角を上げて笑った。
「ノーコンか?」
「センスがない」
「挑発にはこれくらいじゃないと駄目だろ」
俺の発言に煽られたかどうかは判らないが、再びどこかからにゅるりと何かが迫ってくる。それもまたぴょんと後ろに跳ねて回避して、よくよく目を凝らしてみる。それは歪な形をした手のようなもの、だった。粘性があってずるずると這うような動きを見せたかと思うと、どこかから伸びたその手が襲い掛かってくる。
「なんだこれ」
死角から掴みかかってきた手を体を捻るようにして避けて、くるりと半回転をひとつ。視線の先にいる明智は静かにこちらを観察していた。
「六時」
「ん」
言われた通りに横へと避ける。飾ってある観葉植物を蹴り倒しそうになって、俺は慌ててそれよりも半歩先に足をついた。着地地点を狙って、その物体が手を伸ばしてくる。どろどろしたものに見えるのに、思ったよりも俊敏に動くそれにぱちぱちと目を瞬かせた。
「こんなやついたか?」
「発生したんでしょ」
今まで見たことのない物体だと思ったのだ。似たようなものは何度か見たことはあるが、これは初めてだ。いや、違うな。――これは。
「あぁ……形を決めかねている、のか?」
ぽん、と手を叩いて思い至った事を呟いたのが聞こえたのかどうなのかは定かではないが、先程までよりも多い手が明らかな意思を持ってこちらに襲い掛かってきた。
ひゅ、と耳元を掠める音がどこか粘ついたようにも聞こえる。気分のいいものではなかった。そもそも見た目からして泥状の不定形ななにかなのだから、なにひとつ良い訳も無かったが。
「十二時」
袖の中から取り出した愛用のナイフを持ち、言われた方向から襲い掛かってくる手を切り裂く。何かを斬った感触は酷く薄くて、けれどどろりとしたものがナイフに付着したことに気付いてしまい俺は思わず眉を寄せた。反射的に振ってその泥を払い落とす。べちゃ、とカーペットに落ちたその泥がぞろりと蠢いた。
「……気持ち悪…」
「三時」
「うへぇ……」
利き手の方向から伸びてくる手をバックステップで避け、すぐ後ろにあった壁に手と片足をついて反動で正面に跳ぶ。目の前にあった手を躊躇いなく切り裂いて、左側から掬い取るかのように迫ってきた手を足蹴にして空中へと飛んだ。
「増えすぎだ」
先程までは数本だったはずの手は、気付けばかなりの数へと増殖していた。足首を掴まれそうになって思いっきり体を捻って避ける。その次の瞬間、今までそこにはなかった壁に手が付いた。はっと視線を滑らせるも、そこには何も見えない。けれど、指先に感じるのは間違いなく壁の感触だった。透明な壁。
「……!」
「八時」
「っだあ…もう……!」
襲い掛かってきた手を切り裂いて反対側へと跳ねる。追いかけてくる手をいなしながらその手の本体を探ろうとしてみるも、増えてきた手を相手にしていては俺の『目』を使う暇もなかった。思わず舌打ちが漏れる。
「斬った分だけ増えてるよ、蓮」
「わかってる…!」
「九時、四時」
跳ねた先に触れた壁も元々ある場所よりかは手前だった。――明智が結界を張っている。こんな派手に暴れるのであれば必要な処置ではあるが、あいつ、自分だけ結界の外にいる。一瞬だけこちらも目を起動してみるが、その一瞬では自分とこの怪異の存在しうる場所がまるごと大きな透明の箱状のものに包まれている、ということがわかるだけだった。ひゅん、と張り手のように泥の手が飛んでくる。明智の言う通りの方向から同時に襲い掛かってきた手を垂直に跳ねて躱して、地面に着地すると同時に上から押し潰すように現れた大きな手にげえ、と声が漏れた。
「ちょっと、これは……」
「時間をかければかけるほど厄介になるやつだね」
さらりと言い放たれる言葉にわかってる、と答えたくともその隙がない。こちらの目を起動し続ける余裕もあまりなくて、この怪異の大本である核の場所も判り辛い。やり辛いことこの上ない状況に眉を顰めるしかなかった。飛んでくる手を避けるばかりでは埒が明かない。
「ったく……」
手を切り裂くと数が増える。避けるばかりでは防戦一方で探れない。明智はしれっとしているように見えるが、きっとこの結界を維持しつつ警報を抑え、俺のナビゲートをすることでおそらく手いっぱいだ。この結界の外で涼しい顔をしているけれど、多分間違いない。そもそも俺達は攻撃は最大の防御だと思っている。こんなやり方は性に合わない。
仕方ない。ええいままよ、と俺は伸びてきた手に敢えて捕まった。人肌みたいな気持ち悪い温さを持った泥状のなにかに手首を掴まれる。その半秒後に足首に巻き付くそれを振り払うことはしない。どろりとした感触はまるでぬめったへどろだ。何もかもが不快な事この上ないが、悪臭がないだけマシなのかもしれない。
「おい、」
「後は頼む」
「蓮!」
ほんの少し焦りの滲んだ明智の声に、俺は端的に返す。これだけであいつは判るはずだ。一瞬見えた明智の顔は珍しくどこか焦った表情を浮かべていた。そんな顔を見れたという事実にこんな状態でも気分が良くなる。怪我の功名だ。ぐい、と思った以上の力で手首と足首を引っ張られて、壁にぶつかると思った瞬間とぷんと何かに沈む。全身が生温いなにかに包まれて、けれど不思議と呼吸はできる。手足の動きは何かに阻まれているような感覚があるものの、自分の意志で動かせないほどではない。ぎゅっとナイフを握り直して、されるがままに身を委ねる。ぐいぐい何かに引き寄せられた先にちかりと光る赤いものが見えて、俺は目を細めた。
あぁ、これだ。この怪異の核はこれなのだと本能が反応している。目も間違いないと言っている。妙に強い力を放つそれがぐにゃりと歪んで、まるで触手のように変化する。それがこちらに向かって伸びてくるのをなんとか掻い潜って、俺はその真っ赤な宝石のような何かに手に持ったナイフを思いっきり突き立てた。
びしり、と亀裂が走っていく。ナイフを刺した場所を起点に発生する雷のようなそれが、蜘蛛の巣のように広がる。何もかもが一瞬止まった次の瞬間、ガラスが割れるかのような高い音を立てて崩れ去った。
「うわ!」
瞬きをした次の瞬間、俺は虚空に投げ出されてべしゃりと床に尻もちをついた。普通に痛いし最悪だ。床、もとい結界の床には実際の床みたいなカーペットなんてものは敷かれていないし、なんなら氷のように冷たく凍てついている。いてて、と立ち上がってみるも、全身べったりと何かがまとわりついているままで非常に気持ち悪いことこの上なかった。
「おい」
「大丈夫、割ってきた」
「それは判ってる」
明智の声にひらひらと片手を振る。愛用のナイフはいつも通り袖の中に仕舞い直して、目の前にある何の変哲もない白い壁を見つめた。静かにそこにあるだけの、建物のただの壁。先程までとは大違いだ。変な気配はもう無い。深夜の美術館に満ちる静けさだけがあった、の、だが。
「おいコラさっさと出るぞ。セキュリティ動き出した」
「うわ、最悪!」
明智の張った結界が、まるで溶けるかのように消えていく。それと同時に耳障りなベルの音が響き渡って、警報装置が動き出したことがわかった。
俺達は急いで窓の方へと駆け出して、思いっきりベランダの外へと踏み出した。何もない空中をしっかりと踏みしめ、二人で真夜中の空へと駆け上がる。
「アルセーヌ!」
「ロキ」
呼ばなくったって彼らは間違いなく俺達の手助けをしてくれる。俺達はぴょんぴょんと空中を跳ねながら、にわかに騒がしくなった美術館から一目散に逃げ出した。
とん、と地に足が付く。真夜中でも店の前の桜は綺麗に咲き誇り、月光の下に佇んでいた。はぁ、と俺は思わず溜息を吐く。
「気持ち悪い…べたべただ、シャワー……」
店の扉に手を掛けようとした瞬間、ぺしん、と閉じた扇子でその手を制された。何、とじとりとした目で明智を見つめる。眼鏡越しの明智の目が呆れたようにこちらを見ていた。
「その前に塩」
「げぇ……」
さっさと店の中に消えて行ってしまった明智の背中を見つめて、俺は店の前でぽつねんと立ちすくむ。早くシャワーを浴びて、なんなら風呂に入って寝たいんだけど。手持無沙汰に空を見上げる。あんなに高い場所にあった月は、気付けばかなり高度を下げていた。
ふと耳元に手をやる。そこにあったはずの翡翠の飾りはいつの間にか粉々に砕け散ってしまっていたらしい。金属のパーツだけが指先に触れている。明智が選んでくれたものなのに、いつもこうなってしまうのが少し寂しい。お守りとしての本分を全うした結果だということは判っているけれども、いつも無くしてしまったという喪失感に胸がぎゅっとなる。扱いは雑ではあるが、気にしてくれてはいるのだ。その行動ひとつでいつでも俺は舞い上がってしまうことを、明智は理解しているのだろうか。
「ほら、蓮」
ぼうっとしていたところに思いっきり塩を撒かれる。痛い、と文句を言うも、明智がそれを聞いてくれるはずもなく、ばさばさと塩が当たる。痛い。
「これでいいでしょ。早くシャワー浴びてきなよ」
「ううー……」
ようやく明智のお許しが出たところで、俺はしょぼしょぼと店の中に入る。べたべたな上に塩まで被ってしまって気分は最悪だ。それが必要なのだとは知っているけれど、好きになれるわけもなかった。そもそもこんなの好きになるわけがない。
「はぁ……」
店の奥に行く瞬間、小さく明智の溜息が聞こえる。結局こうなるのか、という呟きを、俺は聞かなかったふりをした。
春の光が降り注ぐテーブルの上、春を切り取った絵画が静かに鎮座している。
「この絵画には何の問題も無かった。あの美術館の方に問題があったってこと」
「ほう。そんなこともあるのか」
「まぁ無いわけではないかな。ああいう場所は総じて人の出入りも激しいからね」
祐介は出されたお茶をのんびりと啜りながらふむ、と頷いている。俺は明智と共にテーブルの横に立ってその絵画に視線を落とした。綺麗な絵画だ。誰が見てもほうと息を吐いてしまうような、目を奪われる絵画。春の優しい空気が閉じ込められた絵。
そんな絵画の縁を指先でなぞった祐介が、なるほど、と何か納得するように頷いた。
「では、解決した礼にこの絵画を対価として置いていこう」
「は?」
「よかったな明智。飾る絵が欲しいって言ってたもんな」
「おぉ、それはよかった! この画もきっと、この店なら綺麗に飾られるだろう。間違いなく喜ぶはずだ」
ぽんと手を打ち鳴らした祐介がいい事を思いついたとばかりに発した言葉に、明智は一瞬ぽかんとした表情をしてから視線を絵画に落とした。まあ、うちの店はそういった店だ。描いた本人とこの絵画が納得していれば対価としては釣り合う。
「……まぁいいよ。君がそう思ってるならそれで」
「そうか。ありがとう」
にこりと笑った祐介の頭の上には大きな狐耳と、その背後にはたくさんの狐の尾があった。ひいふうみいよ――九尾の狐。なるほど、と俺は心の中で納得する。
「良いインスピレーションも貰ったしな。助かった、店主たち」
またいつか、と上機嫌で店を去った祐介の姿はあっという間に桜の向こうに消えてしまい、俺はふう、と一息ついた。最初から人ならざるものの気配がするな、とは思っていたのだ。ただ、店の方針としてこちらから暴くようなことはしない。向こうから開示してくるのならそれまでであるし、この店に対して害を為そうとするのであれば俺達は無理矢理相手を暴くことだってできる。疲れるからあまりしたくはないし、ここ数百年はそういったことが起きていないので平和ボケしている気がしないでもないが。
「やっぱり狐だったか……」
「人間の間で生きてるやつは、やっぱり物好きだよね」
「まぁ、そうだな……」
俺達は昨日よりかは桜が散り始めている外を見つめながら小さく溜息を吐いた。ままある事とはいえ、いつまで経ってもこの店の唐突さに慣れることはない。
店の前にある桜の木は、今日も薄桃の花びらをひらりと散らしながら咲き誇っている。そうして今年も変わることなく、春が過ぎ去っていく。
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