我妻・淵①



 我妻は、端的に言えば傭兵集団である。特定の拠点を持たぬ旅団であり、その構成員の大多数が幼い少年少女である。彼らは集団の中枢である大人たちの作った子供であったり、旅程の中で捨て子を拾ったり、寒村の口減らしにあたって引き取ったりと境遇は色々であったが、皆に共通して、満足な教育は受けていなかった。使い捨ての消耗品に過剰な手間をかける必要はなく、また駒に自律的な思考をされると不都合も生じかねない。判断力と判断基準は、彼らの保護者あるいは雇用者にとっては邪魔であり、できるだけ削いでおきたいものである。
 彼らが集団の中で教えられる知識と技術はただ一つ、敵の殺し方だけである。その少年は、そんな集団の中で暮らしていた。

 多くがまともな言葉や個性を持たない子供たちの中で、彼はそれでも特異だった。頭上に布を渡されただけの簡易な寝床において、隣の雑魚寝の同僚を、大なり小なり多くの者が気にする中で、彼は一切の興味も、それどころか視線の僅かな移動すらなく、いつもただただ無心に虚空を見つめていた。
 戦場に立てば、逆にとてもよく動いた。短剣や種々の暗器のような軽く小さな武器を好み、幼く小さな体躯と、充実した筋肉による敏捷性と瞬発力を生かして縦横無尽に飛び回っては、敵する者の急所を突いて倒してのけるものだった。その目には感情も宿さず、その口からは喊声も発せず、余計な知恵をつけることもなく淡々と成果を上げるそれは、使用者たちにとっては都合が良かった。
 さらに言うなら、死ぬ気配も見せず、思考の片鱗も感じさせない空恐ろしいその少年が、使えるうちに、御せるうちに、死んでくれれば都合が良かったのだが……。

 ◆

 敵同士の――我妻にとっては敵同士の争いに、少年は人知れず感銘を受けた。刀折れ矢尽きた無手の武者が、相手の武者の腕をとり、捻り上げ、取り落とさせた武器を用いて仕留めてのけるその様は、少年にとって驚嘆すべき光景であった。甲冑組手という技術体系に、彼はその時魅せられた。それを行使した武者は間もなく短刀で首を裂かれて絶命したため教えを乞うことはできないが、彼にとってはどうでも良いことであった。誰かが何かを教えてくれるなど、どだい彼の思考の範疇には存在しない概念である。

 その日から、彼の武器は無手となった。寝床にあっては身体を常に動かして可動域を確認したり、想像の中で誰かを何かを破壊してみたりする。
 戦場には素手で立ち、敵の武器を使って敵を殺し、その武器は捨て置いて次へ向かう。奪うに当たっては手を足を拘束し時には破壊し、余裕があれば新たな手法を実践、検証したりもする。彼自身の負傷も増えはしたが、その技術は日に日に研鑽され、目覚ましい成長を遂げていくのだった。
 唯一教えられた人の殺し方を、凌駕する程の殺し方を我流に身に着けた少年は、もはやこの集団のなかにあっても異質以外の何物でもなかった。自ら学ぶ意思に目覚めたそれは人間らしさを獲得したとも言えるだろうか。そしてその知識と技術によって仕留めるべき獲物をさらに渇望するようになったそれは、獣性を大きく強めたとも言えるだろうか。

 ◆

 人の破壊においては、もはや新たに得る物はない。熟知したそれに残る命題は、いかに素早く効率よく、いかに致命的に破壊するか、それぐらいしか残っていない。彼にとって戦場は退屈で、渇望を満たすものはすでにいくつも見つからなかった。
 期せずしてそこに迷い込んだ獣は、多くの新鮮な死肉を喜んでいた。空きっ腹を抱えたそれにとっては、無尽のご馳走に見えたものだ。そしてそれは、その獣を見た彼にとっても。
 見るからに違う生き物。関節も筋肉も体格も武器も、何もかもが違う生き物。壊し方も圧倒的に異なるに違いない。いずれの獣にとっても、相手は輝かしいまでのご馳走の前の障害である。どちらが先に跳び掛かったかは定かではないが、いずれも捕食者として相手に全力を差し向けたのは間違いがない。

 二足・人型の方がその生において最高の昂揚感とともに標的を倒し、誰にも届かぬ快哉を思う頃には、周囲に生きて動く人はなく、帰る場所はなくなっていた。それは別段慌てることもなく、倒した獣が来た方へ歩き出した。その先には深い山林がある。獣の来し方、獣の行き先だ。

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