崩落
※136話〜137話間にあったらいいなの話
道の端に転がっている石ころを蹴っ飛ばしたらふたつに割れてしまった。行く先を邪魔されたわけでもないのにこんなふうにしてしまって可哀想だと思った。ふたつになった石ころの片方はころころと転がって薄暗い側溝の中に落ちていく。
そのまま地面を眺めていたら前を歩く悠仁の足がぴたりと止まるのが見えた。体の線を辿るようにして視線をあげると、こちらを振り返る揺れる瞳と目が合う。向き合うような形になって、まるで視線だけで会話するみたいにしばらく見つめ合っていたけど、わたしは情緒のない女だからその瞳のゆらめきだけでは何を考えているのかは分からなかった。
けれど悠仁がどういう人なのかは知っているから、何を言おうとしているのかはなんとなく分かった。
そのことを悠仁が言うのはきっと辛い。だからわたしが伝えたほうが絶対にいい。まるで花を手向けるようにゆるやかに、わたしがさよならを言ってあげることが、きっときみの救いになる。
でもわたしは口を開かなかった。その選択がこの先の未来に何をもたらすか分かりきっているからだ。
ねえ悠仁、分かっているでしょう。
今にも泣いてしまいそうなこの目が、誰も守れない役立たずのこの手が、わたしという人間の魂が、きみを失う未来を選ぶわけがないと。
2人の心の中ではきっとあらゆる本音がぶつかりあってぐちゃぐちゃになっている。その中には同じ想いだってあるはずだけれど、たった一つだけの譲れないものを選択しなければならない。それが同じであればいいのに、きっと悠仁は違うのだろう。
悠仁は泣きそうな顔でわたしを見る。真ん中に刻まれた傷は、彼の顔を二つに分けてしまいそうなくらい大きくて痛々しかった。悠仁はあんまり痛いとか辛いって言わないから心配になる。なんにも痛くないようにぜんぶさすって撫でてあげたいのに、彼はもう触れさせてくれない。
こちらを見つめる瞳が伏せられてしまった。俯いて言い淀みながら悠仁は、優しい声を出す。
「俺、脹相と行くよ」
彼はわたしのほうを見ようとしない。崩れ落ちた世界にやっと響いた言葉はあまり美しいものではなかった。
どこかで瓦礫の崩れるような音がした。気のせいかもしれない。どうだっていい。
今、世界のことは、考えられない。
「わたしも行く」
「だめだ」
悲痛な声色が返ってきて、やっとこっちを見た顔はやっぱり泣きそうだった。
「…またたくさんの人を殺すかもしれない。もし、もしも、 を殺したら、俺は今度こそ自分を許せない。ナナミンとの約束だって守れなくなると思う」
震える手のひらは悠仁のものだった。それは自分の両手だというのにまるで恐ろしいものでも見た子供のように怯えている。
わたしはたまらなくなって悠仁に駆け寄った。自分のちっぽけな手で余すことのないようにぎゅうぎゅうと握りしめる。
いつもはひだまりのようにあたたかい手がすっかり冷え切っていてその冷たさに泣きそうになる。
「悠仁の手は、命を奪う手じゃない。わたしは絶対死なない。これからはちゃんと強くなる。悠仁のこと守れるくらい、宿儺にだって負けないくらい…だから、だから」
自分の声がだんだん震えるのが分かった。視界が白っぽく霞んでいく。そんなことは無理だって2人とも分かっていたけど、夢のような言葉しか、もうここにわたしたちを繋ぎ止めておくことができなかった。
繋いだ手から伝染するみたいに悠仁の表情も苦しそうに歪んでいく。そんな顔をしないで欲しい。強くなりたいという願いが、誓いが、どれだけかきみの心を救えていたらいいのに。
「一緒にいようよ、悠仁」
絞り出した声は思っていたよりも小さくてちゃんと届いたのか不安になる。言い終わると同じくらいに強く引き寄せられたから多分聞こえたんだろう。
少しも身じろぎできないくらい強く抱きしめられて悠仁の顔は見えない。手を回した背中はいつも通り広いけれど、どこか崩れてしまいそうだとも思った。
しがみつくみたいに自分の手に力を込めていっぱいに息を吸う。悠仁のにおいが体の中に入ってきて、わたしはもう涙を堪えることができなかった。
「…好きだよ、 。じゃあな」
耳元をかすめるような小さな声で呟かれる。空耳に思えるくらい儚い響きだった。
悠仁が風のように離れる。彼は泣いていない。未練がましく伸びたわたしの指先を辿って遠ざかるその指を、離さなければよかった。離してはいけなかった。
そんなふうに幻みたいにいなくならないで、退廃の闇の中に消えていかないで。置いていかないで。
悠仁の姿が見えなくなっていく。わたしの傍らには、ふたつに割れた片方の石ころしか残っていなかった。
powered by 小説執筆ツール「notes」