惹かれ、光に焦がされて|《上》




 屋敷のホールで豪華な料理を囲いながら語らう貴人達。彼等は煌びやかな衣装でその身を包み、表情さえも虚飾で彩りながら、己を誇示する為の言葉を並べてゆく。
 毎晩代わり映えのない宴をバルコニーの上から眺めていると、突然誰かが声を上げた。どうやらこの宴を仕切る主催に対する当て付けのようだ。会場に飾られた絵画を、ただ『己が知らない作家である』という理由のみで批評する婦人。意中の相手の気を引く為であれば芸術品を粗雑に扱う事さえも厭わない者による、品性の欠片もない言動である事は明らかだ。しかし、当て付けの為と言えど大きな声で騒ぎ立てる程の出来栄えの絵画とは一体どのようなものだろうか……と僕は騒ぎの渦中へと視線を向ける。

 ​​​──それは、僕が人生で初めて心惹かれた『光』だった。

 彼女が思わず激昂してしまうのも仕方ない。ヒトとは理解できない事象を恐怖する生き物だ。決められた感性、決められた評価を台本通りに語る事しか叶わない者であれば尚の事。僕は騒ぎの渦中へと歩み寄り、その場の空気を諌めつつ、絵画に対する僕自身の評価を語る。すると会場の人々はたちまち作品を肯定し始めた。

 その話題は多くの貴人に知れ渡り、数日後には誰もが絵画の作者を『稀代の芸術家』と呼び称えた。多くの者が彼の作品を求め、彼もまた多くの作品を生み出した。けれども彼が新たな世界を創造する度に、評論家達の言葉は薄っぺらく価値を感じられないモノへと変わってゆく。誰かの言葉を切って、繋げ、繰り返す……時にはそこに、過去に発した僕自身の言葉も存在していて、僕はそれがたまらなく不愉快だった。
 それでも尚、創造し続ける彼に僕は訴えかける。君の創造を真に理解できる者はごく僅か……だからこそ、あんな奴等に君の作品を共有してやる必要は無いのだと。しかし驚く事に、彼にとってこの『現象そのもの』が作品の制作過程に過ぎなかった。彼は芸術に興味が無い者であっても等しく心を掴み、その信頼をより大きな世界を創造する為の糧としたのだ。

 いつしか僕はそんな彼と、彼が創造した世界を心の底から愛するようになっていた。しかし、その想いを彼に伝える事は終ぞ叶わなかった。
 新たな世界へと足を踏み出すべく、遠ざかってゆく背中。光に包まれ消えゆく影を、無力な僕はただ見送る事しかできず……およそ二十年の時を経て戻ってきたのは彼の訃報のみだった。

​ ​​──それは、僕が人生で初めて感じた『絶望』だった。



****



 レーンの村を発ち数日。
 夕陽の光を浴び、紅く連なる岩山がより一層鮮やかに映るグレン城下町。その宿の一室で、シンクは旅具の整理をしていた。床に敷いた布の上に並べられているのは、長期間の旅を想定し用意された食糧や消耗品の数々。それらの確認を一通り終えた所で、静かな声が問いかける。

「本当に魔界に行くの?」
「……どうしたんだ、急に?」
「とても危険な場所なんでしょう、魔界」

 驚いたシンクは、ベッドの上で寝転がり自身を見下ろす声の主……白いネグリジェ姿のモカの顔をまじまじと見る。数年前であればどんな無理難題も淡々とシンクに要求してきた彼女が、行き先の危険性を考慮し確認を取るなんて事は一切なかった。そんな彼女の気遣いに疑念を抱いていると、付け足すように言葉が続く。

「行きたいと言ったのは私。でも、今の私ははっきり言って全く戦力にならない」

 コルット地方での一件以来、数年前と変わらぬ様子で日々を過ごすモカ。しかし、竜の姿で彷徨い続けた事による負担はあまりにも大きいものだった。
 体内に保つ事ができる量を遥かに超える魔力を受け、それを長時間出力し続けた事により、魔力の制御が上手くできないのが現状だ。レーンの村から大陸間鉄道に至るまでの道程で何度か魔物と遭遇したが、今の彼女は野生のモーモンと良い勝負ができるレベルまで身体能力が低下している。あまりにも様子がおかしかったので、道すがらに遭遇した旅の僧侶に診て貰ったところ『リハビリさえすれば以前と同じように魔力を扱えるようになるが、時間はかかる。完治するまでは決して無茶はしないように』と言い渡された。
 二人がこれから向かおうとする魔界は魔瘴に満ちた大地。生きとし生けるものの全てが魔瘴の影響を強く受け、その環境に適応するべく変異している。したがって同じスライムという種でも、アストルティアより魔界に生きる個体の方が警戒心が強く凶暴だという。モカがベッドの上で広げている冒険者向けの雑誌には、魔界に向かった冒険者達による数々の苦難の物語が記されており、数年前のシンクであれば間違いなく『無理だ』と弱音を吐いただろう。

「逆に訊くけど、モカさんはどうして魔界に行きたいと思ったんだ?」
「それは……」

 モカは暫く考え込む。魔界に行きたいと思い始めたのは、長い眠りから目が覚めた直後の事。レーンの村の宿屋で偶然聴こえた宿泊者達の会話……かの盟友が、アストルティアと魔界の融和を果たしたという英雄譚。それは、二つの世界を行き来する手段が確立された事を意味していた。

「魔界で調べたい事があるの」
「身体が回復するまで待てるのか?」
「……なるべく、すぐ行きたい」
「なら決まりだ」

 一応そういう約束だから、と小さく呟きながら再び手元の荷物に視線を戻すシンク。彼が目を逸らす時は大抵『自信が持てない時』か『嘘をつく時』である事をモカはよく知っているが、今回は不思議と少し異なるように思えた。
 シンクは荷物の端に置かれている真新しい地図を手に取り広げる。アストルティアとは全く異なる大陸が描かれたそれは、冒険者向けに宿屋協会が配布しているものだ。シンクはその左端から右端をゆっくりと指でなぞってゆく。

「戦力については大丈夫。過去に魔界に向かった冒険者達から色々と教えて貰っているし、魔物と遭遇する危険性を最小限に抑えられるルートで行くつもりだ。少し窮屈かもしれないけど、アストルティアと魔界を行き来するキャラバンに便乗して移動する形で良いか?」
「……問題ない」

 そこまで言うのであれば彼に一任してみようと、モカは小さく頷く。
 今まで旅の行先について何も口を出さなかった彼が自発的に計画し提案したのだ。この数年間で、旅の段取りに対しそれなりに自信を持てるようになったという事だろう。彼に行動を制限されるのは非常に癪だが、現状が現状なので大人しく従う事にする。

 モカはベッドに顔を埋める。目覚めた時から、どうも気分が落ち着かない。彼女にとって空の海を彷徨い続けた数年間は『一晩寝て起きた』程度の感覚だが、長年共に旅をしてきた彼の変わり様を目の当たりにする度に何とも言えない感情が少しずつ湧いてくる。彼だけではない。そこに在った道も、街も、人々も、何故か昨日《あのひ》よりもずっと遠いように感じてしまう。霧のように不明瞭なそれは、果たして時の流れによるものなのか。過去に訪れた事のない、まだ見ぬ大地であれば少しは安心できるのだろうか。
 目を閉じると、石造りの部屋であるにも関わらず道を行き交う人々の声が微かに聴こえた。これから夜の町に繰り出し、食事や酒を楽しもうとする住人や冒険者達の動きが活発になる時間帯だろうか。そんな中、傍で黙々と荷物がまとめられていく音を聴いているうちに、モカの意識は遠のいてゆく。

 程なくその身体に温かな毛布がかけられる事を知らぬまま、世界に取り残された少女は静かに眠りについた。



****



 魔界までの道程は、存外呆気ないものだった。
 叡智の冠曰く、魔界はアストルティアに対し『光の河を挟んで反対側』に存在する世界だそうだ。例えるならば一枚の紙を水平に置いた時、紙の表側がアストルティア、そしてその裏側が魔界であると考えられている。多くの荷物が積まれた馬車に乗り、二つの世界を結ぶルクスガルン大空洞で『反転』した二人が辿り着いた先は、仄暗い空に包まれた世界だった。

「ううっ、まだ目眩がする……」
「堂々と『連れて行く』だなんて言っておいて、早速そのザマなの」
「それとこれとは話が別だ。まさか本当に天と地がひっくり返るなんて想像できる訳ないだろ……」

 不慣れな移動手段に、元より青い顔を更に青白くさせながら馬車に揺られるシンク。それを見たモカは小さくため息をつく。
 ザハディガル岩峰を横断するキャラバンが向かう先は遥か東の砂漠地帯……魔界において物流の要となっている砂の都ファラザードだ。この都市は、かの盟友が魔界を救った日からアストルティアとの交易が盛んになっている。これを商機とし、危険が伴う事を承知の上で二つの世界を行き来しようとする者は少なくない。しかしその為だけに専属の護衛を抱える事が難しい中小規模の商隊は、ある程度腕が保証されている冒険者を臨時で雇いながら移動する事が多いそうだ。
 そんな訳で、シンクはキャラバンの護衛をするべく剣の柄に手をかけながら常に警戒態勢を取っていた。反転による酔いで具合を悪そうにしつつも、馬車を襲おうとする魔物が現れたら即座に迎撃に向かう……その背中をただ見ている事しかできなかったモカは、ぽつりと呟いた。

「……つまらない」
「これが一番安全な移動手段だから仕方ないだろ。もう少しでバルディスタ要塞って所に着くから、それまでの辛抱だ。そこで暫く物資の補給や馬車のメンテナンスをするみたいだから、気晴らしに色々見て回ろう」

 この旅路が退屈だという意味で言った訳ではないが、これ以上話をややこしくする必要もない。モカはそっぽを向き、魔瘴を含んだ風が肌に刺さる感覚に不快感を覚えながら馬車に揺られた。
 そんなやり取りをしながら、荒野や砂漠を越え数日。何事もなく辿り着いた砂の都は、活気に満ち溢れている国だった。アストルティアにおけるアラハギーロ王国に近い建築様式に、様々な姿形の魔族達で賑わうバザール。装飾として街を彩る華やかな織物の数々は、雑多でありながら統一感を感じられる景観を生み出していた。
 護衛していたキャラバンとは契約の内容通りファラザードに到着した所で別れ、その後二人は都内の宿を拠点とし、互いの目的を果たす為の日々を過ごした。

 モカは『調べたい事』の為に、魔界文字を覚えながら様々な書物を読み漁ろうとした。交易の要となっているファラザードは魔界各地の書物を調達するには最適の環境だ。魔力を扱う為のリハビリを行いながら、宿に篭りきりの生活を送っていた。
 一方シンクはゴールドを稼ぐ事に専念した。元々長期的な滞在を覚悟し多額のゴールドを用意していたが、それでも収入源が全く無い生活というのは心許ない。しかしアストルティアの各地で受注できる討伐依頼の制度は魔界には導入されていない為、最初のうちは十分な報酬が獲得できる依頼を探すだけでも一苦労だった。魔界とアストルティア……双方の融和を謳う世に移りゆく時代と言えど、今は生きる為に必要な仕事を異邦人に斡旋できるほど豊かな環境ではないようだ。
 それでも何とか依頼をこなしていくうちに魔界での顔見知りが増え、モカが読み終えた本で山を作り上げる頃には、依頼主の情報網から魔界の各地へ赴くキャラバンの動きを大まかに把握できるようになっていた。やがて二人は少しずつ活動範囲を拡大させ、様々なキャラバンに便乗しながら魔界の各地を巡ってゆく。

「次は、ここに行きたい」

 あっという間に幾つかの月日が流れ、すっかり萎れてしまった地図をモカが指差す。彼女が次に興味を示した先は、ファラザードと対角に位置する北西の地……かつて魔界一の芸術都市と謳われた場所だった。



****



「ようこそ、魔幻宮殿へ!」

 整備が施された道を進み、無人となった廃墟の街を抜けた先。かつて魔界全土に及んだ災害『大魔瘴期』による被害が特に大きかった魔幻都市ゴーラ跡の北西には、巨大な正八面体の結界が浮かんでいる。その内側に佇む魔幻宮殿を訪れた二人を歓迎したのは、満面の笑みだった。
 大きな二本の角と紺色の派手な衣装が特徴的な魔族……アストルティアで嫌というほど見てきた男が、宮殿の扉を開けた先で両腕を大きく広げながら待ち構えていた。

「クラウン!? 何でこんな所に……」
「全く、水臭いじゃあないか! 僕が居るのにも関わらず黙って魔界へ来てしまうなんて! シンク君の望みとあらば、僕は何時でも何処でも喜んで駆け付け案内したというのにっ!」

 クラウンはわざとらしく顔を覆い、あたかも泣いているような素振りを見せる。そんな彼の言動を流しながら、シンクはふと頭に浮かんだ疑問を口にした。

「でも、どうして俺達がこの場所まで来ているって分かったんだ?」
「そりゃあ勿論、魔界に来てからの君達の様子はずっと見ていたからさ!」

 クラウンは自らの背後へと視線を向ける。そこには身の丈ほどの大きさの『鏡』がカタカタと震えていた。翼が生えた魔物の骸のような装飾が施されたそれは、驚き戸惑うシンクの姿をそっくりそのまま映している。
 相変わらず悪趣味ね、と呟くモカは無表情でありながらいつも以上に不機嫌そうだ。道化はその鏡面を通して今までの出来事を全て覗き見していたのだろうか……あまり深く考えたくない。

「それに此処は、僕の活動拠点のうちの一つなんだ。長い旅路で疲れただろう、暫くこの地に滞在するなら僕が宮殿内に所有している部屋に泊まっていくのはどうだい? 温かなベッド、選りすぐりの食材で作る魔界料理、君が望むものは全て用意しよう! 勿論、お代は要らないよ!」
「それなら結構だ。今晩は適当な宿に泊まるつもりだから……」
「残念な事に、ここ数日はどの宿も満室御礼だよ」
「えっ?」

 困った顔を見せるクラウン……彼が『他者を騙すが嘘はつかない人物である』という事をシンクはよく知っている。確かに、宮殿に至るまでの道中で多くの馬車を見かけた。おかげでキャラバンに寄り付く魔物も普段より少なかったと思えた程に。

「今日はペペロゴーラ様の新作のお披露目会があってね。あの大魔王様が認めたという彼の作品を一目拝もうと、普段よりも多くの人がこの宮殿に集まっているんだ。疑うのなら、日が暮れるまでその足で宮殿内をくまなく探し回ってみると良い……おっと、間違っても野宿するだなんて考えない事だ。シンク君も道中で見てきただろう、闇の根源が絶たれたと言えどゴーラの魔瘴は他の地よりも一段と濃い。ろくに戦う事ができないお荷物を抱えながら、危険な魔物達が息を潜める荒野で一晩過ごそうとするなんて、生命が幾つあっても足りないよ!」
「ええと……」

 シンクは戸惑いながらモカの顔色を伺おうとするが、間髪入れずグイッと距離を詰めたクラウンがその視線を阻む。この男が話しかけている対象はあくまでシンクのみである……という事だろう。
 ほんの少しだけ考えた後、意を決したシンクは口を開いた。

「……本当に、対価は必要無いのか?」
「勿論! 君は以前、僕に素晴らしい物語を見せてくれた。それに対するお礼だよ、心ばかりのね!」
「それじゃあ二人分の寝床と食事を。あと、モカさんには決して手を出さないと約束して欲しい」
「シンク君は心配性だねえ。でも大丈夫、今の彼女に対する興味は塵ひとつ分も残っちゃいない。僕からは何もしないと誓ってみせよう!」

 高らかに宣言しながら、クラウンは軽やかな足取りで宮殿の奥へと進んでいく。シンクが改めてモカに視線を向けると、そこに在ったのはいつも通りの無表情だった。声をかける間もなく無言でクラウンについて行く彼女を、シンクは慌てて追いかけた。
 宮殿の内部は燭台の上で揺らめく炎が眩しく思える程に薄暗く、じっと見ていると思わず不安になりそうな模様が建物のあちこちに描かれている。所々に飾られている彫刻からは不気味な視線を感じてしまい、なるべく目を合わせないよう歩いていると、先導していたクラウンが唐突に語り出した。

「元々ゴーラは、ひなびた田舎の町だったんだ。しかし五百年前のとある出来事を期に、急激に発展してね」
「五百年前……?」
「先代の大魔王、マデサゴーラの戴冠ね」

 シンクが首を傾げると、隣を歩いていたモカが小さな声で呟く。ここ数ヶ月で様々な書物を読み漁っていただけあって、彼女の魔界に対する知識はそれなりに身に付いているようだ。それが面白くなかったのか、クラウンはいつもより落ち着いた口調で会話を続ける。

「……その通り。先生は、僕がこの世界で最も尊敬している芸術家だ」

 クラウンが視線を送った先には多くの人が集まっており、その合間から大きな絵画が垣間見える。今日からお披露目されるという『新作』とは別の作品であるのにも関わらず、鑑賞している者達は皆口を揃えて作品を褒め称えているようだ。先代の大魔王が芸術家として如何に民の心を惹き付け、慕われていたのかがよく分かる光景だ。
 何にも染まる事のない黒に対し、圧倒的な存在感を放つ白……正反対の二つが混ざり合うこの絵画は一体何を意味しているのだろうか?

「この魔幻宮殿も、先生が作り上げた作品のうちの一つさ。十年ほど前から魔瘴の影響でゴーラの民の避難所となっているけどね……ちなみに先生は、アストルティアにも同一のデザインの宮殿を創造するほどこの作品を気に入っていたそうだ」

 普段はモカに対し冷たい態度をとるクラウンが、彼女の興味を引くであろう話題を丁寧に語ってゆく。かつてアストルティアに攻め入った大魔王を『先生』と呼び、あたかも親しい仲であったかのように語るクラウンの素性は未だによく分からない。しかし道中に飾られている作品の数々を解説する彼と、それを黙々と聴くモカの後ろ姿に、シンクはほんの少しだけ安心してしまった。



****



「それじゃあ僕は隣の部屋で『作業』をしているから、何かあったら気軽に呼んでおくれ!」

 元々作品としてデザインされたその部屋は、二人で過ごすには広すぎる空間だった。紫色を基調とした床やカーテン、そして紅色のカーペット……どちらも主張が激しいが、互いの存在を引き立たせているようにも見える色合いだ。奥の壁に飾られている絵画には、宵の空に浮かぶ数多の灯籠が描かれている。これも先代の大魔王の作品だろうか。
 あまり気が休まらない空間だが野ざらしにされるよりはずっとマシだと思いながら、モカはふかふかのソファに腰を掛ける。室内に置かれていたベッドが一床のみであった事に対しシンクが大声を出しながらクラウンに苦情を入れに行く事はあったが、それ以外は特に何事もなく過ごす事ができそうだ。いつもはベッドが一床の部屋でも文句を言わず黙ってソファで寝ているのに、どうして今日だけあんなにも慌てていたのだろうか……そんな事を考えているうちに部屋に運ばれてきた様々な魔界料理は、驚く事に今まで食べてきた料理の中で一番美味しいと感じられるものだった。あんな男でも食に関してはマトモな感性を持ち合わせていたのだなと思わず感心する。
 長時間キャラバンの護衛に集中していたシンクは、日が暮れる前に追加で用意されたベッドで就寝してしまった。いつもより旅具の整理が疎かである事から、何やかんやで疲れが溜まっていた事が窺える。魔界に来てからの彼はずっと働き詰めだった。昔のように『無理をしている』という様子でもなかったので敢えて口を出さずに見ていたが、その認識は改めた方が良いのかもしれない。そう感じながら、モカは足音を立てず一人で客室を後にする。
 向かう先はクラウンが『作業』をしているという部屋だ。回廊に出て右隣の大きな扉に手を当て、ほんの少しだけ力を入れてみると、それは重く鈍い音を立てながら開いてゆく。暗闇に包まれた部屋に一歩踏み込むと、忌々しい声が聴こえた。

「こうして二人きりで話すのは、あの晩以来だね」

 闇の中にはクラウンが立っていた。しかしその顔に『いつもの笑顔』は貼り付いていない。彼は感情を表現する為のわざとらしい仕草を一切見せる事なく、モカに対し淡々と言葉を発してゆく。

「私に関わらないという話は?」
「それはあくまで『僕から』の話だ。でも、用件があるのは君の方だろう?」
「ええ、そうね」

 この男はいつもそうだ。自分の考えを先回りし、都合の良いように勝手に話を進めてゆく。その結末が自身の破滅に繋がらぬよう、モカは警戒しながら静かに肯定した。

「しかし魔界に来てからの君は本当に無様で、見るに耐えなかったよ。まるで『悲劇の|お姫様《ヒロイン》』じゃないか。今まで弱者として散々見下してきた、嫌悪してきた相手に肉体的にも精神的にも追い越され、何もできないまま大切にされる気分はどうだい?」
「今はそんな話、どうでも良い」
「おっと失礼。でも、汚物を見るような眼差しを僕に向けるのはお門違いなんじゃないかな? その余裕の無さこそが、周囲のヒトを苦しめてきた要因だというのに」
「​…………」
「君は何時もそうやって他者の優しさに甘え、嘆き、焦ってばかりいる。その『停滞』によって物語の価値がどんどん落ちてゆく。主人公がどれほど辛く苦しい日々を送ってきたのか……ただ救われる日のみを待ち続けたお姫様は、ほんの少しでも考えた事があると思うかい?」

 もっとも、そんなお姫様を少しでも『善く』魅せようと物語に安直な改変を捩じ込むのは趣味じゃない、むしろ反吐が出そうだ。そんな事を呟きながら、クラウンは一歩ずつモカとの距離を詰めてゆく。

「しかし君はこの『停滞』を好ましく思っていない。だからこそ、目覚めた後に真っ先に魔界へと赴いた。僕から情報を聞き出したいならシンク君に一言頼めば良かった……にも関わらず、君は敢えて君自身の意思で此処まで辿り着いてみせたんだ。これでも僕は、君のそんな姿勢を評価しているんだよ」

 そのままモカの横を素通りした彼は部屋の入口の扉に手をかざし、ゆっくりと閉めてゆく。回廊から差し込む光は次第に狭まり、扉が大きな音を立てると同時に完全に途切れ、闇と静寂が二人を包んだ。

「君はバルディスタで魔界特有の戦闘術を調べ上げ、ファラザードでは宝石魔術、ゼクレスでは操心術に関わる書物を読み漁ろうとした。操心については王家によって秘匿されている情報が殆どであまり多くは得られなかっただろうけど、それは些末な問題だ。君は既に一つの『憶測』に至っている筈……その前に、僕から一つ問おう」

 部屋に置かれていた燭台に火が灯る。揺らめく光は人差し指を立てるクラウンを照らし、宵闇の中で妖しく輝く満月のような瞳がモカを凝視する。

「君は、この魔幻宮殿に何を感じたかい?」

 身構えていたモカに投げかけられたのは、相手を闇深き迷宮へと誘う為の言葉ではなく、彼自身の純粋な『問い』のように思えた。
 少し戸惑いながらも、モカは宮殿を訪れてから今に至るまでの出来事を振り返る。彼がこの宮殿の作者を崇拝している事は理解しているが……だからと言って遠慮する必要は一切ない。モカは感じた事を感じたままに言葉として紡いでゆく。

「……想像していたものよりも、ずっとつまらなかった」

 本来であれば、宮殿内を移動していた際に説明を受けた先代の大魔王の作品に対する感想を述べるべき所だ。しかしそれよりも印象に残っていたのは、それらを鑑賞していた魔族達。彼等の視線の先に在ったのは果たして本当に作品そのものだったのだろうか。
 いつも無表情で無口なモカは、決して『感情が無い』という訳ではない。むしろその感受性の豊かさは人並み以上だ。だかこそ、宮殿の人混みの中で聴こえた様々な声は耳障りで仕方がなかった。真に美しいものを美しいと感じたのであれば、そこに言葉など必要ないというのに。

「皆が口を揃えて『良い』と定められたものを『良い』と言う。あれは誰かの評価を、言葉を、感性を真似ているだけ。そこに当人の意思は存在していない……それこそ、貴方が語る『停滞』のよう」
「成程、珍しく君と意見が一致したようだ」
「貴方なんかと一緒にされるのは、嫌」
「それは此方も同じさ。でも案外、僕達は似た者同士かもしれないよ」

 作品に対する感情は他者によって定められるべきものではない。自分自身の目で見て、感じて、決めるべき事だ。それが他者から理解を得られない感情だったとしても、己を信じ貫き通す……その価値観が、相容れぬ二人を一つの物語へと導く共通点となる。

「魔界の民は皆、先生の偉業を讃えた。けれども先生が求めていたのは世界の破壊でも、支配でもない。それを真に理解した上で先生の作品を評価する者は、果たしてどれほど存在しているのだろうか。先生の作品を利用し、同調の為の手段として見ている者ばかりではないのだろうか。たとえそれが先生の思惑通りの事象だとしても、この地の民は先生の死すら己にとって都合の良い『過去』にしてしまう……そんな現実を憂う心を、君は持ち合わせている訳だ」

 クラウンはモカに背を向けながら、部屋の中央に向かって歩く。燭台の灯火がひとつ、またひとつ増えてゆく。

「君のその言葉に免じ、教えよう。今君が求めているものを。きっとこれは、君が『停滞』から抜け出す為に必要な標となるだろう!」

 明るくなった部屋の中央でクラウンは振り返る。その傍らには洒落た机と椅子が二脚……そしてティーセットが用意されていた。まるでその来客が『予定通り』だったかのように。椅子を引きエスコートする彼の顔面には、いつも通りの薄気味の悪い笑顔が貼り付けられている。

「とある芸術家の物語と、その結末を……」

 モカは彼の元へと一歩踏み出す。整えられた舞台に立つべき役者は揃った。新たな物語の幕が上がるまであと少し。果たしてその『変化』は今の彼女に何をもたらすのだろうか。この作品に、かつて心を惹かれた光と同じものを見出す事は叶うのだろうか。

 道化は期待に満ちた表情を演じながら、静かに着席するモカに温かな紅茶を差し出した。




《 to be continued 》

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