不快指数


「おい四草、お前、最近稽古に身ぃが入ってへんのとちゃうか。」
草原兄さんはそう言って、草々兄さんの継ぎ接ぎのついた座布団を僕の腹の上に敷いて、その上にどっかと座った。
重い……。
しかも、季節外れもいいところの、春か秋かも分からんような紋付を着ていて、到底今の気温で着るような服ではない、その分の重みが僕の腹の上に掛かっている。最悪や。
そういえば、一昨日の夕方に小草若兄さんがテレビ付けて、夏場所の取り組みを見ながら、新十両の二枚目が草原兄さんそっくりやで、と言っていたが、本人はあんな優しい顔はしていない。
あの後は、一階に降りていつものバイト。ビールに枝豆、というテーブルを百は片付けた。もともと、今の時期はどうあっても稽古に身が入るような環境にないとはいえ、暮らしていくために選んだ仕事は年々夏がキツくなっていく。
そら、稽古に集中出来けんのは毎年のことです、と返事をしようと口を開いたタイミングで、このところまた一回り貫禄が付いたというか、恰幅が良くなった兄さんが僕の身体の上で身じろぎをした。
ぐえ、とうっかり蛙のような見苦しい声が出るところだった。
トラックが身体の上を通って行くとまではいかないが、かなり苦しい。
「いや、ほんまに自分で気が付いてへんのならオレも言わへんつもりやったんやけどな、最近のお前、どう見ても天災の稽古してた頃の若狭そっくりやで。」
「はあ?」
天災の稽古て、いつの話ですか?
幼馴染と恋をしていた草々兄さんに横恋慕していた若狭も、もうとっくに草々兄さんと結婚してそろそろ十年経とうという頃で、つまり僕があいつに教えてたのも十年前の話です、と言おうとしても、腹の上の重みのせいか全く口が動かない。
「若狭みたいにとは言わんけどな、自分の気持ちを素直に認めたら、お前ももうちょっと楽になるんと違うか?」
そやから、僕の気持ちて、何なんですか、さっきから。
僕があの頭の悪い男のことを好きになってるような言い草じゃないですか。
「小草若兄さんなんか、ただの同居人です。」
「ほれ、白状したやないか。」
「白状て。」
「俺は相手が小草若とは言ってへんぞ。」
「……。」
「まあええんと違うか? お前が師匠への義理とか、兄弟弟子の関係に縛られてのことで今でも小草若の面倒見てるとかいうのも、まあそれはそれで不健康とちゃうかと俺らも思ってたしな。好きなんやろ、あいつのことが。」
「そんなことは……。」
ある、と認めるのは悔しいが、ない、と言ったところで、今更何もなかったように離れられるものでもない。
ただ中継されているというだけで、好きでもない相撲をつまらなそうな顔をして見てた男の、そのつまらなそうな顔をただ見てるだけでぼんやりしてるのがあかんことくらい、分かってるんですよ、僕だって。
草若の名前をほんまに僕が継いでたら、バイトなしでもまあ、どうにかなったかもしれへん、とか時々考えることはあるにしても。
未だに小さいが取れない小草若兄さんが、こうして僕のところ――と今は都合よく考えておこう――に戻って来ることは、きっとなかっただろう。
「まあええわ、若狭と違て、小草若でええわ、て物好きはお前くらいしかおらへんからな。そやから安心して、稽古の方をどないかせえ、て言いたいわけや、俺は。延陽伯がどんだけ暑いにしても、もう少しシャッキリ出来んのか? それともネタがあかんのか? 師匠かて、二人ぐせを避けて、ずっと掛けてへんかったんや。俺も付き合うたるし、今のネタが嫌なら、別のを稽古したらええ。」
草原兄さんは、ここぞという時にしか怒らなかった師匠と同じで、その代わりに怒る時は怒るというか。しかも、師匠と同じで妙にこちらの痛いところを突いてくる。
はっきり言うたら口やかましいというか。
「別のネタが掛けたいわけとちゃいます。そもそもサゲが今の時代も面白い落語なんか、その辺に転がってるもんやないですし。」
「そない思ってんなら、もっと真面目にやらんかい。……まあええわ、お前もちょっと気分転換でもせえ、若狭の稽古見たるとか、やることまだまだあるで。」
「若狭の稽古て。」
今はあいつ、そもそも創作落語しか作ってへんのと違いますか、と言おうとしたのに、口が動かない。
いや、そもそも兄さん筆頭弟子や言うてどこに座ってるんですか、それやと、ほんまさくらんぼやないですか、と……。

「兄さん、ちょっと僕の上からどいてください。」
「………ンゴッ。」
目を開けたら真っ暗の部屋の中で、車の行き交う五月蠅い音が遠くに聞こえて来る。
僕の腹の上には、トリの手羽並みに肉が付いていない兄弟子の足が乗っていた。
「……またか。」
昨日は――というか、まだ今日のことかもしれないが、例の不快指数が九十七人と言わんばかりの暑い日で、草原兄さんの落語会を聞きに行った帰りに、暑い暑いと言い訳をしながらクーラーのある場所で休憩をして、金がないのでそのまま泊まらずに帰って来て、兄弟子はこうして、少しでも涼しいところを探して狭い部屋の布団の上から移動して、扇風機の風の当たる僕の上へと転がって来たのだった。
今夜はオレが窓際でええぞ、と言いながら窓の近くに布団を敷いたくせに、結局は、道路に近い窓際がうるさいのか、奥の方へと転がってくるのである。転石苔むさずとは言うても、布団の上で転がるのは止めにして貰いたい。
そもそも……油断して大口開けていびきかいて、人の気も知らんと、脚パカッと開けて。
何してるんですか。
「このまま起きへんかったら、ここで身ぐるみ剥いでしまいますけど、」
狸寝入りではないと分かっているのに、いつものように掛けた声は生温い空気に溶ける。
寝る前まではあれだけ腰痛いとかブツブツと文句を言いながらタオルケットに包まってたくせに、喉元過ぎればというか……。
腹に乗った脚を、起こさないようにそっと退ける。転がってはだけたタオルケットを腹の上に乗せてから、乾かさずに寝たせいでくしゃくしゃになった髪に指を入れた。
明日起きたら覚悟しといてくださいよ、と小声で言うと、薄く開けた窓の外からは、夏の宵らしい涼しい風が入って来た。
夢に浮かれたペアルックの妹弟子と兄弟子やらが出て来ませんように、と思いながらぬるい布団の上に横になると、そら無理かもな、と無責任に笑う懐かしい師匠の顔が天井に浮かんで来た。
釣られて口の端を持ち上げながら、もう一度目を瞑ると、懐かしい師匠の顔が闇に溶けて、外の車の音も段々と遠くなっていった。

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