遺された彼の話
「ん……」
寒くて目が覚める。時計は夜を示していた。
アイラが帰ってきたのかと思った。
声をかけてくれたから、それで起きたのかと。
けれど、ここに俺以外の人間はいなかった。
部屋は酷く冷え切っている。窓の外を見ると雪の勢いが酷く増していた。
(こんな中で帰ってくるのは無理だろうな)
ふとそんなことを思った。これが自分でも不思議だった。
どんな天気でも仕事でも、アイラは帰ってきてくれる。「先生、いい子にしてタ?」なんて言いながら。
帰ってこないことが、すとん、と納得できてしまった。
不思議なことは続く。
「……あれ、」
窓に映る俺の顔に、涙の跡を一筋見つけた。
いつの間に泣いたんだろうか。覚えがない。酷い夢でも見たかな。
***
アイラは帰ってこなかった。
朝になっても、雪が止んでも、また夜になっても。
数日後、昔の知り合いから手紙がきた。俺とアイラがいたマフィアでの知り合いだ。
――アイラは死んだのだ、と告げるものだった。
裏切り者には死を。マフィアの掟だ。
アイラは見つかってしまったが、捕えられる前に自死した、と。
手紙の主は、昔俺に告白してきた男で、まだ好きなのだと言う。このままだと俺も殺される、自分がなんとかするからマフィアに戻らないか、という誘いだった。
『俺は医者だから、死体を見なければ信じない』
そう書いて返事をした。
***
手紙が来たということは、今いる場所も危ない。情報屋には漏れているのだし。
薬品を整理する。
大体は劇薬だ。闇医者の使う薬に法律も制限もない。痛みを取り除く代わりに寿命を縮めるなんて矛盾も、依頼主が望むのならやるさ。
拷問に使う薬もある。痛みをあんまりとってはくれないが、命を永らえさせるものだとか。主にアイラが使うものだった。拷問されてる奴、羨ましかったんだ。酷く叫ぶ声から痛みがわかって、すごく気持ちよさそうで。
整理をしたら、診療所兼自宅の中はほとんど空っぽになった。
持っていかない薬は捨てた。既に俺とアイラの情報は焼いて処分済だ。
少しの薬と思い出の詰まった診療鞄だけが俺の荷物だった。
外を歩くと、何人もの知り合いに声をかけられる。「ここではもう閉業するんだ。次は決めてないけど、またどこかで見かけたらよろしくね」と返して、俺は宛てもなく歩く。
夜。アイラの帰ってこなかった数日前みたいに、雪が降り出した。
雪から逃れるよう雑居ビルに入ったのに、閉鎖された屋上に無理矢理入り込んで、すぐに頭が雪まみれになった。
「……はあ」
吐いた息が白い。
凍死は苦しみがなくゆるやかに死ねるのだと聞く。滅多にそんな遺体を見る機会もないし、知らないのだけどね。
あの日、アイラは穏やかに逝ったのだろうか。
……そんなわけないな、とすぐに思い直した。
かじかむ指先で診療鞄を開け、薬を取り出す。
全部飲んだ。
酷い味だった。
吐き出しそうになったのを押しとどめて飲んだ。
飲み切った後で迫ってきた酷い吐き気は我慢できなくて、雪の上にぶちまけた。
血だった。笑う。何日も食べてないんだから中身なんて出るわけないもんな。
内臓が焼け爛れて痛い。痙攣している。引き摺り出されそう。
雪の上でのたうち回る。
白が赤く染まる。
意識が朦朧としてくる……思ってたより早いな。寒さでやられるのがはやいのか。
目前に迫る死の気配に、流石に、ゾッと一瞬は恐怖が走る。自分で決めたことでも、生き物の本能には抗えない。
仰向けに空を見上げたときだ。
「アイラ?」
アイラが見えた。
中空に天使の羽をたずさえて浮かんでいるように見えた。
「……なんで、俺じゃなくて、パンパンに看取られて、逝っちゃうんだよ……」
笑ったら激痛が走る。
パンパンは俺があげたパンダのぬいぐるみ。あれの中に仕事道具までいれてたんだから、ずっと傍にいたはずなんだ。
言葉が音になっているのかはわからない。でもアイラは気にすることなく、聞こえたみたいに、にっこり笑う。
「だから、勝手に死のうと思ったんだけど……見にきてくれたの?」
這って近づいていく。
両手を広げているアイラの方へ。
「いまいく」
屋上の柵を乗り越えていく。
この雪、一緒に落ちてくれるアイラの天使の羽がだんだん抜けていってるみたい。
冷たいのも寒いのも怖くないよ。
落ちる先はアイラの腕の中だから。
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