セーター



暦の上はどうあれ、ロスアンゼルスはまだまだ暖かい日が続いている。
とはいえ、寒くなってから慌てていては遅いのが衣替えだった。昨今は異常気象も相まって、油断が出来ない。
譲介は、晴れた休日を利用して夏物を仕舞いつけ、代わりに去年着ていたセーターやそれに合わせたカットソー、秋冬もののジャケットをクローゼットから取り出して、洗うべきものは洗い、春先にクリーニングを終えて戻って来たまま夏を越したジャケットやコートなどをベランダに吊るして風に当てた。
鼻先に樟脳の匂いが漂って来る。
譲介はずっと、昔ながらのこの防虫剤の匂いが苦手だったが、食事の他には不便はないか、と先生に問われて、仕舞ったばかりのセーターや厚手のパーカーのことをなんとなく思い出したのがきっかけだった。
カレーとは別便でとお願いして送られてきたのが、この樟脳だ。ロスにも、似たような防虫対策の商品は探せばそれなりに売ってはいるが、最初にスプレータイプのものを買って匂いが外れだったので、何となく手に取って買う前に棚に戻す、を続けているうちに、探しに行くのが面倒になってしまったのだ。かつては古めかしさが先に立って苦手の部類だったが、今ではどちらかと言えば強い匂いの方が効果が期待できそうであるという気持ちもあって、毎年春先になると、腐るものでもないし、と追加で送って貰っている。
それにしても、こうして手持ちの服を広げたり出したりしてみると、自分の服もそう多いとは言えないが、今日もいつもの黒のノースリーブにコートで仕事に行ったパートナー兼恋人の替えの服はあまりに少ない。
家の中の暖房が利いてさえいりゃどうにかなる、というのが、四十代にして譲介の被保護者をしていた頃よりずっと前から変えていない彼の主張だ。けれど、同居している譲介はといえば、もう三十路を半ばも過ぎようとしていて、一年、また一年と、自分を拾った彼の年とそう違わない年齢に近づいてきている。彼の薄着はもはや、見ている方が寒い。
譲介は、クローゼットの中のポールに吊るしてある五枚のセーターを取り出した。
黒のカットソーにも似た形の薄手のセーターと黒に限りなく近いハイネックのカーボンのセーター、紺色のカシミアセーター。後は、クリスマス用に買ったいわゆるアグリーセーターだ。赤鼻のトナカイが一枚に、クリスマスツリーが一枚。
そもそも、若い頃から身軽でいたい彼は、ものを捨てることには躊躇がない。洗面所に置いてあるタオルなどの消耗品も、年が明ければ半分が新しいものになっている。他のセーターはともかく、こうしたお祭り騒ぎに乗じた季節もののアイテムなどは、ワンシーズン着たらそこでお役御免になることも覚悟はしていたので、ものが悪くなかったとはいえ、よく生き残っているな、というのが今の正直な気持ちだった。

セーターを贈ったのは、再同居を始めた年の冬のことだった。
ハグも、頬へのキスも拒否されたことはない代わりに、彼から同じように返されたことも、望まれたこともない。
親密さの欠如、愛情の不在。あるいは、彼の中で何かが満ちるのを待っている時間。
そういうタイミングで譲介は、彼の体格に合いそうなセーターを、近くのショッピングモールで買って来た。
自分のセンスというものに全く自信がないというのに、年の瀬を目の前にして、財団のクリスマス企画の調整などの雑事に奔走する朝倉先生に相談するのもはばかられ、村にいた頃に麻上さんが時折読んでいた雑誌もライフスタイル特集が組まれた時に、紙面でモデルが着ていたような服を選んだ。それがこの三枚だ。


「気に入らなかったら返しに行きますから、身体に当てるだけでも!」
お願いします、と言って頭を下げる譲介の前で、ソファでタブレットを眺めていたTETSUは妙な顔をした。
「冬になったからって、そこまで寒くはならねえのはおめぇも知ってるだろうが。」
そう言いながらも、彼は手元のタブレットをテーブルの上に置いて、背もたれから身体を預けていた状態から前傾姿勢を取ったので、少なくとも話を聞いてくれる気はあるようだ、と譲介は判断する。もう一押しのつもりで、そこをなんとか、と言うつもりだったが、譲介が重ねて依頼をする前に、彼はさっと手を伸ばして譲介の手元から、セーターが三枚入った黄色のビニール袋を取り上げ、がさがさと音をさせて袋を開けて、中を見た。
厚手の見るからに防寒のためのカシミアセーター、他にはハイネックと、いわゆる丸首のセーターが一枚ずつ。カシミア以外は、セーターと言うには薄すぎるけれど、彼が妥協してくれそうなものと思って選んだ。
「……無駄金を使いやがって。」
セーターを検分した彼の指先にあるものを見て、譲介は目を瞠った。
仕事に没頭しての徹夜が続いた後でうまく稼働してくれなかった脳細胞が、とりあえずの助平心は封印して、この人の身丈より一回りは大きくなるようにと選んだセーターには、値札が付いたままになっていた。
そのカラフルなタグを見つめ、彼は呆れたような顔になっている。
「!」
事態に気付いた譲介は、慌てて彼の手元からセーターをひったくった。
手渡しするぎりぎりまで彼の目から隠しておくための場所を選ぶことに脳のリソースを割いたせいで、帰宅した直後に肝心の値札を取ってしまうのをすっかり忘れていたのだ。
「まあ、高給取りの和久井センセイからすりゃ、端金か?」
TETSUが口の端に浮かべた笑みは皮肉げで、声にはここぞとばかりにからかうような響きがあった。
「徹郎さんが毎日着てくれたら無駄にはならないです。」
オレは闇医者だと自称していた頃の露悪的なところが十二分に滲み出ているその言葉に煽られたせいで、譲介は、彼の前ではもう子どものような真似はするまい、と決めていたというのに、悔し紛れに反論してしまった。しまった、と思ったところで後の祭りだ。
その後で、もごもごと「気に入らなければ、別に。」と、本心とは程遠い煮え切らないような言葉を、ついでのように口にする。
こういう時こそ、患者に対するように冷静になれたらいいのに。そうは思っても、若い頃の自分を知っている人の前では、どうしたって、すべての瞬間に格好を付けていることは出来ない。
「今のは……出来れば見なかったフリをしてくれたら嬉しいんですけど。」
動揺した譲介がセーターが飛び出した袋をぎゅっと抱えていると、クックックとTETSUはいつものようにおかしそうに笑った。
「おい、譲介。そりゃもうオレのもんだろ。返しやがれ。」
同居人をからかうのはこれぐらいにしておいてやるかと言わんばかりの余裕を見せつける年上の顔で手を伸ばしてくる彼に、譲介は渋々と、馬鹿馬鹿しいほどに明るい黄色の袋を差し出した。
セーターを買って来た日。もう少し後であればクリスマスカラーのショッパーも出ますし、その頃まで取り置きも可能ですがどうしましょうか、とショップの店員は言っていた。早ければ早いほどいいから、とその申し出を断ったのが今となっては悔やまれる。
穴があったら入りたいような気分になっている譲介の前で、まあものは悪くねえなと言いながらカシミアの手触りを確認していたかと思えば、彼は寝そべっていたソファから立ち上がってやおら、着ているノースリーブを脱ぎ始めた。
「ちょ、徹郎さん!」
うわ、と思いながら譲介は目を逸らす。そりゃ、男同士だというのにわざわざ部屋に戻るのも、確かに面倒だろうけど、彼の身体は、心の準備が出来ていないタイミングで見るには、あまりにも目に毒だった。
何です、いきなり、と顔を逸らしながらの譲介の抗議には「都合が悪ぃことでもあんのか?」とあからさまにからかうような声の反論が返ってきた。
くそっ。
そりゃ、風呂上がりに彼が半裸に近い姿でふらふらしているところを何度も見てはいるし、ベッドでは時々布団を床に落として寝ていることもある。じっと見つめるこちらの視線に、彼は気付いているに違いない。
「着てみねぇとサイズが合ってるかどうかわからねえだろうが。」と幾分か笑いを含んだようなTETSUの声が聞こえて来る。アメリカの良いところは、気に入らない洋服のレシートを持って店頭に行けば、大体は返品が利くところだ。彼も、それは分かっている。
譲介は、気持ちを落ち着かせるために、キッチンスペースへと移動した。そうして、まだ電気を付けっぱなしでいたコーヒーメーカーの底に2センチほど残っていたコーヒーをいつものカップに入れて、振り返ると、彼は譲介の選んだ服を身に付けていて、どうだ、と言った。
彼にとっては少し丈が長いのは誤差の範囲なのか、まあこんなもんだろ、と言っている。
「……素敵です。」
「ありがとよ。」と言いながら、彼は、困ったように眉を寄せた。
濃紺は彼に似合うだろうか、と悩んでいたけれど、結局は、彼が何を着ても、譲介が気に入らないということはないのだ。
「サイズは?」
彼が着たらこうだろうと思っていたより少し丈が長く、腕は九分袖になっている。
「大体合ってると思いますけど。」という譲介の言葉に、「まあ、あれだけ毎日ハグしてりゃなあ。」とTETSUは苦笑した。
毎日の、出掛ける前のハグは、彼の、体つき、体温、そういった小さな変化を見るためのものでもあって、それはとっくに見抜かれていたらしい。
それなら、ただ彼に触りたいという譲介の下心はどうだろう。ついでのようにみえるキスは。
「譲介。」
「あ、はい。」
「セーターの礼だ。」と言う彼は、気づけば目の前に立っていて、そっと屈んで、譲介の頬にキスをした。
首筋に、まだ外していない値札の角がこつんと当たる。
あ、と心の中で譲介は思う。
まだ値札が付いてますよ、と。普段の譲介なら、笑いながら彼の首から小さな紙を外してしまったことだろう。
譲介はすっかりこの人に夢中だった。
その気持ちを許されたのかもしれない。
「徹郎さん、」
あなたがセーターを着てくれたお礼に、キスしていいですか、と譲介は彼に聞いた。


短いキスの後で、「冬になったら、着てくださいね。」と言った譲介に、好きにするさ、とあの人は言った。
それからずっと、譲介が贈ったセーターを冬が来るたびに着てくれている。
肌着を着るのを、というより重ね着で洗濯物が増えるのを面倒がって、彼は譲介の買って来たセーターを素肌に直接着ていることが多い。
時として、真面目に目のやり場に困っている譲介のことを、あの人は面白がって眺めて、時折はニヤニヤと笑っていた。
今年は、ちゃんとクリスマスプレゼントに渡してみようか、と。
譲介は目の前に並んで揺れる、彼と自分のセーターを眺めながら小さく呟く。
あの頃とはふたりの関係も違ってしまった。
特別の日の、特別の意味のあるプレゼントを、今なら、あの頃ほど気負うこともなく選ぶことが出来そうな気がした。
小春日和と言うには暖かすぎる、抜けるような青空の日だった。

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