消えた足跡



 終わりの見えぬ黒闇に、白雪が静かに舞い散る。

 氷に覆われた世界の只中を、ひとり掻き分けてゆく男がいた。
 喉の奥を刺すような空気を胸いっぱいに吸い込み、掠れきった声で何度も叫ぶ。感覚が薄れていく身体を衝動のままに動かすが、その手からは凍雪が音もなく零れ落ちた。

 歴史に見捨てられた者がいた。
 戦神に見捨てられた者がいた。
 人間に見捨てられた者がいた。

 千年の正義と復讐は、民に何をもたらしたのだろうか。溶ける事なく積もる感情は、移ろう世界から乖離していく。
 深雪の底に遺された多くの無念は、きっとこの世界から忘れ去られてしまうのだろう。だからこそ、男は雪原を彷徨い続けていた。

 足跡を辿り、やっとの思いで冷えきった「それ」を見つける。今にも消えてしまいそうな灯火を抱きしめる様は、小さな希望に縋るべく祈りを捧げているようにも見えた。

 これは、誰が為の救いであったのだろうか。


****


 パチパチと、遠くで何かを燃やしているような音が聞こえた。
 音は徐々に大きくなり、それをはっきりと認識できるようになった時、ようやく自身が朦朧としていた事に気付く。

 ゆっくりと目を開けると一面の白……これは、雪だろうか。ただならぬ状況に危機感を覚えすぐさま身体を起こそうとするが、手足の感覚がまるでない。身動きが取れないのであればと喉の奥から絞り出された音は言葉にならず、今にもかき消されてしまいそうな呻きとなった。

「目が覚めましたか」

 落ち着いた様子の声が聞こえた方に視線をやると、そこにはエレゼン族の男がいた。
 古くなった木材のような茶褐色の長い髪をひとつにまとめ、分厚い黒のローブを身に纏っている彼は、その片腕を仰向けになっている自身の胸部にかざしている。何が起こっているのか理解できず再び身体を動かそうと試みるが、それに気付いた男は強い口調で言葉を放った。

「無理に身体を動かさないでください。冷えきった血液が体内を巡ると、心臓が止まり死に至る恐れがあります」

 ここは何処なのか、この男は何者なのか、疑問で埋め尽くされた脳内に響いた「死」という言葉……それを耳にした瞬間、先程まで感じられなかった筈の血の気がすうっと引いたように思えた。彼が冗談を言っているようには見えなかった為、大人しくその指示に従う事にする。
 仰向けのまま改めて周囲を見渡すが、小さな雪洞の中にいるのは自分と謎の男のみ。自身の傍らには小さなランタンが置かれており、二人の影を静かに揺らしていた。

「貴方は、長い間吹雪に晒された事により意識を失っていました。応急処置として、貴方のエーテルを活性化させ体温をゆっくりと戻していく治療を行っています。身体が震え、手足の感覚が戻るまで、どうかそのままでいてください」

 暫く経つと、男は淡々と語り出した。全てを理解する事はできなかったが、エーテルという単語から恐らく彼は「魔法」というものを使っているのだろう。得体の知れない方法で治療をされるのは抵抗感があったが、彼の言う通り身体が震え始めると同時に手足の先を自分の意思で動かせるようになると「自分は助かったのだ」と実感した。
 男は鉄製の瓶を取り出し、蓋を開けた状態で自分に差し出す。中に入っているのは白湯だろうか、微かな薬草の香りが湯気と共に漂った。本来であれば先ず毒が入っていないかを疑うべきなのだが、凍えきった身体がその思考を拒む。瓶を受け取り白湯をゆっくりと喉の奥に流し込むと、その温かさはたちまち身体の芯に染み渡った。

「……これから俺は、どうなるんだ?」

 素性の知れない相手に礼を言う気にはなれず、最初に投げかけた言葉は自分の身を案じたものになった。それに対して男は表情を変えず、既に用意されていた文書を読み上げるように答える。

「貴方の体力が回復したら、天候を見計らって近くの野営地に向かいます。但し、出発する前に貴方が持っている竜眼の祈鎖はこの雪原に投げ捨ててください」

 男の口から「竜眼の祈鎖」という言葉が出た瞬間、腰に提げていたナイフに手を添え身構える。

「申し訳ありません。貴方を救出した際、少しばかり持ち物を確認させて頂きました」
「それを知っていながら、何故助けた」

 血に染まった牙を模した石を装飾としたその首飾りは、異端者の証であると同時に潔白な者を罪人として陥れる事ができる代物だ。イシュガルドに生きる者であれば、誰もがその恐ろしさを理解している。
 これを持っている状態で野営地へ向かうのは自ら捕まりに行くようなものだ。男が利益を求めて自分を助けたのであれば、何とでも騙り自分を野営地まで誘導してしまえば異端審問官からそれなりの報酬が出ただろう。
 果たしてこれは脅しなのだろうか。しかし、そうだとしたら男は自分の荷物を確認する段階でナイフを取り上げておく事ができた筈だ。

「俺は、戦う理由を捨てる訳にはいかない」

 そう言うと、今まで表情を変えなかった男は微かに眉間の皺を寄せる。

「では、貴方はこれから何処へ行くつもりなのですか?」
「同胞が集まる場所だ」
「ゴルガニュ牧場、或いは臥龍島でしょうか。それらの場所はつい最近、デュランデル家の調査隊によって取り押さえられています」

 異端者の捜索が目的かと敢えて行先を伏せたが、どうやらそれも違っていたようだ。
 どちらも自分が向かう予定だった場所だ。本拠地であった牧場だけでなく、緊急事の集合場所とされていた「灰のねぐら」さえも情報が割れているのは想定外の出来事だった。行き場を失い焦りを覚える自分の表情を見て男は沈黙する。

「助けてくれた礼はする。だが、俺にはやらなければいけない事がある。エレーヌ……妹の仇を討つ為に、どうか俺を見逃してはくれないか」

 事のきっかけは、あの異端審問官にあった。愛する家族の幸福を踏み躙った者を許せず、全てを捨てこの道を歩み始めたのだ。復讐を果たす前に、何もない雪原で諦めるなんて選択肢は最初から存在していない。
 目的の為ならば命の恩人であっても……と、ナイフを強く握り締める。そんな愚行に男は何を想ったのだろうか。

「……分かりました。彼等との合流を望むのであれば、一つだけ心当たりがあります。ですが、その後の事に関しては一切保証できません」

 ランタンの灯りに炎よりも深く暗い男の瞳が照らされる。そこに存在していた感情は、怒りでも哀しみでもなかった。

「それでも宜しければ、案内します」

 最早彼の眼に自分の姿は映っていない。それはまるで、何処か遠くの景色を眺めているような眼差しだった。


****


 広く薄暗い雪雲の下、ファルコンネストでは幾つかの遺体の検分作業が行われていた。

 検分と言っても、これらの遺体の死因は分かりきっている。先日デュランデル家の騎士が、とある冒険者に異端者狩りを依頼したのだ。
 この雪原において生き物の死体は土に還らず残る為、野生の肉食動物かドラゴン族に喰い荒らされるのが一般的だ。急いでそれを回収したのは異端者捜索の手掛かりを少しでも多く掴む為だろう。大掛かりな調査の為に呼ばれたのはデュランデル家の騎士だけではなく、クルザス西部高地で活動している連隊員のうち医学に詳しい者達も含まれていた。
 そのうちの一人であるフィリベール・デュボアは、冷えきった石畳の上に置かれた男性の遺体を静かに見つめる。

「どうした、この遺体に何か気になる事でも?」
「いえ、何も」

 それは彼にとって当たり前の景色だった。その遺体から引き出すべきは「異端者」の情報であり、彼自身の出自を気にかける者はこの場に誰一人いない。
 フィリべールは声をかけてきた顔馴染みのデュランデル兵であるガレオに検分結果をまとめたメモを渡し、きっちりと報酬を受け取る。

「ただ、今回の依頼を受けた冒険者について考えていました」

 第七霊災による寒冷化で変わり果てたこの地には、様々な人間が集まっている。金や名声を求める者、国の仕組みに異を唱える者、復讐や死を望む者、過去を忘れられない者……彼等は絶えなく争いを繰り返し、多くの生命を散らしてきた。
 狩るか、狩られるかの道しか存在しない世界に突如現れた「冒険者」は、何を想いながらこの男を討ち斃したのだろうか。

「へえ、お前さんが他人に興味を持つなんて珍しいじゃないか。その冒険者、エオルゼアを救った英雄なんじゃないかって噂があるんだぜ。まだこの周辺を彷徨っているみたいだから、今から追えば一目拝めるかもしれないぞ」
「そういうのは結構です」
「なんだ、つれないなあ。ひょっとしたら、そいつが竜詩戦争に終止符を打つかもしれないって話なのに」

 不満な様子で立ち去るガレオを薄笑いで見送った後、白い溜め息と共に小さく呟く。

「……くだらない」

 この地に生きる人間であれば、抱くだけの幻想は意味を成さないという事をよく理解している筈だ。馬鹿げた話だと吐き捨てながら、数日前に助けた男の言葉を思い出す。

『助けて欲しい奴がいるんだ』

 たとえそれが自身に向けられた願いではなかったとしても、フィリベールにとって何よりも捨て難いものがそこに在った。
 ローブの裾をさばき、石畳を蹴るように歩き始める。長い袖の下には細く骨ばった拳が強く握り締められていた。

 薄雪に浮かぶ足跡はガレオが指差した方角とは真逆へと進む。向かう先は遥か遠く、天に聳える石と鋼の都である。


****


 やがて「英雄」と呼ばれた存在がこの地にもたらした影響は、多くの民の人生を変えるきっかけとなった。しかし、その変化によって救われた者は果たしてどれ程いたのだろうか。

 これは、見捨てられた者達が救いを求め足掻いてゆく物語。

powered by 小説執筆ツール「notes」