エンドロール

 まるでそうなることが運命づけられているみたいだった。
 俺たちは自分自身が何者であるかを自覚する前から周囲によってしっかりと役割を与えられていて、それに徹する生き方しか許されていないのだと思った。
 俺はすべてのものを持っていて、雲水はなにも持っていない。最初から決まっていたその設定を覆すことも抗うこともできずにこうして生きてきた。
 それが少しだけ変化し始めたのは泥門との試合で負けた時だった。俺たちの背後に聳え立っていた大きな歯車が回り始める音が確かに聞こえた。それでも雲水はすぐに前へ進めるほど器用な人間ではなかったからもたもたしていたが、大学が決まるころにはだいぶ吹っ切れた様子だった。

 先にアイツの家に着いたのは俺のほうだった。3人めでたく大学に現役合格したお祝いにとアイツが設けた3人だけの奇妙な祝賀会だ。今日この日まで幾度となくだるいだるいと遠回しに断ってきたのにアイツは俺が来ることを寸分も疑っていなかった。そういうところが昔から何も変わらない。アイツも、俺も。
 適当に買ってきたいくつかの酒とつまみの入ったコンビニの袋を部屋の真ん中にあるやたら小さいテーブルの上に置く。久しぶりに入ったアイツの部屋は、子供のころに最後に見た時と大きく変わってはいないはずなのにどこか他人行儀であまり落ち着かなかった。
 ソファも座椅子もない狭い部屋で座る場所を見つけられずにいるとリビングで雲水と電話をしていたアイツが戻ってきた。
「雲水くんまだ来られないって」
「俺を待たせるなんていい度胸じゃねえか」
「阿含と違って人望があるから色んなところで祝われてるんだとおもう」
「うっせえぞ」
 睨んで見せてもお前はまるでじゃれあいのようにそれを受け取って気にしていない様子でふわふわと笑う。俺が買ってきた袋の中身を確認して酒が入っていることに気づくと「まだ未成年だからだめだよ!」と慌てて袋から出して避けていた。
 相変わらずどこに座ればいいか分からなくて、たまたま視界に入ったのは勉強用に使っているであろう机だった。薄いデスクと女っぽいクッションの置かれたシェルチェアのほうに近づいてやっと腰掛ける。チェアの細い足が微かにギシ、と鳴ったせいでもたれかかるのが心許なかった。
「お母さんたちがね、せっかくだからってお寿司とかとってくれたよ」
「マジかよ」
「雲水くん食べてきちゃうかなあ」
「飯あるっつえば我慢するだろ」
「でもなんか、水差したら申し訳ないかなって」
「…ンなこと気にしねえだろ雲水は」
 白い手がつまみを並べていくのを眺めていると、やたら小さいと思っていたテーブルはそんなこともなくてお前にはちょうどいいサイズなのだということに気づいた。
 昔からどうしてか、俺たちと比べるとそんなふうに思ってしまう。コイツとほとんど同じ身長の女を隣に置いてもコイツのほうがずっとずっと小さくて弱い生き物に感じる。俺の前で泣いたこともないような女だというのに、こうしてずっと見ていないといけない気にさせられるのだ。
 「これはあとでお父さんとお母さんにあげるからね」と言いながら酒だけを袋に入れて脇に避ける。こうなることは分かっていたのでどうでもいいが、酒も飲まずにこの奇妙な3人で間が持つとは到底思えなかった。
 どうせ雲水に気を遣って寿司を取ってることなんて伝えていないんだろう。仕方がないので俺から連絡を入れてやると一瞬で返信が返ってきた。あと1時間くらいで着くという几帳面な返信だった。
「阿含、阿含。これ食べてもいい?」
「あ?寿司食うんだろが」
「雲水くん来るまでちょっとだけ。お腹すいちゃったから阿含も食べよ」
 そう言って間の抜けた楽しそうな顔をしながら、俺が買ってきたつまみの中にひとつだけ紛れていたチョコレート菓子を手に取った。
 いかにも子供が好きそうなパッケージの箱を開けて、個包装されている袋から一口サイズのチョコレートを取り出す。ころんと転がるようにして口に入っていくそれを幸せそうに味わって食べている様子はまさに子供のようだ。
 俺が一度も美味いと思ったことのない、お前が昔から好きな菓子だった。
 ぱくぱくと遠慮なく食べ進む姿を眺めていると一つだけこっちに差し出される。食べたくて見ていたわけじゃないから「いらねえよ」と一言返すと言われることを予想していたかのように少し笑われた。お前にそういう顔をされるとムカつくようなかゆくなるような妙な気持ちになる。
 本当は大学の合格祝いなんてどうだってよかったしそれに託けて適当にツレを集めて酒を飲んだくれていてもよかった。それなのに結局はこんなおままごとみたいな空間にいることを選んだ自分が可笑しい。
 直前まで確かに他からの誘いもあったのにこういう日だけはお前のところに足が向かうことを、当の本人は知らないしそんなことを伝えるつもりもなかった。
「雲水、1時間ぐらいで来るってよ」
 俺がそう言うと菓子を食べている時よりずっと輝いた顔でこちらを見る。いつからかはもう覚えていないけれど昔からそうだ。
 テーブルの上に溜まった個包装のゴミを捨ててから「早くお寿司食べたいね」なんてどうでもいいことを言って自分の気持ちを落ち着けようとするその顔も、もう見慣れてしまった。
 組んでいた足を組み直す。チェアの細い足はまた鈍い音を立てた。雲水が来たら一体どこに座らせるつもりなんだ。
 もう一度部屋を見渡してみてもガタイのいい男があとひとりゆったり座れそうな場所はベッドの上くらいしか見当たらなかった。それでもそれはコイツのサイズに合わせたようなシングルベッドだから俺たちにはきっと窮屈だ。
「…ねえ阿含」
「あ?」
「あのね、わたし…大学でやりたいことがあってね」
「なんだよ」
 捨て損ねたチョコレートのゴミを手持ち無沙汰にいじる手は、小さくて白い。その腕の細さも髪の毛のやわらかさも簡単に想像できるのに、本当の感触なんて俺はきっと一生知ることはできない。
 ほんのり血色の良くなったような頬をやわくふくらませてお前は俺を見る。
「アメフト部のマネージャーやろうかなって思ってるんだ」
 椅子は俺が少し動く度にギシギシと鳴って、もたれかかっても倒れることはなかったがすべての体重を預けるのは怖かった。
「雲水くんなんて言うかな」
「ヘッ。泣いて喜ぶんじゃねえの。ムッツリ野郎だから」
「ムッツリとか言わないでよ!」
「お前らの大学との試合が楽しみだ」
「うわっ。悪い顔してる!阿含もうそういう顔するのやめな〜!」
 まったくもう、とため息をつきながら手の中でくしゃくしゃにしたゴミをとうとう捨てた。そんな意味のないものの行方を追ってでも今はアイツから目を逸らさなきゃいけないような気がして投げやりに視線を動かす。
 雲水と同じ大学に行きたいと言われた日のことを思い出した。親でも本人でもなく真っ先に俺に言いにきたお前があんまり清々しい顔をしてるからこっちの生気を吸い取られたようで酷い気分になったのを覚えている。
 しずくを閉じこめたように光るお前の目の前には今、俺しかいないはずなのに、俺が映ったことは一度もない。
「阿含、聞いてる?お腹すいて怒っちゃった?」
 いつの間にか俺の前に立ってこちらを覗き込まれる。その無垢さは残酷で、俺と雲水を分け隔てた神様のほうが慈悲深く思える。
 そうして近寄ってきたその腕を掴んだ。想像していたよりもずっと特別な感触がする。
 驚いて動けないでいるのが分かってそのあいだに、俺はキスした。何回も何回も、逃げようとする体をいつのまにか引き寄せてずっとキスした。やだ、と言う言葉ごと飲み込むようにして舌を捩じ込んでもう何も考えられなくしてやった。
 無理矢理引き寄せられて体勢を崩したからかほとんど俺の上に座っている。2人分の重みに耐えられないシェルチェアはギシギシとうるさく鳴いていて、ベッドにでも押し倒してやればよかったと後悔した。
 体の奥の方から熱が灯り始める。せめてそれを掻き消したかった。息ができないくらい深く、酷い、キスだった。
 雲水からの返信には続きがある。『俺は今日、あの子にちゃんと伝えるよ』と書いてあった。
 俺はすべてのものを持っているのにお前だけ手に入れることができない。雲水はなにも持っていないのにお前を手に入れることができる。
 最初から決まっていたその設定を覆すことはできそうにないが、抗うことぐらいはできた。なんて滑稽で、情けなくて、醜い運命なんだろう。

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