不在



――宛名は取っておけ。中身は食って良し。

譲介は今日も、デスクに置きっぱなしになっている、判じ物のような真田の書置きを眺める。

十二月の年の瀬に入ると、出張に行って来ると言ったきり、真田はふらりと姿を消した。
それが合図だったかのように、師走の真田法律事務所には、まるで冗談みたいな数の付け届けがやって来た。
冷蔵の高級和牛に、ワインに蟹、ふかひれスープ。甘味に至っては、ゴディバのチョコ詰め合わせである。
コーヒーや洗剤といったここいらのスーパーで見かけるような――そして大晦日を過ぎれば半額になっていそうな庶民的な贈答品は、この中にはひとつもない。時々中身が腐ってはいないかと包みの中を開けてみると、日時の書かれたパーティー券なるものが入っていることもある。
おっかない爺さん共からのデートのお誘いよ、と冗談で茶化そうとするが、譲介には全く笑えない話だった。
パー券という略し方をされる、例の政治家主催の資金集めのためのチケットだ。
本当に表面にはパーティー券と書かれているものもある。
最初に見た時には、ダンスフロアで開かれるようなパーティーを想像して、そりゃあうちの先生のような強面のオッサンは裸足で逃げるだろう、と譲介は妙なところで感心してしまったが、この手のチケットが何に使われてるのかを知っている今ではため息も出ない。
裏取引されているというその額面に鼻を鳴らし『お高い紙きれだなァ、おい。』と屑籠に投げ入れる師匠に倣い、人の手から手へ、ババ抜きのように回って来たそのチケットをゴミ箱に放り込む。


十八の年に、借金取りにボコられて裏路地に転がっていたのを助けられて以来、譲介はここ、真田法律事務所でアルバイトをしている。
先生は、借金取りにボコボコにされ、ゴミ捨て場で凍死しそうになっていた譲介を寸でのところで拾ってくれた恩人である。
医者に見せてくれて、金がないと言ったら暫くは事務所のフロアにある物置を貸してくれ、飯も食わせてくれた。神様のような男だ。
何か恩返しをしなければ、という一心で張り付いて数か月。
漸く、この事務所で働くことを許してもらえたと思っていたのだが、単にこの時期に歳暮を受け取るだけの留守居役が必要だっただけの話らしい、とようやく気付いた。
チョコレートなんか、腹の足しにもならない。
高級和牛なんかも、ひとりで食べたところで虚しくなるだけだろう。
それなら林檎や蜜柑の箱の方がどれだけいいかと思うが、そうした庶民的な付け届けの箱は未だに届いたためしがない。
サボろうにも、この事務所の外を一歩出たところで、借金を背負って廻状持ち同然の父親を持つ身で、譲介に出来ることは、住み慣れたこの辺りの土地を離れて誰も知らないような場所へ行くか、この事務所で踏みとどまるかのどちらかしかないのだった。
それに、何でもします、と玄関先に張り付き、出掛けるとなれば車の扉を開けに行き、秘書かストーカーのようにあの人にまとわりついて、やっと手に入れたバイトの口だ。諦めたくはない。
まあバイトと言っても、譲介は大学に行って法律を学んでいるような同世代の人間が出来るような、法律事務所に所属する人間らしい補助的な仕事は何一つ出来ない。
出来るのは、ヤクザの下足番がやるような掃除や電話取り、お茶くみやコピーで、つまりはただの下働きだ。
事務所の主が不在になれば、減らない仕事は山のように積み重なる。
それでも、真田はこの事務所の上のワンフロアの空き部屋に譲介を住まわせることを承知して、ぶつくさ言いながらも金を支払っている。口止め料も込みだ、と言ってただのバイトに法外な時給を払い、ある程度金が溜まったらさっさとここから出て行けと、毎日のように尻を叩いている。(男相手にセクハラもないだろうが、勿論比喩だ。)
時折は、知り合いの業者に譲介でも住めるようなアパートが見つかったら連絡するようにと網を張っているようだが、オートロックがどうの、風呂場と便所は別れた部屋がいいだのと、嫁入り前の女子学生の親のように細かい条件を口にするので一向に引っ越し先が決まらない。
真田は、ヤクザや汚職をした政治家、その身内を弁護するタイプの、世間では所謂悪徳弁護士と言われるような男だった。
譲介は、後からそのことを知って得心が行った。
借金取りのチンピラが裸足で逃げだすほどの男が、何者かでないはずがない。
悪名の高さとはいえ、世に知られた弁護士で、その上、喧嘩も強い。さぞ女にモテるのだろうと思うが、本人にはその気はないというより、殺人的な忙しさで、女がいたところで構ってやる時間がないのだろうと思われた。
譲介が二時までスマホでガチャに課金しながら起きている時間にも、真田はコーヒーを淹れて仕事をしている。
その上で、譲介のような厄介ごとをしょい込む余裕があるのだから、本当にタフだ。
ちなみに真田の肩書は、この事務所の所長だった。
世間一般ではボス弁と言われる立場らしい。
譲介が、さしあたりのつもりでボスと呼んでみると、パートナー弁護士もインターンもいない弁護士事務所にボスだのなんだの、サル山じゃあるまいし、と本人が嫌そうな顔をしたので、その呼び名は一日で中止になった。
今では、人目のある所では真田先生と呼ぶことにしている。
真田はそんな風にして、譲介に対して、人目があるときは相応の振舞をしろとは言うが、二人の時には必要以上に偉ぶらないところも良かった。
しかし、偉ぶらないからといって偉くないというわけでもない。
驚くことに、真田は自分ひとりの力でこの事務所を興したらしかった。
あまりに古くてボロい建屋のため、てっきり二代目とか三代目のボンボンではないかと疑っていたが、逆に、そうではなかったからピンク色のネオン街に余りにも近いこうした場所しか借りられなかったのだと言っていた。その頃の詳しい事情は、まだ聞かせて貰えていないので分からないが。
顧客がヤクザなのだから、それらしい駅前に近い繁華街の小洒落たビルに移転した方が、お高く留まったような奴らには受けがいいだろう。
真田本人もそのことは自覚してはいる様子だが、結局こういうところの方がオレには水が合ってる、と言うばかりだ。この先も、ここから引っ越しする気はないらしい。まあ、その方が、今のように空き部屋を使わせて貰っている譲介からすれば有難いのだけれど。

「……先生、どこ行っちゃったんスか?」
主のいない事務所の床をモップで掃除しながら、譲介は呟く。
客がいないのだから汚れようがないのだが、紙類の整理はまだ任されるには至っていない。机の上に山と積まれた事件資料を片付けようがないので、毎日床と階段、寝床に使っている部屋の掃除をして、荷物を受け取って、電話を取って、主の不在を告げ、夕方までぼんやりする暇もない。気が付けば一日が終わってしまう。
譲介は、どこにも行き場がないような気分で、カップ麺に湯を注ぐ。
来客用のポットの他には、譲介が先生のためのドリップパックのコーヒーを淹れるためと、カップ麺に湯を注ぐためのポットが別にある。
奥の水屋でカレー味のカップ麺にいつものように湯を注いでいると「おい、譲介、いねぇのか!」という声が聞こえて来た。怒鳴っているわけでもないのに妙に響く。
「TETSU先生!」
帰って来た!
譲介が慌てて出入り口に駆けていくと、真田がそこにいた。
「先生……!」
譲介は真田に駆け寄って、そのままタックルの勢いで身体に抱き着いた。
そこいらの女より立派過ぎる胸筋に頭から突っ込んで、もう逃がさないぞという気持ちである。
固いばかりかと思った胸は、思ったよりふかふかと柔らかいが、この際どうでもいい。
どこへバカンスに行ってたかは知らないが、今日こそ溜まった仕事を片付けてもらう。姿をくらます前に頼んでいた資料だのなんだのが机に積まれて、今やもう雪崩が起きそうになっているのだ。
「高級和牛と蟹とゴディバを全部食べ切るまではどこにもいかないでください!」
恥を忍んで譲介が叫ぶと、ぽかんと口を開けた真田は、次の瞬間おかしそうにクックと笑った。
「……どういう言い草だよ、そりゃ。」
おめぇはいつもそんなで女を口説いてんのか、と聞かれて、譲介は真っ赤になった。
自分でも言葉のチョイスが突飛でおざなり過ぎると分かってはいるが、だからといって、和牛と蟹とゴディバを除いてしまえば、ただの愁嘆場である。
先生に恩義はあっても、譲介にはその気はない。
先生もきっと同じだろう。
それでも、引き留める譲介の必死さを感じたのか、真田は、逃げねえから離せ、と譲介をなだめた。
拘束を緩めると、腕の中から真田の暖かな身体は消えてしまい、いつもの「所長」の顔に戻った真田が、今年の歳暮はどんなだ、と事務所の中をいつものようにずんずん進んでいく。
冷蔵庫の扉を開け、中にあるものを真田が点検する。
「和牛に、蟹に、チョコレートか。揃いも揃って、毎年代わり映えがしねえなあ。」と言って、これはあいつ、肉はあいつだろうと、譲介も覚えている送り主の名を挙げて行く。弁護士の記憶力の確かさは、衰えを知らないようだ。
まるでパズルを解くがごとく、他人の名を呼ぶ真田の声を聴いていると、譲介の心のどこかがちりちりと炙られるように感じられる。
「おい、譲介。」
「はいっ!」
「おめえ、牛すきと蟹すきとどっちがいい?」
「……牛、すき?」
譲介は、頭の中で、牛肉が好きだというプラカードを持った真田と蟹が好きだと書いたプラカードを持って立っている真田を思い浮かべた。
「肉は焼くと胃がもたれるから、鍋にして食うんだよ。おめぇが食わねえってんなら、知り合いに持って行くまでだ。」と真田は言う。
鍋と牛すきという単語が、頭の中で結びつかない。
「そもそも牛すきってなんですか?」という譲介の言葉に、「そこからかよ。」と真田は吹き出した。
譲介の頭を撫でてから「おめぇも可哀想なヤツだな。」と言って笑う。
したり顔で譲介の生い立ちを可哀想だと言う無責任な大人にはむかっ腹が立つが、譲介を見る真田は、どこか子どものような顔をしているようにも見える。
「おめぇ、家族と鍋食ったことはあんのか?」と問われて、譲介は「ないです。」と答える。
あの父親との間に、そんな団らんなどは、一度もなかった。
譲介が、俯いて唇を噛むと、真田も少し考え込むようにして沈黙した。
「じゃあ、今夜は牡蠣でも買って来て、海鮮鍋にするか?」
蟹だけじゃおめぇには足りねえだろう、と真田は何でもないことのように言った。
事務所にいる間、真田はほとんど昼に近所から店屋物を取る以外は、ほとんど食べない。
このご時世、コンビニも二十四時間のスーパーもあるのに、それ以外の時間はだいたいはコーヒーとプロテインバーなどの軽食で空腹を紛らわせている。
それでも、今の自分の言葉に嘘がなかったのと同じように、今の真田の言葉にも、嘘がない。
譲介は、直感的にそう思って、視界がぐらりと揺れた。
「TETSU先生、あんまり優しくすると、惚れちゃいますよ。」
子どもの頃、父親が場末のキャバ嬢に掛けていた言葉を真似て言うと、真田は「おめぇみてえな若造には、そんな言葉は百年早ぇんだよ。」と言って、譲介の頭に素早く拳骨を落とした。
「痛ってぇ!……です。」と譲介が言葉を取り繕うと、真田は拳に息を吹きかけている。
「馬鹿なガキにはお仕置だ。ったく、六十近いおっさんをからかいやがって。」
譲介が口にした下卑た冗談に腹を立ててしまったのか、心なしか耳が赤いような気がする。
ちっとは反省しろ、と真田は言って、譲介に背を向けた。
行きしなと同じコートを羽織った背中を目にして、譲介はほっと息を吐いた。
口うるさくて、横柄で、拳骨が痛く、目を離せばすぐにいなくなる。
そのくせ、真田は妙に優しい男だった。
「先生、鍋って何買って来たらいいんですか。」と譲介が聞くと、「葱と豆腐と白菜に市販の出汁。後は適当に好きなもん入れりゃいいだろ。」という返事が返って来る。
「買い物があンなら、仕事は早上がりだな。」
カニ鍋、カニ鍋と、真田は明るく言葉を重ねる。
譲介は「僕がコーヒー淹れますから、先生はとっととデスクに行って仕事してください。」と釘を差してから、水屋に戻ると、食べ損ねたカップ麺の残骸が見えた。
食べてはいないが、確かに中身はどうなっているかくらいは分かる。
これを食べ終えたら、コーヒーを淹れ、冷蔵庫の中のチョコレートを付けて真田に出そうと思う。
伸びきったカップ麺の蓋を開け、譲介は、冷めたカップ麺を啜る。
あの冷蔵庫の中身を見て機嫌良さげな様子になった真田を見るまでは、甘味が好きだなどとは信じられなかった。チョコレートが好きだなんて周りに吹聴している真田は少しイメージと違うが、そういえば、いつも、コーヒーくれ、と言う時は心持声が弾んでいる。
もしかしたら蟹と牛肉が本命なのではないかという疑いも捨てきれないので、チョコレートを口にするときの様子を見て、それから判断しようと思う。
ひとつ、譲介は心に決めた。もし本当に彼がチョコレートを好きだと言うのなら、次の給料が出たら、絶対に、もっと高いチョコレートを買って来て、唸らせてやる。
馬鹿馬鹿しいにも程がある無駄遣いだが、今の譲介はそういう気分だった。
あんたが帰って来てくれて嬉しい、という言葉は、まだ素直に言えない。
真田は、そう、譲介にとっては父親ではないから。

父親ではないというのなら、なんなのだろう。
ほんの短い不在を経て、戻って来た真田の背中を見た時の、あのなんとも言えない気持ちは。
応接兼真田の執務室兼譲介の事務室である隣の部屋から、固定電話の音がした。
「おい、譲介。おめぇ、いつまで休憩してんだ!」という声が聞こえて来て、譲介は、はい、と大声で返事をして、たべかけのカップ麺をシンクの横に置いた。
今夜は長いぞ。
そう思いながら、譲介は、真田の待つ部屋へ急いだ。



powered by 小説執筆ツール「notes」

179 回読まれています