薄明を望む
スメルジャコフが眼鏡を使いはじめた時は、あれは誰があつらえてやったんだとちょっとした噂になった。どこかに注文して取り寄せたのなら、小間物屋のボリス・ボリースイチが知っているはずだから。だけどそんな話は聞かないし、スメルジャコフはずっと具合が悪くてへちまみたいにしおれてて、あれじゃあ店に行く元気もなかっただろうし、結局イワン・フョードロヴィチが用意してやったんだろうという話に落ち着いた。あの二人は、年も近くて、イワンの方が帰ってきてからはスメルジャコフも若旦那とよく話をしていたし、小さい頃は時々二人で遊んでいたので。
「ふん、気に入らないな」
とラキーチン。
「僕が用意してやったのにさ」
スメルジャコフは黙って肩をすくめた。そんなこと私におっしゃられても致し方ありませんでしょう、と言いたげだ。あるいは、ご自分で吹聴して回られたらよろしいのでは、とか? だいいち、金を出したのはスメルジャコフ自身で、ラキーチンは隣町の眼鏡屋を手配しただけだ。
眼鏡の代金に当てたのはカラマーゾフからの退職金だった。ある意味、イワンが出したものと言えなくもない。長男のドミートリイは目下収監中だったし、三男のアレクセイは金についてはとんと意識が向かない。財産関係の手続きを進めたのは次男のイワンで、今や数万ルーブリの遺産を相続したと聞く。
「ミーチェンカのやつは相変わらずらしいよ。讃歌だの何だの抹香臭い話をしてる。それで暇つぶしをしているんだな、殺人の容疑者なんてそれ以外やることがないんだから」
スメルジャコフの沈黙を埋めるようにラキーチンが話をついだ。いったいこの男は黙っているということが難しいらしい。
この元神学生とは、イワンが十数年ぶりにここへ戻って来たあたりからの付き合いだった。ラキーチンは自身を何か進歩的な思想家と捉えているらしく、しばしばスメルジャコフに高説を垂れる。最初に声をかけられたときのことを思い出すと今もおかしくて笑いそうになる。「帝国の、いや人類の矛盾たる農奴制支持のでたらめのカラマーゾフ家」と大仰な言葉遣いでラキーチンはスメルジャコフの状況を嘆いてみせ、身分や階級から解放された理想郷の話をしてみせた。そのくせ知りたいのはスメルジャコフの胸のうちなどではなくてカラマーゾフの内情だった。つまりは身分解放なんかじゃなくてゴシップを求めていた。生前のフョードル・カラマーゾフは町の鼻つまみ者で、道化た姿ばかり見せていたが、その実猜疑心が強く、商売の関係以外で家の外の人間と付き合うことはほとんどなかった。息子のイワンも上辺は愛想がいいが、外で家のことを触れ回ることはない。ドミートリイはところ構わず何でもそのときに思いついたことを吹聴したが、そもそも家に寄り付かないので家の中のことは知らない。あの屋敷の、黒ずんだ壁の内側で何が起こっているのか、知っているのは召使いだけだったが、グリゴーリイやマルファはどれだけ金を積まれたって口を割るまい。それでスメルジャコフに目をつけたのだった。
「さようでございますか」
スメルジャコフはもったいぶった顔で相槌を打ってやった。ラキーチンは落ち着かない様子でスメルジャコフをちらりと見た。やってきて腰を下ろすなり広げた手帳のページの角を、指で丸めたり、また広げたりしている。まるで舌なめずりの代わりみたいだ。ラキーチンはいやしげに目を光らせて尋ねる。
「それで、イワンの方はどうなんだい、あの人殺しの弟は?」
「さあ、少々お体の具合がよろしくないと聞いておりますが、おおむねつつがなくといったところでございますよ」
ラキーチンの顔がひきつった。スメルジャコフは内心溜飲を下げる。ラキーチンは何か情報を欲しがっている。でなければ自分のところに来るはずがない。分かっていてばかのふりをして焦らすのはこの男が来たときのちょっとした楽しみだった。
「そうじゃない。こないだ君んとこにやつが来たんだろう、イワンのやつが。一体何のために来たんだ?」
今度はスメルジャコフの顔がひきつった。何ともめざとい。あの訪問はマリア
・コンドラーチエヴナ以外知らないはずだし、この町外れの家の周りには、熊か羽虫以外滅多にやって来ないのに。
「何でやつは君を尋ねた? 病院に来たのと、これで二回目だろう」
何のためにだって? それはこっちが聞きたい。わざわざ終わったことを蒸し返しに来たと思ったら、とぼけてみせたあの若旦那の様子……。
「どうなんだ、何しに来たんだ?」
ラキーチンがすっかり焦れて手に持った手帳を鉛筆の尻でしきりに叩きながら言った。
「さあ……」
スメルジャコフはそう言ったきりまた長く沈黙した。それから、何か堰を切ったようにしゃべりはじめた。
「さあね。……私にも、何が何だかさっぱり。どうやら私の受け答えがあの方のプライドを刺激してしまったようでございましてね、つまり、お金のことでございますよ。旦那様のご不幸は、あの方にとってはある意味幸運でございましたからね。いえ、いえ! あの方がそれを望んでいらっしゃったわけではございませんよ、ええ、そうですとも! あの方はこっちへ帰ってからというもの、ドミートリイ・フョードロヴィチと旦那様との争いに巻き込まれて、ちょっとモスクワに行っていた間に事件が起こりましたでしょう。それがどうもあの方にある種の印象を植えつけてしまったようなのでございます。こちらへやって来られて、あの日のことを——つまり、モスクワへ行く前のことでございますね。そのことを話したとき、あの方は私を殴りつけて、臭い悪党呼ばわりをしましたけれど、何に怒っていらっしゃるのか、私にはさっぱりわからなかったんでございます。ええ、そう、殴りました。肩のところでございましたよ。ひどく興奮して、ひょっとしたら怯えておいででした。あの方は、ここだけの話ですけれど、どうやら少し具合がよろしくないんでございますよ。神経の具合がよろしくないんでございます」
ラキーチンはそれを聞いて嬉しそうににやにやしながら手帳に何か書きつけた。
パーヴェル・フョードロヴィチ・スメルジャコフの視力が下がりはじめたのはモスクワへ行った十代の半ばのことだった。もっとも、それに気づいたのがモスクワ時代ということだから、もしかしたらもっと前から目が悪くなりつつあったのかもしれない。気づいてからはあっという間だった。少し遠くが見づらくなったと思ったら、だんだん周囲のものがぼやけるようになった。
幸いというべきか、その頃には料理修行はほとんど終わっていた。手元を見るのに支障はなかったし、いくらなんでも鍋と包丁の見分けはつく。身につけた技術は確かな形でパーヴェルの手を動かした。スコトプリゴニエフスクに帰った後も、特に支障はなかった。田舎の道を歩くときや林に入ったときに多少目がぼやけていたって別にどうということはない。魚だの肉だの、何十歩も離れたところから見分けろと言われるわけでもない。そういうわけで、パーヴェルの視力については放っておかれることとなった。
そもそも、グリゴーリイは、この養い子に眼鏡を作ってやろうという考えすら思いつかなかっただろう。ものが見えにくいだけで仕事は問題ないのならそれ以上のものは必要ない。パーヴェルの方も、グリゴーリイのようにわざわざ嘘ばかり書いてある胡散臭い本をありがたがりながら読むための道具など必要ないとそのときは思った。
眼鏡がいる、と考えを変えたのは、てんかんの発作から曲がりなりにも回復した、病院のベッドの上でのことだった。パーヴェルはそのとき、肺を悪くして隣のベッドに寝ていた教師崩れにフランス語を習っていた。習っているといってもいくつかの単語をロシア文字で書いてもらったのと、かんたんな挨拶くらいだったが、パーヴェルはそれを熱心に復習した。教師崩れはそれだけ教えた日の晩に痰を詰まらせて死んでしまい、空いたベッドにはまた別の死にかけが運びこまれた。
もっと知りたくて診察に来た医師に尋ねたら、奇妙な微笑みのような表情がちらっとひらめいた。医師はさらに十か二十、単語を書くと、回復したての体には毒だから、あまり根をつめすぎないようにと言いおいて診察を終えた。
あれは嘲笑だ。医師が扉を閉じると同時に悟った。パーヴェルの顔がみるみる赤くなった。死にかけた男以外、誰も見る気遣いはないので、パーヴェルの顔は羞恥と屈辱で存分に真っ赤になった。
自分を見る人の顔にあの表情がひらめくのを、パーヴェルは今までの人生で幾度となく見た。その相手に向けて顔を赤らめるのは、自分にさらに辱めを与えることだったから、パーヴェルの顔はいつも、赤くなるかわりに、青ざめた。
だけど、こんなところでまで! あの表情はパーヴェルにとって不意打ちだった。だが、不意打ちを許した自分が悪いのだ……顔を赤くしながらパーヴェルは思った。分かりきっていたことじゃないか、自分がフランス語なんか尋ねたらどうなるか? あれが嘲笑だということも、本当は見た瞬間に分かっていた。だがそうだと気づくのを、意識の下に押しこめて遅らせた。そういうことは誰しもしばしばある。屈辱を受けた人間は、そうと気づくのを無意識のうちに回避する。パーヴェルの場合、それが一種の技術になっていた。料理と同じで、手元がよく見えなくても、自覚する前に体が動く。後からそれに気づくたびにパーヴェルは自分の境遇を呪ったし、そんなことを身につける必要のなかった兄弟たちを——名前の尻にカラマーゾフがあるかないかというだけで誇りをためらいなく口にできる三兄弟を憎悪した。
パーヴェルはノートを見下ろした。隣で末期の苦痛にいる男の細く潰れたような声が途切れ途切れに聞こえていた。
そんなわけでパーヴェルはノートを人に見せないように用心して、見返すときは、膝に広げたノートの上に覆い被さるようにしていた。ペン書きの文字はそんなに近づかなくたって見えたけれど、誰かにそれを見せてやるのが嫌だった。命も危ぶまれる大発作に見舞われた体には、背中をぐっと丸めて体を二つに折るようなその姿勢はいささか負担が大きく、パーヴェルは毎日横になっているだけのはずなのにへとへとになった。
「お兄さん、そんなに目を近づけちゃ、寄り目になっちまいますよ」
と、背中を丸めてぜいぜい言いながらノートを見ているパーヴェルの肩をつついたのは、掃除係のばあさんだった。文字の読み書きは自分の名前以外したことのない、典型的な農民の老婆で、何か見られても悟られる気遣いのない彼女の存在をパーヴェルは意識の埒外に置いていた。
「お兄さん、そら、背筋を伸ばしなさい、ね、近目になっちまいますよ」
もうなっている。パーヴェルはノートを見下ろした。大きめのブロック体の文字は、まだかろうじて見分けがつくものの、もっと小さな字になると何が書いてあるかわからない。
「そう、そう、お兄さん、おや、あんたなかなか男前じゃあないの」
体を起こしたパーヴェルに向かって老婆は歯のない口で笑った。
眼鏡を手配したのはその後だ。町の商店に注文するのは御免だったので、ラキーチンに頼んでちゃんとした眼鏡屋を連れてきてもらった。眼鏡屋は、医師の診察鞄みたいな大きなカバンに視力を測る道具を入れ、背中に背負った小さな行李にフレームを入れてきた。パーヴェルはそれほど選択肢のない中から時間をかけてフレームを選んだ。退院した後で眼鏡が届いた。
眼鏡の包みを開けて、綺麗な布で拭き、かけたり外したりした。急にくっきり見えた世界に不慣れなせいでパーヴェルは何度かつまづいた。頭がくらくらして、眼鏡を外して横になったりして、夜になってからまた眼鏡をかけて外へ出た。マリア・コンドラーチエヴナが、視力を測るには星を見るのがいい、というので。
「ちょうど晴れていますから」
というマリアの言葉通り、夜空には雲ひとつかかっておらず、その上月のない夜で、暗いランプを一つ灯しているだけのマリアの家から三歩離れると、もう周りは真っ暗になった。夜空は確かに、今までとなんだか違っていて、一つ一つの星が小さく見えるのは、ぼやけていたのが明瞭に見えるようになったせいだろう。一番明るい星は、熟れて枝から落ちて潰れた果実のような、中心から外へ向かっていくつも尾を引く光芒まで見えたし、砂を撒いたみたいな屑星がたくさんあるのも、つい昨日までは知らなかった。……そもそも、夜に星を見上げることなんかそうそうあっただろうか……短い夏も長い冬も、自分の一日はカラマーゾフのためにあった。起きている間はフョードルの世話のためにあったし、眠っている間も、次の日フョードルに奉仕する体力を養うためにあった。夜中に起き出したのは、そう、あの夜だけだ。イワンが去り、ドミートリイがやって来て、そしてやはり去ったあの夜だけ。
そういえば、最初に会ったとき、ラキーチンは自分たちを星に例えたっけ。星が誰のものでもないように、社会も人間も誰のものでもない。農奴制と称して人を所有したり、貴族たちが誰のものでもないロシアの大地を占有するのは、星を自分の所有物だと言い張っているような、子供じみたばかばかしい行為だ、と。だが星と違って人は地に足つけて生きていかなければならない。だから、誰のものでもなく、皆のものにする、のだったか。
ラキーチンの言うことは美しく理想的だった。身分などなく、生まれに関係なく、すべての人がすべてのものを共有する世界。貴族も召使いもなく、すべてのものが働き、お互いにかしずき合って、得たものを皆に等分に分け与える世界。奇妙なことに、婚姻関係ですら所有の関係にならず、女も男も好きな人間と関係を持つのだという(「カラマーゾフの情欲はここでもお呼びじゃないってわけさ、何せ独占欲の強い奴らだからな!」)。パーヴェルの反応が鈍いのを、ラキーチンは理解できなかったせいだととったらしい。だが、パーヴェルはすべて理解していた。それでいて、ラキーチンの言うすべてがどうでもよかった。理想を抱くことのない人間にとって——夢を見ることのない人間にとって、それはバラの花びらだのオレンジの皮だのでいい香りをつけた水みたいなもので、よく冷やしていれば喉に心地よいけれど、飲み込んでしまえばそれで終わり。心地よいだけで何も残らない。パーヴェルは、そんなものよりも血の味のするもの、大火事のあとに鼻の奥にいつまでも残る煙の臭いのような、粘つく不愉快なもの、そういうものを求めた。
人々が泣き叫ぶもの。絶望するもの。動転して血の涙を流し、膝をついて許しを請い、それでもどうしようもないとわかって呆然とするような、そんなもの。彼の心に深く染み通ったのは、美しい理想郷ではなく、身分も生まれも関係ない世界でもなく、ただこの世をひっくり返すことのできる言葉、この神の作った世を突き刺し、火をつけ、血を流させて、その死体に向かって嘲笑を浴びせるような言葉だった。
つまり、神がいなければ、すべてが許される、ということだった。
パーヴェルは眼鏡を外した。やっぱり少しくらくらした。じきに慣れるだろうし、ばかげたことに、まだ慣れてもいないのに、明日にはもうパーヴェルが眼鏡を作ったことは近隣に知られていることだろう。召使い風情がまた旦那衆の真似事をして、あいつはやっぱりちょっとおかしくなったんだと噂される。だけど、どうでもいい。ここから出てしまえば、どっちだって同じことなんだから……。奇妙なことに、パーヴェルはその考えに、開放感と同時に屈辱を覚えていた。それはごく小さな、本人でさえ気づかないような屈辱だった。どうして自分がまるで逃げるような真似をしなければならないのか、とその屈辱は小さく問うていた。
パーヴェルの顔は赤くなっていたが、周りは真っ暗だったから、誰もそれを見なかった。
翌朝、パーヴェルが目を覚ましたとき、完全な夜明けの前の世界は薄暗く、やっぱりぼやけていた。それが当たり前だったから、眼鏡のこともしばらく忘れて朝の支度をした。洗面器に水を汲み、顔と首筋と手を洗い、最後に口をゆすぐ。水を窓から捨て、鏡を持ってきて、ふと眼鏡の存在を思い出した。日が昇りはじめて明るくなりつつある部屋で、鏡に映る自分の顔はぼやけている。はっきり見えるまで近づくと、今度は近すぎて何が何だかよくわからない。眼鏡をかけてた自分の顔は、どんなふうに見えるのだろうか。
パーヴェルはしばらくじっとしていた。それから急に立ち上がり、昨日届いたばかりの眼鏡を探した。眼鏡は昨日外して机の片隅に置いたままになっていた。それをかけて、鏡の前に立つ。今までぼやけていた自分の顔がいやにくっきり見える。
母親に似ているということはよく言われた。自分が生まれてすぐ死んだ母の顔など、自分のみならず他の人間だって覚えているのか怪しいものだと常々思っていた。だって、もういないのだから、確かめようがない。それなのに、パーヴェルに言われるのはいつも、母親に似ているということばかりだった。不自然なくらいに、皆母親のことしか口にしなかった。
鏡を見る。母親譲りの黒い癖っ毛が額にかかっている。顔色は自分が思っているよりもずっとよかった。だけど肌の色はちょっとくすんで黄みがかっている。真っ黒い瞳が眼鏡の奥から自分を見つめ返す。その目は自分でも少しびっくりするくらいに冷たくて鋭い。何をばかなことをやっているんだ、というように。あるいは、この世を突き刺して、火をつけて、血を流させた後のように。目は誰にも似ていない気がした。見たことのない母親にも、この町の誰にも。パーヴェルはそろそろと瞳を動かす。輪郭を、鼻の尖りを、唇のしわを、顎の線を、視線でなぞる。そうしてその顔が彼の前に見えてくる……………………………………………………………………………………………………………………………
油紙を貼って塞いだ窓から隙間風の音が聞こえる。パーヴェルはひゅうと笛のような風の音が聞こえるたびに顔をあげかけ、思い直したように手元に目を落としたものの、結局立ち上がった。紙を指で窓枠に押しつけ、息を吐きかける。湿った息が冷たい外気のせいで凍りついて紙を窓枠に固定する。部屋の温度が上がればまた溶けてしまうかもしれないが、差し当たってはこれでいい。
パーヴェルは机に戻り、元のように椅子に座った。机の上には本が広げてある。開いたページを縁取るように、黄色い表紙の色が見えている。読むためではなくその上に紙を敷いて書き物をするためだった。パーヴェルの使っている机は古くてでこぼこしていた。クロスを敷くとかえって見えない穴にペン先が引っかかるのが気に入らなくて、反故紙を使うときは、この本を広げてその上で書くことにしていた。それでも時々引っかかるが、机に置くよりはずっと具合がいい。おかげでページには、パーヴェルの書いたフランス語の筆跡が、轍みたいに刻まれている。
……ワーニカはピーテルに行っちゃった……
塞ぎきれない隙間風に乗って、そんな歌が聞こえてきた。おおかた酔っ払った百姓の歌う戯れ歌だろう。パーヴェルはふと、昔、小さい頃に、イワンに農民たちの歌う歌をいくつか教えてやったのを思い出した。うんと小さい頃だ、まだ自分たちの背だって今の半分くらいしかなかった……。そう考えてパーヴェルは不愉快そうに眉根を寄せる。百姓どもの使う、くだらない誇張表現をパーヴェルはまるで汚穢でもついたみたいに嫌っていた。
いわなしって何、おかごをかいてってどういう意味、してんげりってどういうこと、と、幼いイワンはいちいち歌詞の意味を問いただした。召使小屋に打ち捨てられても貴族の子であったイワンにとって、農民の言葉は新奇で耳慣れないものに聞こえたらしい。パーヴェルはそれをいちいち教えてやった。イワンは教えた歌のいくつかを気に入って、アレクセイに歌ってみせたが、いつまでも歌詞を間違って覚えていた。
三ヶ月足らずだった。そうだ、ちょうど夏の盛りから冬の初めの、今くらいの時期まで一緒に暮らした。パーヴェルは、歌を教えたことなんか忘れていたし、イワンもおそらくすっかり忘れていたはずだったが、帰ってきてすぐにコケモモのジャムを出したとき、イワンが「いわなしか」とつぶやいたので思い出した。
パーヴェルは眼鏡を外して脇に置いた。本の上に広げた反故紙は、二、三の単純な文が並んでいるだけであとは白紙だった。今日はどうも集中できない。何せ明日はドミートリイ・フョードロヴィチの、フョードル殺しの裁判があるのだから。
それはドミートリイの裁判だったがパーヴェルの裁判でもあった。心配はいらないはずだった。ドミートリイは自身が無罪になる証拠を何一つ持っておらず、それどころか中途半端に証言をしぶるので、自分の方から余計に疑いを深めていた。ドミートリイの無罪を信じているのは、グルーシェンカとアレクセイの二人だけで、しかもただ本人が殺していないというのだからそうなのだろうという、一途なのか世間知らずなのか分からない理由で無罪を主張していた。世間的にはドミートリイに同情する声もあったものの、誰も彼が無罪になるとは思っていなかった。もしそうなったら小説みたいで面白い、期待があったとしてもその程度だった。
それが、数日前カテリーナ・イワーノヴナがモスクワから呼んだという弁護士の存在で風向きが変わってきた。どうやらこの弁護士はドミートリイの裁判で無罪を勝ち取ろうとしているらしい。ドミートリイが殺人を行なっていないという、つまり他に犯人がいるという証拠はない。どこにもない……誰も証明できない。だが、どうやら、町に行って話を聞いてきたマリアによれば、あの弁護士はそもそもドミートリイが殺人を犯していないということを主張しようとしているのではないという。何か新しくできた、「人道的」なやり方で、その時彼はあまりに無我夢中で無意識だったという、おそろしくばかげた理由を主張しようとしているらしい。ドミートリイ・フョードロヴィチはそのとき極度の興奮状態にあり、いわば魂が抜けてしまったようなもので、その行動には意思がなく、従って責任を問うことはできない、云々、云々。問題は、それがどうやら一つの新しい理論に基づいているということだ。新しい、正当な理由となりうる理論に。
パーヴェルは数日前にやってきたあの弁護士の目つきを思い出していた。すべてを見透かしているような、いやな目つきだった。あなたはどうも、周りの人が言うほど愚かだと私には思えない、とあの弁護士は言った。それどころか、ずっと頭がいい。その言葉に誘われて、余計なことまでしゃべってしまった気がする。ひょっとしたらあの弁護士は、金のありかに関する自分の誘導に気づいているのではないか。あの男は狡猾で用心深く、この世の何も信じていない。自分と同類だから、パーヴェルはそのことをすぐに見てとった。おそらく向こうも同じだろう。イポリート・キリーロヴィチとは大違いだ。
パーヴェルは頭をぶんぶん振った。ここ数週間というもの、パーヴェルはずっとびくびくしどおしで、特にここ数日はろくに眠れていなかった。軽いてんかん発作も何度か起こした。ふとぼんやりして、すぐに意識を取り戻すという、ごく短い発作だ。苛立ちにも似た落ち着かなさをずっと感じていた。そのぼんやりした恐怖が、弁護士の登場で急に形を持った。もし万が一、ドミートリイが無罪放免になったとしたらどうなる? 彼が何を言おうと殺人を犯していないこと自体は誰も信じまい、けれど、彼自身は自分が下手人でないことを知っている。あのしつこさで無罪を主張したら、ひょっとしたらということもありえないわけではない。いや、それよりもドミートリイ自身が裁きにくるのではないか? パーヴェルが机の上で組んだ手がガタガタと震え出した。ここ数日で、パーヴェルの容貌はすっかりやつれていた。起きている間はずっと気が立っていて、少しうとうとすると悪夢を見て飛び起きる。夢の中で、彼は人々に囲まれていた。人々はパーヴェルに向かって鼻をつまみながら罵り、嘲罵を浴びせかけ、汚物をぶつけ、服を剥ぎ取り、鞭打って、頬を殴り、鼻先を殴り、背中も殴り、腕も肩も腹も殴った。同じ場所に爪先やかかとが降ってくる。身体中をつねられて皮膚がぼろぼろになったパーヴェルを、人々は嘲笑いながら家畜の糞尿の混じる泥水の中に押し込んだ。始末の悪いことに、それぞれ個別にやられたことがあり、そのために夢はおそろしいまでにリアルだった。
どうすればいい、裁判の前に逃げてしまうか? いや、証言台に呼び出されているのに逃げてしまっては要らぬ疑いを人々に差し挟むことになる。イワン・フョードロヴィチは一体どうするつもりなのだろうか。
そこでパーヴェルは気づいた。イワン・フョードロヴィチはどうするつもりなのか——というより、イワン・フョードロヴィチは一体誰を犯人として見ているのか。ここ数日、いやここ数週間、ひょっとしたらフョードルの死んだあの晩以来ばらばらになっていた思考が、この瞬間、一点に収束した。イワンは、フョードルを殺したのはドミートリイだと思っている。けれども、ドミートリイは否認している。そして彼の同腹の弟のアレクセイも。自分ははっきりしたことは述べていない。イワンはそこで揺れている。
数日前、カテリーナ・イワーノヴナが来た。そして言うことには、イワン・フョードロヴィチは、犯人はドミートリイではないと言い張って、もしスメルジャコフが犯人なら自分も同罪なんだと言い出した、という。
「お前、何度かあの人と会ったわね。その時に何か吹き込んだの」
「滅相もございません、奥様。私のようなものに何ができましょう。イワン・フョードロヴィチはひどく興奮しておいでなのです。そしてお疲れなのでございます。あの日、屋敷に私一人を残してお発ちになったことをひどく後悔していらっしゃるのでございます……」
カテリーナ・イワーノヴナは傲然と顎をあげてパーヴェルを見下ろした。鋭く怒りに満ちた目で、パーヴェルは自然と自分の体が萎縮するのを感じた。カテリーナはしかし、何も言わず、ふんと息を吐いて横を向いた。
「あの人は病気なの。もしまたここに来ても、何も言わないで追い返しなさい。帰らないようならわたくしをお呼び。いいわね?」
はい、奥様、とパーヴェルは頭を垂れた。衣擦れの音がした。顔を少し上げると、カテリーナ・イワーノヴナの上等のドレスの裾が、パーヴェルの家に入りこんだ砂を掃いて消えるところだった。
イワンはドミートリイが犯人だと考えている。だが、一方でそうではないとも考えている。しかし、どうして迷う必要があるのだろう? どちらにしたって同じことではないか。つまり……どうして犯人がドミートリイだとあんなふうに安心して、自分だと動揺するのか? 今更事の大きさに動揺しているのなら、ドミートリイが殺したのであろうが自分が殺したのであろうが同じことだ。あるいは、無事しおおせたけれども、事の露見を恐れているのであれば……それも同じこと。違うのは、ドミートリイのような貴族と、自分のようなただの召使いの、流刑地での扱いだけ(パーヴェルはここでまたびくりと震えた)。事が成ったことに安心するのなら、殺したのが誰でもやはり同じこと。自分の欲望の薄汚さに動揺することはあるにせよ、誰が殺したのかは重要ではない。
どうして、イワンはあんなふうに揺れるのか?
ドミートリイなのか、自分なのかで、なぜ様子が違って見えるのか?
思考が収束して光が弾ける寸前、誰かがやってきた気配がした。パーヴェルは広げていた本を中の反故紙ごと閉じた。黄色い表紙の本をずるずる押してわきへ退けようとしたが、分厚い本はクロスに引っかかってのろくさとしか動かない。諦めて手を引っこめたときに戸が開いた。
その来訪を、パーヴェルは予感していた。イワン・フョードロヴィチは外套を着込み、頭にかぶった毛皮帽を脱ぎながら部屋に入ってきた。どうやら具合が悪いらしく、顔は今しがた外にいたのを差し引いても土気色になっている。だが、その顔は……どうしても茫々として目鼻だちをとらえきれなかった。ともすると三十も一気に年をとったように見えるし、見慣れた顔のようにも見える。髭を生やしているようにも、そうでないようにも見える。ランプがコートの襟にあたってできた影のせいだ。顎にくさび形の髭をはやしているように見える。眼鏡がないせいだ、とパーヴェルは思った。あれはどこに置いただろう? パーヴェルはイワンを無視してぼんやり机に視線を走らせる。
「本当に病気なんだな?」とイワンは言いよどんだ。「長く時間を取らせないから、コートだって脱がないよ。どこに坐ればいい?」
イワンは椅子を引き寄せ、スメルジャコフの前に腰を下ろした。
最後から2文目のイワンのセリフ・行動の描写は、杉里直人訳『詳注版カラマーゾフの兄弟』887ページから引用しています。
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