誘発されて戦場/もんけま
――――ドボン、ザブン!
水面をつよく叩いた音が背後に続くのを聞いて、留三郎は自分のほかにもうひとりが池へ飛び込んだことを知った。今は瞼をきつく閉じており目視することは叶わないが、きっとおなじように鼻水まみれになった頭をどうにかしようと一直線に池へと走ったのだろう。飛沫が奏でるバシャバシャという喧しい音の合間に、文次郎のヤケクソな雄叫びが聞こえてくる。
顔周りはすっかりべとべとだ。アクシデントでふたり揃って鼻水を頭から被った。それはもう大量に。鼻水はある種の細菌兵器だから、目に入る前に洗い流さなければならない。衣服が濡れるだとか、風邪を引くかもしれないだとか、そんなことを考えるよりも先に体が動いていた。冷えきった深夜の池のなかでふたり、じゃぶじゃぶと水を浴び続けている。
留三郎は文次郎より早く終わらせようと可能な限り手を速く動かした。頭巾を取り、結っていた髪を解き、上半身にべっとりと付いたぬめりけのあるそれをどんどん洗い流していく。貴重な水源を汚したことを保健委員会に怒られるかもしれないが、今はとにかく視界を確保する方が先だった。そしてコイツに勝つ方が先だった。
「けませんぱい、ごめんなさい~!」
ある程度を洗い流し、視界の確保に成功した頃合いになってからようやく、自分を心配する声がすることに気づいた。この状況をつくった元凶――――頭にすっぽりと嵌ったアヒルさん一号の船首飾りを無事に取ることに成功したしんべヱたちが、池の中のふたりを不安そうに見ている。
「いいさ、気にするなしんべヱ! それよりも、アヒルが無事に取れてよかったな。念のため保健室で首周りの状態を診てもらってくるといい」
「ええ、でも平気ですよ? は……っ、は、はくしゅっ! ……くしゃみが、止まらないくらいで」
「いいから行って来るんだ。他のみんなもしんべヱに付き添ってやってくれ。喜三太、胡椒を取ってきてくれてありがとうな。作兵衛は吉野先生への報告を頼む。船首飾りは無事だが、どうやらボートは池の底に沈んでしまったらしいと」
「「っはい!」」
全身ずぶ濡れになった身体に、夜の風は一層厳しく感じる。
あの状況で井戸に走らず、池へ飛び込む選択をしたのは留三郎自身だ。その後始末まで後輩たちを付き合わせるつもりはなかった。なにせこれから濡れた衣類を洗濯し、髪を乾かし、改めて池の状況を調べ報告をせねばならない。床に就けるのは一体いつになることやらである。忍びは眠れるときに眠るべきなのだから、全員での沈んだボート探しは明るくなってからでいい。
委員会の後輩たちが戻っていくのを見届け、留三郎はふたたび池のなかへ頭を突っ込んだ。前髪がどうにも気になってしょうがなかった。触ってみたところ問題はなさそうではあるが、如何せん手が悴んでおりその感覚自体がそもそも信用ならない。うーん、とすこし思案を巡らせてから、まあこれしかないよなあと、相変わらずざばざばと騒がしい水音をさせている方へ声を掛けた。
「なあ文次郎、これちゃんと落ちてるか?」
「――――――ぁあ?」
一間ほど離れたところにある塊がもそりと動き、やや間を置いて、気だるげな声が返された。暗くて姿かたちまでよく見えていなかったが、やはり一緒に池へ飛び込んだのは文次郎だったらしい。
うっすらと見える影から察するに、文次郎は律儀に留三郎の方を向いてくれたようだった。それでもあたりの暗さが邪魔をして、それ以上のことがわからない。「だからこれだよ」と留三郎が続けると、「バカタレ、暗くて見えんわ」という言葉とともに水を掻く音が何度か続いて、ようやく文次郎の顔が見えた。留三郎と同じように頭巾を取り、髪は乱れ、水が滴り落ちている、何ともな有様である。
「――はは! 文次郎、水に濡れてちったぁ男前になったんじゃねえか?」
「ほざけ! 誰のせいでこうなったと思ってる。これだからお前ら用具委員会はヘタレなんだ。無関係の俺を巻き込むな!」
「はあ? さっきのはお前が自分から突っ込んできたんだろうが! どちらかと言えば俺は巻き込まれた側だ!」
「お前がきちんと後輩へ鼻水の管理指導をしないからこうなったと言っとるんだ!」
「鼻水の指導って何だよ!?」
「知るか!」
「はあ!? 何言っ……あーもう、とにかく見てくれよ。暗くて水面じゃ見えなくてな」
六年生たる者、ある程度夜目が利くとはいえ月明りだけでは限度がある。自分から頼んだ手前、幾分か見やすいようにと顔を近づけた留三郎を前に、文次郎はフンと鼻を鳴らした。どうやら見てくれるようだ。まったく律儀な奴である。
前髪に触れる文次郎のその手つきはぎこちない。初めは摘まんだ毛先をいじりながら眺めていたが、それからぺたぺたと、判断できるのかもわからない冷えた指先の感触を頼りに、文次郎の両の手が留三郎の頭の形をなぞっていく。
まるで撫でられているようだ、と思った。やけに長く確認されている気がする。かさついた指がときおり耳を掠めるのがこそばゆく、思わず身じろぎすると、嗜めるように肩を掴まれたので留三郎は努めて耐えることを選んだ。六年生のなかでも群を抜いて短い己の髪で何をそんなに見るものがあるのかはわからないが、普段こんなにも静かにゆっくりと文次郎の顔を見る機会もないので待つ間眺めることにする。相変わらずひどい隈だ。そういえばここ数日委員会で忙しくしていたんだっけか。帳簿上の数字を目で追うときも、きっとこんな風に眉間にしわを寄せて確かめているのだろう。文次郎の真剣そうな顔が面白くて、迂闊にも肩が震えてしまったことは本人にも気づかれているに違いない。
「―――そうだな、大丈夫なんじゃないか? 細かいところまではわからんから、あとは風呂場でどうにかするんだな」
「風呂だあ? ここまで来たらもう水で……」
確認を終えた文次郎の身体がわずかに離れて、夜の空気がふたりの間を流れた。粟立つ肌に、目の前の男が提案した意味を知る。気付かないうちにこんなにも体が冷えていたらしい。
「馬鹿者。だからこそだろう、湯は浴びとけ。たしかに馬鹿は風邪を引かないと言うが、万が一ということもある。それに今は保健委員が全員使い物にならんのだ。これ以上患者を増やすな」
「てめー! 誰が馬鹿だって!?」
「風邪を引かないよう気をつけろと言っとるんだ!」
「んなヘマするかよ! つかお前だって同じだろ。そんなびっしょり濡れ、て、……って、――――――おい。」
不意に冷えた首筋に文次郎の手が触れ、びくりと肩が跳ねた。襟足を後ろへ払い、露わになった肌のうえをその手がゆっくりと滑っていく。
「っ何だよ、」
「そうだ。俺もお前も身体が冷えている」
「それは……そうだが」
「早急に温まる必要があるな」
「だから何だって……おい文次、文次郎。おい……っ、」
留三郎の呼びかけにも応えず、文次郎は無言で胸元あたりを凝視しているようだった。その居心地の悪さから逃れようにも肩をがっちりと押さえ込まれていて、後ずさることも許されない。かさついた手のひらは好き勝手に、だが明確な意図をもって留三郎の肌を撫でていく。
体が震えたのは冷えたせいだ。そうだ、早く湯に浸からなければ。改めて主張を伝えるも、文次郎は応えなかった。朱く染まった耳に触れ、そのまま顎のラインを伝い降り、文次郎の冷えた指先が衿の隙間へと至ったとき、留三郎はその悪戯な手を反射的に掴んでいた。目の前の男が、勝ち誇ったようにふっと笑った気がした。
「お前ほんと…………わかりにくいんだよ、いつも……」
「はっ。馬鹿でも流石に気付くんだな」
「ッ気づかせるような触り方しやがったくせに何言ってやがる!」
「ああそうだ。気付かせたかったからな」
くそ。文次郎の明け透けな物言いに殴りたくなるのを、ぐっと堪える。冷たいはずの手が熱い。というか体中が熱い。掴んでいる文次郎の腕も熱くて、先ほどまで水をかぶり続けて奪われていた体温が急速に戻っていく。
「それで? 風呂とお前の部屋とどっちがいい」
そう言われた途端、顔にもぐわりと熱が集まった。『今は保健委員が全員使い物にならんのだ』――――と、この男はそう言っていなかっただろうか。
はじめからどこまで考えて動いていたのかと、まったく文次郎のくせに、融通の利かない鍛錬馬鹿のくせに、似合わないことしやがって腹が立ってしょうがない。
悩んだ末にちいさく「……風呂」と返したのは文次郎を殴るためだ。体を温め、油断したところでお前を殴る――――そんな留三郎の主張は、塞がれた口のなかで音にならず消えていった。
powered by 小説執筆ツール「arei」