滋味


ズワイが食いてえな、とTETSUは小さな杯を傾けながら言った。
「へえ、TETSUさん蟹好きなんですね。」と譲介は相槌を打つ。多分これが百回目くらいのいつもと同じ会話だ。
出会って早々にこの年上の人に向いた気持ちは、五年経っても一向に冷める気配がない。
気付けばK2は第七シーズンを迎えており、譲介は酒が飲める年になった。
年少者に対して謹厳居士の気味があるこの人から一緒に酒を飲む許可が下りた日、譲介は人生で初めてガッツポーズというものをした。
つまり、もう強面の保護者の隣で破廉恥な酔っ払いやイケメン俳優の卵とお近づきになりたいような有象無象の輩から守られている必要もなく、譲介からこの人を自主的に酒の席に誘ってもいいわけだけれど、外で飲みましょう、とは未だに誘えたことがない。
ひとたび外に出れば、彼が好きな酒を浴び、好きな肴を食べて楽しそうにしているところが見れる。それ自体はいいことだ。ただ、そういう顔は他の人には見せないで欲しいという、子どもっぽい独占欲により、譲介は、今夜もいつものようにTETSUの家に押しかけている。TETSUにとって、譲介はずっと不肖の弟子で、そのうち、不肖の弟子のひとり、ということになるかもしれなかった。
この人のことを誰かと分け合うなんて御免だ、と思っていても、この人の特別になれない限り、譲介は新しい誰かに席を譲ることになるかもしれない。それまでは、出来る限りの時間をふたりで過ごしていたかった。
家で映画を一人で見ていると、どうにも集中出来ないという口実で、ひと月前に借りたベン・ハーを、彼のすぐ隣の席に腰かけ、彼の顔を眺めるついでにぼんやりと見た。話の筋は覚えていない。
身体をほんの少し傾けるだけで肩を借りられるほどの近くにいるのに、触れられもしない拷問のような三時間を経て、冷えて飲み頃になった酒を冷蔵庫から取り出しての酒宴に至った。
肴はナッツのような軽い乾きものから、刺身の盛り合わせに焼いたうるめ。
持参した生ハムのサラダは、これは朝飯だな、と言って、冷蔵庫に仕舞いつけられてしまった。
譲介は、食うか、とTETSUに勧められ、黒作りという、烏賊墨で真っ黒になった塩辛に箸を付けている。
時折、TETSUも自分の箸を向かいから伸ばして、小さな皿から黒作りを持って行く。
箸の持ち方が悪ければ、こちらをぴしゃりと窘めるくせに、TETSUはこういう飲みの時の直箸には妙に寛容だった。
材料が材料なので、イカ墨のパスタの味に似ていなくもない。未知の味でもないので食べているという具合で、勧められるままに黙々と口に運びながら、これを食べた後はキスも出来ないだろうなと譲介は考える。
食べたあとだろうが前だろうが、そんな奇跡が起こる日はまず来ない気もするけれど、今はただ、彼と食事をする機会を有難く享受するだけだ。
「それ、最後まで食えるか?」とTETSUが箸で黒作りを指した。
年上の人は、酒を過ごすと妙に行儀が悪くなる。酒というのは、こんな風に人を無防備にしてしまうらしい。
「食べられなくはないですけど、ご飯が欲しいです。」と譲介が正直に言うと、だろうな、とTETSUは面白そうに笑う。
「冷凍庫に焼きおにぎりがあるから、適当に食べろ。」
勝手に冷凍庫を開けて、勝手に暖めろということだ。譲介は、それが許されるほどにはこの部屋に馴染んでいる。
「TETSUさんは、今日のそれ、どうですか。」
譲介は、瓶から手酌しているTETSUに聞いてみる。
「ん、ああ、まあ悪くねえな。」
TETSUが持つ薄い玻璃のおちょこを満たすのは、譲介が地方ロケに行った先で買って来た辛口の純米酒だ。
大好きな師匠に選ぶ酒をどれにしようか迷っていると譲介が言うと、既に譲介がドラマの撮影に入った頃から「大人」だった人たちは、米どころの酒だからどれを買ってもそれなりに旨いはずと口をそろえて言った。しかも、彼本人は飲めれば何でもいいという口で、ワインも日本酒も果てはウイスキーまで節操がなく、譲介が張り込んで高い酒を買った時だけ、普段飲むならそれなりの値段のやつにしておけと窘めるくらいだ。
ラベルが洒落ていて目を惹くものもある。ビールやワインならそれでもかまわないけれど、こと日本酒という話になれば、TETSUはラベルより中身で選べという世代だ。そんな中、これはどうかと勧めてもらったのがこの筆で書かれたように見えるシンプルなラベルの酒だった。
「それなら良かった。TETSUさんに良さそうだと思って買って来たんです。」と譲介は言って、手元のお猪口を形だけといった体で啜ると、TETSUはガリガリと頭を掻いた。
「おめぇはなあ、味も分かんねぇような酒をオレで試すなよ。大体、ワインの白とかのが酔わねえんだろ。たまには自分の好きな酒も買って来い。」
遠慮するな、と言いながら、TETSUは小鉢に入れたナッツをつまんで口にする。
「TETSUさんの好きな酒が、僕の好きな酒になるかもしれないじゃないですか。……それに、他の酒なら外で飲む時に頼みます。何でも選んでいいというなら、あなたの好きなものがいい。」
「……?」
「好きな人が、好きなお酒で酔ったところを見たいので。」
今しかないというそのタイミングで、譲介はTETSUを見つめて告白をした。
TETSUは眉を上げたが、あっけにとられたような驚きの表情は、直ぐに抑えられた。
「譲介、おめぇ、」
「もう一回言います?」
冗談めかして首を傾げた譲介に、TETSUは、その様子を探るように用心深い視線を寄越した。
それから、すっと立ち上がり、戸棚からいつものマグカップを出して、その中になみなみと酒を注いだ。
「飲め。」とTETSUは席に着きながら、譲介の方へとカップを差し出す。
「あ、はい。」
譲介は、かろうじてそう言って、TETSUが勧めるカップを両手を差し出して受け取る。
受け取って、半分だけ飲んだ。
譲介がそのまま所在なくカップを持っていると、TETSUは譲介の顔が良く見えるように前髪を掻き上げて、「おめぇはなあ、その手の演技が下手過ぎる!」と雷を落とした。
…………だろうなあ。
どの道、譲介には、今の時点では全く勝ち目がない。
大好きな人が、才能の塊としての譲介のことを見ていて、それ以外のカテゴリに入れるつもりもないのは、今の言葉で良く分かった。
「オレを練習台にするなら、もっとマシなシチュエーションを考えて来い。」とTETSUは言って、うるめ鰯をつまんで差し棒の代わりに振っている。
恋愛映画のダイアログなら、あるはずもない言葉だった。
譲介は泣きたいような気持になりながら、TETSUが今夜の肴に齧りつく様子を眺める。
年寄りをからかいやがって、などとぼやいてはいるが、譲介に恋愛的な意味で好かれているとは思ってもいないのだろう。譲介は、中央の白い皿に手を伸ばし、残ったうるめを手に取った。
「これって、このままかぶりつくんですか? 骨は?」と尋ねると、「食えば分かる。噛めば喉には引っかからねえよ。」とTETSUは言った。
食べつけない干し魚は、ゆっくりと噛むと確かに滋味があった。それでも、今の譲介には、塩からいばかりの失恋の味に思える。
この先、きっと何度も、大好きな人と一緒にこの味を噛み締めることになるだろう。
細いうるめをカップに残った酒で流し込むと、譲介は「寝る前に少し、差し入れの分だけ付き合ってください。台本を持ってきてるんです。」と言って、TETSUに微笑みかけた。

powered by 小説執筆ツール「notes」

538 回読まれています