コート


「これ、引換証です。」
譲介が紙片を差し出すと、眼鏡を掛けた初老の男は「真田さん。学生服とコート……。」と言って衣類が吊るされたジャングルに分け入っていく。
「ああ、あったあった。」
独り言ともに男が衣類をかき分けて譲介の求めるものを探し出して来たのはかっきり一分後で、譲介は自分の制服の上下と冬コート、それから、彼のいつものコートという三点を手渡された。
こんな風に並べたところを眺めるとやはり彼と譲介の体格の違いは明らかだった。何を食べればあんな丈夫そうな身体を手に入れられるのかと常々思っていることに加えて、あんな体格でも癌にはなるのだと、彼が不在の間にはすっかり忘れてしまいたいようなことまでふと思い出す。
持って来た青いクリーニング用の袋に仕舞いつけるために、自分の冬用の制服とまとめて生地に厚みのあるコート二枚を畳んでいると、今じゃこんな生地のコートは、街中でも見ないね、と店主が言った。去年買い与えられた譲介のネイビーのコートを言っているわけではないだろう。
張りのある良い生地だ、と眼鏡を傾けて独り言のように呟いているので、譲介はええ、と答えた。
またガキが生意気言いやがってと笑われるだけのことだろうと思うので、本人の前では口にはしないと決めてはいるけれど、年中彼が着ている裏地のない白コートは、若い頃こそ彼の男伊達の生き方の象徴だっただろうけれど、患っている今では自らの健康や生活についての無頓着を表しているように感じられた。
ドクターTETSUという通称が、真田徹郎という名――医者であるという彼個人のアイデンティティから切り離しておきたい過去――を伏せるための呼び名であることは譲介も気付いている。
襟元に付いた名前のタグは、早めに切っておく必要があった。タグの付いたままのコートを彼が着ているところを想像したが、全く溜飲が下がるような気持ちにはならなかった。
次の客が来ないことをいいことに、ここでタグを切って行っても構わないか、と男に尋ね、一旦はクリーニング用の大袋に入れたコートを取り出し、糸切鋏を借りてここで処理をすることにした。
普段仕舞いつけにしているグレーのダスターコートを着た彼は、似合いませんね、と胡乱な目をする譲介に、着古したようなコートの方が都合がいいんだよ、と笑っていたが、やはり普段の白に比べると妙に浮いてみえた。
こうして持ち主から離れたコートだけをただ眺めていると、やはり彼のコートはこれでないと、と譲介は思い、一年にも満たない時間を過ごしただけで彼を知った気になってあれこれと考えている自分がおかしかった。



外出から戻って来た彼は、帰宅するなり譲介が吊るして置いたコートに気付いた。
おめぇが取って来たのか、と尋ね、彼の帰宅を潮に、リビングのテーブルに置いていた勉強道具を片付け始めていた譲介の方を見た。
分かっていた。
引き取り証を取り付けて置いておいた場所からして、掃除の業者に頼むつもりがあったのだろう。
僕のコートと制服も出していたので、とビニール袋から出したばかりの冬服の上下を指さすと、彼はまあいい、と流しで手を洗って、コーヒーサーバーに残ったコーヒーを流しの横で飲んでいる。
同居を始めた頃は、今のような帰宅して手を洗うという一連の行為が、彼の強面の成人男性という属性にはそぐわない気がしたが、そもそもの暮らしが酒にも煙草にも縁遠い様子で、彼が考える医者としての在り様には、そうした日常のルーティンや些事が含まれていることは自明だった。
外からどう見られようが構わないという性質か、あるいは彼が師とする過去の人間がそうだったということなのだろうか。最近では違和感を感じることもなくなった。
コーヒーを啜りながら、クリーニング屋の店主はどうだった、と彼は尋ねる。
どうって、別に。
譲介がそう答えると、おめぇから見て元気に見えりゃまあいい、と言って頭を掻いた。
点滴はいつから始めますか、と譲介が聞くと、いつでもいい、と彼は答えて、ソファに腰を下ろした。
いつでもいい、と言いながらシャワーを浴びに行き身体についた埃を落とすのが調子のいい日で、先にソファに行くのは、彼が疲れている日のサインだった。
譲介は彼がどっかりとソファに腰を落ち着けているのを見て、まず点滴スタンドを準備し、注射針や駆血帯といった一式が入った箱を取って来る。本来ならダブルチェックが必要なところを患者本人が行いダメ出しをするのだ。準備を完璧に出来るようにしろ、オレがルート確保や穿刺の出来をどうこう言うのはそれからだ、と何度も言われた。一冊目のノートには、彼が言うところの『正しい準備』を叩き込まれた跡があり、毎夜の準備に繰り返し見返したそのページは、折り目や指の跡が付いている。
手術の用具。
用具出しの順番と、そのシチュエーション。
ホンバンはそれからの話だ。穿刺が始まってから投与する薬剤が違っていた、なんてことになってみろ、下手すりゃ死ぬぞ、と彼は言う。
その知識は、医師だけでなく看護師の領域に関わるものではないかと思わないでもなかったが、彼が、持ちうるだけの知識を、その技術ごと僕に与えようとしていることは分かっているので反論は出来なかった。
時折考える。自分以外の人間のことなど考える余裕もなく、ナイフで人を傷つけるような人生を歩んできた僕が、普通の学生のような、医者の卵のような顔をして、あなた以外の人を診て、その人の先の人生について考えながら注射針を打ったりする日が来ると、この人は本当に思っているのだろうかと。
愚にも付かない考えだが、今でも、ドクターTETSU以外の人間のほとんどは、譲介にとっては、役立たずの取るに足らない存在でしかない。ただ大学に入って医師免許を取ったところで、自身の歪んだ性質がすぐに変わるとは思えなかった。


薬剤のボトルをスタンドにセットし、彼の前に膝をついて駆血帯を締めながら、ふと思いついて、あのコート、いつまで着るつもりなんですか、と譲介が問い掛ける。
もうすぐ夏が来る。毎年、真夏にもあんな長いコートを着ているのか、と聞いたつもりだった譲介に、彼はふと、何かを考えるような顔つきになって、カーテンの引いてない窓から見える夜景を見つめた。
その間に、皮膚と静脈を穿刺してしまおうか、と思うが、譲介は彼の答えを待った。
そうさな、オレが白髪頭になるほど年食ったところで、死ぬまで着てるだろうよ。
彼はいつものようには譲介の顔を見ずに、外の宵闇に向かって話した。
気に入ったなら、いつかはお前に譲ってやってもいい。
おめぇには、オレの名はいらねえだろうからな。
そう言って、何かを思い出したような顔で、彼はおかしそうに笑った。

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