ポーラータングに出る霊は。




 女の啜り泣く声が聞こえる、ともっぱらの噂だった。

「あ? 幽霊?」
 床を磨いていたデッキブラシを止めてペンギンが尻上がりに高い声を出した。その声音には隠しきれていない『バカじゃねェのか』が多分に含まれている。ペンギンの持つデッキブラシが通った後を乾いた雑巾で拭いていたシャチは、超がつく現実主義の相棒が二の句として「くだらねェこと言ってねぇで仕事しろ」という言葉を舌に乗せてくる前に「日誌読んでねぇのか」と続けた。
 放浪癖のある船長を頭に据えているハートでは、いつの頃からか日替わりの日誌担当が決まっている。他クルーが書いたものを一クルーが読む必要はない(必須なのは、前日のクルーからの申し送りぐらいだ)が、潜水中の船の中では娯楽が少ないこともあって、業務遂行上に必要がなくとも自分のところに日誌がまわってきたら、他クルーが書いたものを読むのが常だった。
 特に船長不在の今、ペンギンは日誌を読んでいるだろうと思っての言葉だったが、言われたペンギンはデッキブラシの柄の先に顎を乗せて、ふぅん、と鼻を鳴らしてから考えるように宙を見た。
「ざっとしか読んでねぇから見落としてる可能性があるな。なに、最近船の中に幽霊が出てますとでも書いてあんの」
「そんなこと書いてあったらもう少し騒ぎになってるだろうが。違ぇよ、おかしな音が聞こえるって何人かが書いてる。最新のところではハクガンが異音を聞いたってよ」
「へぇ異音。どんな」
「曰く、女の啜り泣く声」
 聞いた瞬間、イカレてんなァ、という顔をペンギンが見せた。
「異音って書いてんだったら、せめて女の啜り泣く音って言ってくれ」
「細かいところを気にするねぇ君も。音でも声でもおれはどっちでもいいけどよ、気にならねぇか」
 聞くと、ペンギンはしばらく黙ったのち、なるね、と返した。ペンギンの瞳に力が入る。思考がカチリと切り替わる。だが焚き付けた当人であるシャチは、濡れた雑巾をバケツの中へと放り込みながら立ち上がり、ニヤついた顔で聞いた。
「無機物に霊がつくなんて話、ペンギンさんが信じるとは思えないんだけども。おれの話を聞く気になった理由は?」
「ハクガンが書いてるってとこだな。あいつはそういう類の冗談は言わないし、不確定なことを日誌にも書かない」
 そうなると正体はさておき、音だか声だかは確かに聞こえたことになる。
「確かに。おれは書くかもしれねェけどな」
「ハハハ。笑えねぇわ」
 ぶん、と空気を切って飛んできたデッキブラシを受け取る。掃除の間、つばを除けていた帽子を回転させていつもの位置へと戻すと、ペンギンがシャチへと聞いた。
「ハクガンは今どこの担当?」
「機関室」
 答えたときにはもうペンギンはシャチに背を向けていた。本日の清掃担当区域であるの一つであるリネン室の壁にデッキブラシを立てかけ、足でバケツを端に寄せてからシャチはペンギンの後を追った。
 潜水中の潜水艦というものは、どれだけ慣れ親しんでもどこか息苦しい。分厚い壁一枚を挟んで、四方を水で囲まれている状況というのは、艦内の空気圧が正常であろうとなかろうと、中にいる人間のストレスになり得る。ゆえに、ハートでは定期的に浮上してクルーのストレスを軽減することになっているのだが、ここ新世界では理想ばかりを言ってもいられない。海域によっては必然的に長期潜水になることもあった。特に現在のように、船長であるローが不在のときは、よほどの緊急時でない限りは潜水していることが多い。それはひとえに主力であるローがいない間のクルーの生存率を上げる苦肉の策でもあり、さらにはそのローが帰還したときに、帰還先がないなどという事態だけは絶対に避けなけばならないからでもあった。
 ポケットに手を突っ込んで大股で歩いていくペンギンと、その後ろを鼻歌を歌いながらついていくシャチという組み合わせが艦内を移動していると、行く先々で声がかかる。
「備蓄食料残り二週間だよ〜。そろそろどこかの島に寄った方がいいんじゃない」
「ベポに言え」
 すげなく答えた数十歩先で、階段下にある狭い資料室の分厚いドアをガン、と握った拳で叩く。
「ベポ! 食料が底をつく前に周辺の島で上陸できそうなところがないか確認しとけ!」
「アイアーイ」
「あ、ニコイチが歩いてる。なぁキャプテンいつ帰ってくんの?」
「おれが一番知りてぇわ」
 違ぇねぇ、と聞いたクリオネが爆笑する。そんなクリオネにシャチが中指を立てたときには、先を歩くペンギンが機関室のドアを開けたところだった。滑り込むようにしてシャチも続く。
 よぅ、という声に床に座っていたハクガンが肩越しに振り返った。
「お? お揃いでどうした」
「お前から女の話を聞きたくてよ」
「女? おれァ最近とんとご無沙汰でお前らにご披露するような自慢話はねぇけど」
「そっちじゃねぇ。啜り泣く方の女だ」
 端的なペンギンの言葉に、ハクガンが持っていた工具を床に下ろした。そしてペンギンの後ろに立つシャチの顔が見える位置まで身体を傾けた。仮面で隠されて見えないものの、長年の付き合いでハクガンがどういう表情をしているかが想像できる。話が早いねぇ、とでも言いたげなニヤけたツラだ。ヘラヘラ笑うシャチの前で、ペンギンが前略で主題に切り込んだ。
「どこから聞こえた」
「おれが聞いたのは通路天井」
「『おれが』ってことは他でも聞いたやつがいるのか。どこだ」
「ミーティングルーム。ジャンバールが聞いてる」
 ペンギンがシャチを振り返った。顔を見合わせる。動いてやがる、とペンギンが呟く。案外海の中はうるさい。空耳かと思って気にしなかったクルーがいるかもしれないことを思うと、回数はもっと多いかもしれない。
「具体的にどんな音なんだよ」とシャチ。
「ほんと泣いてる女みたいな、高音域の掠れた音。冗談抜きで最初女が泣いてるのかと思ってビビったぜ。この船には泣くような女はいねぇから、前の島で女を連れ込んだバカがいたんじゃねぇかと思ったぐらいで」
「イッカクに殺されろ」
「泣く女だと思われてる方が殺されると思うが」
 イッカクがどう思われていたいかはさておいて、だ。ペンギンは腕を組んで壁に片腕を預けた。
「…動いてるってのが気になるな」
「女が目当ての誰かを探してるのかもしれねぇぞ」
「誰かって誰だよ」
「今この船に乗ってねぇ男、とか?」
「うわァこいつ笑えねぇことを言いやがる。キャプテンしかいねぇじゃん」
 ハートのキャプテンことトラファルガー・ローは、見目もあって男女問わずよくモテた。この話の何が一番笑えないかというと、ロー本人に全くその気がないところだった。子どもの頃からローを知っているクルーの一人としては、あれだけ立派に成人したからには派手な浮き名の一つや二つ流してもらって、そういう意味でも世間を騒がせてくれて構わないのだが、ローの品行方正っぷりたるや海賊とは程遠い。年相応に適度に遊び、適度に発散し、拗らせもせずに関係を終わらせてくる。その様たるや、付け入る隙がない。
 だとすると、船を騒がせている『女の霊』がどこぞの島でローが泣かせてきた不始末である可能性は、ほぼないことになる。身内の贔屓と罵られようが構わない、己がこいつと定めた船長だ、何をしてもさぞ粋だろうと思うのだが、古参の船員の思いなどローは知る由もない。
 シャチは知らずボヤいた。
「男でも女でもいいけどよ、おれはローさんによその誰かを泣かせてくるような甲斐性を持って欲しいんだよなぁ」
「それ甲斐性って言うのかよ」
「じゃあ不実を貫く器用さ」
「不実は器用とは言わなくねぇか」
「揉めるな。で、ペンギン。おれに話を聞きにきたってことは、気のせいで終わらせるつもりはねぇってことでいいのか」
 ハクガンが割って入ってくる。シャチはサングラスの中から相棒を見遣る。相棒は即座に答えた。
「霊なんていう不確かなもんがキャプテンのいねぇ船の中をウロつかれてちゃ困るんだよ。まずは日誌と航路を突き合わせて規則性を探す」
「本当に霊だったら?」
 そんなもん、と言いかけたペンギンの言葉をシャチが引き取った。
「瓶詰めにでもして帰ってきたローさんに披露したあとヒューマンショップで売り捌く」
「高く売れりゃいいなァ!」
 と返したハクガンが仮面の中でヒャハハと笑った。

 深い海の中に住んでいると、日中の差がわからなくなることがままあった。絶え間ない海流の低音、魚群探知のために放たれるソナー音、加えてポーラータング号が鳴く唸り声。今ここに他船のクルーを連れてきたら、まずこれらの膨大な音の処理に閉口するだろう。
 大型の海王類が遥か彼方を通るだけで、うねりは海中を伝って船へと到達する。小さな船は海の中を蛇行する。床が不規則に揺れる艦内を、シャチはよろけもせずに歩き寝床へと到達した。
 三交代の輪番で眠るため、ここには三分の一はここに寝ていることになるが、薄暗い部屋の中にはどう見ても数が足らない。眠るウニの頭上をブーツの先で蹴る。
「ぺンギンどこ行った?」
「あぁ〜? 知らねぇよ…、あぁ、ベポとどっか…」
 行ったんじゃ、と力なく続ける言葉が寝息と重なる。そのままスゥと寝入ったウニを上から眺めて、踵を返した。人気のない通路を歩く。『おれが聞いたのは通路天井』というハクガンの言葉がふいに思い出された。足を止めて天井を見上げる。
 ゴゥンゴゥン、という鈍い低音が静まり返った通路に通奏低音のように響いている。コォン、とソナー音が一発鳴った。周辺海域に反響する音を拾うように、極限まで耳を澄ませる。暗闇が水圧と混ざり合ってペンギンの周囲にまとわりつく。呼吸を止めて数十秒。女の啜り泣く声は聞こえなかった。
 探していた男は、なぜか無人のはずの船長室にいた。暗い廊下に細く明かりが漏れている。入る前にコン、と薄く開いたドアを叩くと、ペンギンとベポが顔だけをこちらに向けた。
「勝手に触るとキャプテンに怒られるぞ」
「ちっげぇよ。さっきキャプテンからの暗号通信が入った」
「おっほ。やっと帰ってくる気になったって?」
「このまま夜更けに緊急浮上。次の島で合流する」
 繋いでいたらしい電伝虫を定位置へと片付けながらペンギンが言った。ベポはキャプテンが帰ってくる、と嬉しそうに笑っている。この嬉しそうなツラを、ローは永劫見られない。この顔を見るたび、ざまぁみやがれ、と意地の悪い感情が生まれる。
「女の泣き声の件、キャプテンに報告したのか?」
 言うと、ベポが首を傾げた。
「なんのはなし?」
「少し前、お前に航路確認してもらっただろ、その件だよ」
 即座に答えたペンギンの声音は常と変わらなかったが、耳ざとい相棒は騙せなかったらしい。シャチは高速で移動してくると、全体重を寄りかからせながらペンギンの肩へと顎を乗せた。帽子の耳当てに隠れた耳へと低音で囁く。
「おいおい相棒。何隠してんだよ」
「おまえは察しがいいねぇ! 寝ろ!」
「えー! ペンギン隠し事してんの!? よくないよ」
「してねぇよ。キャプテンに報告してッ、オイ! 首絞めんな!」
「つれねぇこと言う、な、よっ!」
「やめろォ!」
 叫ぶペンギンの首を二の腕で絞めあげながら、シャチの意識はもはや女の声の話をほとんど忘れていた。顔が緩むのが止められない。久しぶりの浮上と、キャプテンの帰還。この二つに敵う宝がそうあるとも思えないとびきりの朗報だった。
 この数時間後、ポーラータング号は三週間の潜水を終えて海上へと顔を出した。

***

 カタン、という音に顔を上げると、窓から射し込む月光を背負った人影が一つ、部屋の端に座っていた。肩から伸びる長い影が一本。愛刀を肩にかけたローがそこにいた。
 ペンギンは驚いた顔もせず、静かに佇むローへと聞いた。どこか、帰ってきている気がしていたからだ。
「おかえりなさい。いつ戻ったんです」
「半刻前。能力の範囲内だったから飛んできた。留守の間、何か変わったことは」
 聞くローの手元に航海日誌があるのを目に止める。ペンギンはそのまま部屋の中を歩き、ダイニングテーブルの端に腰をかけるローの傍らへと立った。伏せた目の先に、留守にしていた間の仔細が書かれた日誌がある。腿の上でそれを開き、文字の一つひとつをローはていねいに読む。
「次の島で整備に出した方が良さそうです」
「…船か」
「女が啜り泣く声がすると専らの噂です」
 ふぅん、とローが返す。ページを捲る手が件の報告へといきついたのか、これか、と呟いている。異音の一文字でペンギンの言葉の意図を把握する、さすがの理解力だった。
 おそらく複数箇所で傷みが発生している。海流の関係でその箇所に負荷がかかると、女が泣いたような高音域の異音が鳴る。唯一無二の潜水艦だ、壊れてからでは遅い。船中を見て回った所感を述べたあと、ついでのように言った。
「あるいは、そろそろ本職の整備士をスカウトするかですね」
「あんまりそそられねぇ提案だな」
「じゃあ整備だ。海戦で砲撃の直撃を受ける前に直さないと致命傷になる」
 金がかかるな、とローが呟く。啜り泣きてぇのはおれの方だ、と静かに続けたので、ペンギンははっ、と我慢せずに吹き出した。パタンと日誌を閉じる。ローが窓の外へと目を遣った。その横顔を眺める。どこへ行ってきたんですか。どこの誰と会って、何をしてきたんですか。あんたが彷徨う傍らにおれらはいなくていいんですか。ペポがあんたのいない夜にどれだけ寂しそうにしているか知ってるんですか。何度も口にしてやりたかった言葉が今日もまた脳を過ったが、ペンギンはそのどれもを口にしなかった。おそらくこれからも口にすることはないだろう。それはローのためというよりかは、ペンギンの矜持の問題だった。言ってやるもんかよ、という意地でもある。
 代わりに聞いた。
「なんで帰ってくる気になったんですか」
「あ? やってねぇのか」
「なにを」
「誕生日祝い」
 誰の? と聞こうとして思い出した。そうか、自分のか、と納得する。
「…してねぇですね」
「しろよ」
「しねぇでしょ。おれのこといくつだと思ってんすか」
「シャチのは?」
「してねぇって。知ってます? あいつも大概ジジイだよ」
 呆れたように言うと、ローは唐突に破顔した。綺麗に並んだ歯が見える。何がそんなに可笑しいのか、そのまま肩を揺らして笑っているのを眺めていると、ようやく笑いをおさめたローがポケットへと手を入れた。何かを取り出し、握ったそれをペンギンへと出し出してくる。
「なんすか」
「この流れで誕生日プレゼント以外のものが出てくると思うか?」
「遅刻してんだよなぁ。おれのにもシャチのにも…」
 離れた二人の誕生日の当日を丸々避けるように船を離れていたくせに、と思わないでもない。顔を顰めて言ってローの握ったものを受け取る。鍵が一つ、手の中に落ちた。
「次の島に置いてきた宝箱の鍵だ。シャチと分けろ」
「記念コインしか入ってない宝箱だったら一発殴っていいですか」
「ハッハ!」
「いや、否定しろ」
 ハハハ、とローが笑う。いやマジで否定しろって、とペンギンが言う。気安いやりとりをする二人の向こう側で、水平線と空の境界が広がっている。やがて月光が海の底へと落ち、代わりに海の中から朝日が昇る。ポーラータングに出るという女の霊は、キャプテンの帰還と同時に消えそうだった。ローとはそういう男だったし、ハート海賊団とはそういう集団だった。
 笑うローの横顔に昇ったばかりの陽が緩やかに射す。ポーラータングに久方ぶりの朝がくる。

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