アイスキャンディー
まさかこの年でこうしてアイスキャンディーを買う羽目になるとは思わなかった。
「アイスキャンディー、何味にしようかな~。」
自分の分とは違うけど、迷うふりくらいならしてもいいんとちがうやろか。
「リンゴにメロンにパイナップル、グレープなんでもありまっせ。」
そうそう、ひんやり冷たいアイスキャンディー、いつも夏になって家の冷凍庫開けたら入ってたな。おばあちゃんはリンゴ味が好きで、正平と私はグレープの取り合い、お父ちゃんとおじちゃんはあるもの手前から取ってくみたいで、お母ちゃんは……お母ちゃん、いつ食べてたんやろか。
「どれも美味しい。お姉ちゃんが好きなの選んだらよろしい。」と言いながら、アイスキャンディー屋さんは麦わら帽子の下の額の汗を首に巻いた手ぬぐいで拭ってる。手ぬぐいはNTT西日本、て書いてある豆絞りの柄やった。
こんな中にリヤカーみたいなの引っ張って歩くの、ホントに暑いだろうなあ。
今日二十八度まで上がる、て言うてたもんなあ。
川から来る風もあるけど、この辺になるとそんなに近くもないし、梅雨のざあざあ振りの時期に比べたらまだマシと言っても、夜は寝苦しい。
昨日は真夜中に起きて台所に水飲みに行ったら、お酒飲んでた師匠とかちあって、この温度なら毎晩冷奴でもええで、て思ってたけどやっぱり腹減るな、そうですねえ、って……。
「……お姉ちゃん決まらんなら、一旦この蓋閉めるで。」
「あ、一本いくらです?」
「二百五十円。」と答えが返って来たところで、縁側に座って日陰で涼んでる四草兄さんから「言われた最初のでええから早く買って来い!」と返事が帰って来て、はいい、と慌てて丸い小銭入れからお金を出した。
この暑い中、帽子被って汗流しながら三輪車を引いて売ってるアイスキャンディー屋さん、いつもええなあ、と思って見てたけどこの年になって、自分で買おうと思ったことなんてなくて、しかも買ったら案外高いんや。
「はい、アイスキャンディー、リンゴ味。次はお嬢ちゃん、自分の好きな分も買って頂戴ね。」と言ってアイスキャンディー屋さんは屋台とも言えない車を引いて行ってしもた。
あ、二百五十円払ったら、中に二十円しか残らん。
……お金、下ろして来ないと。
小銭入れから出て行くのはお母ちゃんから渡された通帳に入ってるお金で、あんたが短大入った時に学費にしよと貯めておいた分から、月々いくらか入れていくから下宿代と食費の足しにしなさい、と言われてたものだった。今も買い物に行ったついでにこないしてジュース買ったり、銭湯に行くときのお金なんかの支払いに充てさせてもらってる。
うちにお金がない、ってことにずっと実感が沸かないままやったんも、あのお金が通帳に月々入ってたからで、この他にも正平が大学行くお金を貯めてた、言うんやから、お母ちゃんの『やりくりがしんどい』ていうのがどのくらいしんどいのか分かるような気ぃがしてるけど……先のことは、今は何も考えられへん。
「アイスキャンディー、買ってきました!」と意気揚々と日差しのキツい表から引き揚げて来ると、四草兄さんも暑さでぼんやりしてるみたいだった。
まさか、何か悩んではるとかやろうか……。
四草兄さんに限って、とは思うけど、誰がどんな悩みを持ってるかなんて、見て分かるもんと違うし。
「はよ寄越せ、溶けてまう。」
その時頭に浮かんだ考えは、ぱっと消えてしまった。
そんでそんで、草々兄さんにきく方法って何ですか、と意気込んでアイスキャンディー食べてる四草兄さんに尋ねてみると、それが「次の寝床寄席に出て落語に励んでるとこを見せたらいい」という至極単純な解決策が出てきて、ほんとに目から鱗だった。
「なんで自分で考え付かんかったんやろ……。」
「お前がまともなこと考えられるような状態にないからやろ。」
アイスキャンディーを食べ終わった四草兄さんは、つまらなさそうな顔をして言った。
「そうですねえ。二百五十円損した、とかちらっと考えましたけど、自分で自分にちゃんとアドバイスが出来るんなら、そもそもこないして四草兄さんに頼ることもないし。」とそこまで言うと、四草兄さんが何言ってんねんコイツ、という顔をしてこっちを見ていた。
「若狭、お前、ほんとに口軽いな。」
「えっ? なんかおかしなこと言いました?」
あれ?
「僕が他の誰かの前で同じように言ったら、小草若兄さんから首をこないにされるで。」とヘッドロックの要領で腕を動かした。
ひえ~~~~。
な、何があかんかったんやろ、と思うより、四草兄さんの苦々しい顔つきの方が強烈やった。
「あの……あれってほんまに苦しいんですか?」
「まあ、小草若兄さんがアレやるときは酔ってる時もあるし、普段かて大して力加減も出来てないからな。」
そうなんや………毎回大変そうとは思ってたけど、四草兄さんって、苦しい時も普段と顔あんまり変わらんから気が付いてなかった。
「まあビビらんかて、お前にはせえへんやろ。」
「なんでですか?」
「そら、……まあ、お前がオレと違って落ち込みやすいからやろ。」
「……そうですねえ。」
そういえば、この間草原兄さんにも「オレやって緑と結婚する前はよう師匠にからかわれたり叱られたりしてたけど、あの時にはもう内弟子修行は終わってたからな。お前は修行中の身ぃや、ちゃんと自制せんとあかんで。」って言われたけど、ちょっとも自制出来てない。
セミはじいじい鳴いてるし、外は暑い。
「天災、頑張りますから、四草兄さんこれからよろしくお願いします!」
「まあ頑張れ。」
「……って、そんな他人事みたいに。」
「稽古を頑張るのはお前で、落語の出来の良し悪しを見るのは師匠と草原兄さんや。後はひとりで黙々と稽古するしかない。最後には噛んでまうような落語でも、続けてたら見えて来るもんもある、って草原兄さんが言うてたで。」
バイトあるから帰る、と四草兄さんは古米に寄って来た雀みたいにさっさと立っていってしまった。
草原兄さん本人から聞いたんなら、最初の一言は言ってへんような気ぃもするけど、というのは口にチャックして言わんことにした。
最後のもアイスキャンディーのアドバイス料のうちなんやろか。
「……昔っから、四草兄さんて、好きなものがはっきり決まってましたよね。きつねうどんに、アイスキャンディーに、算段の平兵衛。したくないことは、師匠からキツく𠮟られでもしない限りは絶対にせえへんし。」
喜代美ちゃんは、絶対、のところを妙にタメて言った。
まあ相手はあの四草で、そらまあそうやろとは思う。
クーラーが掛かってて涼しい喫茶店は、オレがオヤジの名前を襲名してバタバタと過ごしている間に、磯七さんの床屋の近くにぽこっと出来た店で、出来た当初こそちょっと列が出来るような店だったらしいけど、今はすっかり落ち着いていて、久しぶりに寝床に出てきてさあ帰ろかな、て時に喜代美ちゃんと一時間ほど話をするのにはちょうど良かった。
甘酸っぱいガラスの十代の頃には、女の子とのデートの時に格好付けてアイスコーヒーとか頼んでたオレも、すっかりこないに素朴な味の寒天が旨いように感じる年になったっちゅうわけや。
喜代美ちゃんはクリームフルーツみつ豆で、上にアイスやらようけ乗ってて、黄色い干しアンズも増量中や。
旨そうやけど、帰ったらメシも食わんとあかんからなあ。
「……そのアイスキャンディーて、あいつに奢らされたんか?」
「そうなんです。相談料や、て言って、まんまと二百五十円の高いアイスキャンディーを。」
「それ値段まで覚えてるんか。」
しかも二百五十円て。
まあスーパーで真っ赤なかき氷の入ったアイスが八十円、箱に入ったアイスが三百円とかそういう時代なら高いっちゃあ高いわな。そのうえ、内弟子修行中なら尚更。
「逆に言うと値段しか覚えてないですけど。あの時私が四草兄さんに選んだアイスキャンディーの味も、アイスキャンディー売りのおじさんの顔も、わたしがあの日に着てた服も、今こないして思い出そうとしても、すっかり全部忘れてて、そっちの方がショックですよ。」
「そらまあ、ほとんど二十年前のことやからやろ。」と言ってオレはみつ豆を食べた。
寒天に掛かった黒蜜が旨い。
「草々兄さんにプロポーズされたときのことはまだ覚えてるんですけどねぇ。」
なんや、今日は喜代美ちゃんの惚気の会かいな。最後に残しておいたさくらんぼの茎を持って口に入れようとしているタイミングで、話戻しますけど、と喜代美ちゃんは言った。
「四草兄さんて、草若兄さんのこと凄く大事に思っとんなりますよね。」
「……ええ?」
オレは驚き過ぎてさくらんぼをテーブルに落としてしまった。
四草が意地汚いちゅう話からなんでオレの話?
戻ってへんていうかブーメランていうか。
オレのさくらんぼ……。
「……大事なんはオレとちゃうやろ。」
「そうかて、草若兄さんが『あいつは草若て名前が付くもんならなんでもいいんとちゃうか、』なんていうから。」
「……いや、そうは言うたけど……それは言葉のあや、てもんで。」
「名前付いてるだけでいいなら、福助に草若の名前付けたってええやないですか。」
「いや、さすがに福助はないやろ。」
「これまで何遍も言ってますけど、草若兄さんがおれへんようになったとき、皆そないなってましたもん。草原兄さんやったら納得する、言うてんのに、肝腎の草原兄さんは草々兄さんが継げ、言うて、小草々くんは私でええんやないか、て。私が草若やったら、四草兄さん、私のことどついて、師匠の写真の前で破門にしてくださいて言うて、今頃は大間でマグロ漁船にでも乗ってますよ。」
いや、そのマグロ漁船て、どこから出てきたんや喜代美ちゃん……。
「とにかく、帰ったら四草兄さんとよーーーく話合ってくださいね。」
今日は私がここ持ちますでえ、と言ってレジに行った喜代美ちゃんは、日暮亭の名前で領収書切ってください、と笑っている。
おかみさんの貫禄やなあ……と思いながら、オレは冷凍庫に入っていたレモンシャーベットを勝手に食べられて不機嫌そうな顔をしてた今朝の四草の顔を思い出して、大きな大きなため息を吐いた。
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