ずっと君と旅をしたかった
「そういえば最近折大に行ってない」と穹はふと零した。
ついさっきまで寝起きの、まだ覚醒して間もない少しぼんやりとした顔をしていたのに、シャワーを浴びてはっきりと目が覚めたようだ。丹恒は、急に何を言いだすんだ、と訝し気な表情をする。
「それはそうだろう。インターン先にそのまま向かっているからな」
「いつも一コマ目は遅刻しかけるし、授業は眠いし、実習はめんどくさいし、教授は口うるさいけど、離れるとちょっと寂しい気もする……?」
「ホテルの最上階で遊んでいる方がいいんじゃなかったのか」
「あれはね、非日常だから楽しいのだ、丹恒くんよ。普段体験できないよ~なセレブリティな生活だからはしゃげるの! 慣れたら『こんなもんか~』になるだろ!」
金持ちのセレブや王族・御曹司達が庶民の生活に興味を示すのも同じような心理なのかもしれない。人は安心したい一方で、常に刺激を求めたがる。どんなに日常を安定して暮らしている人でも、そこにチャンスがあるのなら、少し非日常に賽を振りたくなるものだ。そういう者ばかりではないと思うが、と丹恒が突っ込んできたが、穹は聞く耳を持たず右から左に流す。
「というわけで、今日は折り大に行こうと思う!」
「……俺たちの夢境は待機の対象範囲外だぞ」
「それはそう。けどさ、考えてもみろ。インターンがはじまってからもう数日経つのに、俺たち、『接待よろ~』ってミーシャに全部世話も案内も投げて、ずーっとほっとかれてるんだぞ!?」
「そこまで軽い調子ではないと思うが……」
「けど、要するにそういうことだろ?」
本来の目的は、既にドリームメーカーとして働いているOBやOGから実地研修でドリームメイクを学ぶこと。
だが、ここ数日、自分たちの担当は顔すら見せず、夢境の修繕に奔走しているのだ。修理を手伝うのは兎も角、他の学生とは異なる状況に置かれているのは確かだろう。まあ、下手なゲストよりタダで色々と享受していることだし、待遇に文句はないのだが。
「お前の言う事にも、確かに……一理ある」
「だろ? まあ、ドリームメーカーにならないとしてもさ、中途半端なのは良くないと思う!」
「いつもサボってるやつが一体どの口で……」
「それはそれ、これはこれ。それに、先生も言ってたじゃん。指導先が合わないとか、不都合があったら大学に言えって! まだ会ってすらいないけど、何も教えてもらってないのは、もう十分合わないってことにならないか?」
「……まあ、指導不足も理由としては妥当か。だが、指導者を変えてもらうということは、つまり課題が増えるということだが。いいのか?」
「やっぱりいつも通り車輪の刻に出勤しよう」
「…………はあ」
そんなことだろうと思った、と丹恒は静かに息を吐いた。
生徒の自主性や創造性を重んじる大学で放置されているということは、つまり好き勝手に判断してもいいということなのだろうが、このままインターンを終えるにはさすがに収穫が無さ過ぎる。現場は修復作業を行っているところだし、ドリームメイク技術と、修復技術はまた別だ。作るのは好きだが、直すのはあるものを復元するだけなので少しつまらない。アレンジを加えると、やり直し、と怒られることもある。つまり課題が崩れた憶質の修理だというのなら、正直それは遠慮したい。はーあ、と振り出しに戻った気持ちで穹はため息を吐いた。
しばらくぼんやりと出窓の壁際に寄りかかっていると、「だが、一度大学に顔を出すのは賛成だ」と不意に丹恒が言い出した。穹は窓の外から彼の方へ視線を向ける。
「賛成? 何か用事でもあるのか?」
「用事というか……指導者の変更は兎も角、これまで行われたインターンの中には指導が不得手であるあまり、学生にほぼ内容を任せていたケースもあるだろう。ようするに、仮想区域でのドリームメイク技術を学ぶには限界があるから、現場で経験を積むべきだ、というのがこのインターンの趣旨だ。だが、そもそも技術的な問題は個人が個々に学ぶべきことで、人に教わったからと言ってすぐに出来るようなものでもない」
「要点」
「指導者の変更は状況が状況なだけに、変えてもらっても似たようなケースになることが推測される。なら、勝手に自分たちで作っておくから、後から添削をしてもらう方法は取れるのか、と考えていたんだ」
「ほう。どういうことかね。続けたまえ丹恒くん。自分たちで創っておくからって言ったって、街中に新しいモニュメントなんて創った日にゃレポートを飛び越えて反省文になったりするやつじゃないか、それ?」
怒られ慣れているからそういうのには詳しいんだ、と穹は言う。なにせ学内でちょーっと階段を創っただけでああなのだ。だが丹恒には当てがあるらしい。顔を一つも曇らせなかった。
「車輪の刻の下層区は、もともとほぼ廃墟のようなものだろう。人もあまり住んでいないというし、あそこに何かを勝手に作っても文句は言われないんじゃないのか」
「……確かに?」
誰かがあの辺りを統治しているという話をミーシャから聞いた覚えがあるが、つまりはその人物に許可さえ取れば問題はクリアじゃないか? 下層区が、廃墟としての景観を何故かあのまま保っているのだとしても、だ。そもそもあまり人が住んでいないのであれば、新しいものが急にふえていても、大した関心は集まらないだろう。そうと決まれば、と穹はクッションを放りだし、出窓から飛び降りた。
「よし、行こう丹恒!」
「……服は着ろ」
パンツは履いてる、と返してから、穹はふと、窓辺に昨日置いていた丹恒のカードがそのままになっていると気付く。気付かなかった。やべ、と慌てて折れていないか確認する。傷はない。どうやら無事だ。
ほっと胸を撫でおろし、穹はもう一度まじまじとその光円錐を見た。暗がりで見ていた時は気付かなかったが、こうして陽に当ててみると、細かい砂のような粒子が星のようにきらきらと光る。まるで実際の星空のように、星が瞬いているようにも見えた。……綺麗だ。多分、ピノコニーを出たらきっと似たような空を見られるんだろう。
忘れもの、とランドリーから乾燥も既に終わっている一張羅を取り出しに向かうついでに、カードを丹恒に返していく。足取りが軽いから、丹恒は不思議そうな表情でこちらを見てきた。
「光円錐。なんかよくわかんないけど、大事なものなんだろ? 失くさないようにな~」
「……、ああ。ありがとう」
もしかして、と穹は漸く気付く。丹恒はこの間、一人で空を見ながらこのカードの事を思い出したり、旅の事でも考えていたんだろうか?
*
太陽の刻に向かうのは数日ぶりだ。直接車輪の刻に向かっていたこともあり、夢境に入る際に割り振られた部屋の番号はその間全く同じだった。最初の行先が違う事を告げると、提示された空き部屋は違う番号の部屋だった。SDF、と並んだアルファベットの部屋番を見、合ってるな、とドアを開いて部屋に入る。
丹恒も割り当てられた部屋についたようだ。先に行って待ってる、とメッセージが入っている。ホテルにはゲストルームやVIPルームと違い、ホテルの従業員や夢境の各地で働くドリームメーカー、それから、折り紙大学で学ぶ学生のために、ほぼドリームプールしか置かれていない小さな部屋があるのだ。あまりに膨大な数の部屋があるため、部屋番は短いものは数字だけでは追い付かず、こうやってアルファベットも用いている。桁がそう多くないのは、皆が皆、長ったらしい数字を覚えていられるわけではないかららしいが。
ドアを開け、穹は真っすぐにドリームプールに足を運んだ。睡眠薬は丹恒と別れたあとにすぐ飲んでいる。さほど間を空けずに意識は夢境に落ちた。
「――やっぱり太陽の刻じゃない……」
まあ、そんな予感はしていたのだ。
穹はふとめざめたように夢境で目を覚まし、覚えのない通りや周囲の建物を見て、ここが太陽の刻ではないことだけをすぐに悟った。ここ数回、車輪の刻へ向かった時は他の夢境に飛ばされるなんてこともなく、無事にあのホテルのロビーに入っていたから、もしかして呪いが解けたのだろうか、なんて思っていたのに。
「まあそう来るよな。フフッ、今日は遅刻OKだからいいけどさ」
本当なら、目の前にあるはずの折り紙大学のキャンパスがどこにも見当たらないどころか、大勢いるはずの学生も、どこかから聞こえてくる音楽すらもないときた。完全に遅刻の日の朝と同じだ。
まあ幸い、今日は大学で受ける授業はない。いくら遅れても丹恒が待ちぼうけをするだけだ。可哀そうに。ごめん丹恒、と穹はまた太陽の刻から離れた夢境に入ってしまったことを先に丹恒に伝えた。追って、「分かった、待っている」と返事がある。
穹は仕方がなく、近くにあるスフェロイドを探し周囲を見回した。ちょうど球形車両が弾き出され空を飛んでいくのが見える。どうやら、スフェロイド乗り場からさほど離れてはいないようだ。
空模様からして、どうやらここはブルーアワーの刻だろう。そういえばここも不安定な憶質の影響で憶質崩壊事件が起きているのか、インターンの延期区域に入っていたはずだ。だからだろう、いつもよりドリームメーカー達の姿が多い気がする。
「おーい! そこの君! ここは今立ち入り禁止区域だよ!」
ふと、遠くから声がかかり、穹は一度足を止めた。スーツ姿の男性がこちらにやってくる。恐らくハウンドだろう。足を止めた穹に追い付いてきて、青年はあれ、と首を傾げた。
「もしかして、折り大の学生さんかな。インターン生かい? ……ここだけの話、ゴシップニュース以外の、正規のテレビ局や新聞社もまだ取り上げてないんだけど、事件が多発していてここでインターン予定だった学生のみんなはスケジュールが延期になったんだ。報せが出ているはずなんだけど、まだ見てなかったかな」
「それなら知ってるんだけど……、大学に行こうとして、たまたま夢境に入ったらここに出ちゃって」
「ああ、そうだったのか。この辺りに例の事件の影響はないけれど、区画事体の来訪を制限しているから、どうやって入ったのかと思ったよ。ゲストやVIPは兎も角、関係者ゲートなら通ってしまうか」
「あはは……」
そう、学生用のドリームプールは、一応関係者ゲート扱いになってしまうのだ。苦笑するしかない穹に、じゃあスフェロイド乗り場まで連れていくよ、と若いハウンドの青年は言った。どうやら乗り場を探す手間が省けたようだ。案内に甘えることにして、穹は青年の後についていく。
「急な決定で学生さんも大変だね。こっちも、警備にいつもの業務にとてんやわんやだよ。最近はいったいどうなってるんだか……」
「憶質がどうこうって話は書いてあったけど」
「んー、僕もそういった話の詳しい事は知らなくてね。ごめんね。でも、夢境のいたるところで発見されているから、君も気を付けるんだよ」
「はーい」
歩いているうちに、スフェロイド乗り場が遠くに見えてきた。ハウンドの青年もそれに気付き、あそこから太陽の刻にいけるよ、と教えてくれる。ありがとうおにーさん、と丹恒を待たせているし、と穹は青年に軽く手を振り、さっとスフェロイド乗り場に駆け寄った。ハウンドの青年は穹を送り届けたあと、さて仕事に戻るか、とすぐに踵を返していく。親切な人だ。ハウンドは少し厳格な雰囲気の人ばかりだったが、あの人とっつきやすかったな、と思いながらスフェロイドに乗りこむ直前、ふと後ろを振り返ると、青年がぱっと、霧散して泡のように消えていくのが見えた。
「え?」
見間違いか、と思ったが、スフェロイドの球形車両に引きずり込まれてしまい、体が傾いた。その瞬間には既に、スフェロイドは空に弾き出されており、球形車両は勢いよく、太陽の刻へと穹を打ち上げた。
ほんの一瞬かのような浮遊感の後、穹は大学前のスフェロイド乗り場にスコン! と球形車両ごとゴールして、漸く車両の拘束から解放された。呆然として、乗る直前に見たあれはいったいなんだったんだ、と立ち尽くす。穹が来るのを待っていたのか、近くのベンチに丹恒が腰掛けていた。彼は漸く遅れてやってきた穹に気付き、こちらに近寄ってくる。
「穹? ……どうしたんだ」
「え? あー……いや、……」
きっと何かの見間違いだろう。まさかあんな風に夢境で人が消えるなんて。まだ寝惚けているのかもしれない。なんでもない、と丹恒には答えて、待たせてごめん、と彼を促した。
インターンで学生の一部が外に出てても、この大学は相変わらずだ。どこかから聞こえてくる陽気な音楽、誰かの歌声に芝居がかった台詞回し。だが、少し違和感を覚える。何故だか学生たちが落ち着きなく、どこか不安げな表情をしているのだ。
まあ、無理もない。インターン生の一部は待機か、もしくは大学で特別課題をしろと前例にない報せがあったのだから。目的が違ってすみませんね~、と彼らの真横を通り過ぎようとした時、どこかから「わあああ!」と誰かの悲鳴が聞こえた。ぴく、っと丹恒が途端に顔を険しくさせる。
「……? なんだ?」
「お前はここにいろ」
咄嗟に、丹恒が走り出す。おい待てって、と穹も慌てて彼を追いかけた。丹恒の方が足が速いから、結局追いつく頃には丹恒の方が先に目的地に着いている。呼吸を落ち着かせながら、穹は何があったんだ、と周囲を見回した。
学生たちが数人集まっている。がやがやと聞こえてくる騒ぎの中心に、先ほど悲鳴をあげたのであろう、男子学生がひとり。彼は周囲の学生たちに、見てなかったのか!? と詰め寄るように興奮して声を荒げている。
「見ただろ! さっきここで女の子が! 泡みたいになって消えちゃったんだって!」
「……――、」
「消えた?」
丹恒が声を上げる。いや、まさかな、と穹は先ほどの事を思い出した。周囲の学生たちも、ざわざわと不安げに話し込んでいる。ねえまたあれでしょ、と誰かが囁いた。でも、どう考えてもグラーク棟非常口の幽霊じゃないじゃん、と。
「また?」
近くに友人といた女学生がそう呟いたので、穹は彼女らに少し目線を合わせるように体を傾けた。顔を覗き込むように尋ねると、彼女たちはなぜかぎょっと、怯えたように挙動不審になっていく。
「え、えっと、あの」
「だれ? 顔良……」
「え? なにが?」
「な、なんでもないです! えーっと……もしかして最近折大に来てない、ですか? みんな知ってますけど」
女の子のひとりがおずおずと尋ねてくる。もう一人は何故かその女の子の腕を後ろからばしばしと叩いていた。じゃれているのかもしれない。どうやら仲がいいらしい。
「あー……最近はインターンで別の夢境にいっててさ。ここには来てないんだ」
「ああ、だから」
「んーとですね。……実は、今の騒ぎ、今日が初めてじゃないんですよ。前も図書館で行方不明になった子がいて」
「行方不明?」
穹は思わず丹恒を振り返った。知らないな、と彼は緩く横へ首を振る。自分たちが知っているあの騒ぎの事だろうか。何があったのかわからないままだったが、誰か行方不明になっていたのか?
「他にも、残って歌の自主練してた子が急にいなくなったり。その子、すっごい真面目な子だったんで、次の日の歌唱テストも来ないのなんて初めてだったんですよ。あとはドリームメイク学部のインターン生も、一人実習先で消えちゃったとか?」
「報道はされてないけど、憶質の影響で急に建物が消えたりしてるって話は知ってます? あれに人も入ってるんですけど、どんな風に消えてるかしばらく誰も知らなかったんです。でも折り大の子がインターン中に泡みたいになって消えてから、ほら、折り大のスレでも話題になってて」
女の子はそういうと、自らの端末を穹達に示した。受け取った端末には、砕けた口調でずらりと文字が並んでる。事件の真相についてグラーク棟の幽霊の仕業と言う者もいれば、ピノコニーの美しい夢境はそのうち崩れてしまう、だなんて何の根拠もない噂が飛び交っている。これデマばっかりなんじゃないのか、と尋ねながら穹は端末を返した。
「まあ、大体大袈裟な話はデマですよ。けど、今回のは状況が違ってえ~……あ、ほら。これです。インターン中にいなくなった学生は、咄嗟に助けようとして手を引っ張った子の所為で、手首に身に着けてたブレスが取れちゃって。で、そのブレスだけ残して目の前から消えちゃったって」
スレッド中に、笑う少女とその手につけた細いブレスレットが見える写真と、実際投稿者が撮った例のブレスレットが貼り付けられていた。ブレスレットは三連になったバングルで、そのうち、半分ほどが不自然に切り取られたように消えてしまっている。
「消えちゃいそうだったんで、咄嗟に傍にいた子が憶泡の要領で意質でくるんで固定したらしいんです。で、こんな形に。それで、この投稿見て、明日は我が身~ってみんな疑心暗鬼になっちゃって」
「グラーク棟はひとまず今立ち入り禁止ですよ。先生たちも一部の授業を除いて休講にするって、掲示出してました。あの人が騒いでるから、そのうち先生も来ると思います」
「私たちも今日はもう帰るので。……それじゃ」
今の人だれ、知らないけどすっごい顔よかった、とひそひそと話しながら、二人の女学生がそそくさと立ち去っていく。「丹恒、事件の匂いだ……」と穹は張り詰めた場の空気を少し和らげようとして、それらしい台詞を彼に言ってみた。だが丹恒は、冷静に、騒ぎを聞きつけた教師がやってきたのを見て、「課題の件について確認が取れたらすぐに車輪の刻にいこう」と穹のボケをさらりとかわした。
グラーク棟が閉鎖されているからか、そこに部室を持ついくつかの部活が、活動場所を追われ空き教室を使っているらしい。その所為かいつもよりフィッシャー棟はやけに騒がしかった。教授たちの研究室はここに集まっているから、防音機能のない部屋を使っている教授からすればたまったものではないだろう。
今回のインターンの担当教授は複数いて、数人ずつ生徒が割り振られている。幸い割り振りは派遣先の夢境ごとだったため、穹も丹恒も担当教授は同じだった。
実のところ、担当教授には会ったことのない教授も含まれている。講義が多岐に渡るので、履修状況によっては授業を取る機会が全くない教授がいるのだ。
担当教授の名前を頼りに、二人はその教授の研究室を探した。漸く見つけた研究室の鍵は開いていたものの、部屋に本人は不在の上、連絡はこちら、と人の形をした精巧な少女の人形が椅子に腰かけているだけだった。その様子を見、丹恒は来た事ある、と尋ねた穹に、いや、と丹恒も首を振る。
「この人形が……先生なのか?」
「いや……連絡は、とあるから、これを使ってコンタクトを取るんじゃないのか?」
「ど、どうやって?」
「さあ……」
二人顔を見合わせて困惑する。だが、その人形の膝の上をよく見ると、そこに手回し式ダイヤルの電話があることに気付く。まさかな、と思いながら、穹はその人形の膝の上の電話を取った。
『――ミス・ヘルタにお繋ぎいたします。呼び出し中です。しばらくお待ちください。……――はいはい。あー、【$◎Ⓡнの刻】の二人ね。あなたたちも貧乏くじを引いたね。何? もともと卒業生に碌な指導が出来るのなんていないけど、それでも代わりを探す?』
「お、おお……どうなってんだこれ。つながったぞ……。もしもし? えーと、担当の……」
『承諾してないけど勝手にそうなってたみたい。経過報告の義務もないし、視察も特にやるつもりはないから、好きにやっていいわよ。許可が必要なことでも聞きに来たの? 何、早くして』
忙しい、とばかりに一方的にまくしたてられる。えーと、と答えに迷っていると、丹恒が上から受話器を取っていった。彼は部屋の隅にある人形と同じようなぬいぐるみに視線を向けて、担当教授に尋ねる。
「指導が見込めないので、自分たちで勝手に製作を行いたい。車輪の刻の下層区は、もともとほぼ廃墟のようなもので、人もあまり住んでいないため、そこでドリームメイクを行っても、困った事にはならないだろうと思う」
『ふうん。夢境のその区画の整備担当がいいって言ったらいいよ。成果物は渡されてる保存容器に入れて期日中に提出してくれたら、適当に見ておくから』
「じゃあ、許可さえとれたら実行に移していいんだな」
『いいわよ。で? 要件は終わり?』
「ああ」
『そ。じゃあ受話器は元に戻しておいてね――ガチャン!』
ツー、ツー、ツー、と雑に通話が切れてしまって、穹も丹恒も少し呆気にとられ顔を見合わせた。変な教授もいるもんだな、と電話番の人形の手元に受話器を戻す丹恒を待って、戻ろう、と研究室を出る。用事も済んだことだし、車輪の刻へ移動するか、とフィッシャー棟を出て丹恒に尋ねた。
「どうする? 前の移動方法だと遠いし、一旦夢境から出て入り直すか?」
「……それだと、お前が入れなくなるだろう」
「俺?」
「ここに入る前に睡眠薬を飲んだんじゃないのか。強力なものだから一日に二度は使えないだろう」
「あ。そっか。当たり前すぎて忘れてた。……ってことは、また静謐の刻から行かなきゃかあ」
まあ、どうせまたあの浜辺に放り出されるのであれば、わざわざホテルの最上階から下層に降りる必要もなくなる。丁度いいか、と穹は丹恒に頷いた。
一度行った場所だから、静謐の刻へ向かうスフェロイド乗り場まではそう時間もかからなかった。見えてきたスフェロイド乗り場の周辺には、順番待ちの人影もない。そのまま乗り込めそうだ。まだ交渉も終わっていないのに、何を作ってみようかな、と考えながら、穹はスフェロイド乗り場に近づいていく。搭乗可能範囲に来た途端、ばっと、急に目の前に何かが飛び込んできた。
「……おわっ!?」
なんだなんだ、と驚いたまま、穹は飛び込んできたそれを咄嗟に手で支える。丹恒がなんだ、と振り返った途端、二人共スフェロイドの球形車両の中に吸い込まれてしまった。どっ、と座席に放られてすぐ、スフェロイドが発車する。穹は腕に抱えたふわふわで温かいものが一体なにかすら確かめられないまま、スフェロイドでぽんと打ち出されてしまった。
静謐の刻に着き、乗り込んだ時と同じく急に外に放り出される。自動運転の困ったところは、待ってくれと言っても急には止まらない所だ。これでようやく何を抱き留めたのかわかる、と穹は自分の腕の中にいたものを確かめようとして――何もない、と気付いた。
「え? ……あれ!?」
さっきまで何かがあったはずなのに!
どっかに落としたか、と周囲を見てみるが、それらしきものは何処にもない。ふわふわと、何故か蝶が近くを飛び去って行った。さすがにその蝶は、抱えていたふわふわで温かなものとは違う。
「穹? さっきはどうしたんだ」
「えーっと……。なんか……ふわふわしたあったかいのが飛び込んできたんだけど」
「は?」
「消えた……」
俺、疲れてるのかな、と首を捻り、まあいいか、と穹はすぐに先ほど思いがけなく手にしたもののことを忘れた。まるで猫のようにも見えたが、気まぐれな猫が自分から手に収まろうとするなんて妙な話だろう。それに、夢境で猫と言ったら。
「あ。そうだ」
「今度はなんだ?」
「丹恒、前に大学で猫に絡まれてたろ? あの猫さあ、喋るの知ってたか?」
「喋る……? つまり人が夢境で姿を変えたものか、やはり実験中のミーム生命体だったのか?」
「さあ? そのどっちかはわかんないけど。そういえばさっきのふわふわしたのも似たような色だったような……」
スフェロイドでやってきた二人に気付き、静謐の刻の入退確認をしているスタッフが近づいてくる。以前も丁度、二人を案内したスタッフだった。二人の顔を見、ああ、学生さんですね、とすぐに次の案内を呼ぶ。今度は以前案内してくれたオムニックではなく、ピピシ人の女性が案内を買って出た。
一度は通った何の面白みもない道をピピシ人の案内の歩幅に合わせると、倍かかるんだなあ、と穹は欠伸をしながらふと思った。ピピシの案内役も、前回のオムニックと同じく無口なようで、自分からは話し始めない。このままじゃ退屈過ぎて歩きながら寝る、と穹はもう一度欠伸を零した。
前にここを通った時より、少し人の声が聞こえてくる気がする。視界を遮るように植えらえた木々の向こうで、誰かが何かをしているのだろう。そういやさ、と穹は小さな歩幅でてけてけと歩いていくピピシの女性に尋ねる。
「静謐の刻でも今他の夢境で問題になってるような事が起きてるのか?」
「問題……ああ、憶質の性質変化による突発性憶質消失現象のことでしょうか。そうですね、……あまり大したことは言えないのですが、全く起きていないわけではないですよ。ですが修復は後回しです。どうせ、ここは関係者しか入れませんから。おかげで、その事件の処理に追われ、今ここは手薄なんです。行方不明者の中には、腕のいいドリームメーカーもいましたから」
「へえ。やっぱどこも大変なんだな。原因はわかってるのか? いつ頃落ち着くんだ?」
尋ねた穹に、ピピシの女性は困ったように眉を下げる。状況はあまりよくなくて、と彼女は続けた。
「実は……原因が分かっていないんです。憶質研究班も解明を進めていますが、急に夢境の憶質が脆くなった理由はまだ明らかになっていません。それが突発的なものなのか、それとも長期的なものなのか、また発生の法則性も何もかもが不明なんです。各クランは夢境の安全維持と心象操作にかかりきりですから、観光客が疑念を持たないように我々が暗躍して立ち回っているところですよ」
「へえ。思ったより大変そうだな……?」
「はい。とても。とはいえ、インターンの時期に巻き込まれてしまって、学生の皆さんも災難でしょう。いつどこで憶質事故が起きるかわかりませんからね」
漸く前方に以前乗り込んだスフェロイド乗り場が見えてきた。ピピシの女性もあれですね~、と少し疲れた表情でスフェロイドを目に入れる。鍵の場所はもう以前教えてもらったし、と穹は彼女に言った。
「お姉さんも疲れてるだろ。俺たちもう乗り方もわかるしさ、先に戻っていいよ」
「あら、いいんですか? 実は仕事が溜まっていて。ありがとう。じゃあお言葉に甘えて先に戻るわね。二人とも、頑張って下さいね~」
喋ってみると案外饒舌な人だった。穹が案内はもういい、と告げるなり、彼女は待っていましたとばかりにさっさと踵を返し、走り出していってしまう。先ほどとは歩く速さが違うのか、踵を返し戻っていった彼女の姿は、すぐに小さく見えなくなってしまった。
どこか古めかしいスフェロイド乗り場は相変わらずだ。ここのスフェロイドは、自動運転ではあるが乗り込む時は自分たちで乗り込んでいかないといけない。穹達が近づいたのを感知して、空気が抜けるような音と共に扉が開いた。この間と同じように球形車両に乗り込む。扉を閉める前に、ふと何か影のようなものが過った。……気がした。
「……? あれ?」
「なんだ。どうかしたのか?」
「いや……なんか今、視界の端にちらっと何かが……」
過った気がして、と答えた穹の、少し上を何故か丹恒はじっと見上げている。何、とその視線に穹も丹恒に尋ね返した。
「いや……。お前、頭に」
「頭?」
「どこでつけてきたんだ」
「何のこと?」
鏡もないから丹恒が何を尋ねているのか全くわからない。手のひらをぽす、と頭の上に乗せてみるが、髪の感触しか手のひらにはなかった。丹恒の視線はまだ穹の頭の上にある。
「一体何だよ!?」
「いや。……俺の錯覚かもしれない」
「は? もしかして、丹恒も疲れてる?」
俺たちってば毎日インターンに出かけて自主的に動いてるしよくやってるもんな、と穹は腕を組んでうんうんと頷く。丹恒はまだ穹の頭上を気にしていたが、気にするだけ時間の無駄かもしれない、と悟ったのか、以前鍵をしまってある、と言われていた棚のロックを外し、以前と同じようにそこから鍵を取り出した。鍵をスロットに差し込めば、以前と同じように急に窓の景色が変わり始める。ぐ、っと重力が座席に身体を押し付ける感覚の後、穹と丹恒は、また数秒間の星間旅行をした。
それにしても、何て行き難い夢境なんだ。
穹は束の間の移動が終わり、止まったスフェロイドから放り出されて思う。それから、あれ、と周囲の景色が以前と違うことに気付いて、すぐに起き上がった。
「……ここって」
ホテルの最上階だ。あれ、今まで乗ってきたスフェロイドは、とすぐに後ろを振り返るが、既にスフェロイドは帰りの自動運転を始め、空に自ら打ちあがった後だった。乗り場もないのにここまで乗せてきてくれたらしい。今日に限っては少し余計なお世話だったかもしれないが。
視界を、ふわりとまた何かが横切った。今度こそそれが何かを視認する。ひらひらと、薄い羽を広げ、蝶は穹の目の前を通り過ぎていった。穹がそれを目で追うのを、丹恒も気付いて「錯覚じゃなかったのか……」とふと呟く。
「え? さっき見えてたのって、あれ?」
「ああ。お前の頭にくっついていた」
「マジ? でも押さえた時は何もなかったぞ?」
「その時は、お前の手に触れないように宙に浮いていて、その後は……リボンになっていた」
「リボン? ……リボン!?」
おいそれは早く言え、と穹は丹恒に詰め寄った。写真は!? と聞いても、まあそもそも端末を出していなかったのだから残っているわけがない。
「なんで撮ってなかったんだ!?」
「なぜ撮る必要がある……。それに、錯覚だと思ったんだ。急に形を変えたから。何なんだ、あれは。何かのミーム生物か?」
さあ……、と既に飛び去って、どこにも見えなくなってしまった蝶より、今は別の目的がある。下層区に向かい、そこで勝手にドリームメイクをしていいか確認を取らなければ。
本当は今頃向かっていたところだが、まあここに放り出されてしまったのだから仕方がない。下に降りるか、とエレベーターに向かって歩き出し、穹はふと違和感に気付いた。エレベーター前に何かがある。
「……ベルトパーテーションだな」
「え。なんで立ち入り禁止?」
こんなの聞いてないんだけど、と二人してエレベーターの前で立ち尽くす。下のフロアと繋がっているのは、このエレベーターくらいのものだ。非常口はあるようだが、ミーシャに場所を教えてもらっていない。どうする、と予想していなかった出来事に、穹は丹恒と顔を見合わせた。
「今日はやめとけってことか?」
「さあな……。――ミーシャを探そう。状況は把握しているはずだ」
今の時間なら、また空中庭園の植物の世話だろうか。あ、そういえば、と穹はふと思い出して、庭園の奥にあるコンテナの事を丹恒に教えなきゃ、と彼の腕を引っ張った。
「ミーシャも多分庭園だろ。探すついでにさ、丹恒に見せたいものがあるんだよ。きっと気に入ると思う」
「何をだ?」
「庭園の奥にさ、ちょっと秘密基地みたいな場所があって。ロマンだろ? 秘密基地」
「ロマンかどうかはそもそも馴染みがないからわからないんだが……。以前見た時は、庭園の奥になんて何もなかったぞ」
「どうせ方向音痴でたどり着けなかっただけだろ?」
こっちこっち、とミーシャを探すついでに、穹は庭園へ丹恒を引っ張った。ミーシャの姿は見当たらなかったが、代わりに、やはりあの場所に場違いなコンテナが転がっている。丹恒は少し訝し気な表情でそれを睨むように見た。
「……それがさっき言っていた?」
「そーそー。あれ、この間扉開けといたのに。ミーシャが閉めたのかな。――んっ……っんうっ、やっぱ立付けわるっ……!」
ぐ、ぐ、と何度か力を入れてみるがドアはびくともしない。あれー、と穹は首を傾げた。もう一度力を入れてみるが、やはりびくともしない。
「おい。急に喘ぐな……」
「丹恒のむっつり~。……ていうかマジでちょっと手伝ってくれ。全然開かないぞ、これ。ここの中にさ、ちょっとすごいとこがあってさ。見てほしいんだけど」
「……どうせくだらないものだろう」
「ところがどっこい今回はくだらなく――……うおあ!?」
途端、引っ張っていたドアの方から、穹をひっぱるかのように、内側から力が加わった。姿勢を崩し、ごろごろとその勢いのまま転がっていく。穹は咄嗟に受け身を取り、そのまま前転した。十点中八点くらいはつけてやってもいい、綺麗な前転だった。勢いを殺しながら、かさかさと柔らかな草の上を転がり、止まって、床に大の字になって仰向けになる。穹、おい、とドアの向こうから丹恒の声がした。
「大丈夫か?」
「へーきー。丹恒も入ってこいよ」
やはりコンテナの大きさと、中の空間には差異がある。夢境だからかな、と天井を見上げていると、ガッガッ、と扉を無理に開こうとする音がした。うん? と首を傾げ、穹は仰向けで倒れていた体を、勢いづけて一度起こす。
「丹恒?」
入ってこいと言ったのに、彼の姿はそこになかった。先ほど入ってきたはずの扉はまた閉じており、穹? いるのか、と向こうから微かに丹恒の声がする。どうやら転がるようにここに入り込んだ時に、誤ってドアが閉まってしまったらしい。仕方がないなあ、と穹はドアを開けるために丹恒の方へ近づこうとする。だが、不意に後ろからかさりと草を踏む微かな音がした。自分の足元からではなかった。
「……? ……――うわあ!?」
穹はその場で跳びあがりそうになるくらい驚き、声を上げた。自分以外いるはずのない場所に、いつの間にか誰かが立っているのだ。
その少女は――ブラウスとワンピースを身に付け、夜とミルクを混ぜたような、朝焼けの空に近い薄紫色の長い髪をしていて、どこか神秘的な雰囲気を纏っていた。だ、だれ、と尋ねるより先に、咄嗟に頭の中に思い浮かぶ。
「ぐ、グラークス棟の幽霊か!?」
「ふふ。ここは折り紙大学ではないでしょう?」
「あ、そっか……。子夜の刻でもないよな!?」
「違うわよ。ここは、それとは違う名前があるのでしょう? ……ようやくこの姿で逢えた。私の事が分かる? あなたを迎えに来たの」
どこかで聞いたことのある声――柔らかな口調だ。どこで聞いたんだっけ、とそれを思い出せないまま、穹は警戒をまだ解ききれずに少女を見つめる。
「迎えにきたって……どこから?」
「ずうっと上の方から。……覚えてない? ねぼすけさん、もうあと五分もあと十分もあまり聞いていられないわよ。これ以上ここにいてはいけない。そろそろ目を覚まさないと。ここには、この世界を生まれた時のまま、維持するだけの憶質がもうないのよ」
「憶質がない? いや、だって、ここは夢境だろ? それに、目を覚まさないとって。時々目は覚ましてるぞ?」
夢は美しいし、夢境では何でもできる。誰かにとっては楽園だろう。でも、夢境なのだ。この土地は夢の中にしかなく、決して現実ではない。そんなことはわかっている。いつまでもここにいたいと思っているわけでもない。だって、いずれ自分たちはピノコニーを出て、【丹恒と二人で旅に出るのだ】。そう決めていた。
だから、今日もいずれ夢からちゃんと覚める。何を言ってるんだ、と穹は少女に訝し気な視線を向けた。だが、穹の言い分にも、少女はどこから説明するべきかしら、と聞き分けのない子供を前にした時のように眉を下げていく。
「……そうではないの。あなたが言う夢から覚めるというのは――あのね、ねぼすけさん。いい、よく聞いて。――あなたは今、【夢の中の夢の中の夢の中の夢】にいるの」
「もっかいいって?」
言葉遊びか何かの話をしているのか、と穹は少女に聞き返した。何やら真剣な顔をして聞いてくるから深刻な話かと思っていたが、ここに迷い込んでしまった子供が、迷子になったことをまだ認められず、強がっているだけなのだろうか? 「迷子ならハウンドを呼ぼうか」と尋ねると、少女はまた緩く首を振る。
「今の迷子はあなたの方よ。……あなたは、これが【夢】であることを忘れてしまっている。長く夢境にいると、現実と夢境の境界が曖昧になっていくように、あなたはそのことすらも忘れるほどここにいるの。少し姿は違うけれど、私の事だって思い出せないでしょう?」
「お前のこと? えっと、……確かに……どこかで会ったこと、あるか……?」
言われてみれば、知っているような、知らないような。不思議な既視感は確かにある。だが、少女の知り合いはいないし、こんなに特徴的な少女ならきっともっとはっきりと覚えているだろう。首を捻る穹に、続けて少女は尋ねてきた。
「あなた、どこかで見た事があるもの、あるひと、……知らないのに知っているような気がするもの。そんな風に、初めて見るはずのものを、初めて見たように感じない時がない? もしくは、誰かや何かの事を思い出せないとか」
「え? 何で知ってるんだ? ある、けど……」
「そう。じゃあ、それがどうしてだか考えたことは?」
「ない……」
「深く考える前に、きっと忘れてしまうのでしょう? ここは、あなたの作った夢境の中なの。……この夢境は、星核の影響ですでに変質してしまった憶質を使って、あなたの記憶を元に創られたもの。だから、あなたの知ってるもので出来ているの。そのことを、今のあなたは忘れてしまっているだけ。そして、忘れてしまっているけれど、あなたは覚えている。【この地が星核の影響を受けていた】こと。そして、星核が人に害を成すものだということを」
「……星核、」
「あなたの胸にも同じものがあるわ。今のあなたは、それすら忘れているかもしれないけれど。――星核がなくなったピノコニーの憶質は今不安定。汚染された憶質はこれまでの夢の主や多くの意志を失い、あなたという代わりを見つけて、これまで見ていたエナの夢の代わりをあなたで作ろうとしていた。そういう筋書き(プロット)よ。でも、その舞台として、もう一つピノコニーを作り維持し続けるのは、あなた一人には難しい。あなたの想像力は目を見張るものがあるけれど、それでもすべてが完璧ではないから。夢は夢だと分かると覚めてしまう。そうならないよう、ほころんで出来た穴をふさぐために、あなたの夢は、外から憶質を取り込もうとしている。でも、【それもいずれ出来なくなってしまう】。それに気付いた時、夢が卵の殻を破ってくるかどうかはまだわからないけど……それでも、あまりよくない結末にはなるでしょうね。出来ればそうなる前に、あなた自身で出てきてほしいのだけど」
「……ごめん。何を言っているのか全然理解出来ないんだけど」
「思い出してみて。こうなる前、初めにあなたが見た夢はなんだったのか。……ここは夢境。ここから目覚めても、それはあなたが創った夢の中の現実のピノコニー。では、【その前】は? そのことに気付かないのは、あなたが既に信じられないほど深く眠りについているからよ。あなたが目を覚ましているというその場所も、あなたの現実ではなく、まだ夢境の中なの」
「は? まさかあ」
そんなわけないだろ、と穹は少女の言うことを信じられずにそう言い返した。ゆっくりとした口調で、まるでよくできた演劇のような話をする少女だ。折り紙大学では芸術分野の学部もあるから、きっとそこでなら彼女の才能を磨くことも出来るだろう。穹はふと、彼女の口調と言葉に聞き覚えがあるな、とその既視感と記憶を漸く結びつける。
「あ……お前、もしかしてあの時の猫か!?」
「あら、今気付いたの?」
「分かるわけないだろ! ていうか、あの時も変な事言ってたし……。何だ? 演劇でもやるのか? それで俺にオファー? ふふん、まあ俺はなんでもそつなくこなせてしまうからな、演技だって出来ると思うぞ! 任せろ」
「ふふ。忘れていても冗談の味はそのままなのね」
「じょ……、えー……? 劇のオファーじゃなかったら何なんだ……? 大体、この夢境を俺が創ったって言うけどさ、人は? 夢境にいる皆も全部俺が創ったって言うのか?」
「ええ。そうよ。私とあなた、そしてもう一人。それを除いて」
「……もう一人?」
「そう。私の他にも、ここにあなたを迎えにきた子がいるのよ」
「誰?」
「……それはその子も今忘れてしまっているから、私の口からは言えないわ。そもそも、あなたの潜在意識があなたを起こしに来た私を排除しようとするから、その子も夢の中で過ごすうちにその事を忘れてしまったの。あなたはその子をここで待っていたのでしょう? 彼と夢でしたいことがあるのなら、早く済ませて起きてきて。あなたはわかっているでしょう。『生命体は何故眠るのか』」
「……謎々?」
「ええ。もうあなたの中で、とっくに答えの出てる謎々よ」
ドン、ドンドン! と背後から物騒な音がする。穹! と先ほどから聞こえてきているドアの向こうの声が、ずっときこえないふりをしていたが、少し激しくなっている。丹恒も過保護だな~、とその声に穹は「だいじょぶだって!」と漸く大声で答えた。少女の話は気になるが、これ以上ここにいては、余計な心配をかけてしまいそうだ。どうやら、ドアの立て付けが悪く、やはり一度閉まってしまえば、外からなかなか開くのが難しいらしい。
まず先に丹恒をここに入れてから、今の話をもう一度聞こう、と穹は一旦、少女に声をかけようとして視線をドアから戻した。不意に、真横をひらりと蝶が通り過ぎていく。そこにいたはずの少女は、まるで幻のように、いつの間にか忽然と消えてしまっていた。
「あれ……?」
あの子どこ行ったんだ、と穹は首を傾げる。……まあいいか。変なことを言う少女なんて、あの年頃であれば珍しい事でもないだろう。
それにしても――妙なことを言う少女だった。
この夢境を創ったのが自分で、この夢境も、目を覚まして起きた現実すらも全て夢だなんて。そんなバカな話、あるわけがないだろう。だって、自分は――ただの学生だ。折り紙大学のドリームメイク学部に在籍しているだけの、ただの学生。ピノコニーの夢境の中で、ドリームメイクをして都市を造ったり、デザインしたり、壊れたものを修復したり、そんなことすら実習でしか試したことがないのに、どうしてそれよりももっと広大な夢境そのものを創ることが出来るんだ?
頭はそんなバカな話、と少女の話を聞きやしない。けれどその一方で、本当にそうかな? あの子の言うことの方が本当は正しいんじゃないのかな、と頭の中で無意識が囁く。……だって、不思議なことなら山ほどあるのだ。
不意に浮かんでは消える「何か」たち。思い出したと思っても、すぐにまた泡のように消えて、失くしたはずなのにそのことすら忘れて元に戻る。何度も、何度もそんな風に消えてしまったもののことを、どうして自分はずっと放っていたんだろう?
そうやって放っておくことに、今まで疑問一つ感じなかった。だって自分は「穹」という名で、丹恒という親友と、ここで楽しく、暮らしていた。丹恒はずっと自分と一緒にいてくれるけれど、これがあの子の言う通りに夢なのだとしたら、今までの日々だってすべて夢だったと、そう認めることになる。
まだ旅に出ていないのに。いや――あれ? おかしいな。不意に浮かんだ記憶がまた泡のように脳裏をよぎって消えていく。ぱちん、と弾ける。行ったことのない場所へ向かう自分たち。顔も名前も思い出せない誰か。
そして、この秘密基地とよく似た――。
ぱちん、とまた泡のように弾けた記憶が遠い何処かへいってしまい、何も思い出せなくなる。しばらくぼんやりとしていた穹は、ふと、しんと静まり返ったドアに気付いた。先ほどまで遠くで聞こえていた丹恒の声も物音も無くなっている。
まさか壊してまで入ってこようと思わないだろうな、と穹は焦ってドアを開けに行く。勢いよく蹴りながら開こうとしたところで――ぱっと、急に目の前が開けた。
「…………ん?」
ドアを開けたまま、穹はその場でぴたりと体を止め、硬直した。波の音が聞こえる。ぴしゃぴしゃと足元に水音もする。穹は後ろを振り返った。そこには変わらず、どこか懐かしく感じる花と若葉に溢れた秘密基地。だが前には空中庭園の緑ではなく、海がある。
「……どこだここ」
咄嗟に頭を過ったのは、血相を変えて自分を探そうとしている丹恒の顔だった。
*
「庭園の奥にちょっと秘密基地みたいな場所があって。ロマンだろ? 秘密基地」
初めてこの階に案内された時に、空中庭園は粗方見たはずだった。この空中庭園はそれなりに広く、また迷路のような作りをしているため、中に入ると敷地の範囲よりずっと広く感じる。それらの植物で作られた迷路はエディオンパークや他の施設にもある珍しくもないものだったが、使われている植物があまりに精巧なので気になった。夢境の中は無秩序に無理に秩序を与えたものたちで出来ている。花期も気候も季節すら関係なく、花々は夢の中で咲くのだ。
初雪八落は八枚の花びらが付く淡い青色の花だ。先端に雪の結晶のような白い斑点があるのが特徴で、ある小さな亜寒帯気候の地域でその生息が確認されている。花の形状は鈴蘭とよく似たベル型だ。
その花が暗くなった道を本物の明かりのように照らす。青い花びらから溢れてくるその色は、夜は海ほたるのように神秘的に見える。
この刻は不思議な作りだ。他の夢境と違い、テーマとなっている時間帯の縛りがなく、夜明けに始まり、朝や昼間、夕方や夜があるのだ。ただ、その時間や間隔はばらばらで、一日に二度三度朝や夜が来ることもある。
その話を、丹恒はミーシャから聞いた。
彼はこのホテルに所属するドリームサポーターだ。ずっとこの場所にいたわけではないらしいが、その前もしばらくはホテルのドアボーイとして働いていたらしい。今はこの区画の整備と共に、自分たちの案内や世話を頼まれているようだった。
本来ホテルのスタッフは複数いるはずだが、この場所では彼以外の従業員を見ていない。何か理由があるのか、と尋ねた丹恒に、彼は「皆さんとてもお忙しいですし、ボク一人でも問題ありませんから」と答えた。
彼は不思議なところが山ほどある少年だった。少しそそっかしいが、長い時を生きて来たかのような落ち着きを見せることもある。そして自分たちに向ける眸が、ただの従業員と客と違い、何故か慈愛に満ちているように、丹恒には思えた。
会ったことがあるような気がしたが、どこでだったかをどうしても思い出せなかった。そういった違和感は時々丹恒の中に浮かんでくるものだった。人よりはむしろ知識や情報の方が多いかもしれない。例えば、この庭園にある植物を、自分は【実際に見たことがない】はずなのに、何故かそれがどういった星の、どういった場所に生息しているのかすらすらと口から出てくるのだ。
仙舟「羅浮」にいた時の事、このピノコニーに来る前後、そしてここに辿り着く経緯を、丹恒はあまり――というか、ほぼ覚えていない。
夢境に入り浸ると、現実と夢との境目が曖昧になってくるという話は聞いている。だが、その中に記憶の忘失まで含まれているとは思わなかった。一度医者に掛かろうとしたが、忘れたままでも困ることがなかったし、こうして過ごしている傍から記憶が抜け落ちていくという感覚もなく、緊急性はないと判断した。不思議と、【それほど重大な事とは思わなかった】のだ。本当に必要な記憶であれば、そのうちきっかけがあれば思い出すだろうと、様子を見ることにするくらいには。
その違和感がしこりのように、あるいはささくれのように残り始めたのはいつだったか。
ある時、自分の上着のポケットにカードが一枚入っていることに気付いた。
そのカードは黒く、何を描いたものか咄嗟に判断することが出来ないものだった。小さな点がその中にあり、光に当て、少し傾けるとその小さな点がきらきらと輝いて見えるのが不思議だった。そうやって眺めているうちに、中の光が動いた――なんて錯覚を見たこともある。だが、なぜ自分がそのカードを持っているのか、自分が持っているもののはずなのに、丹恒はその経緯ひとつ思い出せなかった。
大切な物であれば、忘れてしまっていてもそれなりに執着があるだろう。
いや、これはただの願望だ。自分にもそういったものがあってほしい、というただの願望。人は皆、大切なもののひとつやふたつ持っているだろう? それがない、というのはつまり、自分が空っぽだ、という証左に他ならない。何も持たず、ただこの宇宙を漂泊するだけの、どこにでもいるけれど、どこにもいない、何者にもなれないものたち。
自分もそのひとりだったのだろうか、と丹恒は考える。だから忘れていることが多いんだろうか。それに対しての自身の執着や、危機感がないのは「自分の事を忘れたかったから」なのだろうか?
「よくわかんないけど。俺もヘルタってところで生まれたらしいぜ。それ以外なんにもしらないし、家族がいる気はするけど思い出せないし、家もあった気がするんだけど、なんでかそれも覚えてない。でも丹恒みたいに困ってない。名前だけは憶えてたから」
お前もそうだろ、と穹は言った。大切なものなら忘れてしまっていてもそれなりに執着があるなんて、実際そういうものを目の前にしないと分からないけれど、ぼんやり覚えてることはあるじゃんか、と。
「生まれたとこ。自分の名前。それだけは覚えてるってことは、別の誰かになりたかった、とは思ってなかったんじゃないか? 自分の事を忘れたかったならそれも全部忘れてるはずだろ」
彼は言う。それも一理ある、と丹恒は思った。
彼の言葉はなぜか、心の柔らかいところに触れているのに、不思議と不快ではなかった。無遠慮に触れてくるわけではなくて、ただ触れていいか丹恒の答えを待つように、傍で佇んでいるだけ。
彼のその態度が自分には心地よかった。意見を押し付けてくる者などいくらでもいるけれど、彼は否定せずに、ただ尊重してくれる。自分と同じで覚えていることが少ないはずなのに、彼はそれを悲観しなかった。過去を問うてくることもなかった。同時に自分も彼の過去を問うことをしなかった。今一緒にいるのに、過去の事は必要なかったから。
だからなのだろうか? 次第に、自分と彼は、随分前から一緒にいるような気がしてきたのは。そもそも、彼に逢った時だってそうだった。自分は――彼を何故か探していた。そんな気がしていた。見つけた、と思ったのだ。確かに。何故なのか理由もわからないままに。逢いたかった。やっと逢えた、と何故かその時はっきりとそう思った。
たとえ忘れてしまっていても、大切なものならそれなりに執着がある。もしそれが彼なら、自分は何故彼を見つけようとしていたのだろう?
答えはわからないままだった。それを是とする環境に身を置いていたから。このままでいいのか、と疑問は浮いたが、何故かその疑問は、すぐに泡のように弾けて消えた。ただ彼と一緒にいることが心の底から嬉しかったから、それを彼に伝えたことはないけれど、自分にはそれだけで良かったのだ。
何だってしてやりたかった。自分が出来ることなら、何だって。
自分がそれほどまでに誰かの事を大切に思えることを知らなかった。それを彼が気付かせてくれたから、それに報いたいと思った。欲しいものはなかった。ただ、彼が自分を尊重してくれたように、寄り添い、助けになれたら、それだけでよかった。
彼に触れることも、彼に触れられることも嫌いではなかったから、彼のやりたいようにさせていた。その一方で、この感情が何なのかまだ名前を付けられなかった。そうやって曖昧にしたままであることを、彼は咎めることもしなかった。それすらお前が決めた名前でいいと言われているようだった。その事が胸を叩くたび、得体のしれないその。形のないものを、形がないままで持っていてもいいのだと許されているようで、ただ嬉しかった。
だから、彼がいなくなった、と聞いた時、酷く胸が騒いだ。足元がとたんにぐらつき、奈落に落ちて行くような感覚を覚えた。同時に焦燥感と喪失感が襲ってきて、「どんな方法をとっても彼を助けにいかなければ」と心の底からそう思った。それが今の自分のものなのか、自分が忘れてしまっているものから続くものかすらわからないほど、考えが頭の中を支配した。
彼が無事に見つかってからも、ぼんやりと彼が自分の目の前から消えてしまう事への懸念や不安、恐怖、それらが頭の中からどうしても出て行かなかった。自分たちは今折り紙大学の学生で、いずれ大学を卒業すればこのピノコニーに残るか、外の世界に出るかを決められる。自分は――彼と共にあればどこにいても、どこにでも行けると思った。
旅を、してみたかった。
見たことのないものを見て、未知に触れて、夢の中でしか味わえないような美しいものが、この夢の外にもあることを知りたかった。……彼と。
夢のような話を夢うつつでしていた。だから夢なのだろうと思っていた。こんな都合のいい夢があるわけがないことを、丹恒は知っていたから。そんな夢のような話が。
――……いい? きっと忘れてしまっても、私の事を思い出してね。
それは、誰に言われた言葉だっただろう。
夢みたいな話だ、と夢うつつで穹の話を聞いた時に、頭の中に何故かその言葉が浮かんだ。それからどうしても、その言葉が頭から離れないのだ。思い出して、何があるのかすら記憶にないのに、そうやって思い出して何が起こるのかもわからないのに、どうしても、その誰かの事を思い出さなければいけないような気がして。
穹には言えないままだった。それを伝えるのはもう少し後がいい、と何故だかそう思ったのだ。話す機会はまだある、と思った。思っていた。それが突然なくなるかもしれないなんて思いもしなかった。
その秘密基地は、確かに彼の言う通り、以前見つけられなかった場所にあった。古びたコンテナで、全く庭園の景観にそぐわないもののように見えた。異質、とでも言えばいいのか。夢の中にありながら、まるでそれは夢の中にあってはいけない異物のようにも思えた。
その中に見せたいものがある、と穹はコンテナの扉を開けようとした。だが立て付けが悪く、彼が力を入れてもなかなか扉は開かなかったのだ。その奥に彼が思いがけなく転がり込むように入った後、扉は再び閉まり、そして全く開かなくなってしまった。
丹恒の脳裏には、第六感とでも言えばいいのか――煙のように、その予感が付きまとった。何かよくないことが起こる、そんな予感だ。だからすぐに、中から出るように穹に何度も外から叫んだ。だが彼からの返事は何故かなく、扉を開けようとしてもびくともしない。その時、何故か自分の手に、手に馴染む槍が握られていることに気付いた。
いままで何故これのことを忘れていたのかすらわからない。丹恒は迷わず扉の隙間にその槍の切っ先をねじ込んだ。だが、それでも扉は開く気配がなかった。どうしたんですか、と物音を聞きつけて、姿の見えなかったミーシャがやってくる声で、はっとして丹恒は我に返る。
「ミーシャ」
「た、丹恒さん~!? な、なんですか、これ。こんなのここにありました……? 作ったんですか?」
「俺は作っていない。それよりお前も知らなかったのか?」
「は、はい……。昨日この辺りから穹さんがいつのまにか戻っていて、出てきたのは覚えていますけど……」
「…………、すまない。手が空いているなら手伝ってくれるか。中に穹がいるのに開かなくなってしまって」
「ええ!? で、でもボク、そんなに力は強くないですよ……? ちょっと時間を止められたりはしますけど、ここではそれも出来ませんし」
「出来ない?」
「あー……いえ、んー……、ちょっと理由があって、……――あ」
「……? なんだ」
ミーシャの視線に丹恒は怪訝な表情を浮かべる。彼の視線は丹恒から、少し横へ流れていった。丹恒もミーシャの視線の先にあるものを追いかける。ひらひらと、薄い羽を羽ばたかせながら、その蝶はふわりと――くるりと、宙で回転し、猫になっていった。お前は、と丹恒はその猫に見覚えがあることに気付く。
「まさか、大学からついてきたのか」
「――そうよ。だってそうでもしないと、ここに来られなかったのだもの。ここがどんな場所か、丹恒さんは知らないでしょうけど」
「わっ! 喋った!」
「夢境だから猫くらいしゃべるでしょ」
「そ、そうか……?」
猫が喋ったことにミーシャは驚き半分、期待半分で目を輝かせている。丹恒は猫に対しての警戒を解かないまま、自身が握ったままの槍の切っ先をその猫へ向けた。あら物騒、と猫は数歩そのまま丹恒の方へと近づき――近づきながら、ふとミーシャを一瞥し、その影の形を変えていく。まるで伸びた影絵のように、猫から小さな少女の形をとると、彼女は、ミーシャにむけて僅かに首を傾げた。
「あら。【あなた】は本物? ……いえ、本物よりは随分小さいのね。彼の記憶から姿を借りてるの?」
「…………、ああ! ――メモキーパー様だったんですね。こんにちは」
「メモキーパー……?」
「あら……。もう、本当にすっかり忘れてしまって……。悲しいわね。あなたの【妹】よ? お守りだって渡したのに。ねぼすけさんを起こしに来たのに、あなたまでねぼすけさんになってどうするの」
「おい、何の話だ」
本物だのメモキーパーだの、先ほどから話が飲み込めない。丹恒はその、見覚えのある少女の姿に、彼女をどこで見たのだったか、とどうにか思い出そうとする。妹、と言われても、持明族はそもそも親を持たない。そのため兄妹関係は血縁に倚らないただの絆の事を指すわけで、彼女の少し揶揄うような表情から推測しても、その言葉が冗談だということはわかる。ふざけないで説明してくれ、と丹恒が言うと、少女は少しだけ目を細めて笑った。
「言い出したのはあなたの方なのに。本当にまだ何も思い出せない?」
「……思い出すも、何も」
「この場所はねぼすけさんの記憶から出来ているから、あなたにとっても思い出すものはいくつもあったはずだわ。そうね、私もあなたに少し見せることは出来るけれど……。――ああ、こうしましょう」
少女はそういうと、ミーシャに何かを耳打ちした。彼はそれを聞いて、ええ、と驚いた表情で声を上げる。それから、ちらちらと丹恒の様子を窺うようにこちらに視線を向けてきた。
「え。本当にやるんですか?」
「それくらいしないと思い出さないわよ、あの色ボケさんは」
「誰が色ボケだ」
「あら。夢の中にはあなた達しかいないからって、大胆なことをしていたのに」
「は……」
「ほら。あなたもここでいつまでもこの子達に子守歌を歌っていることは出来ないでしょ」
「う、うう……。はい……」
じゃあすみません、とミーシャが言う。一体何のことだ、と丹恒が首を傾げた途端、後ろでガコン、と音がした。振り返り、先ほどまでそこにあったコンテナの影が、先ほどよりも低い位置にあると気付く。すぐに地面を見た。ずぶずぶと、まるで水の中に沈んでいくように、コンテナがその中に吸い込まれていく。
「……!? なっ」
「まあ、どうしましょう。こんなに大きな穴が……。このままではあの子が入ったままのコンテナが下へ落ちてしまうわ。――あの子を助けなくていいの?」
少女は余裕のある笑みを浮かべ、丹恒に尋ねてくる。すみませんすみませんすみません、とその隣でミーシャがそう謝りながら憶質を操作している。「止めろミーシャ」と伝えはしたが、彼はすみません、と言うばかりで、聞く耳を持たない。
柔和な笑みをその目元に浮かべ、少女は続ける。
「あなたはあの子を助けたいと思っている。そのためなら、どんなことにも身を投じるでしょう。それほどまでに彼の事が大事で、だから、そもそもこんなところまで彼を迎えに来た。あなたは優しい人だから、彼が眠っているのなら、無理に起こさずそのまま自然に目が覚めるまで待ったでしょうね」
まるでこれまでもそういった光景を見てきたように少女は言う。彼女は丹恒の方へ近づいてきて、「でもこのままではあなたも一緒に目覚めなくなってしまうわよ?」と尋ねてきた。それでもいいの、と。
「……それは、どういう、……――!?」
「あら?」
ぐら、っと不意に地面が揺れ、どこかで轟音がする。一体何の音だ、と音の出所もわからないまま、丹恒は周囲を見回し、少女に視線を戻した。少女は私じゃないわよ、と首を横に振り、少し冷静な表情で答える。
「それに――、……ねえ、ちょっと脅すだけよ。本当にここに穴を空けて、コンテナを下へ落とすつもり?」
コンテナが大きく傾く。切り取られたようにそこに空いた穴から、ぱちぱちと憶質が泡になってほどけていた。ずる、っとまたコンテナが滑っていく。
「え、えっと……それが……」
「……? なに?」
「さっきから何もしていないのですが、穴が……勝手に広がって行っていて……! ど、ど、どうしましょう……?」
元に戻そうとしても憶質が上手く動かせないんです、とミーシャが言う。彼の慌てたような表情と声から、どうやら演技をしているわけでもないようだ。うわあ! とミーシャが叫んだ。丹恒も、揺れた地面に、思わずその場に槍を支えに膝をつく。丹恒は少女に尋ねた。
「おい、本当に何も関係ないのか」
「今の私にそんな力はないわ。これは、……純粋なのも考え物ね」
「は?」
何がだ、と丹恒は訝し気な表情で彼女に尋ねる。
「さっきあの子にも目覚ましをかけたのよ。全然私の話なんて理解出来ないって顔をしていたのに――心の底ではそうかもしれないと思い始めてる。ここの夢の主は彼だから、彼が夢から覚める時にここも一緒に壊れてしまうわ。憶質が彼をもう一度取り込んで、夢境を再構築するまえに脱出しないと」
少女はもう悠長に構えている時間もないと悟ったのか、考えるように黙り込む。その後ろで、ずず、っと傾き始めたコンテナが、今にも落ちて行きそうになっているのが見えた。止められるとは思ってもいなかった。けれど体は勝手に動く。目の前で呆気にとられたように少女の目が見開かれる。丹恒はそれを振り切って、ついぞ落下していくコンテナを追いかけるように、迷いなく穴の中に飛び込んだ。
「ッ~~……!」
頬を切る風が冷たい。
体が受ける抵抗も、たなびく服の重さも、おぼつかない足元の浮遊感も、ただ真っすぐに下へ落ちて行くだけの感覚も、どうなるかわからない事への不安すら、今の丹恒にはなかった。この身が感じている感覚のどれもが、それらから遠い所にあった。
音は止まって、心臓の音だけがやけに大きく頭に響いている。自分がこの後どうなるかより、落ちて行くコンテナの中にいるはずの穹が無事かどうかだけが気になった。
夢の中の憶質は人の意識や感情に影響される。重い金属でできたコンテナは、この身一つより重いのだ。加速がつき、あっという間に宙で距離が開いていく。
ぼろぼろと脆い土壁が少しずつ零れて砕けていくかの如く、周囲には崩れ出した憶質が空中に泳ぎ始めていた。まだすべてが崩れるほどではなかったが、周囲に今の今まであったはずの生活が、すべて幻のように形を失っていく。すべての物がそうであるように。夢の中であっても。――そうだ。どうして今まで気付かなかったんだろう。ここは【夢の中】、だ。
「……――、っ!」
丹恒は目の前に飛び込んできた星槎の船底を、咄嗟に思い切り蹴って飛び上がった。ふわりともう一度宙に浮いた足の真下に、スフェロイドの球形車両がピンボールのように弾き出され、宙にいくつも浮いている。丹恒はその上を、飛び石を渡るようにして駆けた。
街の通りの一つを形作っていたアーケードの薄い屋根が、繋がったまま大きすぎる落葉のように落ちている。最後の球形車両から、槍をブレーキ代わりにしてその上に飛び移り、丹恒は縺れる足をそのまま無理に前へ動かした。落ちて行くコンテナに近づく。
あと――少し!
スコン! とその時、足が空を蹴った。空中で分解したアーケードの屋根がそこで途切れたのだ。体のバランスを崩し、あと一歩のところで手が空ぶる。届かない。あと少しなのに! ぐ、っと腕を伸ばしても、空を切るばかりか届かないまま離れていく。無力だ。何も出来ない――それが嫌で、どうしても、自分に何か出来ることがあるなら、何に変えてもそうしたかったのに。
どうして彼をこの夢境で見かけた時に「見つけた」と無意識に零したのか。一緒にいることが何ひとつ苦ではなかったのか。触れられることも、触れることにも不思議と嫌悪感はなかった。戸惑いは少しあったけれど、それも傍にいることに慣れると、その戸惑いも次第に薄れていった。
彼が笑うと、何故か胸のどこかが少しくすぐったくなった。誰かの所為で胸の中にそうやって、むず痒く感じるような感覚があることを初めて知った。それが、自分ではどうにもできない鼓動と共にあることも。
自分より彼の方が体温が高いから、触れている箇所にずっと日差しが当たっているようだった。心地よくて、気持ちがよくて、わけもわからず嬉しくて、意味のないやりとりや、怠い他愛もない仕草や言葉さえ、すべてが自分の中で何物にも代えがたいものになっていた。
もし、こうやって過ごしている日々が終わって、いつか彼と別れ、彼と過ごした日々の色々のことが泡のように消えて、すべてを覚えていられずに忘れることになっても、そうやって感じたすべての事が自分の中に残るのだろうと思った。この夢に――入る前から。
その気持ちの名前はまだ知らない。
伸ばした手が届かずに離れていく。見えているのに届かない。まだ行くな、その時じゃない、と焦る一方で、はじめからわかっていただろう、と頭の中で自分が囁く。わかっていた。旅はいつまでも続くわけじゃない。だから、自分はその夢から覚めた。それでも夢の外にはまだ残されている時間があって、彼も、あの列車で過ごすいつもの皆もそこにいたから。
決まっていることは、確かにある。ただ、たとえそうだとしても、そこに至るまでに自分が出来ることはまだ山ほどあって、やりたいことだって、やってやりたいことだって、伝えたいことだってまだ何一つ言わないままなのだ。いつか、いずれは思いがけなく訪れる。当たり前の事を、自分はわかっているようでわかっていなかった。
「……――!?」
離れていく指先が、不意にぐっと前に出た。後ろからとん、っと背中を押され、体が転がるように前に出る。宙でくるりと視界が回り、逆さになりながら微笑み、共に落下する少女がそこにいた。丹恒が目を見開き、彼女の名前を呼ぼうとすると、「やっと思い出したのね?」と彼女はその場で姿を変え、輝く羽を持つ小鳥になっていく。
小鳥は丹恒を通り過ぎ、そして傍に来ると、再び人の形を取った。彼女の小さな手が丹恒の手をぐいと掴んでいく。もう片方の手に握られたカードが宙へ放られ、そこから伸びた二つの腕が、コンテナと丹恒たちを掴んだ。
「ねぼすけさんのこと、最後までちゃんと宥めてきてくれる?」
少女が――ブラックスワンが尋ねてくる。丹恒は彼女にすまない、と謝るべきか、ありがとう、と伝えるべきか少し悩んで、ふと――彼女がこれまでの自分たちの「殆どすべて」のことを知っている、と気付いてしまった。喉まで出かかった言葉が、その瞬間ひゅっと奥に引っ込んでいく。代わりに出てきた言葉は「忘れてくれ……」という、彼女にしてみれば無理な願いだった。
*
ばしゃばしゃと水を蹴る音が聞こえてきて、穹はその音がする方向へ視線を向けた。海岸線に膝から下を浸し、誰かがこちらに向かって歩いてくる。遠くから見てもそれが誰だかわかっていたが、彼の手に見覚えのないものが握られていたから、やっぱり丹恒だ、と確信するまで少しかかった。
「穹」
無事か、と声が届くくらいの距離まで来て、丹恒は小走りに近づいてくる。穹はそこへ立ち尽くしたまま彼が来るのを待った。
「怪我は?」
「怪我……って何のことだ? あー、急にドアが開かなくなったから心配したんだよな? 大丈夫だって。怪我もないし、今はドアも開い、……あれ?」
先ほどまでここにあったはずのコンテナが忽然と姿を消している。どこ行ったんだ、と穹はこの周囲を見回し、きょとん、と首を傾げた。それから丹恒の持っている物にも。この砂浜に打ち上げられ転がっている、「なんかいい感じの枝」にしては少し整い過ぎている。
「それ……なんだ? 槍……?」
「……? ああ、これか。すまない、癖で持っていた」
「癖」
そんな癖今まで見たことないぞ、と思うのに、その一方で久しぶりに見たな、と思う自分もいる。丹恒は穹に言われ、その場で手にしていた槍を霧散させ手ぶらになった。それから、丹恒の何とも言えない視線にさらに首を傾げる。
「? なんだよ」
「いや、……何でもない。……――怪我がないならいいんだ」
「おー……うん? そりゃあ、だってただコンテナから出てきただけだしさ。というか、なんで俺たちここにいるんだ? ここって確か、最初に車輪の刻に来た時に着いた場所……で、あってるよな?」
何もない浜辺だけが遠くまで続いている。スウィート・ドリームシロップのような、曖昧な色をした海だってそのままだ。丹恒も自分も、先ほどまでホテルの空中庭園の中にいたはずなのに。なんでこんなところにいるんだろ、と首を傾げ、あ、でも許可を取りに行くのに丁度よかったか、と納得する。
「よくわかんないけど、これで下層区まで行けるから、なんだっけ……区画の責任者? 監督? に、下層区で勝手にドリームメイクで何か作ってていいか聞きに行けるじゃん。一旦戻ったら、ミーシャに非常口の場所聞いておこうぜ。また急にエレベーターがメンテナンスで止まるかもしれないしさ」
「……、……そうだな」
「どうかしたのか? なんか元気ないけど」
「気のせいだ」
丹恒はそう言って柔らかく笑う。なんだか見ているこちらがどきどきとしてしまうような笑みだった。そんな風に微笑まれることなんてあまりなかったから、思わず穹は驚いて目を見開いてしまう。丹恒は先ほどの穹と同じく、どうかしたのか、と不思議そうな表情で首を傾げた。
「いや……、なんかすっごい顔で笑うから……」
「すごい顔?」
「こっちの話……。な、なんか、むず痒くなるっていうか。もっと普通にしてくれるか?」
「普通……」
そう言われても何一つ変えた覚えなどないのだが、とでも言いたげに丹恒は自分の頬を軽くつまむ。鏡があったら見せてやったのに、と穹はそれを軽く笑って踵を返した。
――それにしても。
「……ミーシャが先に歩いて行った時は――どの辺から下層区が見えてたんだっけ?」
拠点までの案内をします、と彼が先立って歩き始めて、そう距離はなかった気がする。だが、この何の目印もない砂浜と海で、あの時の位置がどこだったかなんて覚えていられるわけがない。丹恒は覚えてるか、と尋ねたが、彼はさあ、と緩く首を振るだけだった。
「やっぱ、一旦目覚めてからホテルに戻るか? いや、そうするにしてもドリームプールがないんだった……。海ってドリームプールの代わりになると思うか?」
「憶質で出来たものという認識であれば、まあ代用は出来るんじゃないか。どこに出るかはわからないがな」
「事故りそう。やめとこ」
まあ、インターンの終了まではまだある。思い立ったその日のうちにすべてを済ませておいてもよかったけれど、急ぐ必要もないだろう。今日はこのまま散歩して帰るか、と歩いているうちにいずれ見つかるだろう、と穹は砂浜を歩き出す。ブルーの海は蒼くて綺麗だけれど、この夢でしか見られないようなオーロラに輝く海だって綺麗だ。……【ブルーの海】?
穹は浮かんできた言葉が、また泡のように消えてしまう前に、もう一度それが何だったのか考えることにした。自分の中にあって、不意に浮かんで、勝手に消えていく泡のような記憶達。それらは元々、確かに自分の物だった。
「……なあ、丹恒」
「なんだ?」
「さっきさ、俺、変な女の子と会ってさ。その子が言うには、この夢境は俺が創った夢境で、なんか……もう維持が難しくなってる? みたいでさ。そんなわけないだろ、って思うんだけど、……ずっと、変なんだ。知らないし、見たことないものとかが、なんかのきっかけで泡みたいにぽこぽこ浮かんできて、すぐに消えてくんだよ。それで、もし、本当に……あの子が言ってたみたいに、ここが俺が創った夢境での出来事だったら」
「……ああ」
「そうなったら、全部消えてなくなる……って、ことか? ……丹恒も?」
「いや。俺は消えてなくならない」
「なんで?」
彼はすぐにそう返してくる。安心させるための言葉ではないような、そんな気がした。確信があった。消えない、という確信が。
尋ねた言葉を顔を見てちゃんと聞きたくて、穹は丹恒を振り返る。けれどその前に、水平線の向こうにぽつん、と何か影がある、と気付いた。
「……なんだろ、あれ」
穹の言葉に丹恒も視線を海の方へ向ける。浜辺から少し離れた場所に、箱のようなものがぽつんと佇んでいるのだ。よく見ると、その根元にきらりと光る梯子のようなものが伸びていて、それはこの浜辺のすぐ近くまで続いている。穹は気になって、波打ち際に近づいていった。
砂浜の途中に、砂に埋もれた枕木がある。その上にはもちろん、レールが敷かれていた。レールも枕木も少し古いが壊れてはいない。
海の上にぽつんと転がっているその四角い何かまで、そのレールは真っすぐに伸びていた。穹はそのまま、ざばざばと波を掻き分け、レールの上を伝って、浅瀬を歩くように海を歩いていった。引き寄せられるように、ただそこへ近づいた。少しだけ進んでから、「丹恒も行こう」と振り返ると、彼は頷きもせず、ただそうすることが当然のように穹の後を黙ってついてきた。
少しずつ近づいていくにつれて、その箱の全貌が見えてくる。窓が並んだ車両の一つ。レールの上をちゃんと進めるように、動輪だってついている。
周囲はまだ水位が浅く、レールから外れて車両を見ようと海に落ちても、まだ膝の下あたりだった。中の様子は何故か見えない。ドアを見つけて、穹は丹恒を呼び寄せた。
「中に入れそう」
「……ああ」
「失くしたコンテナの代わりかな? いいもんみっけ」
とはいえ、ドアはどうやって開くのだろう? 取手はあるにはあるが、指を引っかけて引っ張るような作りではないような気がする。また強く引っ張らないといけないかな、とひとまずドアに手をかけると、拍子抜けするくらいにすんなりと、ドアの方から開いていった。自動ドアなら先にそうと言っておいてくれ。
ともかく、これで中に入れる。穹は先に中を覗き込んで、そのまま車両の中によじ登った。後から登ってくる丹恒に手を貸し、漸く車両の中を見る。それからはっと息を呑んだ。――ここは。
「あれ? ……コンテナの中だ」
あのコンテナの中にあった場所だ。
床は柔らかな緑で覆われ、設置された座席を苗床に、いくつも花が咲いている。廃墟と言うには少し美しくて、植物園と言うには少し退廃的すぎる。あの場所だ。全く同じ。ここだよ、と穹は丹恒に言った。
「ここのこと、さっき教えようとしててさ」
「……ここを?」
「そ。いいとこだろ? 丹恒も気に入ると思ったんだよ。ここがさっきまでコンテナの中にあったんだけど……」
何故列車の車両になったのかは、理由もわからない。丹恒はぼうっとして、車両の中をじっと見つめている。丹恒は植物や花を調べるのが好きだから、きっとここも気に入るだろうと思ったのだ。穹は少し壊れてはいるが、座り心地はそう悪くないソファに向かって歩いて行って、先にそこへ腰を下ろした。鑑賞するなら座っても出来るだろ、と丹恒を隣へ促す。
「おわっ!? ……なんだ?」
不意にガタン、と車両が揺れた。
思わず穹は座ったばかりの座席から飛び起きた。横に数回、それから縦にも。縦の揺れは断続的に続き、穹は思わずよろめいて、その場で踊るように踏鞴を踏んだ。ぼす、っと丹恒に抱き留められて漸く止まる。
「ありがと……」
「大丈夫か」
「平気平気。それよりなんで急に揺れたんだ?」
地震か、と首を傾げ、穹は入ってきたドアから、顔を出し、外の様子を窺おうとする。そして、ゆっくりと――砂浜から、この車両が遠ざかっていることに気付いた。は、と思わず下方へ視線を向ける。車輪が前へ回っていた。
「う、動いてるんだけど!?」
嘘だろおい、とどこに動力部なんてあった、と困惑しながら穹は一度顔を引っ込めようとする。丹恒の手がすっと伸びてきて、開けていたドアを何故か閉めていった。何で閉めるんだ、と尋ねた丹恒の肩に、いつの間にか蝶が止まっている。そういえばさっきもコンテナの中で見たっけ、と穹は静かに彼の肩から離れ、車両の中に咲く花々の間を飛ぶ蝶からやっと視線を丹恒に戻した。
「外の様子なら車窓から見れる。ふざけてドアから落ちる前に閉めておけ」
「ドアから転がり落ちるほどふざけないって。……ってか動いちゃったぞ。いいのか? 下層区からどんどん遠ざかってるけど」
「今日はそういう日なんだろう。諦めろ」
「そう? じゃあ……丹恒がいうなら、このままちょっと旅するかあ」
夢境の中を散策するのも楽しいものだ。ましてや、この夢境は他の夢境と違って、既視感があるのに新しい。例えば、黄金の刻のように終わらない夜のような煌めきはないし、熱砂の刻のように、草原や弾けるスラーダのような興奮も熱狂もないけれど――、……あれ。黄金の刻って、どこだっけ。
「……――、……」
今目の前にあるものが、どこまで夢で創ったもので、どこからが本当の物なのかわからなくなる。押し黙った穹に気付いて、丹恒はどうかしたか、と不思議そうな顔で尋ねてきた。それを「な、なんでもない」と言って誤魔化して、安全運転で頼む、と誰に言うでもなく、勝手に動き出した車両に話しかけるように言って、さっきまで座っていた座席に戻る。しばらくして、丹恒もその隣に腰掛けてきた。
車窓の向こうは、今薄紫だ。
夜明けの色だ。夜にミルクを混ぜて薄く伸ばしたような神秘的な色。光が強くなってくると、次第にピンクや黄色や白が混ざって、目を開けていられないほど輝いていく。ぱら、と何かを捲る音が聞こえて、穹は音の方へ目を向けた。丹恒の手にいつの間にか本があって、彼は【いつものように】ぼんやりとそれを捲っている。
車窓の向こうが蒼くなった。
目の覚めるような色だった。澄み切った雲一つない空が車窓をゆっくりと流れていく。初めて見降ろした海の色もこれと似ていた。海の色が蒼いのは光の反射によるものなのだと丹恒が【前に】言っていた。空もそれと似た理由で青くなる。光の中には何色も見えない色があって、波長の短い青は散らされやすく、他の色よりずっと目に入りやすいとかなんとか。詳しい事は話半分に聞いていたから覚えていない。
丹恒の視線がふと本から上がった。彼はそのまま、窓の外の青をぼんやりと眺めだす。さきほどから感じている違和感が何なのかまだ言葉に出来ない。胸の奥がすんとして、きゅっとなる感じだ。くっついてたら少しは和らぐかな、と思って、頭を丹恒の方へ傾ける。彼は頭を押し返してくることもなく、ただ黙って肩を貸してくれた。
車窓の向こうが赤く染まっていく。
さっきまで真っ青だったのに、この車輪の刻ときたら、朝が二回も三回も、ころころと回る車輪のように空模様を変えるものだから情緒に浸っている暇もない。さっきまで澄んでいた空が赤くなり始めた途端、車窓からこの車両の中にまで入り込んできて、そこに咲いている美しい花々の色まで盗っていく。
夕暮れ時にそもそもあまり馴染みがないかもしれない。【ヘルタ】には時間の経過を光で感じるような場所はあまりないし、【ベロブルグ】は少し陽が落ちてきたと思ったらすぐに夜になっている。【羅浮】は洞天によってその時々でまるで各夢境のテーマの時間のように同じ時間で止まっている場所もあるから、長居しない限りは黄昏れることもないのだ。映画で見ることの方が多いかもしれない。すぐに溶けて、夜になってしまうから。
そうこうしているあいだに車窓の向こうには夜が来ている。
車両の中には柔らかな光が燈ったままだ。明るい色のそれは、車窓の向こうの夜の上で余計に色鮮やかに見える。空に、静かに星が輝き始める。星はただ瞬きもせずちりばめられて、見ても見ても見飽きない、酷く馴染みのある空になる。丹恒の肩を枕にしながら時々そうやってただぼんやりと流れていく星を見ていた。【見ていたのだ】。ここではないどこかで。
「――……、……」
穹はゆっくりと頭を丹恒の肩から離した。丹恒の視線がこちらの様子を窺うように穹を見つめてくる。なんだ、どうかしたか、と続く彼の声の前に、穹は言葉に詰まった。デジャヴ。柔らかな声と、くすぐったくなるような笑みと、こんな風に、二人でいることに慣れてしまった警戒心のない態度。パチン、とその瞬間何かがそこに当てはまる。――……あーあ。そっか。
「……――夢だ、これ」
夢を――見ていた。見ようとした。旅をする夢を。
気付いてしまったら、もう気付かずに過ごしていた日々には戻れなかった。あの夢の泡と同じように。彼にまだ見ていないものを見せたかった。夢の中でまで自分たちと一緒に旅をしている、そんな、今の彼にとっての当たり前の夢が、いつか終わると分かっていても、いつまでも続いてほしいと――彼が願ったささやかな夢を、丹恒は途中で『覚めて』しまったから。
だからせめて、夢を見ている間くらいは、彼の願いを叶えてやりたかったのだ。
「――どこまで行く?」
穹は丹恒に尋ねた。だが彼は「もう十分楽しんだ」と言う。柔らかく微笑んで答える。「連れてきてくれてありがとう」
「……なんだ。お前も、もう夢だってわかってるんだな」
「気付いたのはそんなに前じゃない。ついさっきだ。それまで全く気付かずに過ごしていた」
「ホントにィ?」
「じゃなきゃ先に叩き起こしてる」
「それはゴメン」
一体今、夢を見ている自分はどれだけ眠っているところなのだろう? 穹は、はー、と体から空気を抜くように息を吐いて、もう一度丹恒に凭れかかる。
「……お前は一体、何がしたかったんだ?」と丹恒がこの期に及んで尋ねてきた。「お前、折り紙大学なんて行ったこともないだろう」
「うん、ない。にしては良く出てきてたと思わないか? やっぱ俺って天才かも。マジでドリームメーカーになれるんじゃないか? 起きたら答え合わせしようぜ」
「学内には学生しか入れないと思うが……」
「通してっていったら入れてくれるかもじゃん。株主様だぞ。……――で、【何がしたかった】か?」
「ああ」
「そんなの決まってる。……『お前とずっと旅がしたかった』」
一緒にいたかった。何も知らない自分たちの前に、現れては既知になっていく未知を、彼と見てみたかった。たったそれだけだ。
望むものひとつ、なかなか口にしてくれない丹恒が見ていた夢の話を聞いた時、そんなの、いくらだって一緒にいてやる、と思った。でも、それが出来ないということも同時に分かった。既に解けていた謎々の答えのように、始まった瞬間にそれはもう決まっていて、自分にはその結末をどうすることも出来ない。もちろんそれはなんだって出来る丹恒も同じだ。
「夢の中でなら出来ただろ? どこで終わるかわかってる夢の中で、もう一回旅をするのもたのしかったけどさ。あの夢の泡じゃ……、丹恒はもう、どこで旅が終わるのか知ってた。だからさ、夢の中だけでいいから、俺も丹恒に何かしたかったんだよ」
「何故、」
「何でって。俺がそうしたかったから。……あー、……あー!? てか、俺たちなんか色々すっとばしてないか? 俺が丹恒のこと考えてるあまり、再会してビビビッて来たのを一目ぼれなんて言ったから」
「俺も似たようなものだったが」
「これについてはすぐ答えを出すのは控えよう。親友はキスくらいするかもしれない」
「それ以上は」
「……、するかもしれない?」
「……はあ。まあ、確かにここでする話でもないな。起きてから考えよう」
「――覚えているかはわからないけれどね」
うわあ!? と穹は思わず飛び上がりそうになった。急に、会話に知らない少女が――いや、知っている友人の面影がある少女が入ってきたから。そういえば、と漸く頭の中で少女の既視感が結びつく。
「ブラックスワン、お前……憶質がなくなって縮んじゃったのか!?」
「ふふ。そんな風船のような存在ではないわよ。ここではあなたの潜在意識の影響を受けているだけ。……それで――あなたの望みはこれで叶ったのかしら? 楽しいお話はそろそろ一度お預けにしていいかしら」
もうあまり時間がないの、と彼女は言う。もうどのくらい夢の中にいるのかわからないが、随分こうして過ごしていたような気もする。わかった、と頷いた穹に彼女は柔らかく微笑んだ。
「っていっても、どうやって帰るんだ?」
「この夢境はあなたが創り出したものだから、あなたがそうと望めばそれに夢境もいずれ応えるわ。それに、まずはここから少し浮かび上がらないと」
ああ、そうか。ここもまた【夢境】なのだっけ。夢の中の夢の中の……と自分が一体どの位置にいるのか穹も分からなくなって、わかった、と一度頷いた。
穹がそう頷いた途端、ゆっくりと動いていた車両が静かに動きを止めた。この旅の終わりが近づいているとでもいうように。もう少しここでこうしていたかったが、仕方がない。少し長く夢を見過ぎた。
一旦目覚めてこの夢境の外に出なければならない。ドリームプールは近くにないが、憶質を含んだ水という点で言えば、丁度周囲はそれとほぼ同じようなものだ。列車を降りてそのまま浮かび上がろう、と穹は二人を促した。
列車の周囲はレールが敷かれているからか、まだ水深もそう深くはない。丹恒は一度様子を見てくる、と真っ先に止まった列車から降りて、周囲の様子を注意深く調べた。数メートル離れるくらいであれば膝下程度の水深であることを確かめ、少し高さのある車両の上から、まずブラックスワンを抱えて車両から下ろした。あとはお前だ、と差し出される手を取り、車両から飛び降りようとする。そうする前に、そういえば、とふと穹は思い出して二人に尋ねた。
「なあ。ミーシャは?」
「……ミーシャ?」
「うん。一緒にいただろ」
「あれは、……彼もお前が創り出した夢境の一部なんじゃないのか?」
「え? いや……、」
確かに本人ではない気がするが、全くの別人、というわけでもないような気がする。ただの勘だ。根拠もないし確信もない。言い淀む穹にブラックスワンが答えた。
「彼は『ここに残る』と」
「残る? 何で?」
「……あなたが無事に外に出られるまで、ここが崩壊しないようにするためよ。今この場所は、膨大な記憶域の中で『二つ目のピノコニー』という形を取っている。私たちはここから出るための方法をわかっているわ。目覚めるだけだと。けれど、あなたがここを離れることで、形作られた夢境が崩れ、無秩序な記憶域に戻ってしまえば――私は兎も角、あなたたち二人はきっと一人ではここを出られなくなる。一応私にも保険はあるけれど、出来るだけすべてが崩れてしまう前に出た方がいいわね」
「なぜミーシャが残ることでこの夢境の形が保たれるんだ」
丹恒が尋ねる。彼は元々、ねぼすけさんが夢から目覚めるきっかけだったから、と彼女は続けた。
「初めて訪れたピノコニーで彼を迎えたあの子は、少し事情が特殊なの。他にも彼の記憶から同じ姿を借りたアバターはいるけれど、彼は元から、ほぼミーム生命体のようなものだった。あなた達も、彼についてはもう知っているでしょう? ここは、ねぼすけさんが真っ先に消してしまった所為で目覚まし時計もコンパスもない。だから、いざという時はあなたのことを助けるつもりで、あなたたちの後を追いかけてきたんじゃないかしら。彼からすれば、手のかかる後輩だもの」
ブラックスワンの揶揄するような言葉にすこしだけむすっとして、穹は一度もう見えなくなっていた海岸線の向こうへ視線を向けた。本当のさよならはもう少し後だ。言える機会はまだある。わかった、ともう一度丹恒の手を取ろうとする。だが、伸ばした手が触れる前に、がくん、と何故か体が横に揺れた。
「えっ」
一瞬時が止まる。すか、っと掴もうとした手のひらが空を切る。視界が傾き、夜空と星が目に入った。続けて、踏鞴を踏みながら後退し、背中を強く打ち付ける。穹、と丹恒の焦る声がした。
「ったた……、なんだ? 何、……――え」
車両が、動いている。
え、なんで、と穹はわけもわからないまま、すぐに立ち上がって車窓から顔を乗り出した。レールの上を再び走り出した列車は、どこかに真っすぐに進んでいく。ばしゃばしゃと水音を立て、列車を追いかけ丹恒が走ってくる。列車に徐々に加速度がついてきて、まずい、とさすがに頭でも警鐘が鳴りだした。何か様子がおかしいぞ、と。
「――穹! 飛び降りろ!」
「……が、合点承知!」
丹恒が叫ぶ。何故急に列車が走り出したのかはわからないが、このまま二人とはぐれてしまうのは拙い気がした。穹は言われるまま、開いたままだったドアから飛び降りようとする。だが、その前に開いたドアが勝手に閉まってしまった。嘘だろおい、と無理矢理こじ開けようとするがドアはびくともしない。
「そりゃ運転中なんだから開くと困るけどさあ! お、降ろし――降ろせーっ!」
ガンッ! とドアの向こうから音がする。続けて、車窓がけたたましく音を立て真横で割れた。目を点にしていると、そこから一本槍が降ってくる。投げ入れられた槍はすぐにまた霧散して消えて、ガッ、ともう一度ドアの向こうから鈍い音を立てた。
窓枠に残ったガラスを邪魔だとばかりに砕いて払い、「穹!」と丹恒が車窓の向こうから手を伸ばしてくる。あれこれと言葉が頭に浮かんだが、伸ばされた手を穹は迷いなく掴みに行った。――だが。
「……ッ!?」
がくん、とまた視界が傾く。今度はなんだ、と戸惑いながらひとまず丹恒の手を掴んだ。鳥が真っすぐに滑空し、傍で再び少女の姿に戻る。「あなたが出て行こうとしているのに【気付かれた】。扉を創るからはやくこっちへ!」
「気付かれたって……こ、ここって俺の自由自在じゃないのか!?」
「いいえ。正確には少し違うわ。ここでのあなたの望みを叶えるために、星核の影響で変質した憶質があなたの願いを何でも聞き入れていただけで、その実、本当はあなたをそのまま次の核として取り込もうとしていただけよ」
「え!? なにそれ怖ッ」
丹恒に引っ張られるが、彼もドアの隙間に突き刺した槍を支えに車両の側面にしがみ付いているようなものだったから、ずる、っと足元のバランスを崩して落ちそうになる。それを支えるように、どこかから大きな腕が伸びてきた。ブラックスワンのカードから飛び出してきたものだ。よかった、とそれにほっとしたのも束の間、ごうごうと何かの物音が近づいてくる。なんだ、とその音に視線を向け、月明かりで照らされたそれに、穹はひゅ、っと息を呑んだ。
――海岸線がそこで途切れている。
そしてレールもまた、そこから少し上に伸びて、それきり途切れている。このままのスピードでいけば、恐らく少し高く飛び上がった後、勢いを失い、切れた海溝の中にこの車両ごと真っ逆さまだろう。丹恒もそれに気付いた。真下に鱗淵境でも今から造ろうか!? と尋ねるのはさすがに止めた。そう尋ねる時間すらなかったから。
やばいやばいやばい、と焦燥感を募らせる前に、車両はそのまま途切れたレールから外れ、宙に飛び出した。ぐい、っと手前に引っ張られ、丹恒に掴まれて車窓から外へ抜け出す。ぎゅう、と丹恒にしがみ付いたまま、穹は一緒に離れたブラックスワンが、咄嗟に真下にカードを投げるのを見た。空間に扉が現われ、ドアが開き、四角い穴の中で憶質が渦を巻いているのが見える。どこに出るものなのかはわからなかったが、ブラックスワンが用意したものだ、妙なところには出ないだろう。
慌ただしい出発になってしまった、とぼんやりと考えていたのに、不意に後ろから何かに引っ張られるような感覚がある。くんっ、と思いがけなく、何かに引っかかったかのように、体がぴたりとそこで止まってしまう。
「えっ」
「……!? きゅ、」
離れていく丹恒の手が、またこちらに向かって伸ばされた。それを掴もうとして、僅かに指に触れただけで手が空を切る。驚愕に目を見開く二人が、そのまま開いた扉の中に落ちて行くのを――穹だけが見送った。
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