あなたのために、生きていた気がした 短編
ゆっくりと、目が覚める。
相も変わらず感じるもう一つの匂いに、少し、息を吸う。
時間を確認するため、携帯を手に取る。こちらも変わらずアラームより早い時間のようで、今度は小さく息を吐いた。
ゆっくりと、彼を起こさないように体を起こす。慣れきっていたはずのことなのに、誰かを起こさないように物音を立てない、なんてことが少しだけ難しく感じる。それでも昔と比べると遥かに心持ちの良くなったその行動が嬉しくも感じていた。
洗顔や歯磨きを洗面所で終え、台所へ向かう。冷蔵庫から今日の朝食用の材料を取り出し、音を立てないよう閉めた。段々と起きてくる時間だろうか。小さく衣擦れの音が聞こえて、早く作ろうと動きを早くする。もちろん、音は立てすぎないように。
いつものことではあるけれど、今日も今日とて朝食は簡単なものだ。時間のある時にはなるべく色々作るけれど、仕事のある時はどうしても時間がない。それを彼は許してくれたから、わたしはそんな彼に甘えてばかりだ。
溶き卵を焼いていたところで声が聞こえる。その声に柔らかくなるよう心がけながら応えて、朝食の準備を急いだ。いつも通り、朝食を作っていることに気づいた彼は慌てたように朝の準備を始めていた。
洗顔と歯磨きを終えた彼が隣に並ぶ。何かやるべきことはあるだろうかと告げる声に、ならばとお皿を並べてもらった。お礼を言ってくれた彼にまた応えてから、最後の仕上げにかかる。
わたしの匂いと、彼の匂いと、焼けた玉子やパンの匂い。そんな匂いに包まれながら、食卓へつく。
「「いただきます」」
並んで挨拶をするのも、もう慣れたことだった。
いつも通りの味のはずなのに、目の前の彼は美味しそうに食べて、感想まで言ってくれる。そんな彼の温かさに微笑みながら、「ありがとう」と口にした。
こんなにも朝が穏やかで、優しかったことなんて、きっと今までなかった。
だから、またいつも通り。わたしはこの場を離れがたくなる。いつまでも包まれていたいと、欲望が顔を出す。
けれどわたしは社会人で、今日も仕事だから、きちんと行かなくてはならなくて。その義務感を手にしながら、必死に欲望を抑える。
きっと、今までと比べたらその欲望も大事なのだろう。ここまで抱えられたことは、わたしが少しは回復したということだろう。それでも。大人として超えてはならない一線の先を行かないよう必死に抑えつけて、食器を片付ける。仕事の準備を始める。
これもまたいつも通り、彼が食器の片付けを申し出る。その申し出を有り難く受け入れ、洗面所へと向かう。
メイクをして、スーツに着替えて。そうしたら仕事用鞄の中身を確認して、玄関へ。
彼は音で気づいたのだろう。こちらにやってきて、柔らかい笑顔で「行ってらっしゃい」と口にした。
「行ってきます」
そう声をかけたらわたしも出発だ。手放したくない平穏を一時的に手放して、仕事場へ。少しだけ憂鬱な、けれどもう慣れてしまった。そんな、当たり前の場所へ。
こんないつも通り、きっと今までのわたしにはなかった。心は擦り減ってばかりで、顔色はきっと悪くなっていくばかりで。
きっと、これが幸せの形なのだろう。大切に心の底に仕舞っておきたいこんないつも通りが、きっと幸せの色なのだろう。
それがいつまでもは続かなくとも。いずれ終わってしまう世界だとしても。
それでもいい。どうか、今だけは。この幸せな夢に、溺れさせて欲しい。
夢から覚めたら、その時はきちんと自分の足で歩いていくから。
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