攻防



金曜の夜。
譲介は読書をしているパートナーの膝に頭を預け、タブレットでこの一週間のランセットのトピックを斜め読みしていた。
パートナーと共に過ごす久しぶりの時間だと言うのに、こんな風にベッドに移動しないでいるのは勿体ないとは思うけれど、このところの疲れがピークに達していて、一度ベッドに入ってしまったが最後、どうにも起き上がれる気がしない。
二十代の体力が欲しいですと言いながら、近所の書店で買って来たらしいベストセラーのペーパーバックを読んでいるTETSUの指先に音を立ててキスすると、ベッドでの三十代と六十代の本気の体力勝負を持ちかけようとする雰囲気でも感じたのか、年寄りを殺す気か、と言って彼は眉を上げた。
本気で自分のことを年寄りだなんて思ってないくせに。
現役の医師であろうとなかろうと、僕は一生あなたを年寄り扱いなんてしませんからね、という気持ちで譲介が小さく笑みを浮かべると、TETSUはそんな譲介を見つめて、ため息を吐き、分厚い本をテーブルに置いた。
「譲介、おめぇ、明日と明後日の飯はどうする?」
「え?」
予想外の話に、譲介は顔を上げた。
「夕飯ですか?」
「準備してあんのか。」と聞かれて、譲介はいいえ、と答えて自分も同じように手にしていたタブレットをローテーブルに置いた。
先月のように、どちらかがオーバーワークのタイミングでもなければ、TETSUが普段の譲介の食事を気に掛けることはまずない。
逆のパターンは数限りなくあるにはあるが、互いにいい年の大人であることだし、プロポーズを終えて正式にパートナーとなって以来、時間を合わせて食べる朝食や、譲介が「作りたい」と思ったタイミング以外は好きに食べるようになってきている。
今の発言はまさか、レストランでのデートの誘いの前振りだろうか。
記念日もないのに珍しいな、と思いながら、譲介は彼の左手にきらめく指輪を眺める。それが一般的なデートプランとしてテンプレート化されていた時代を生きていたせいか、譲介が愛する年上の人は、意外なことにレストランでの食事の後はホテルで宿泊するというベタなデートが好みだった。ついでに言うならサプライズも。
いやいや、徹郎さんだぞ。
期待しすぎるのは禁物だな、と逸る心を抑えて「予定はないですけど。」と口にすると、「ならいい。」と彼は言った。
ならいい?
あまりにそっけない返事に、譲介は心の中で首を傾げる。
「……今のって、どういう意味ですか?」
「明日明後日と義理掛けで一度日本に戻ることになった。おめぇがサプライズの予定でも立ててたらコトだと思ってな。」と言って、彼は面倒そうな顔を隠さずに、髪の下のうなじを掻いた。
義理掛け、という言葉を使うということは、かつての彼と付き合いが深かったヤクザか政治家に何かがあったのだろう。
たった今、僕が感じた期待と最大限に出力された下心を、開胸してあなたに見せてあげたいです、と医療従事者らしからぬ非科学的なことを考えながら、譲介は大きなため息を吐いた。
譲介自身は家族との縁切を終えた身の上であり、冠婚葬祭なんてものとは縁がないままに暮らして来た。天涯孤独だというこの人も同じだろうとは思っていたけれど。過去にも一度、歯医者に行って来ると言ったきりパスポートを手にふらりと家を出て、やはり三日で戻ってきたことがあった。
実際に歯医者に行きたいという気持ちはあっただろうが、他に、譲介には知らせないでおきたいと彼が考えているプライベートの用事をそこで済ませて来た可能性もある。
かつてのこの人は、裏社会に生きる医師として、同じ世界に生きる、後ろ暗いところのある数多の人間を顧客として抱えていた。その中に、一度縁を切ったところで無視できない相手がいたとしてもおかしくない。
「………このところ難しい顔をしていたと思ったら、そういうことですか。」
顧客情報を入れたスマートフォンをこちらに来るときに一度解約したと言っていたのに、今は一体どこからそういう情報を得ているのだろう。譲介が、錯綜した感情を表に出すのを抑えて小さな微笑みを作ると、彼はそっと目を逸らし「分かりやすくて悪かったな。」と拗ねたように言った。
「僕とあなたの付き合いの長さですよ。」
手を伸ばすと、彼は譲介の手を取った。
自分がしたのと同じように指先に口づけされて、くすぐったいような気持ちになる。
だから、こんなにも嬉しい気持ちに泥を塗るようで、老獪なところのある彼が、今の仕草で何かを誤魔化そうとしているのではないかと疑うのは嫌だった。
そうはいっても、まあ、今のはいつもの徹郎さんの作る間、というか、「お誘い」の流れとしては不自然だよなァ、とは気が付いている。
そっちがその気なら、譲介も対抗せざるを得ない。とはいえ、探りを入れていると直ぐに分かるような話し方はダメだ。勘の良いこの人には、すぐ気づかれてしまうだろう。
旅行についていくことを断念したような素知らぬ顔で「もう準備は終わってるんですか?」と尋ねる。
「フォーマルはケースに詰めた。まあ、後は最低限、パスポートと現金と歯ブラシさえありゃいいだろ。」
「冠婚葬祭のうちの、三番目辺りの用事ですか?」と言いながら譲介は腹筋を使って起き上がり、彼の隣に腰かける。
褒章の類であれば、鼻で笑いながら話の種にするような人だ。
やはりというか、「まあそうだ。」と彼は頷き、譲介もその名前だけは知っている都内の斎場の名を挙げた。
「どっから伝手を辿って来やがったのか、クエイドの事務方に葉書で届いてたんでな。」と言われて得心した。こちらに来てから買い換えた彼の新しいスマートフォン宛でも、この家に宛てての便りでもないとしたら、確かにそのルートが一番確実には違いない。
「その葉書、僕も見ていいですか。」
「隠すようなもんでもねえ。」ほらよ、と言って、彼はテーブルに置いた本ばかりの本から一枚の葉書を取り出した。栞代わりにしていたらしい。
手にした白い葉書の裏には、葬式ではなく告別式とあり、開催時間が記載されていた。式の時間は通常の葬儀よりは長いようだ、と思っていると、「人間回転寿司の要領で献花して仕舞だ、おめぇが思ってるほど、時間は掛からねぇよ。」と彼は言って、また譲介から葉書を取り上げた。ペーパーバックは、そのまま荷物の中に入れていく予定らしい。
日本に帰国したとして、何か危険があるのだろうか。
そうでなければ、ただ告別式に出るためだとしても、週末に何の予定も入っていない譲介を、日本行きに誘わない理由はないはずだ。普段の彼であれば、それこそ『若けぇんだから、年寄りの荷物持ちをしろ。』とふんぞり返って譲介を誘うはずだ。そもそも、今週末の予定はずっと入っていなかったのだから。
もし今回の用事が、日本で彼を庇護していた人物が亡くなったのであれば、その機に乗じたタイミングで、恨みを買った誰かに狙われる可能性でもあるのだろうか。
取り越し苦労であればと思う懸念に、譲介は眉根を寄せた。
どうした、と問われ、譲介は口を開くべきか迷った。
戸惑って口を噤むだけでは、伝わらない、そのことは分かっている。
「徹郎さん。今回の旅行、僕を連れていくのは、あなたにとって負担ですか?」
「そういう訳じゃねえ。そもそも、仕事はどうするつもりだ。」とTETSUは言葉を濁す。
今でも丸くなったとは言えないが、この人の性格では、かつての居場所であったどこで逆恨みを買っていたとしてもおかしくない。そのことについて、自覚がないとも思えなかった。
パスポートの期限はまだ残っていたな、と譲介は頭の隅で判断する。
「一緒に行きます。」と言うと、案の定、間髪入れずに「おめぇが来るほどの話でもねえよ。」という言葉が返って来る。
逆に、これは、僕が引くべきタイミングではないようだと譲介は判断する。
プライベートの時間にまで、物わかりのいい大人の顔はしたくなかった。
「葬式というのは、一般的にはパートナーと顔を出すものでしょう。僕じゃ、頼り甲斐も半分くらいでしょうけど、連れて行ってください。」と彼の手を握る。
「……。」
そこで黙るんですか。
ダメ押しで、K先生の顔も見たいので、というと、TETSUは眉を上げた。
「何年振りだ?」と問われて、そこには食いつくんだな、と心の中で譲介は苦笑した。
「正直、非常に不義理を続けているので。」
『非常に』のところを強調すると、彼は苦虫を嚙み潰したような顔になった。
「五年かそこらだろ。アイツに頭を下げに帰国したのをオレが知らねえとでも思ってんのか?」
メディカルスクールを卒業してすぐに、この先アメリカに骨を埋めるかどうかは分からないけれど、クエイドでの就職を決めたと先生に告げに行った。
理由は言えなかった。
遠く離れた場所に暮らしていたこの人のことを思うなら、一度日本に戻ることが最善だろうと譲介も思っていたからだ。
あの時、先生には、お前の人生だと言われた。
突き放されている感じはなく、ただ巣立ちを寿ぐような口調で、あの時の譲介は、この先も精進しますという言葉を口に出すだけで精いっぱいだった。
それから数年。
年上の人との同居を再開して、結婚に至ったことの次第は、妙に仕事が忙しく帰国の余裕もない時期だったので、ビデオ通話で報告することになった。
K先生に、今幸せかと訊かれ、彼との今の生活が、村で過ごした日々と同じように大切です、と譲介は答えた。すると、就職の報告をした時と、同じ言葉で祝福をされた。それから、喧嘩をしてもここへは戻って来るなと。
喧嘩はしません、出来っこありません、と泣き笑いの顔で答えると、分からんぞ、と先生に言われた。
譲介を良く知る人の言葉は、やはり当たるもので。この人と何度か喧嘩はしたけれど、どちらかが家を出ていくほどの決定的な軋轢には発展しなかった。
そういえば、もうすぐ三度目の結婚記念日がやってくる。
「手土産をたくさん持って行って、ふたりだけの式になったことを先生に謝りたいな。」と言うと、仕様のねぇガキだ、と言われて、頭をくしゃくしゃと撫でられた。
「そうしたいのならアイツに会いに行ってこい。」と言われて、譲介は笑い出したくなった。
何を他人事みたいな顔してるんですかあなた。
「……何だよ。」
「徹郎さん、僕はその時、隣にあなたがいてくたらいいだろうな、と思うんですけど。一緒に来てくれますか?」
そう言って、もう一度彼の手を取ると、彼は困り顔になった。
やっぱり、僕と結婚したことを知っている人に公言するのは抵抗があるのだろうか。
なんとか説得出来ないものかと譲介が頭を悩ませていると、相手が先にため息を吐いた。
「五時間もありゃ、飛行機に飛び乗って戻って来れる腹積もりだったが、あの山奥まで行くってんなら、そういう訳にも行かねぇな。」と彼は吹っ切れたような顔で言った。
「おい譲介、戻りは月曜の仕事に間に合わせるつもりはあんのか?」
「そんなには……。」
「お忙しい神代のヤロオのことだ、今から連絡したところで、昨日の今日じゃ、週末村にいるかどうかも分からんだろ。連絡はしておけよ。」と言って、彼はテーブルに手を伸ばして、譲介が使っていたタブレットを取った。
TETSUはタッチパネルを使い慣れたような顔で操作して、早速、航空会社のチケットを調べている。
そういえば、そうだった。この人を筆頭に、これまでに譲介の師事した人たちは、皆一様にフットワークが軽い。
「……ったく、鳩が豆鉄砲を食ったような顔しやがって。おめぇもいい年なら、ちったあ考えて物を言え。戻りのチケット取れるかもわかんねぇぞ。」
葬式は止めだ、と言って、TETSUはタブレットの画面をスクロールしている。
「え?」
「え、って何だよ。」
「いいんですか?」
「オレが行ったところで、相手はもう骨だ。」
写真に恨み言を言ったところで、今更何になるってんだ、と心底つまらなそうな顔で、彼は言った。
「何も、通夜と葬式だけが悔やみを言う機会って訳でもねえ。辛気臭ぇ顔したヤツらと面を突き合わせてぇ訳でもねえからな。線香でも送っときゃ形は付くだろ。」
生きてる人間が優先だ、と。
踏ん切りを付けるように、あるいは自分に言い聞かせるようにして彼は言った。
そこは僕の名前を言うところなんじゃないでしょうか、と思うが、まあこういう人を好きになってしまったのだから、仕方がない。
「ありがとうございます。」と譲介が答えるのと、チケット取れたぜ、と言うTETSUの答えは同時だった。
譲介は、慌ててテーブルの端に置きっぱなしにしておいたスマートフォンを取り上げ、先生に連絡した。
今夜は神様がちゃんとした仕事をしているのか、K先生との通話はスムーズに繋がり、週末は診療所にいてくれることになった。
そのまま、何か飲もうと思って冷蔵庫から炭酸水を取り出していると、譲介はふと手土産のことを考えなければという気持ちになってきた。渡米して四年目に、クエイドのチャリティーバザーで買って来た、というか朝倉先生に押し付けられたI♡カリフォルニアと書かれた未使用のマグカップの箱五つを、この際だから持って行こうかどうしようかと悩んでいると、背中から「フォーマルじゃなくてもいいが、スーツは詰めとけ。」とTETSUの声が飛んで来た。
こういうときはついでに水くれ、という人が珍しい、と思っていたら、彼は悩んでいる譲介の顔を肴にコーヒーをカップに入れている。
「……緊張するなァ。」
「月一で顔は見てんだろうが。」と、普段の先生と譲介のビデオ通話を時々遠くから覗いているTETSUは、呆れたような顔を見せた。
「……そりゃそうですけど。」
「久しぶりに会うってんなら、しゃんとしてろ。」
そう言って、譲介の背中をバシっと叩いたTETSUは、こちらを見て楽しそうに笑った。

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