夜空を駆ける(Side 留三郎)
伊作と一緒に塾を出たのは、午後九時を回った頃だった。
駅前とは名ばかりの寂れた商店街を抜けると、畑に挟まれた一本道が続くだけだ。街灯は等間隔にぽつぽつと立っているけれど、その明かりは心もとなく、道の先は闇に溶けている。
冬の夜気が頬を刺し、留三郎は思わず肩をすくめた。
「さっむ……寒すぎるだろ、今日」
「しょうがないよ。予報だと氷点下いくって言ってたし」
隣を歩く伊作の声が、マフラーの向こうからくぐもって聞こえる。なのに、その声はどこか楽しげだった。
十二月二十四日。
世間がクリスマスイブに浮かれているこの夜も、受験生である二人は過去問と格闘していた。第一志望は都内の大学。学部こそ違うけれど、同じキャンパスを目指していた。
かじかんだ手をコートのポケットに突っ込んだまま、留三郎は大きく息を吐く。白い息が、月明かりにぼんやりと浮かんだ。
「あーあ、早く終われ、受験!」
やけくそ気味に叫ぶと、遠くで犬が吠えるのが聞こえる。
「うわ、大声出すなよ留三郎。犬が吠えてるじゃないか」
「吠えさせとけ。俺だって叫びたい気分なんだよ……はぁ、受かれ、受かれ」
「はは、合格したいね」
伊作が夜空を見上げる。
「一緒に、さ」
──一緒に。
その言葉に、留三郎の胸が小さく疼いた。
言うのは簡単だ。けれど模試の判定は、二人とも安全圏とは言えない。落ちれば、この町に残るか、別々の進路で離ればなれになるか。そんな未来が、じわじわと現実味を帯びて迫ってきている。
ずっと一緒だった。物心ついたときから、伊作は留三郎の隣にいた。家も隣同士で、幼馴染として、友達として、離れたことなんて一度もなかった。
だから、離れることなんて考えたこともなかった。
(……このまま)
このまま、告白できないままでいるのだろうか。
胸の奥で、そんな思いがちくりと痛む。
伊作への気持ちに気づいたのは、いつだったか。気づいたときには、もう遅かった。友達として完成されすぎた関係を壊すのが怖くて、ずっと言えずにいる。受験が終わったら。合格したら。いつか、そのうち──そう自分に言い訳しながら、時間だけが過ぎていく。
「思えばさ」
ふいに、伊作が口を開いた。
「ん?」
「僕ら、クリスマスはいつも一緒に過ごしてたね」
留三郎の足が、一瞬止まりかける。
「……そうだな」
「来年は」
伊作の声が、わずかに翳った。
「……別々かも、しれないんだね」
その言葉が、冬の空気よりも冷たく胸に刺さる。
「何言ってんだ。二人で受かるに決まってる」
反射的にそう返したものの、声に力は込められなかった。
「……うん」
伊作が小さく笑う。白い息が、暗い空に吸い込まれるように消えた。
静かで、空気が澄んでいて、星が綺麗に見える夜。
けれどこんな日には、この地は、あまりにも地味すぎた。イルミネーションの一つでもあれば、「ちょっと見てくか」なんて口実で遠回りできたのに。カフェの一軒でもあれば、ココアの一杯でも飲んで、もう少しマシな雰囲気を作れたかもしれない。
そうしたら。
もしかしたら。
この気持ちを、言えるかもしれないのに。
(……無い物ねだりだな)
留三郎は目の前に広がる光景に視線を戻した。現実は、車の音すら聞こえない静寂と、漆黒の田んぼだけだ。
こんな何もない夜が、伊作と過ごす最後のクリスマスだなんて。
そんなのは、嫌だった。
「あ」
その時、伊作が立ち止まった。
手袋をした指先が、真上の空を指す。
「留三郎、空」
視線を上げた瞬間、留三郎は目を見開いた。
光の列が、夜空を流れている。
一つじゃない。十、二十、もっとか。等間隔に並んだ光の粒が、音もなく、けれど確かな意志を持つように、北から南へとゆっくりと進んでいく。
飛行機にしては多すぎる。流れ星にしては遅すぎる。まるで、闇に引かれた光のレールのように、真っ直ぐに連なって流れていく。
「スターリンクだ」
思わず声を漏らす伊作に、留三郎は首を傾げた。
「スターリンク?」
「うん、衛星。地球の周りを回ってるんだ。こうやって見られるのは結構珍しいんだよ」
「へえ……」
人工物なのに、神秘的な光。見飽きるほどに見慣れた田舎の星空とも違う、吸い込まれそうな美しさだった。
「こんなところで見られるなんて……」
伊作が呟く。
その瞳に、光の列が映り込んでいる。上を向いた横顔。わずかに開いた唇。寒さで赤くなった頬。伊作を象る輪郭が、光の粒の下で仄明かりを帯びているようだった。
留三郎は、そっと視線を空に戻した。
光の列は、まだそこにある。どこまでも続いていくように、途切れることなく、一緒に進んでいく。
──まるで、手を繋いでいるみたいに。
「……なんだか、イルミネーションみたいだな」
「うん」
留三郎か呟けば、伊作が、嬉しそうに笑って振り返った。目が合って、胸の奥が驚いたような拍を刻む。
光の並ぶその空を、二人でもう一度、見上げた。
「なあ」
留三郎は、光から目を離さずに言った。
「俺たちもさ」
言葉を飲み込む。
「……あんな風にさ、離れないで…進めたらいいな」
「──うん」
伊作の声が、小さく震えたように聞こえたのは、気のせいだろうか。
白い息が、二つ、夜空へ昇っていく。
頭上では、光の列がまだ流れていた。
「……ねえ、留三郎」
ふと、伊作が口を開いた。
「ん?」
「このまま帰っちゃうの、もったいないし」
伊作が、少し視線を逸らす。
「僕の家でもう少し勉強しない?ココア、淹れるからさ」
その一言に、留三郎の思考が止まる。
「え」
「……ダメ…かな」
首を傾げる伊作の表情が、どこか窺うような色を帯びている。ただ一緒に勉強したいだけ。それだけのはずなのに。その頬に差す赤みが、寒さだけのせいじゃない気がして、思わず喉が鳴った。
「い、いや、……ダメ、じゃないが……」
声が上ずる。
隣同士の家だから、伊作の部屋に行くこと自体は珍しくない。小さい頃から、お互いの家を行き来してきた。クリスマスを一緒に過ごしたことだって。
けれど。こんな夜に。
二人きりで、伊作の部屋で。
「じゃあ、決まりだね」
伊作が嬉しそうに笑う。
「頑張って、絶対合格しよ。一緒に、さ」
「……ああ」
黒々と広がる田舎道の向こうに、自動販売機の明かりが見える。もうすぐ、あの光にたどり着く。そしたら、伊作の家は目の前だ。
留三郎は、もう一度だけ空を見上げた。
光の列は、もう南の空へ遠ざかろうとしている。あんなに鮮やかだった軌跡が、少しずつ夜に溶けていく。
その夜闇の中で、伊作の存在が隣にあった。
さっきと変わらない距離で、同じ方向を向いて、一緒に歩いている。
ふと、伊作がこちらを見た。
月明かりの下、睫毛の影が淡く落ちるその目元から、目を離すことができなかった。
冷えきった指先とは裏腹に、耳の奥がじんと熱い。自分の心臓の音が、やけにはっきりと聞こえる気がした。
二人の白い息が夜気の中で絡み合い、
ひとつに溶けて消えていく。
諦めていたこの夜がまだ終わらないことに、
胸が高鳴って仕方がなかった。
powered by 小説執筆ツール「arei」
100 回読まれています