付き合うまで10年かかるトガ宮(プロローグだけ)
「俺さ、小宮くんのことが好きなんだ」
あまりにも静かに告げられた声は、ほのかな温もりをもって小宮に届いた。
トガシと再会した日本陸上から、半年程経った冬の日のことだった。
トガシの脚の状態が実際のところどうだったのか小宮は知らない。あの決勝の一本は陸上業界だけでなく世間でもしばらく話題になっていたけれど、それが落ち着いたころ、トガシはひょっこりトラックに帰ってきた。まるで昨日までもそこにいたかのように、当たり前みたいな顔をして。出場組が示された表がびっしり張り出されているその場所でトガシの名前を見つけた時、少なからず小宮の心臓はぎゅっと縮まった。本人が後ろに立って、小宮くん、と声をかけてきた時はもっとだ。
「また、久しぶりだね」
「トガシくん……脚、大丈夫なの」
自然と左膝を見つめてしまう。あの時あったテーピングの白い線が見えるんじゃないかと思ったけれど、丈の長いジャージに隠れたそこは何も見えなかった。
「まあなんとかね」
顔を上げると、小宮の視線を追ったのか、トガシも自分の脚を見下ろしていた。つま先を地面に立てて、何かを確かめるようにぐりぐりと押しつける。そして小宮の方に向き直った。
「ともかく、今日はよろしく、小宮くん」
「うん」
それで終わると思った。じゃあ、と言って去るのはトガシか小宮か。ところがその日はそうじゃなかった。どちらも、しばらく何も言わずに視線が絡む。足はぴくりとも動かない。なぜか、まだ去りたくないと思った。
「トガシくん」
気付けば口が彼の名前を紡いでいた。眉を少し上げて、トガシが声もなく返事をする。黒目がこちらを捉えて、続きを待っていた。
「──おかえり」
何も考えずに伝えてしまった言葉が正解だったのか、小宮には分からない。トガシは驚いたように目を見開いて、それからきゅっと唇を引き結んだ。小さく、けれど確かに頷く。それを見てほっとした。ああ、彼は大丈夫だ。また僕と一緒に走ってくれる。そう思った。彼の脚が治ったことへの安心ではないのがどこまでも自分勝手だ。それが分かっていたから、小宮はそれ以上何も言わなかった。次に口を開いたのはトガシだ。
「小宮くん。良かったら、なんだけど」
「何?」
「この大会終わったら、メシでも行かない?」
正直なところ、真っ先に浮かんだのは、なんで? という疑問だ。でもそれを口にしてしまうと二度と誘ってくれないような気がして、なぜだかそれは嫌だな、と思った。
うん、いいよ。
そう答えた小宮にトガシは嬉しそうに微笑んだのだった。
それから数か月。
小宮はトガシと時々食事に行く関係になっていた。
初め、二人きりで何を話すんだろうと思ったが、意外にも話題には事欠かなかった。小宮が持ちうる話題なんか陸上のことしか無かったけれど、ある時トガシに勧められて見た映画が面白くて(駅伝の話だった。やっぱり陸上だ)、それを伝えると「原作も面白いんだよ」と言われて原作を借りた。本を読む習慣なんてなかったので、買う勇気はなかったのだ。けれど、それなりの分厚さがあったのに読みやすい文体であっという間に読んでしまい、結局すぐに自分でも買った。それを知ったトガシから、「じゃあ同じ作者のこれは?」と勧められて、その後からは本屋に行くのが楽しくなった。
紙の、独特な匂いのする静かな店内で、美しく平積みにされているその中から一冊を選ぶ高揚感。走るのとは違う、でも確かに芽生える胸の高鳴り。その内に、練習場までの行き帰り、電車で読むのが習慣になり、次にトガシと読んだ本の話をするのを心待ちにするようになっていったのだ。
トガシとの時間はどこまでも穏やかだった。
二人で話していると、子供の頃、河川敷で吹かれた風を思い出した。春と夏の混じり合った、ぬるい風。じっとりとした草の匂い。川の流れは緩やかで、トガシはもしかしたらあれより速く走れるんじゃないかと小宮は思っていた。それは初めての憧れで、あれから数々のすごい選手に会ってきたけれど、あの頃の憧れの気持ちは超えられていない。どんな騒がしい居酒屋の店内であっても、あの時の風の匂いを感じていた。
が、結果として、そんな関係は半年程で終わりを迎えた。
「こうして、二人で会うのは最後にしたいんだ」
その日、リュックの一番上にはトガシが最初に勧めてくれた駅伝を描いた本が入っていた。約束した居酒屋へ来るまでも読んできたのだ。借りたあとでわざわざ買った、にも関わらずまだ二周目を最後まで読めていなかった。そろそろ読まなければと思うほど、このごろの風は冷たく、乾いている。そんな季節の中で言われた言葉に、一瞬頭が真っ白になった。
──会うのを最後にしたい。いや、違う、〝二人で〟会うのは最後にしたい。
それって、どういうこと。
テーブルに乗った、まだ熱い湯飲みを無意識に握りしめた。店員に頼んで持ってきてもらった最後の一杯。さっき、二人でつついた鍋は美味しかった。その記憶も霞んでいく。
「……え、どうして」
当然の疑問だろう。楽しい時間だと思っていたのに違ったのか。それとも、何か別の事情があるのだろうか。
ただ戸惑うばかりの小宮に、トガシは静かに告げた。
「好きになっちゃったから」
「え?」
「俺さ、小宮くんのことが好きなんだ」
こんなに穏やかに告白をされたのは初めてだった。好きって、どういうことだっけ。そう思ったくらいだ。今までされたことのある数少ない告白で告げられてきた熱烈な想い、なんて到底伝わってこない。緊張も、身体の震えもない。あくまでもいつものトーン。なんならいつもより落ち着いてるくらいの雰囲気で、トガシはぽつぽつと言葉を続けた。最初はそんなつもりじゃなかった。もうちょっと小宮くんと仲良くなれたらなって思っただけで。なのに、気づいたら。
「──ごめんね」
と、トガシは謝った。
「小宮くんを困らせたくないからさ。だから、会うのは最後にしたい」
好きになったら困らせてしまうから、二人きりでは会えない。
そんな理屈が世の中に存在することを小宮は初めて知った。
でも、トガシが言うならそうなのだろう。全然会えないわけじゃない。大会では会うんだろうし、隣で走ることもきっとある。会えば話せる。陸上の話も、本の話もすればいい。ただ、この時間がなくなるだけだ。
腹の奥底に何か重いものが溜まっていく。だけど、それが何かは分からない。分からないまま、小宮は頷いた。最初、食事に誘われた時と同じように。
うん、いいよ。
どんな声が出ていたのだろう。小宮の返事に、トガシは一瞬だけ眉を下げた。寂しそうな、悲しそうな顔。どうしてそんな顔するの。今日はもう、分からないことだらけだ。
「──じゃあ、またね」
ただ、最後まで静かで穏やかな声は、小宮の耳にいつまでもこびりついて離れることはなかった。
トガシが引退することを、小宮はテレビのワイドショーで知った。
所属企業の社員食堂で点きっぱなしになっているテレビは、がやがやとした喧騒の中で何を言っているのかは分からなかったが、テロップにははっきりと、『トガシ選手引退』の文字があった。名前も知らないコメンテーターが真面目な顔をして何かを言って、周囲が頷いている。
トガシと食事をしなくなって、また半年。この間の世界大会で、小宮はトガシに敗北した。三組あった準決勝。トガシとは違う組だった。負けたのは、あくまでタイム上での話だ。世界は広くて、日本人は誰も決勝へと進むことはできなかった。けれど、トガシは日本人の中では誰よりも速かったはずだ。なのに、引退?
食事の手を止めて、聞こえるはずもないテレビを凝視している小宮の後ろを、トレーを持った社員二人が通り過ぎた。聞こうとしなくても、会話が聞こえる。
「トガシ、引退すんのかなあ」
「朝からテレビでやってたよな」
「もし引退したらさあ、うちの小宮選手が……」
本人がここにいるにも構わずされる噂話にはすっかり慣れた。多分、存在感がないのだ。トラックに立っている時はまだしも、食堂ではほとんど誰にも気づかれない。
そっか、トガシくん、引退するんだ…。
一緒に食事をしていたのが遠い記憶のように呼び起こされる。
大会で会ったらまた今までのように話せる。そう思っていたのに、今年のシーズン、トガシは顔を合わせても当たり障りのない会話しかしてくれなかった。朝は、小宮くん、おはよう。今日もよろしく。帰りは、お疲れさま、またね。それだけだ。あの河川敷の風を思い出す間もない。
小宮のリュックには、相変わらずいつも本が入っている。あれからもペースは遅いが毎日読書をする習慣は続いていた。今読んでいるのは、出版されたばかりのあの駅伝シリーズの続編だ。小宮は知らなかったが、前作が出てからもう十年程経っていたらしい。半年しか待たずに続編が読めたのは幸運だったようだ。トガシは前作が出版されてからすぐ読んだと言っていた。十年ぶりの新作を、彼はもう読んだのだろうか。そんなことも聞けないでいる。連絡先を知らないわけではない。でも、そんなことで連絡するのは憚られたし、そもそもその連絡先が繋がるのかさえ分からなかった。
以前、トガシに借りたあと買った前作は、結局一度も読み返せていない。何度も開いて、カバーの角には知らぬ間に小さな三角の折り目ができている。でも、そこから読み進めることはできなかった。続編を読んだらまた読みたくなるかな、とそのままにしてある。できればまた、本の話がしたいけれど。
引退したら、もう会うこともないんだろう。小宮くん、と呼ばれるあの声を聞くことはもうない。
最後にもう一度、勝ちたかったな。胸の中のざわめきは、きっとこの間負けてしまったからだ、なんて頭に浮かぶのは、やっぱり自分勝手な考えばかり。連絡なんて、できるはずもなかった。
ワイドショーは次の話題になったようで、画面には野球の様子が映っていた。視線を落として食事へ戻る。
結局トガシはその大会をもって引退し、小宮の前から姿を消した。あっという間に噂を聞くこともなくなって、そして。
トガシと再会するまで、十年の歳月が流れた。
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