たかだか三センチ/悪犬(2023.9.29)

 高校二年生、四月の第二週。新学期が始まって間もない頃。
 彰人の手元にある紙には、いくつかの記入欄のうちのふたつが埋まっている。今から座高を測りにいくところだ。クラス、性別によって分けられた列には知った顔はまだ少ない。とはいえ、これからの日々で見慣れていくのだろうけれど。
 無事に進級した彰人だったが、学年が上がったからといって特に何が変わったような気もしない。出席番号順に並べられた座席で真後ろの杏から、ことあるごとにからかいの声が飛んでくるくらいだ。だが、今ひとつだけ、嬉しい変化があった。
 記された四つの数字は、左から三桁だけでも彰人にとって十分価値がある。176、単位はセンチメートル。春休みの間に冬弥から聞いた彼の身長に、すこしだけ近付いたこと。
 幼い頃からぜんそくを患っていた冬弥は、今でも半年に一度だけ病院に通っている。もうずいぶんと肺をふくらませるのがうまくなって、肺活量も声量も増したが、念の為検査を受けに行っていると聞いたのだったか。歌うことによる影響はないのか、初めて話してくれたときには心配したものだったが、本人曰く医者からはむしろ推奨されたらしかった。
「そういえば、身長が伸びていたんだ」
 学校を休まずに済むよう、春休みにしてもらっているという診察日の翌日、練習に来た冬弥は言った。
「へぇ〜! もう結構大きいのに、まだ伸びてたんだ?」
「ああ。伸びたと言っても一センチだけだが」
「そうなんだ。じゃあ、今の青柳くんは何センチなの?」
「179だな。小豆沢の身長はどれくらいなんだ?」
「わたしは156センチだよ。だから、青柳くんとは20センチくらい差があるかな」
 こはねは小さくても可愛いよ〜っ、杏が飛びつくようにしながら告げる。照れながらそれを受け止めたこはねが、東雲くんは? と訊ねた。
「オレは去年測った時、174だったな」
「それなら、今の俺と彰人は5センチほど差があるんだな」
「いや、オレも伸びてるかもしれないだろ」
「なに彰人、対抗しちゃって〜」
 ついむきになって反論すれば、即座に杏がからかいにくる。うるせーよ、一年もあれば伸びるもんだろ、と思ったより拗ねたような声が出た。冬弥はおかしそうに笑っていた。
 実際、思い浮かべた5センチよりも、冬弥は近く感じられた。それが、気持ちの問題なのか物理的にもそうなのか、その時はわからなかったが。どうやら本当に近付いていたらしい。
 冬弥は、検査前に測った際に顔見知りの看護師から教わったと言っていて、指摘されるまで気付かないほどには身長にこだわりがないようだったけれど、彰人はなんだかんだとこれまでの4センチ差を気にしてはいた。極力近付きたいというのは歌の実力はもちろんだが、普段何を考えているのか、どんな風に世界が見えているのか、できる限り知っておきたかった。もうその手を離さないために。
「彰人」
「お、B組は今から測るのか?」
 彰人の並んでいた待機列に、冬弥が歩いてきた。クラスごと、名簿順に行われるから、A組がそろそろ終わる時間になって呼ばれてきたのだろう。身長体重の列はこちらではないのだが、時間が余っているとみて、彰人と話しにきたらしい。
「ああ。……彰人、なんだか嬉しそうだな」
「そうか? まぁ、そうかもな」
「青柳ー! そろそろだって!」
「すまない、すぐ戻る! じゃあ、また後で聞かせてくれ」
 彰人の返答を待たずに、冬弥はクラスメイトの元に小走りで向かった。しっかりと息を吸って、腹の底からはきはきと声が出ていくのを、聞いていた。
 
 

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