罪悪感と自己嫌悪と、それからほんの少しの自己陶酔




「……丹恒って」


 不意に、穹の声が宙に落ちる。
 手元の書籍に視線を落としていた丹恒は、その声に引き上げられるようにして、伏せていた顔を持ち上げた。そして瞬き一つすると、そのまま緩やかに振り返って一段下にある灰色の頭に視線を移す。資料室の床に敷いている丹恒の万年床の上で胡座をかきながら、先程までスマホゲームに没頭していた穹は何やら読めない表情で丹恒をじっと見つめていた。
 資料室に敷かれた万年床の枕元には読みかけのものや、複数回目を通しておきたい書籍が常に積み上がっている。アーカイブの収集データを編集する時以外は、案外気楽なのでデスクではなく布団の上に座して本を読むことも少なくない。ただシステム時間的に日中に当たる時間帯は、丹恒の薄い寝床をアーカイブの管理人と化している丹恒よりも、何故か穹が部屋に押し入ってきて占領してしまうのだった。
 資料室はお喋りをするための部屋じゃないと言ったことはあるがゲームをする部屋でもない、というかアーカイブに用がないなら資料室に入るな、そもそもお前はもう自分の部屋があるだろう――と言ったこともあるのだが、そんな穹の行動を諌めることはとうの昔に諦めている。その代わり、丹恒も丹恒で穹の部屋の冷蔵庫のスペースを、事後承諾で拝借することもある。持ちつ持たれつ。良い言葉である。
 閑話休題。そんな話はいいのだ。デスクの方で書籍を読み耽っていた丹恒は一旦それを中断させ、穹と視線が交差する。それを待ってからか、僅かに間を置いて穹が口を開いた。

「丹恒ってさぁ、キスマーク?とか痕残さないよな」
「……………」

 あんまりな言葉に、何とも言葉にならない音が丹恒の口から漏れた。
 システム時間的にはまだ日中の時間帯である。いくらこの部屋に自分たちしか居ないとは言え、己らの情事を匂わせる言葉を濁す訳でもなく、明け透けに喋り出した穹に、自然と丹恒の眉間に皺が刻まれる。明らかな渋面を浮かべている丹恒を意に介することもなく、穹は続けた。

「俺もオンパロスの樹庭の小説とか、二相楽園の…同人誌っていうのか?とにかくそういうのを見るとさ、肌を噛んだり吸ったり、痕をつける描写がよくあるというか、そういう欲が強いみたいなんだよな」

 大真面目な顔で腕を組みながら、淀みなく喋り出す穹が言っている内容は中々とんでもないことだ。丹恒はどこから何を指摘したらいいのかもはや判断がつかず頭を抱えたくなったが、片手で頭に手を当ててから絞り出すように一言だけ。
 
「待て、お前は一体何を読んでいるんだ…?」

 それは所謂、発禁本というものではないだろうか。
 穹は青年の風体でこそあるが、記憶がなく過去が不明な部分が非常に多いのも手伝って一応未成年という括りには入っている。未成年がそのような読み物に触れるのはとてもよろしくないのではないだろうか、と丹恒は思ったが、そんな未成年に自分もまた一線を越えて手を出してしまっている事実が同時にのしかかってきて、丹恒は人知れず静かに傷ついた。

「………………………………」
「大丈夫だって。成人向けじゃない。最近のやつはどうやら一般向けでもちょっと過激気味だったり、アウト一歩手前のギリギリを攻めるものが多いらしい……って丹恒?聞いてるか?」
「聞いている……」

 一人で静かに傷ついたり黄昏ている丹恒をよそに、穹が話を進めていく。聞いているならヨシ、とでも言わんばかりにうんうんと頷いてから穹が唇を開いていく。丹恒はうっすら予感していた穹の言わんとすることを察して、そろそろ気が重くなっていた。

「…で、さっきの話に戻るけど、丹恒は俺に痕つけないよなって。やりたくならないのか?それとも興味ない?」
「……それを聞いてどうする」

 怪訝な顔で切り返してきた丹恒の問いを受けて、真顔だった穹は一瞬きょとんと目を丸くする。そうして数回目を|瞬《しばたた》かせてから、キリリと表情を引き締めて。

「やってみてほしい」

 これが穹の言いたかった核心だった。
 寸分違いなく予感を的中させた丹恒は深々と溜息を吐く。そのあまりにも重い溜息を受けて、穹は少しばかり申し訳なさそうに表情を曇らせた。

「別に無理強いしたい訳じゃない。丹恒が嫌ならしなくていいぞ。ただちょっとどういうものなんだろうって興味が湧いただけだから」

 穹が僅かに伏せた瞳が少し不安定に揺れている。こうもこうで素直に引き下がられてしまうと丹恒としても反応に困ってしまう。別に穹を気落ちさせたい訳でもなければ、嫌な訳でもない。少々理解が難しいだけで。
 
 ――丹恒は持明族である。
 持明族は、輪廻転生を以て連綿と続いていく種族である。それ故に生殖という概念が存在せず、ゆるやかに死んで行き、そうして一つの生が終われば卵に還って眠りにつき、また新しい生を迎える輪廻を繰り返していく。永続的に持明族は増えず、尚且つ不死者ではないので致命傷を受ければ寿命以外で死に、その場合は蘇ることはない。
 丹恒にとって、生殖は必要のないものだ。なので人間の体の仕組みとして器官こそ備わっているが、その欲そのものは極めて低いと言える。短命種と比べて長い人生の中で、一度も使用しなくとも問題ないほどには。
 なまじ知見があるため、自分のような種族以外の多くの生物には必要であることも理解しているし、時にはそれがただ子作りという目的のための交尾だけではなく、恋愛関係における営みの一つとしての側面――これはほぼ人間にしか適用されないが――もあることを知識として理解している。
 だがそれでも丹恒は、何の因果か、穹に特別な慕情を抱いた。しかもそれが、なんということか、穹も特別な感情を丹恒に寄せ、受け入れられてしまった。そうして二人は、何もわからないままに、手探りで、世間一般で言うところの恋人の真似事をした。そして仲間と親友の一線を、秘めやかにそっと越えたのだった。
 性欲と呼べるべくものは、どうしても丹恒よりもまだ穹の方がある。ただそれでも、恋情のある相手に特別な触れ方が許される、というのは性欲とは別として丹恒の胸を温かく満たした。特別な相手に自分だけが許される、という事実がこれ以上ないほどに伝わる行為として、触れ合いそのものは実のところ丹恒は嫌いではない。……直接伝えたことはないが。
 熱い湿度を伴った吐息が互いにかかる距離で、常にはない熱に揺れる瞳を、普段露出することのない秘所と肢体を曝け出して、その滑らかな肌に触れることができる特権を、丹恒は知っている。
 その特権だけで、丹恒はそれで良いのだった。
 
「――………………」

 丹恒はしかしどう言ったものかとしばし逡巡する。そして、とりあえず包み隠さず思っていることを伝える方向に舵を切り、躊躇いながらもぎこちなくその唇を開き、言葉を紡いだ。

「……俺は、正直なところ、痕を残すことについてあまり興味はない。やりたいやりたくないではなく、どちらでも良い……」

 それを聞いて、「!」というようにパッと穹の表情が変わり、伏目がちに逸らしていた視線が丹恒に戻される。

「ん、それなら――」
「だが、痕というのは結局のところ傷痕だろう」

 少しばかりテンションの上がった穹の声に被せるように、丹恒は重く呟いた。その表情は少し困ったように眉根を寄せて、眉尻を下げている。穹は先の丹恒の言葉に、「ん?」と動きと口をぴたりと止め、訝しげな表情を浮かべて丹恒の言葉の続きを待った。

「噛み跡は言うまでもなく痕が残るほど噛んだ怪我だ。キスマークも、言うなればあれは内出血だ」
「……………………」

 そう、だから丹恒は痕を残したいという発想に至らないのだ。
 丹恒とて、一般的な恋人たちは、情事の中でその痕跡を残す嗜好が通常的にあることを知っている。ただ丹恒はしたいと思わないからしないだけだ。
 別に穹を傷つけたい訳ではない。大事な相手を慈しめるのならそれで丹恒は構わない。暴力的な感情や欲を穹にぶつけたいとは思わないし、そもそもその欲求が丹恒にはない。

「…………丹恒さあ……」
 
 情緒の欠片もなく、自分が見てきた数々の恋愛描写のドラマチックなところを堂々と切り捨てられて穹は思わず半目になる。というかそもそもの話だが。

「丹恒は俺のことナメすぎじゃないか?そんなヤワじゃないぞ」

 「この銀河打者の伝説の数々を知らないのか?」と穹は胡座をかいたまま宙でバットを素振りするような腕の振りをする。ついでに右腕を折り曲げ、右手の拳を顔の横に持っていき、左手をそっと二の腕に添えて力こぶを強調するようなポージングも取ってみるが、丹恒はそれを一瞥して緩やかに首を横に振っただけだった。

「お前の頑丈さがどうこうという話は今していない。俺が能動的にお前に怪我をさせることに抵抗があると言っている」
「いや怪我って……」

 どこが?
 穹は理解できないものを見るように、顔を顰めて丹恒を見つめた。
 前から穹は思っていたが、丹恒は護るという意志が少々強すぎるきらいにある。これはこれで丹恒らしくもあり、彼なりの護衛としての矜持や考えがあるのだろうことはわかっているので、あえてわざわざ指摘するようなことはしないが。ただそれでも、丹恒ひとりが痛いことやつらいことを引っ被る必要はないとも思うのだ。けれどその話は今やると平行線のまま揉めそうな気がするので、また改めて話すことにして穹は思考を切り上げる。
 穹は方向性を切り替えるように居住まいを正して咳払いを一つしてから、ぴっと人差し指を一本立てた。

「いいか?この場合は怪我じゃなくてコミュニケーションの一種だと思えばいい」
「そんな物騒なコミュニケーションがあっては困る」
「まあそれはそうなんだけど……って待て、逆に俺を説き伏せるな!」
「特に説き伏せたつもりはないが……」

 わっと言い返す穹に丹恒は困惑したように返す。
 するとふと、穹が何かに気付いたかのように突然静かな真顔になり、ぽつりと。

「……というか、それを言い出したら俺の尻に丹恒が押し入ってくるのの説明がつかなくなるだろ」
「…………………………………………」

 ぐ、とも、ゔ、とも形容しがたい独特の音が丹恒から漏れた。丹恒的には相当痛い指摘だったらしい。それはそうかもしれない。仮に穹から望んだ行為だったとしても、どう棚上げをしたとしても、肉体的には負担のかかる行為であるに違いはないからだ。丹恒の理論を借りるのであれば、その行為すらもおかしなことになってくる。
 その反応を見て、穹の瞳がきらめいた。落とし所はここだ、と直感が告げている。

「だから今更だろ。噛むのが無理ならキスマークだけでいいからさ」

 な?と穹は努めて軽く丹恒に語りかけた。
 丹恒は渋面のまましばらくフリーズしてしまう。余程の葛藤があるようだった。別にそんな難しく捉えなくていいのに。穹はそんな丹恒を眺めながら、返事を待つ。
 やや間があって、丹恒はようやく動き出した。

「…………一回だけだ」

 そう言って、丹恒は開いていた本を静かに閉じてデスクに置く。そしてそのままガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。穹は何も言わずにそんな丹恒の動きを視線で追う。立ち上がった丹恒が穹を振り返ると共に、彼の上着の長い裾が音もなくふわりと翻った。
 一歩、二歩、三歩、と丹恒は自身の布団に近付いてきて、布団の上に座る穹の前でそっとしゃがみ込む。

「……………………」

 じ、と二人の視線が合った。
 自分から畳みかけたこともあり穹の表情は平静そのものだが、丹恒はどことなくその引き結んだ唇に緊張があるような気がする。丹恒の深い海のような色を宿した瞳の、左目の縁にある朱が、今は妙に穹の視界に焼きついた。
 穹は邪魔にならないように、厚みのある自身のコートのフードを片手で押さえる。そうして少し顔を逸らすように傾けて、丹恒の前にその首を|露《あらわ》にしてみせた。
 丹恒は一瞬だけ視線を彷徨わせた後に、意を決したように表情を引き締め、緩慢な動作でもう一歩だけ穹に身体を寄せる。二人の距離がなくなり、密着したまま丹恒はその首に顔を寄せた。互いの視界からは互いの顔が見えなくなる。今どんな顔をしているのだろう。
 そして丹恒の少し硬い指先が、穹の襟足の髪を掻き分けるように動き、その過程で僅かに首に触れた。

「…………、……」

 ぴくり、とほんの少しだけ身動ろいだ穹は視界に入っているし、密着した身体からもその動きは伝わっているはずだが、丹恒は何も言わない。自分だけ動いてしまったのが穹は妙に気恥ずかしくて、照れ臭さからぎゅっと唇を噛み締めた。
 穹の襟足の髪の生え際のすぐ下あたりに、丹恒の吐息の当たる感覚。熱を持った湿った空気が首に当たり、ああ今からそこに口付けられるのだなと穹は理解して、反射的に穹の身にうっすら力が籠って強張る。
 丹恒は丹恒で穹の襟足の髪を掬い上げている手とは逆の手が、地面の布団のシーツをきつく握り締めているのだが、残念ながら穹の視界にそれは映っていない。
 
 そして、一瞬のような、もう少し長いような間があった後、丹恒の唇が穹の首に触れた。
 だが触れるだけでは終わらないし終える訳にもいかなかった。指先よりも熱く、吐息よりも質量を持ったものが、ゆっくりと押し当てられて、その密着した首の皮膚がちゅ、と湿った音を立てて小さく吸い上げられる。

「……っ、う…」
「………………」

 チリッと小さな鋭い痛みが穹の首に走り、その慣れない感覚に吐息のように低く呻いた小さな声が穹の唇から漏れた。唇の下で穹の体が小さく跳ね、微かな呻きが丹恒の鼓膜を揺らす。ごく僅かにではあるが、俯いている丹恒の頭が揺れた。
 そうして丹恒は唇を少し離し、今度は柔らかく触れるだけの口付けを同じ場所に一つ落としてから、指先でその場所をなぞる。その刹那、丹恒の指先が、穹が気付かない程度に、ほんの少しだけ震えた。
 その小さな揺れの余韻すら残さないように、丹恒の指先は穹の首を掬うように一撫でするとそっと離れていく。どうやら穹の首に付いた自身の唾液を拭ってくれたようだった。別にそのままでいいのに、と穹は思う。
 
「……付いたぞ」

 丹恒は小さくそれだけ呟き、身体を離した。密着していた熱が離れて、不思議と外気がどこか涼しく感じる。
 どことなく気まずそうな佇まいの丹恒は、目を伏せて床の布団に視線を落としているが、その目元が少し上気しているようなので珍しく照れているらしい。それを見て穹は満面の笑みを浮かべて「ありがとな丹恒!」と意気揚々と述べた。

「なんかちょっとドキッとしたから、丹恒がやりたかったらこれからも痕つけていいからな」
「しない」

 こくりと頷いてサムズアップする穹に、丹恒は間髪入れずに素気無く言い放つ。
 しかし満足そうにしていた穹の表情がふと訝しげなものに変わり、考え込むように顎に手を当てた。
 
「……ん?でもこの位置、俺から見えないんじゃ…」
「………………」

 別に見えるものでも見せるものでもないのでは、と丹恒の表情が告げているが、穹はまっすぐに丹恒を見据える。

「丹恒」
「しない」
「まだ何も言ってない」
「そうだな」
「もう一回」
「しない」

 

 ◆



 普段、穹のボリュームのあるフードに隠れがちな首筋の、そのさらに髪から僅かに覗くほのかに色づいた一点が、あの瞬間どうしようもないほどに丹恒の視線を奪ったことを、丹恒は自身が卵に還るまで――墓まで持って行くと、誓っている。
 ああ、だから人は痕を残すのか、と。




 

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