第四の男

 汗が頬を伝い、首筋をなぞっていく。僕が生まれた日も、こうして裸のまま、誰かの体温を感じていたのだろう。それは母であり、とりあげた産婦人科医であり、助産師であったかもしれない。
 目の前の男は、艶かしく腰を浮かせ、僕のそれを待っている。少しだけ勿体ぶって、入口のあたりをくすぐってみると、彼は物欲しそうに口を半開きにして「はやく」とねだった。
 挿れる時、先端が潤滑剤に触れ、とぷりと音を鳴らした。そのままゆっくり侵入する。彼の下腹のあたりがぎゅっと収縮するのがわかった。
「……あっ、きもちい、い」
 彼が甘い声を漏らす。彼の体に体重をかけると、マットレスが沈んだ。
「きもちいいっ……、このエースベッドの寝心地……っ!」
「は?」
 僕は耳を疑った。今気持ちよくあるべきなのは決してベッドの寝心地ではないはずだが。
「あの、ドンシクさん? なぜ今その話を?」
「あぁ、ごめん、つい」
 つい、だって?
 しゅん、と萎んでいく僕の気持ちと一緒に、僕のそれもしゅん、となっていく。一気に冷静になった僕の前で、彼はむくりと起き上がってマットレスをぐいぐいと押しはじめた。
「ジュウォナ、知ってる? このマットレス、腰がしっかりフィットするんだよ」
「え。まぁ、そこが良くて買ったので知ってますけど。今その話、必要あります?」
「あっ、そうだお腹減らない? ピザ頼みましょうよ。アルボロのプルコギピザ。あっ、それともサブウェイにする?」
「お腹はすいていません。なんなんですかあなた、よりにもよってこんな時に……」
「ジュウォナ、イライラは肌に良くないよ。ほら、これ塗って」
 彼はスマホでピザ屋のアプリを開きながら、どこからか取り出したスティックバームを僕の顔に押し付けてきた。
 何かがおかしい。彼は間違っても、最中に突然こんな押し売りのような真似をする人ではないはずだ。ふと、寝室のドアの前に、何か透明な壁のようなものがあることに気がついた。立ち上がってそっと触れてみる。確かに壁だ。
「ドンシクさん、ここに壁があります」
「壁? 何言ってるの、そんなのあるわけないでしょ」
 彼はいつの間にか有名店のアイスアメリカーノを啜っていた。おかしい。彼はベッドの上から一歩も動いていないはずなのに。それに、壁の向こうから人の声がするような気がする。ひとりではない。不特定多数の人間の笑い声が聞こえる。まるでテレビの中にでも入り込んでしまったような───。 
「ドンシクさん。もしかして僕たち、テレビの中にいるのでは?」
 彼のほうを見る。彼は無言だった。コーヒーカップの底をストローで吸い上げる音がした。
「もうすぐ日付が変わりますね」
 コーヒーを最後まで啜った彼がぼそりとそう言った。今日は8月12日。日付が変われば僕が生まれた日がやってくる。
「それと何か関係が?」
「関係あるさ。ぜんぶ、ね」
 彼の下瞼が、徐々に赤みを帯びていく。みるみるうちに涙が溜まり、右の目から一滴ほろりと落ちた。
「ジュウォナ。ずっとここで暮らそう」
「は?」
 彼の青白い手が僕の腕をがしりと掴んだ。先ほどまでの体温は微塵も感じられない。まるで死体のように冷たい。
「毎年、死ぬまで、ここで平穏な誕生日を迎えるんだ。俺とあなたで」
「なっ、なんなんだよ……っ!」
 僕は思わず、彼の手を振りほどいた。壁の向こうから「ああ」とか「おお」とか感嘆の声があがる。ここから出なければ。僕は見えない壁を力いっぱいに押し続けた。途端───。
 額にひんやりと冷たさを感じて、僕は目を覚ました。
 うっすら瞼を開けると、優しい笑みを浮かべた彼が缶ビールを手にしていた。
「もうすぐ日付が変わりますよ」
 時計を見ると、12時を回ろうとしていた。僕は裸のまま、ベッドの上で体を起こした。
「眠ってしまってたんですね、僕」
「そりゃまぁハードな運動しましたから」
 そう言って彼が、気だるげに髪をかきあげた。情事のあとの、いつもの彼だった。
「おかしな夢を見ていました。僕とあなたは、テレビの中にいるんです」
「テレビ?」 
「はい。僕たちのドラマを誰かが見ているような」
「なにそれ。へんな夢」
「ですよね」
 きっと疲れてたんでしょう、彼がそう言いながら、キッチンのほうへ向かった。冷蔵庫から取り出したのはケーキ屋の箱だった。彼は裸のまま、真っ青なホールケーキを箱から取り出し、ケーキナイフと一緒にベッドのほうまで持ってきて、サイドテーブルへ置いた。日付が変わって8月13日。僕が生まれた日だ。
「ところでジュウォナ。このケーキナイフ、とてもよく切れるんだけど」

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