【原利土1819IF】頸と心8
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八 仮のやどり
いくつかの家が散らばる集落の井戸は全部で三つあったが、使えるのは一つだけだった。
他の二つは枯れているか、底に何か得体の知れないものが沈んでいるかだった。一つだけ、集落の外れにある井戸が生きていた。縄を下ろすと水音がした。汲み上げた水は澄んでいて、口に含んでも異臭はなかった。これで水の心配はなくなる。
狩りも上手くいった。
集落から少し離れた沢沿いに獣道があった。鹿か猪が通った跡だ。利吉は茂みに身を潜めて待った。日が昇り始めた頃、若い鹿が水を飲みに来た。獣の集まりそうな水場だ。利吉は音を立てずに近づき、一息で仕留めた。
火縄銃を使えば早かったが、この距離なら一発で仕留められる。銃声は目立つ。この山中に人がいることを知らせてしまう。追っ手がいるかもしれない。斥候が巡回しているかもしれない。あの白い花畑で隠れた時のことを思い出す。利吉が雇われている国の者たちだ。味方のはずだ。だが今の利吉には味方に見つかることも都合が悪い。
利吉は苦く笑った。
まるであの男を隠すために行動しているようだ。報告していない捕虜を抱えていることがばれないように。この山奥の隠れ家が見つからないように。そうやって立ち回っている自分がいる。
誰のためなのか。何のためなのか。答えは分かっていた。分かっていて、相変わらず認めたくない自分がいる。
鹿を担いで墓守の家へ戻ったのは昼を過ぎた頃だった。朝靄は既に消え、秋の陽が木々の間から差し込んでいる。廃れた墓地を抜けて雑木林を通れば、あばら屋が見えてきた。
利吉は足を止めた。
──何かが違う。
違和感に目を凝らす。屋根だ。昨日は奥の間の天井から空が見えていた。板が腐り、茅が落ち、穴だらけだった。それが塞がれている。藁束で埋められている。いくつもの藁束が屋根の上に並び、隙間を覆っている。
壁も違う。昨日は指が入るほどの隙間があった。風が吹き込んでいた。それが塞がれている。土が塗られている。半乾きの土が、壁の隙間を埋めている。
利吉が呆然と立ち尽くしていると、戸が開いて黒が出てきた。手には藁束がある。顔には泥がついている。髪に藁くずがついて、汗をかいている。まだ昼過ぎなのに一日中働いていたような顔をしている。黒は利吉を見て、それから担いでいる鹿を見て笑った。
「獲れたのか。やるな」
軽い声だった。まるで当たり前のことを言うように。
「……何をしている」
利吉の声は掠れていた。
「見て分からんか。屋根を直した」
黒は藁束を壁に立てかけた。
「壁も塞いだ。昨日は寒かったからな」
淡々と言う。何でもないことのように。逃げなかったことへの説明も、修補をしたことの言い訳も何もない。ただ事実を並べるだけの声だった。
利吉は言葉を失っていた。
逃げなかった。逃げられたはずなのに。自由だったはずなのに。利吉がいない間に姿を消すこともできたはずなのに。なのにこの男は逃げなかった。それどころか家を直していた。二人で住むための家を。冬を越すための家を。
利吉の口が動いた。声が出た。自分でも予想しなかった問いが。
「──何故逃げなかった」
黒は利吉を見た。泥のついた顔。藁くずのついた、汗ばんだ額。その奥にある目が、利吉を真っ直ぐに見る。
「逃げてほしかったのか」
その問いに利吉は答えられなかった。
逃げてほしかったのか。逃げてほしくなかったのか。利吉自身も分からなかった。分からないまま、ただこの男の顔を見ていた。黒はそんな利吉の沈黙を見て、ふっと笑った。
「まあいい。それより鹿だ。腐る前に捌くぞ」
そう言って、あっさりと話を切り上げた。利吉の動揺など気にした風もなく、黒は鹿の傍にしゃがみ込んだ。懐から小刀を取り出す。いつの間に持っていたのか。利吉は聞かなかった。聞いても仕方がない気がした。
二人は鹿を捌き始めた。黒の手つきは慣れたものだった。内臓を傷つけないように腹を割き、素早く取り出していく。利吉は皮を剥ぐ作業に取りかかった。血の匂いが漂う。手が赤く染まる。
「……寺にいた頃は、よく獣を捌いた」
黒が言った。
「坊主が肉を食うのかと驚いたが、あの寺は戒律が緩くてな。山で獲れたものは仏の恵みだと言って何でも食っていた」
「随分と世俗的な寺だな」
「おかげで飢えずに済んだ」
黒は内臓を脇に寄せながら続けた。
「お前は鹿を捌くのには慣れているのか」
「そうだな……父に教わった」
また父の話をしてしまった。利吉は口を噤んだ。だが黒は追及しなかった。
「そうか。いい父親だな」
それだけ言って、黒は作業に戻った。その横顔に嫌味はなく、皮肉もなかった。利吉は黙って皮を剥ぎ続けた。沈黙が落ちたが、朝のような重さはなかった。血の匂いと、肉を切り分ける音と、時折吹き抜ける風の音。それだけが二人の間にある。
「この辺りは獣が多いのか?」
黒が聞いた。
「沢沿いに獣道がある。水場が近いから集まるんだろう」
「なら、当分は食うに困らんな」
「そうだな」
短いやり取りが続いた。鹿の話。水場の話。集落の井戸の話。どれも取るに足らない会話だった。だがその取るに足らなさが、妙に心地よかった。
黒は肉を切り分けながら、頭の中で計算を組み立てていた。
『逃げてほしかったのか』
自分のあの問いに対する答えを、野良は返せなかった。返せなかったということは、答えが一つではないということだ。逃げてほしい気持ちと逃げてほしくない気持ちが混在している。捕虜を手放したい合理と、手放したくない感情が拮抗している。
(方針は間違ってないな)
黒は確信した。野良は自分を逃がしたがっている。それと同時に、自分への執着も生まれ始めている。あの白い花畑で隠された時から、いや──もっと前から。息を吹き込まれたあの夜から。
この男の迷いは使える。この男の感情は利用できる。だから自分は逃げなかった。この男の傍にいた方が生き延びる確率が高いから。この男の情に付け込んだ方が安全だから。そういう計算だ。そういう計算のはずだ。
黒は手を止め、切り分けた肉を見下ろした。赤い肉。血の匂い。いつまでもこうしているわけにはいかない。
脚はもう動く。走ることもできる。傷も癒えつつある。あと少しすれば完全に回復するだろう。その時自分はどうするのか。このまま野良の傍にいるのか、それとも逃げるのか。逃げたとして、どこへ行く。追手はまだいるだろう。もといた国に戻ることはできない。裏切り者として追われる身だ。かといってこの国に留まることもできない。野良の雇い主に見つかれば捕虜として処分される。どこへ行っても同じだ。安全な場所などない。
それならば、野良の傍にいるのが一番安全だという結論になる。この男は自分を守る。自分を隠す。味方の斥候からすら隠したくらいだ。この男の感情を利用し続ければ当分は生き延びられる。
そういう計算のはずなのに──胸の奥が軋む。
「どうした?」
野良の声がした。黒は顔を上げた。野良がこちらを見ている。手を止めた黒を怪訝そうに見ている。
「いや、何でもない」
黒は作業を再開した。肉を切り分ける。血を拭う。何でもない顔を作る。
脚が治ったら、自分はどうするのだろう。
その問いへの答えは、まだ出なかった。
***
それからは、奇妙な共同生活が始まった。
利吉は狩りをした。早朝に家を出て、沢沿いの獣道で獲物を待つ。鹿、兎、時には山鳥。火縄銃は使わず、罠と刃物だけで仕留める。静かな狩りだ。時間はかかるが、銃声を響かせるわけにはいかなかった。
黒は家を直した。屋根の修補を終えると、次は床板に取りかかった。腐った板を剥がし、集落の廃屋から使えそうな材を運んできて張り替える。利吉が戻ると、昨日よりも少しだけ家がましになっている。そういう日が続いた。
黒は周辺を散策するようにもなった。
最初は家の周りだけだったが、次第に範囲を広げていった。集落の廃屋を漁り、道具になりそうなものを探す。錆びた鋸。欠けた鉈。朽ちかけた桶。使えるものは何でも持ち帰った。利吉はそれを止めなかった。
追手に見つかれば戦闘になる。その時、武器が小刀一つでは心許ないだろう。黒が自分の身を守る術を持っていた方がいい。散策中に黒が何かを見つければ、それは黒のものだ。そう決めた。
不思議と、寝首をかかれるとは思わなかった。そういう男なら、山火事の時に迷わず自分から武器を奪って逃げただろう。倒れた利吉を置いて走っただろう。黒は逃げなかった。利吉を担いで走った。治りかけの脚で痛みを堪えて。あの時の黒の目を利吉は覚えている。怒鳴りつけてきた声を覚えている。
だから信じている──というわけではない。信じるという言葉は大げさすぎる。ただ、この男は自分を殺さないだろうという確信があった。根拠のない確信だ。忍としては失格だろう。だがそう思ってしまうのだから仕方がない。
黒と一緒にいるのは心地よかった。生まれて初めて、利吉は家族以外の誰かと共に過ごしていた。利吉は昔から群れるのが苦手で、一人でいる方が楽だった。氷ノ山では母と、時折父とで三人で暮らしていた。人里から遠く離れた山奥で、他人と関わることは稀だった。忍務を受けるようになってからは尚更だ。フリーの忍として各地を渡り歩き、必要な時だけ人と関わり、用が済めば去る。それが利吉の生き方だった。
だが今は違う。
毎朝、目を覚ますと黒がいる。囲炉裏の傍で眠っているか、既に起きて部屋の隅で何かをしているか。朝餉を共にし、日中はそれぞれの作業をし、日が暮れれば囲炉裏を囲んで火を見つめる。時折言葉を交わす。取るに足らない会話だ。今日の獲物の話。明日の作業の予定。集落で見つけた道具の話。そういう何でもない言葉のやり取りが、利吉には新鮮だった。
黒は無口な男ではなかった。むしろよく喋る。皮肉を言い、軽口を叩き、時折利吉をからかう。最初の頃の張り詰めた空気は消えていた。捕虜と監視者という関係は、いつの間にか曖昧になっていた。
ある日、黒が集落から古い碁盤を持ち帰ってきた。
「見ろ、まだ使えそうだ」
埃を払い、欠けた隅を指で撫でながら黒は言った。碁石は半分ほどしか残っていなかったが、黒は木を削って足りない分を補った。その夜から、二人は囲炉裏を挟んで碁を打つようになった。
黒は強かった。利吉も負けてはいなかったが、五分五分といったところだった。
「お前、碁は誰に習った」
「寺の和尚だ。暇を持て余した坊主に付き合わされた」
一手を打ちながら言う利吉に、黒は楽しそうに言った。利吉は打ち返しながら言う。
「なるほど…、道理で打ち方に癖がある」
「癖とは何だ。私の碁は正統派だぞ」
言いつつ返す手がもう独特だ。利吉は少し悩んでまた石を置く。
「これのどこが正統派なんだ。お前は端から攻めすぎる」
「端を制する者が盤を制するんだ」
「そんな話は聞いたことがない」
「だろうな。今作った」
黒はまた笑った。そういうやり取りが利吉には心地よかった。
いつからか、利吉は黒の帰りを待つようになっていた。
散策に出た黒が戻ってくるのを、朝の狩りから帰った利吉が待つ。戸が開く音がすると、知らず知らずのうちに顔を上げている自分がいた。
黒もまた、利吉の帰りを待っているようだった。日暮れ時の狩りから利吉が戻ると、黒は必ず何かを見せたがった。今日はこれを見つけた。あそこにこういうものがあった。そういう報告を少し得意げな顔でする。利吉がそれに応じると、黒は満足そうに頷く。
まるで子供のようだと利吉は思った。そして同時に自分も似たようなものだと気づく。今日はこれを獲った。あそこに良い狩り場があった。そういうことを、黒に報告したがっている自分がいた。
奇妙な日々だった。
捕虜と監視者。敵国の忍と雇われの忍。本来なら相容れないはずの者同士が、山奥の廃屋で共に暮らしている。朝餉を共にし、作業を分担し、夜には碁を打ち、同じ屋根の下で眠る。
これがいつまで続くのか、利吉には分からなかった。いつか終わりが来ることは分かっている。黒の脚が完全に治ればこの奇妙な均衡は崩れるだろう。その時どうするのかを利吉はまだ決めていなかった。決められないままに移ろいゆく日々を重ねていた。
秋が深まっていく。木々の葉が色づき、散り始めていた。朝晩の冷え込みが厳しくなり、囲炉裏の火が欠かせなくなった。冬が近づいている。その前に何かを決めなければならない。そう思いながらも、利吉は決断を先送りにし続けていた。
今日も黒が戻ってくる。今日も囲炉裏を囲んで碁を打つ。今日も同じ屋根の下で眠る。
それでいい。
今はそれでいい。
利吉はそう自分に言い聞かせていた。
***
夜が更けていた。
囲炉裏の火は落ち、残り火が微かに赤く燃えている。壁の隙間から差し込む月明かりが、部屋の中に淡い影を落としていた。
外では虫の声がしていた。秋の終わりの虫だ。もうすぐその声も聞こえなくなるだろう。冬が来れば、虫も眠りにつく。
黒は眠れずにいた。
傍らで利吉が眠っている。仰向けに横たわり、静かに呼吸をしている。月明かりに照らされた横顔は穏やかだった。眉間の皺が消えている。口元が僅かに開いている。起きている時の張り詰めた空気が、今は完全に緩んでいた。
無防備だ、と黒は思った。こんな姿を敵に見せていいのか。いつでも喉を掻き切れる。いつでも息の根を止められる。なのにこの男は自分の傍で眠っている。背中を預けて眠っている。
最初の頃は違った。野良は黒の傍で眠らなかった。常に一定の距離を保ち、黒が動けばすぐに反応できる位置にいた。眠っているように見えても意識は醒めていた。忍の習性だ。黒も同じだった。
それがいつからか、いつの間にか変わった。
山火事の夜からだろうか。白い花畑の日からだろうか。それとももっと前からだろうか。気がつけば野良は黒の傍で眠るようになっていた。背中を向けて眠ることもあった。無防備に。信頼しているかのように。
黒は野良の寝顔を眺めた。眠っているときはどこか子供のようになる。最近感情が分かりやすくなってきた。この男といるのが楽しかった。
最初は本当に、利用するだけのつもりだった。情に付け込んで、生き延びるための道具にするつもりだった。だがいつの間にか、それだけではなくなっていた。
野良は意外なほどに物知りだった。兵法書だけではない。星の動き、高山の植物、山の天気の読み方、獣の習性。話を聞けば聞くほど新しいことが出てくる。その知識の量に黒は何度も驚かされた。父の蔵書で読んだ、と野良はよく言う。その度に黒は思った。どれほど多くの書物がその山奥の家にあったのだろう。どれほど深い教育を野良の父親は施したのだろう。
野良は真面目な男だった。何事にも手を抜かない。狩りも、火の番も、家の修繕の手伝いも、碁を打つ時でさえ真剣だった。その真面目さが時折堅苦しく感じることもあったが、嫌いではなかった。むしろ好ましいとさえ思っていた。
野良はからかうと面白かった。冗談が通じにくい。皮肉を言うと真に受ける。軽口を叩くと眉を寄せる。その反応を可愛いと思うようになった。可愛いなどという言葉を自分が使うとは思わなかったが、他に適当な言葉が見つからない。真面目に不貞腐れる野良の顔を見ると、つい笑ってしまう。もっとからかいたくなってしまう。
野良の傍で眠ると安心した。野良の隣は悪夢が来ない。赤い炎に追われる夢を見ない。あの夜──息を吹き込まれた夜から、野良の傍にいると呼吸が楽になった。身体が覚えてしまった。この男の傍は安全だと。だから自然と距離が近くなった。
夜になると、黒は野良の傍に寄っていく。床板はとっくに直っていたが、近くなった二歩の距離はそのままだった。囲炉裏のすぐ傍で横になる。野良の呼吸を聞きながら目を閉じる。そうすると、すとんと眠りに落ちることができる。深く、穏やかに、夢も見ずに眠れる。
野良の傍にいるのが心地よかった。朝、目を覚ますと野良がいる。日中、作業をしていると野良が戻ってくる。そうして夜は囲炉裏を囲んで碁を打つ。そういう日々が心地よかった。誰かと共に過ごすことがこれほど心地よいとは知らなかった。
黒は目を閉じた。
──駄目だ。
心の中で自分を戒めた。
心地よいと感じてはいけない。楽しいと思ってはいけない。この男に情を寄せてはいけない。これは生き延びるための手段だ。自分は野良の感情を利用している。そのことを忘れてはいけない。野良が自分に執着し始めていることは分かっている。その執着に付け込んで、自分は安全を得ている。それだけの関係だ。それ以上であってはならない。
いつか自分はここを去る。脚が治れば、どこかへ行かなければならない。野良の傍に留まり続けることはできない。この男には雇い主がいる。忍務がある。帰る場所がある。自分にはそのどれもない。抜け忍だ。裏切り者だ。どこへ行っても追われる身だ。いつまでも一緒にはいられない。
それが分かっているから──情を寄せてはいけないと戒める。心地よいと感じてはいけないと諦める。けれどもそう思えば思うほどに胸の奥は軋んだ。心がそれを拒んでいる。
野良が寝返りを打って、黒は目を開けた。野良の顔が近づいていた。眠ったまま黒の方へ身体を向けている。寝顔が月明かりに照らされている。睫毛の影が頬に落ちていて、寝息が微かに聞こえてくる。
手を伸ばせば触れられる距離だった。
黒は手を伸ばさなかった。伸ばしてはいけない。触れてはいけない。触れれば、何かが決定的に変わってしまう。
黒は目を閉じた。
眠れ──何も考えるな。今夜も野良の傍なら穏やかに眠れる。それだけでいい。それ以上は考えるな。
そう言い聞かせながら、黒は眠りに落ちていった。野良の呼吸を聞きながら。野良の温もりを感じながら。
自戒の言葉は、眠りの中に溶けて消えた。
後
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