大学生と社会人その6


世間には、待ち合わせに向かない場所、というものが存在する。
この大学の図書館もその一つに数えていい気がする。購買で、ギターマンドリン部で知り合ったヒジンから借りたノートをコピーしながら、そんなことをふと考えた。

かつては国の歴史を作るほどの人物を輩出した由緒ある学び舎ではあっても、修繕や防火の観点からすれば、いつまでも木造平屋建てや煉瓦造りというわけにはいかないのが世の常だ。
戦中戦後に名を馳せた設計士が手掛け、親が通っていた頃には、美麗な外観を誇っていたらしいここの図書館も、近年は外壁の損傷が酷く、すっかり何の変哲もない鉄筋コンクリート造に作り替えられてしまっていた。ピロティに据え付けられたラファエル前派様式の翼を付けた天使も、片足を上げて来館者を威嚇するブロンズの馬も、今やまばゆいLED照明の下、真っ白く塗られた壁面に囲まれ、その仰々しさが不釣り合いに思えるほど浮いている。その上、収集された稀覯本の盗難を恐れているためか、外部の人間のアクセスを想定されていないせいかは知らないが、最寄りのバス停や地下鉄駅からはやたらと遠く、高校時代以前に一度見に来た記憶にあるよりは、アクセスも不便になっていた。その代わりに、今は裏山が相当に近くなっていて、窓からは美しい紅葉が見える。そのことだけが唯一の利点といえば利点だった。
自分でも、半月ぶりに顔を合わせる後輩との待ち合わせに図書館を指定したとき、何を考えていたのだろうと首をかしげるほどだ。あの日はたまたま、睡眠不足が続いていたし、なんとか楽に単位を取得出来る授業のために、移動時間を加味して、昼飯を食べるどころか、学食へ寄るための余裕もないまま体育館へと移動し、バレーボールを鼻先で受けそうになるという特大のイベントが入っていたせいだろう(鼻血を出さずに済んだのは奇跡だった。)
購買にいると、ワンプラスワンの恩恵に預かるために、連れ立って飲み物を買いに来る学生も多い。まあ、その辺の喫茶店で待ち合わせましょうなんて戯言はせいぜい八十年代に生きた人間のもので、ハン・ホヨルの辞書には載ってない。それは確かだ。
スマートフォンのメッセージを開いて見ると新しいものは入っていなかった。このところはギターマンドリン部の定演直前ということもあり、バイトも実験もない日を挟むようにして予定を組んでいるので、今日が無理なら明日の予定も開けてはおける、という話もしたのだけれど、ジュノからは、当初の予定通りにしましょう、という返事と待ち合わせ場所の確認連絡が返って来ただけだ。
ただの先輩と後輩ではなくなってしまったというのに、こうして形式的な文面のメッセージを送り合うというのは奇妙だったけれど、相手がアン・ジュノだから仕方がない。会いたいです、の一言でもあれば少しはこちらの気持ちも違うはず、とはいえ、そういうことをこちらからせがむのは気恥ずかしさが先に立つのだった。


定年退職間際の教授の授業は本当に眠い。
予定が半分以上詰まったスケジュール帳を開けて、明日の授業のことや、一昨日の夕食のカレーを付けたまま洗濯しそびれている白衣のことを考えるのも段々億劫になってきて、外で吹く木々を揺らす風を見ていると、スマートフォンにメッセージが2回入ってきた。
開いて見ると、『ギターマンドリン部のポスターを見ました』というショートメッセージと、大学構内のマップ、現在の位置情報が送られてきた直後に、『今から中に入ります』と図書館の正面玄関の写真が送られてきていた。
構内が広くて場所が分かりません、あるいは別の学部棟の図書室に来てしまったので時間に遅れます、という連絡がいつ来てもいいように心構えはしておいたけれど、人探しの相棒として有能だった年下の男には、地図が読めずにおたつくような隙などあるはずがなかった。
DPとして職務に励んでいた間に組んだ人間は何人かいて、檻の中に戻りたいというやつは流石にいなかったけれど、無駄話をしたがる先任を無視するやつはまだ良くて、逃げた虫けらには同情できないと言い張るやつ、人探しのために必要な出費やそのために掛ける労力を嫌がったり、他人の行動を読むのが下手だったりするやつばかりだった。その点、アン・ジュノには適性があった。
それにしても。こいつは未だにリュックを背負って行軍しているつもりなのだろうかという間隔でメッセージが入ったのには少し笑ってしまった。


授業を終えて、教科書の詰まったバッグを横掛けにしてダッシュで図書館へと移動しようとしたが、結局机の中にコピーし終えた紙束を突っ込んだのを忘れて、授業が終わったばかりの混雑する教室へと取りに戻る羽目になった。慌てて走ったことにはほとんど意味がなかったが、息が切れて運動不足が身に染みる。
大学生になってから、こうして必要に駆られて走る機会が増えたけれど、娑婆に出て以来、どこを走るにしても、半径十メートルの範囲にジュノがいないと、それは不完全なことであるような気がした。再び陰鬱な社会に戻るまでの期限付きとはいえ、せっかくの自由を手にしたというのに。世の中、上手くいかないことばかりだ。
マンドリンを背負ってゆっくりと歩いている間は、そのことを忘れていられたけれど、時折こうして思い出してしまう。
大学構内にある並木道はどこもそれなりに紅葉していた。赤く染まった楓の葉が、ひらりと目の前を落ちていく。

館内の学習室で、一番の席を見つけておくように、という難題を与えたというのに、先に到着していたジュノは、窓もないデスクライトもない、ないない尽くしの相席可能な巨大テーブル席を占拠していた。まあ、この図書館は学習室、と言ってもただ机をいくつも配置しただけの一角に過ぎず、仕切りがあり、デスクライトが付いた窓際の机とは違い、机に突っ伏してひたすらにうたた寝にいそしむ姿は、書棚を目的にした通りすがりの学生にも丸見えになる。そっと周囲を見渡すと、やはり、というか、ちらちらとうたた寝男に視線を投げかけている生徒の姿が見える。
指令はほかにもいくつかあって、ジュノは、こちらからの事前の命令通りにいくつかの授業の課題に利用するための本を書棚から取り出して、その上、必要なところの複写まで済ませてきっちり折って隣に置いていた。
けれど、そうしてうず高く積まれた資料も、ジュノの横顔を隠してはくれない。アン・ジュノは寝てればただの男前だ。起きている間は、あの特別な熱視線というか、見られた人間は誰でも、こいつに敵意を持たれているのではないだろうか、と勘違いしてしまう鋭い目をするせいで、知り合った頃から、何かと悶着に巻き込まれがちだった。
実家のある地域の図書館には、必ずひとりは真面目一徹な司書がいて、定期で見回りをしては、こうした不届きな利用者を差し棒でつついて起こしていたものだけれど、都会の大学では、今どきそういうスタイルは古いのだろうか。これから暫く論文の題材漁りの時間になるのだから、ジュノと話すことは特にない。それでも、起きろよ、と指でつついてから隣の椅子に腰をかけることくらいはする。それが礼儀というわけではないけれど。

膨大な資料から短いレポートに使えそうな文章を引っ張って来るのは大変な作業だが、その資料を準備するのも一苦労だ。ジュノがこのまま起きないのなら、しばらくは平和に、選んできてくれた参考書籍を読むことに没頭できる時間を過ごせる。起きたら労ってやる必要はあるにしても。そんなことを思いながら本を開くと、ぱらぱらとページをめくるこちらの気配に気づいたのか、ジュノは、ほんの少し身じろぎした。
すっかり覚醒したわけではないらしいと思って様子を伺うと、ちょっと前までは安らかな午睡といった平和な顔は、帰りましょう、お願いします、という小さな寝言で一転した。幾人かの学生たちが、うなされているジュノの顔を無遠慮に、あるいは好奇心とともに眺めては通り過ぎる。
無防備な心を、こんな風に見られていいわけがない。
おい、起きろ、とジュノの身体を揺すり、頬をつつき、耳元でわめいて、起こしてやりたかった。そうでなければ、これまでお前は良くやった、今日はもう帰って寝てしまえと、うつぶせて寝ているジュノの後頭部を撫でてやりたかった。
今は、そのどちらも出来そうになかったので、羽織っていたベージュとブラウンのあいの子のような色をしたジャケットを、坊主頭がこの上なく似合う、形のいい後頭部を覆い隠すようにして掛けた。
少しは静かになるだろう、と期待してのことだったけれど、効果はすぐに表れた。本の頁を見るでもなくぱらぱらと捲っているそのうちに、うなされていた声も消えた。
灯りを遮断したのが功を奏したのだろうか。そうでなければ、しばらく洗わずにいるジャケットに付き物の例のヨーグルトの匂いがきつくて、鼻が反応しているのかもしれなかった。
感慨深いような気持で、ジャケットのまんじゅう妖怪と化したジュノの背中を観察しているうちに、次の始業のベルが鳴って、ジュノは突然むくり、と上半身を起こした。
寝起きらしく気難しい顔をした後輩は、貸した上着を顔の前に持ってきて「……排水溝に張り付いたヘドロみたいな色のジャケットですね。」と言った。発作的に、後輩の耳を引っ張って「何か言ったか?」と尋ねる。
お前の語彙はそんなものか、とこめかみにぐりぐりと拳骨を当てると、なぜか大きなくしゃみが出た。
生意気な後輩は夢を見てうなされていた十数分前のことなど、すっかり忘れてしまったような顔つきで「キャラメルはあまり好きじゃないので。」と言った。
「キャラメルね……。」
マキアートでも飲みに行くか、と提案すると、それより腹が減りました、という答えが返って来る。この時間では学食は使えない。一番近いのは中華料理店で、給料日のその日のうちなら財布のことを考えずとも済むけれど、今は最後の選択肢だ。幸運があれば、購買部で残っているパンか海苔巻きか、何でもいいから軽食を購入してベンチで食べるという選択肢はないでもない。あるいは、ここから一番近い弁当屋まで歩いていくか。
「先輩、その時計、新しく買ったんですか。」
「ああ。いいだろ。」
いちいちスマートフォンを見ないと時間が分からないのはかなり面倒だ。
軍の中にいた頃に身についた習慣は、外に放り出されて怠惰な生活をしている間に消えていったけれど、こうして時計を見ることは習慣になってしまった。失くしても困らない安さも、昼飯の時間までどのくらいか一目で把握できるのも最高だった。昼になると、ときどきジュノはちゃんと飯食ってるかな、と思うこともある。俺よりずっとしぶといはずの後輩に、本当は心配するようなことは何一つないのだけれど。
「ひとつ、聞きたいことがあります。」
「うん?」
「その時計、この間一緒にいた人に選んで貰ったんですか?」
「は?」
獰猛さを秘めた静かな声には聞き覚えがあった。不穏な雰囲気を感じて顔を上げると、こちらを見ているジュノは、昼よりは夜のようで、平時よりは誰かを追跡しているときのような顔をしていた。
「一緒って、俺と誰?」
「先週、隣を歩いていた人がいましたよね。」と口を開いたジュノは、まるで尋問官であるかのように詳細な日時と場所と、その日着ていたジーンズの色を告げた。全く身に覚えがない、降って沸いた浮気の疑惑に、やっと得心が行った。
記憶にあるその日は、たまたま(とは限らないが)部活の日で、ギターマンドリン部の会計を担当する先輩の誕生日だった。その場のくじ引きに負けたせいで、その場にいた全員分のプリンやらシュークリームやらエクレアやらを大量に買い出しに行くことになり、同じく籤に負けた他クラスの一年生と一緒に肩を並べてケーキ屋に行ったのだった。道理で曜日がいつもと違ったはずだ、とかなんとかたわいもないことを話しながら並んで歩いた。
一般的には、人と話しながら歩くときに一列縦隊を取ることを選択する人間が稀なのだから仕方のないことだ、そうじゃないか?
「ジュノ、俺は、」と言い訳をしようとすると、ジュノの顔からは小さな悲しささえも感じ取れて、何を言えばいいのか分からなくなった。
そもそも、浮気を疑われているというシットコムばりのシチュエーションを、なぜこんな場所で展開しようとするのか。うっかりにもほどがあるだろう。人目がありすぎる。これが他人ごとなら、俺だってその辺で出刃亀をしたい。
あのな、ジュノ、と半分寝ぼけているらしい後輩の手を掴んで席を立ち、学習室を出て図書館の中を突き進んだ。本の海は広大で、物好きな大学生たちはいくつかの道を知っている。
両側から手に取れる書棚ばかりの開架書棚の中に人は隠れられないけれど、常に人気の少ない一角は存在する。教科書として買わされる率が高い法律書が多い棚までジュノを引っ張って連れて来て顔を合わせ(俺はお前と付き合ってるのに何で女と出歩いてるのを浮気と間違われないとならないんだ?)と小声で耳打ちした。でかい声で難詰したいが、そもそも場所が悪い。
「美人でした。」
「うん、だから彼女には先約の相手がいる。」
男前の後輩は、ニュートンから重力がりんごを落下させていると聞いたキリスト者のような顔をしてから「そうなんですか。」と言った。ちょっとした技、たとえばコブラツイストを掛けたい気分になったとしても、俺は悪くない。
美女には既に恋人がいる。世間はそういう風に出来てるんだ、愚かな俺の息子よ。
「アン・ジュノ、お前は俺が美人だったら誰とでも浮気するように思えるのか?」と詰め寄ると、ジュノは顔を逸らした。
「そうではないです。ただ先輩と、似合ってると思って。」
「じゃあ俺とお前は?」
「似合ってますか?」
「……俺に聞くなよ。」
そもそも、お前はなぜ男前なのに自信がないのか。俺にはそれが不思議だ。
ああいう意欲満々の顔はベッドの上だけでいいぞ、と耳打ちすると、くすぐったさに身震いしたジュノは、戻りましょう、と言ってから大股で元の席へと歩いて行った。
周囲を眺めると、こちらを見ていた何人かと目が合った。顔見知りはないように見えるけれど、大学は軍隊と同じくらいには狭い社会だ。誰もが知り合いの知り合いかもしれない。出刃亀は散れ、とばかりに手を振って見せる。
静かに、という声がどこか遠くから聞こえて来て、図書館は逢引きには向かなかったな、と思った。




人生は、恋愛映画のようにはならない。

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