金魚のふるさと

「ごらん|諧《かのう》、金魚だよ。綺麗だろう」
 父の大きな手が指し示したものに、渡辺諧は興味を引かれた。母の胸にすがったまま、ぱちぱちと目を瞬く。
 桶の中に無数の魚が泳いでいた。赤や黒の尾ひれを優雅になびかせて、小さな魚たちがゆらり、ゆらりと群れている。鮮やかに揺らめく水面は、まさに綾錦のごとき美しさだった。
「きんご?」
「そうよ、金魚。よく言えたわね」
 頭を撫でてくれる母の手がくすぐったい。まだ生まれて一年足らずの諧には、自分が感じていることを口にするのは難しい。舞うように泳ぎ回る金魚を、ほうっとただ見つめるばかりだった。
「すごーい、きれい~!」
「ひらひらして可愛いね」
 兄と姉もすっかり見惚れている。
「せっかくだし飼ってみるか。お梅、鉢を持ってきておくれ」
「はい旦那様、こちらに」
 小間使いの梅が用意した青い鉢の中へ、銭と引き替えに一群れの金魚が移される。天秤棒をかついで立ち上がった金魚売りの男が、日に焼けた笑顔を子どもたちに向けた。
「可愛がってやってくださいね、坊ちゃん。お嬢さんも」
 人見知りの諧はぱっと顔を背けてしまう。両親と金魚売りの笑い声が聞こえた。代わりに姉がきちんと頭を下げ、兄がぶんぶんと手を振った。
「おじさん、ありがとー!」
「誰がおじさんでぇい!」
 母に抱かれて左右に揺られながら、諧は金魚の移された鉢ばかり見下ろしていた。中の密度が下がって、心なしかのびのびと泳げているように見える。喜んでるといいな、と諧は思った。


 そんな一夏の記憶があるから、十六歳になった今も金魚は嫌いではない。諧は自分が幼かった頃のことをよく覚えている質だ。
「諧さん、金魚売りが来てますよ」
「金魚ですか」
 だから弟弟子の野口幽谷が声をかけてくれた時も、諧は少し胸が弾むのを感じた。幽谷は自分よりも後に入門しているが、年上なので敬語を使うことにしている。人には首を傾げられることも多いが、諧にとってはこの方が落ち着く。
 表に出てみると、琢華堂の塾生たちが背を丸めて桶を覗き込んでいた。なんだか獲物を狙う猫のようだ。
「諧さんも見てきたらどうですか?」
「もう金魚ではしゃぐような年でもありませんよ」
「まあまあ、風流ってやつじゃないですか」
「そうですかね」
「買いなさい。金はうちで持つ」
 背後から飛んできた低い声に、びっくりして諧たちは振り返った。いつの間にやら、琢華堂の主である椿椿山が懐手をして立っている。削げた頬から受ける印象は、椿というより冬枯れの柳だ。
「練習の一環だ。次の講義までに、その金魚を写しておきなさい」
「ああ、そういうことですか」
 鬼だな、と言いたげに幽谷が苦笑いした。こう振る舞っておきながら幽谷は、いつも通り誰よりも熱心に対象を描いて、いつも通り最優の評価を受けるのだろう。
 大きな鉢が運び込まれて、桶の中身の三分の一ほどが引っ越しさせられていく。人の都合であちらこちらへ住処を移されるのが、今の諧にはひどく哀れに思われた。家で金魚を飼ったあの夏から二年後、自分の家族も同じ目に遭ったからだ。
「諧くん」
「なんですか、先生」
 椿山が、そっと諧の肩に手を添えた。父よりも骨張って薄い手の平が言う。
「渡辺崋山の〈蟲魚帖〉を見たことがあるだろう。いずれは君にも、ああいう絵を描けるようになってもらわねばならない」
 針で刺されたように胸が痛んだ。
「よく励みなさい。そうすればお父上も、きっと喜んでくれるよ」
「……はい」
 薄い手を払いのけたかったが、俯くだけに留まった。昔からずっと、感情を表すのが苦手なままだ。それに実行する度胸もない。父の愛弟子だった椿山に、「そういう態度はよくない。お父上が悲しまれる」と叱られるに決まっているのだ。
 ――僕が何をしたって、父上が喜ぶものか。もう死んでいるのに。
 塾生の群がる金魚鉢から目を逸らして、諧は胸の内で毒づいた。


「どう、描けた?」
「全然」
「動き回るからむずいなー」
 次の日から琢華堂の塾生にとって金魚は、愛でられつつも恨み言の対象になった。
 人だかりができている金魚鉢の前から、ひと気の少ない部屋の隅まで引き上げてきた諧は、自分の絵を見直してため息をついた。課題は一応仕上がったものの、満足のいく出来ではない。あと何枚か描いて、もう少しましなものを作らねばなるまい。
 次の絵に取りかかる前に助言が欲しい。いつも椿山にばかり頼っているから、今回は幽谷に相談してみよう、と思いつく。彼がどこにいるか塾生たちに聞いてみると、今日は家に戻って家業の大工仕事を手伝っているという。諧は幽谷の家まで出向くことにした。
「巳之助さんはご在宅ですか」
 通り名で呼ぶと、幽谷の兄が出てきた。諧と正反対の鍛えられた身体がまぶしい。
「あいつなら奥で図面を引いてるよ。呼ぼうか?」
「実は少し紙を広げたいんです。すみませんがお邪魔してもよろしいでしょうか?」
「そんなに畏まらないでおくれよ、うちの巳之助とはいつも仲良くしてくれてるじゃないか」
 水仕事を手際よく進めながら答えたのは幽谷の母だった。お言葉に甘えて敷居をまたぐ。
 奥の間へ廊下を進むと、二人分の話し声が聞こえてきた。一つは幽谷の父親だろうと見当をつけて部屋を覗く。
「絵師か大工か、そろそろおめぇの道も一本に絞るべきかね」
「俺なんかの絵で食っていけるわけないよ。はい一枚できた」
「おう、上等だ。しかし塾じゃずいぶんいい成績だって話じゃねえか……っと、渡辺くんが来てたか。こりゃすまねえ」
「どうぞお気になさらず」
「諧さんいらっしゃい。どうなさったんです?」
 諧は頭を下げて、障子の縁近くに腰を下ろした。自作を広げて幽谷と話し合いながら、諧の頭の中には、先ほど聞こえた幽谷の言葉ががんがんと鳴り響いていた。
 琢華堂の塾生で一番絵の技量が優れているのは、間違いなく幽谷だ。その幽谷が『食っていけるわけない』と言うなら、彼に及ばない自分はどうなるというのか。そもそもどうしてそんな風に断言できるのか。椿山が何か言ったのだろうか。諧よりも見込みのある幽谷にだけ、何か。
 途中大工の子方に呼ばれて、幽谷の父が席を外した。改善点をびっしり書き留めた絵を畳んで懐へ仕舞いながら、諧は躊躇いがちに口を開く。
「絵で食っていけるわけない……って、本当に思ってらっしゃるんですか」
「今の俺じゃ無理でしょうね。この先はわからないけど」
 あっさりと幽谷が言った内容に諧は慄然とした。
「なんでそう言い切れるんですか。未来を見通してきたみたいに……」
「未来じゃなくて、今ですよ。今の俺には今の俺のことしかわからないでしょう。で、ちょっと遠目に眺めてみると、ああまだ足りないなーって思うわけです」
 自分自身を見下ろせるのがどれほど卓越した能力なのか、彼は理解して言っているのだろうか。幽谷の描く世界を真に支えているのは、この現況を客観的に把握する力ではないか。
 だとすれば諧には、幽谷並みの絵を描くよりも困難なことだった。己の世界に溺れるようにするしか、ものを見る法を知らないのだ。
「じゃあ……じゃあ、僕は、どうなんですか」
 よせばいいのに、諧はすがりつくように尋ねてしまった。うーん、と幽谷は眉根を寄せる。
「あなたと俺とは別の人間ですから、絵師になれる条件も違ってくると思いますよ」
 握りしめた手のひらに爪が食い込む。遠回しに実力不足を告げられたのだと思った。このまま、一生まともに描けないのではないか。椿山の冷たいまなざしを幻視して、激しい焦りが身を焼いた。
「巳之助さん。お願いがあります」
 舌がひとりでに動いた。どぶ水のような濁った感情が、とんだおべんちゃらを並べさせた。
「僕、少しでも巳之助さんに近づきたい。もっと絵の勉強がしたいんです。次の課題に向けて、あなたの下絵を写させてもらえませんか」


 夕暮れ時になって琢華堂に戻った小華を、椿山が首を長くして待っていた。諧が住まいする場所は椿山の塾だ。江戸に諧の生まれた家はもう無い。家族もここにはいない。親代わりと思って頼るべき人は、椿山ただ一人。
「野口くんのところに行っていたのかい。遅いから心配したんだよ。もう霜月の暮れだ、そんな格好ではさぞ冷えたろう」
 椿山が甲斐甲斐しく半纏を着せかけてくれる。
「平気ですよ、先生」
 やんわりと拒絶する諧に、椿山はおやと眉を上げた。草履を脱ぎながら、諧は薄く唇を歪める。これも珍しい顔だった。
「先生、次の課題は厳しく評点をつけてくださいね」
「……そんなに自信があるのかい」
 土間から上がり、部屋の片隅の大きな鉢を覗き込む。金魚が鰭をひらめかせて泳ぐ水面に、諧の面が揺れた。
 この寄る辺ない魚たちは自分だ、と思う。大人たちの都合で江戸から田原へ、また江戸へと移された身の上。未だ絵の道を修められず、外からの期待ばかり背負わされる。どこにも帰属できる場所のない、何者でもない宙ぶらりんの立場は、もうまっぴらだった。
 居場所を作ってみせる。どんな手を使ってでも。
「僕、きっと一番になってみせますから」
 師の不安げな問いかけに背中で答え、諧は声をあげて笑った。


「今日の講義はここまでとします。皆、次回の課題もよく励みなさい。……諧くんは少し残るように」
 言われるまでもなかった。立ち上がれないのだ。講義の初めに課題の評点をつけられた瞬間から、すべての音が耳を素通りしていった。周囲の物見高い噂話も、幽谷の気遣わしげな視線も、刃となって諧の全身を切り刻む。
 師をみくびっていた。幽谷の下絵を写して提出した作品は、最低の評価をつけられたのだ。
 大部屋が空っぽになってから、椿山が歩いてきて、諧の前に膝をついた。
「私は怒っていないよ。ただとても悲しいし、そして疑問にも思っている。絵を学ぶ上で名作の模写はとても大事だし、模写によって生まれた作品に新たな価値がつくこともある。だが、諧くんのしたことは違う。君はまだ画家としては未熟で、私は君自身の今の実力を測るために課題を出しているんだ。それはわかるね」
 早く終わってほしいな、とだけ諧は考えるようにしていた。椿山の骨ばった指と、質素な木綿の布地にくるまれた膝頭と、毛羽立った畳の目を順繰りに見つめていた。
「今更言って聞かせる段でもなかろうが、君のお父上は人品骨柄にも優れた方だった。こんな一時しのぎをしているようでは、お父上のようにはなれないよ」
 頭の裏が真っ白になった。また父の話。間違いを犯してすら、持ち出されるのは父親のことで、諧自身には焦点が合わないのか。
「教えてくれ。渡辺崋山の息子ともあろう君が、どうしてあんな真似をしたんだ」
 そっと肩に触れようとする手を、ぱちんと音を立てて諧は打ち払った。
「僕が父の息子だから……。風邪を引かないように気を遣ってくださるのも、絵を教えてくださるのも、僕が渡辺崋山の子だからでしょう! もううんざりなんですよ、なんでもかんでも父の形見扱いされるの!」
 普段表情の少ない椿山の顔が、悲しげに歪むのを諧は見た。痛いほど速まった拍動が下がらない。むしろ、頭に血が上った。図星なんだろうと叫びたかった。
「先生の求めてらっしゃること、僕にはできません。僕には、僕じゃ、父上にはなれないっ!」
 よろめきながら諧は立ち上がり、身を翻して琢華堂を飛び出した。


 急につんのめったかと思うと、頭から地面に突っ込んでいた。草履の鼻緒が切れたらしい。鼻っ柱がずきずき脈打って、頬と手の平がひりひりする。
 半身だけ起き上がると、身体中からぱらぱらと小石や砂が落ちた。何処とも知れない河原である。肩で息をしながら、薄青い空に細い月が昇るのを見ていた。
 気が付けば、幼子のような泣き声をあげていた。
「うわあぁあんっ」
 田原に帰りたかった。母に、姉に、兄に会いたかった。江戸に出てきてから初めて、諧はまともに自分の心と向き合っていた。
「父上ーっ、さみしいよーっ、会いたいよーっ」
 父の描く絵が大好きだった。庭遊びもしないで一人熱心に絵を見ていると、「そうか、諧は絵が好きか」と大きな手で頭を撫でてくれた。どれほど心を動かされているか、諧はうまく言葉にできなかったけど、父はどんなに拙い話でも聞いてくれた。
 どうして諧たちを置いていってしまったのだ。祖母の悲鳴を耳にしたあの朝、諧はたった七つだった。もっと絵を教えてほしかったのに、もっと側にいてほしかったのに、どうして、どうして。
「諧くん! よかった、見つかって」
 がっしりと抱きしめるように肩を抱えられた。椿山の手、ではない。もっとふっくらとした感触だ。
「ひどいな、泥だらけだ。それに血が出てるじゃないか、かわいそうに」
 椿山の友人、福田半香は手拭いで砂を払ってくれた。半香は諧が江戸に出る時、田原まで迎えに来てくれた人だ。あばたの目立つ穏やかな丸顔を見ていると、心が徐々に凪いでいく。
「立てるかい? 肩を貸すよ。さ、琢華堂に戻ろう」
「いや、です」
 しゃくりあげながら、諧は首を振った。まだこの感情の波を消してしまいたくなかった。
「椿先生に何か言われたのか? 僕も一緒に行ってあげるよ」
「な、なにも、いわれてません。ぼくがわるいんです。ぼくが、うまくかけないから……」
 言いながら、また涙が込み上げてきた。ぐずぐずと鼻を啜る隣で、半香は何度も頷きながら聞いてくれる。
 悔しかったのだ。誰よりも父の絵が好きなのに、父のようには描けない。理想を形にできない自分が嫌いで、椿山の期待に応えられない自分が嫌いで、腹立たしさのままに当たり散らしてしまった。
 椿山に謝らないといけない。でも、父のように描ける気がしないのも本当のことだ。
 手の甲で顔を拭って、諧は半香の顔を見た。半香の優しい瞳に、途方に暮れた諧の顔が映っている。
「忠太さんはね」
 諧の師を通り名で呼んで、半香は語り始める。
「君のお父さんとは本当に長い付き合いがあって、深く信頼し合っていた。師弟としても人としても、ね。だから、自分が諧くんを立派に育てないといけない、それが遺された自分の使命なんだって、忠太さんはものすごく気負っている。課せられたその期待が、諧くんにとっては重すぎることもあるだろうね。……それから、もうあの人がいないことがとても寂しくて、どうしても諧くんを重ねてしまう日もあるんだと思う」
 ゆっくりと瞬きした諧の目から、丸いしずくが落ちた。責任感に押し潰されそうなのも、寂しくてたまらないのも、諧だけではなかったのか。
「でもね、君をただの跡継ぎとしてしか見ていない、なんてことは決してあり得ないよ。仮にそうだとしたら、諧くんが家出したからって、顔色をなくして僕の家まですっ飛んできたりしないもの」
 家出扱いされたのか、と思って諧はしばし閉口した。だが一方で、探しに来たのが椿山ではなく半香であったことの意味が飲み込めてきた。もし諧が一人で先に戻ってきたら、琢華堂を空けておくわけにはいかないと考えたのだろう。
「それに、今うまく描けないと思っていても、それが諧くんの持ち味かもしれないしね。まだまだわからないよ?」
 半香に慰められると、そういうものかもしれないと思えてくる。たぶん、椿山の言葉は良くも悪くも近すぎるのだ。
「この福田半香だって、三十路を過ぎての山水画でようやく芽が出たしねえ」
「半香さんの花鳥画、僕好きですよ」
「ははは、ありがとう。……さ、帰ろう。これ以上心配をかけないうちに、元気な顔を見せてあげなくちゃ」
 鼻緒を結び直して立ち上がる。歩き出す前に、諧はちり紙を揉んで、ちんと鼻をかんだ。


 琢華堂に戻った翌朝、話があるからと椿山に呼び出された。
「あの……おはようございます」
 初めて琢華堂に来た頃のようにへどもどと挨拶する。
 昨晩は戻るや否や、何も言われずに抱きしめられた。半香の手前まず叱責されるだろうと思っていたから、諧はされるがままになりながらも、内心ものすごく動揺した。
「先生、ごめんなさい」
 諧を抱きすくめたまま、椿山は微かに首を横に振っていた。
「私が悪かった」
 耳元から掠れ声が聞こえた。今更ながらどれだけ心配をかけたのかと思うと、諧は自分が恥ずかしくなってきた。
「大丈夫そうだね。じゃ、僕は帰るから」
 何かあったら遠慮なく呼んでね、と言い残して、半香はにこにこした顔で帰っていった。ろくに挨拶もできなかったから、今度改めて椿山と礼に行こうと思う。諧探しを手伝ってくれたという幽谷にも詫びなければならない。
 その後は普通に夕食を済ませて普通に就寝したから、この一件はこれでおしまいなのだろうと思い込んでいた。
「諧くん」
 呼びかけられて、正座したままびょんと飛び上がりそうになる。椿山は何事か言いさしては言い淀み、躊躇いがちに口を開いた。
「私は、七つの時に父を亡くした」
「え、それって」
 椿山は静かに頷いた。諧が父を喪ったのと同じ年だ。
「だから君の気持ちがわかる、などとのたまうつもりはないが……君を教え導くだけでなく、なるべく傍にいて、寄り添ってやりたいと思っている」
 一言ずつ、噛んで含めるように椿山は語った。あるいは過去の己が欲していた言葉を、手探りで見つけている途中なのかもしれない。
「父親代わりといっては甚だ心もとない存在だが、私は君の味方でいることを忘れないでほしい。これからは君に頼ってもらえるよう、誠心誠意努める」
 わずかに微笑みを浮かべて、椿山は席を立った。
 師の後ろ姿を見送ってから、諧は庭に降りた。すう、と深呼吸して、朝の澄んだ空気を身体中に取り込む。朝露を踏みながら、庭の隅に移された鉢に寄った。
 鉢の中では、相変わらず金魚が群れている。課題としての用事が済んだ今では、どの塾生にも素直に可愛がられていた。
「江戸の水はいいよね。父上も先生も、江戸の誇りだって言ってた」
 綾錦の水面に語りかける。
「でも田原の水もきれいなんだよ。僕はどっちも好きだな」
 ふと揺らめいた尾の流れに、諧は目を見張った。腰を上げ、部屋の内へ駆け戻る。絵道具を取ってこなければ。
 前をよく見ていなかったために、洗い物を抱えた下働きの女性とぶつかりそうになる。
「すみません!」
「あ、いえ……。珍しいですね、諧さんがあんなに元気そうなの」
 下女が首を傾げていることには気付かず、同じ場所に舞い戻って急いで筆を取り上げた。水面に映る諧の瞳は明るく輝いている。
 江戸でも田原でもない、自分の帰る場所を見つけた気がした。

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