餞/創作BL(2020.7.20)
産まれ育ったこの街を出ることにした。
列車の時刻は夕方。すこし遠いから、大きな駅で寝台列車に乗り換えて行く。僕を待っているのは、細々とした働き口と駅まで歩くせいで不便で安い下宿だ。卒業式を終えて、荷物にもすべて方を付けた、からっぽの部屋に寝転がったとき、この地にいる理由のすべてが解けて消えていくのを感じていた。
いつか、修学旅行のために買ったキャリーケースには入るだけ荷物が入っている。結局、個人的な用事で使うことはなかったな、と今になって気がつく。がらごろと転がしながらこれからはもう最寄駅ではない駅に着く頃には、唯一、友人と呼んでもいいやつが僕を待ち受けていた。できうる限りその顔を見ないでいたかったけれど。
「真夏」
呼び慣れた名前を口の中で転がしながら、来なくていいと言ったのに、と、発つ日を伝えたことを後悔した。言わなかったとしたらきっと、寂しいよと笑って、僕を詰っただろう。見送りにしてはやけに大きなバッグが目に付いた。
「荷物多いね。本当に行っちゃうの? 実感ないなあ」
「何度もそう言っただろ。ったく、なんでわざわざ……」
嫌だな、寂しくなるし、と想像と同じ表情をするのが嫌で軽く腹を殴った。痛いよと文句を垂れながらも口角が上がっているように思えた。一番嫌なのは、こうなることを予見して早めに家を出てきてしまった自分だ。元の部屋の借主にはあっさり手を振ることができたのに。
「やっぱりついて行きたかったな。おれ、紡のこと心配だよ〜。生活感薄そうで、すぐ倒れそうだし。向こうに行ってもちゃんと人付き合いとかするんだよ、言っても無駄かもしれないけど」
「これまでも倒れたことなんかないだろ」
そうだけど、などとくるくるよく回る口を鬱陶しく思いながら視線の置き場に困って、その手に切符が握られているのを見つけた。このあと出かける予定があるのだろうか。にしても、人と会う前に買わなくても。どうしたんだと尋ねると、真夏が恥ずかしそうに頬を掻いた。
「これ、は、まあ、紡のぶん。おみやげ、じゃなくてはな……? なんだっけ、あげようと思って。……なんて、嘘は通用しないか。おれも着いていっていい? 嫌だったら、やめるから」
それは餞だろ、余計なことしやがって、と悪態をつきそうになった口を閉じる。呆れているとも、面倒がっているとも、馬鹿にしているとも言えただろうが、結局僕はそれを拒めなかった。ずっとそうだ。
嬉しそうな真夏を後ろに連れながら、乗り込んだのは一両目だ。大きな都市に出るにはいつもこの路線に乗る。けれど、それもこれで最期だ。プシュ、と音を立てて閉まるドアと、よいしょと声を出しながら腰掛けるのを見て、どうして乗り込んでしまったんだろうと初めて考えた。仕方がなかった。見慣れすぎた顔でやっと答えが出た。相変わらず能天気だな、と思いながら隣を陣取る。これも最期、と数を数える。
「やっぱり次の駅に用があるから、そこで降りよう」
「……本当? 紡のことだからなにか企んでるんでしょ」
「違うよ、酷いな」
ええ、と零しながら真夏が喋らなくなった。それはそれで面倒がなくていいのだが、なにか用があったんじゃないかと気にはなる。僕から話題に出す気にはなれなくてこちらも黙った。もともと口数が多いほうではない。静寂だって心地良かった。
景色が追いつけない速度で流れていくのをぼんやり眺めていた。急行列車だから、次の駅までは十分ほどかかるだろう。夕陽がひどく赤くて、窓から差し込む光がやけに目に眩しい。どうしてかブラインドを下げる気にはならなかった。人の少ない車内に無言と、がたごとと鉄のかたまりの走る音が響いている。
「紡は、」
「うん?」
「もう戻ってこないつもりなんでしょ。そのくらい、おれでもわかるけど、……だから付いて行きたかった。あの街のすべてを自分の中から追い出してしまうつもりでいるんだろうけど、おれだけは居座ろうと思って、だから、……でも、やっぱりおれはあの街が好きだから。離れられなくて、ごめん。……紡のことは忘れないから」
それだけ告げて、真夏は黙った。そんなこと言いにきたのかよ。その言葉を、呪いのように僕に植え付けようとしたのだろうか。いや、ばかがつくほど明るいやつだから、それだけはないな。呪いのようになるのは僕だからだ。この街に縛られた男の言うことはちょっと滑稽だった。
「それだけ?」
「うん」
言えることのなくなった互いの代わりのように、アナウンスが流れる。知らぬ間にずいぶん過ぎていた。最期にしてはあっけないな。時間は平等で無慈悲に、等価で流れていくのだ。僕の手には自分で買った切符が、真夏の手には真夏が買った切符がある。あのとき、改札の前で、嫌だと言って奪えばよかったそればかりが目に映った。こんなことになるならそうしておくんだった。こいつのことなど放っておいて。
「──、──です。左側のドアが開きます」
平坦な声がスピーカーから流れて、ドアが開く。座席から立ち上がって列車の外へ出ようとする僕たちと、何人か、同じ車両に乗っていた乗客はすべて降りていく。僕の目的地はもう二駅先だ。
「ごめんな、……連れてはいけないよ」
小声で告げて、車両から出る前に立ち止まった。先に車両を出た真夏が数歩進んでから、僕が付いて来ないことに気付いて振り返る。その頃には、発車アナウンスが流れ出していた。駆け寄ってきた真夏を優しく指先で押し戻す。それだけでこちらに乗り込めないで、金魚のように口を開閉させていた。
よく来ていたはずの駅も今日は違っているようだった。ずっとそうだ。今日はすべてが一枚フィルターを剥いだように新鮮に映っていた。これで最期、と、カウントしようとしていまの数を思い出せない。これは何個目の最期だっけと、僕しか知らないことを尋ねて周りたかった。
さよなら、と、声にできていただろうか。届いただろうか。変わらず、大きな音を立てて締まる扉が僕たちを隔てていく。真夏がその場にへたりこんで、僕を見上げているその目の中、に、ひとすじ流れるものを見て、ああ、やっぱりと胸からなにかが落ちた。それを拾うこともせず、また元の席に戻る。正真正銘、ひとりぼっちだ。もちろん、そうなろうとしたのだけれど。
頬を拭ってやりたかったんだと知ったのが別れ際でよかったのか、わからない。あのまま、あの場所で過ぎていく列車を見ているのだろうか。ひとりで見る夕陽はなぜか以前より赤く見えた。だから、目を合わさないようにしていたのに。焼きついた瞳の、あの、真夏の空が似合う色に過ぎるのは、飛行機雲くらいでいいと分かっていたのに。
どうか背を向けろ。
忘れようとしていたものはたいていすべてわすれた。けれど、どうしてか、きっと覚えているだろうと考えたときに、それは腑に落ちて、落ち過ぎて足元に転がった。鮮烈にまぶたに滲みるあの目が、とっくに僕の中に居場所を見つけている。
そのあとは呆然としていた。
日が沈んでいたことにほとんど気がつかないまま、ずっと夕陽の幻覚でも見ていたみたいだ。寝台列車に辿り着くまで、日の暮れていくのも、流れ星も見たと思ったのに、忘れられないでいる。
「真夏」
口の中で転がした名前はもう誰の元にも届かない。手離したものの価値を知りながら、僕は歩いてゆかねばならないのだ。
あの街をあの男ごと、愛していた。こんなもの忘れてしまえと、呪うこともできず。
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