はじかみ
「シノブ、そのはじかみ残すんやったら、わたしが食べてええ?」
「……いいですけど。」
なんでこんなもんが好きなんですか、て言おうとしたタイミングで伸びて来た箸が、ひょいと僕の弁当から紅白の細い棒を持って行った。
「そもそも、そういうのはただの彩りのために入れてあるんと違いますか?」
「美味しいから食べるやん。それに、海老の尻尾とかバランとか、そういうのは残すけど、これはまあ食べられるんやから、ええやない。」
「そんなもんですか。」
「そういえば、東北の方やと、菊の花のお浸しとかあるんやて。昔、ラジオで聞いたことあるわ。」
おかみさんは家事をするときにあちこちラジカセを持って行って、ラジオを流しながら身体を動かすことが多い。好きな番組を聞きながらはたきを掛けたり、洗濯物を干したりする。
休憩して、何か食べたり茶を飲んだりするときにも、こうして流していることが多かった。流行りの歌を流す夜の騒々しいラジオ番組とは違って、落ち着いた話し方をする司会が多い。DJというよりニュースキャスターのようだ。
「そういうのは食べられる花を作ってるのと違いますか?」
「そうかもねえ。料亭みたいなところで食べられるのかしら。」
「それか、温泉旅館とか。僕は東北の方には行ったことないですけど、案外、スーパーみたいなとこに売ってるのかもしれませんね。」
商社にいた短い期間には、出張と言う名目で上司があちこち遊びにいくのに連れ回されたこともあったが、ほとんど関東のゴルフ場か九州のゴルフ場というところで、僕自身は子どもの頃からほとんど旅行したことがない人間だった。
「東北かあ。奥入瀬とか遠野とか、行ってみたいところがたくさんあるんやけど、大阪から移動するとなると、なかなか難しいわね。」
いつかと言わずに、好きなとこに行ってみたらええやないですか。
そんな風に言おうとして、今は僕がここにいるから、この人はどこにも行かれへんのかもしれない、とふと思って口を閉じた。
独り暮らしが長いと、広い家は家事がえらいことになるやろ、堪忍な、シノブは良くやってるで、と何度かそんな言葉を掛けられた。
気が付いたら始まっていた内弟子修行はいつ終わるかともしれず、落語家として食べていけるのかどうかも、先が全く見えない。けれど僕は、隠れて煙草や酒をのみ、寝る前に九官鳥にその日教わった話を聞かせるこの生活が、案外気に入っていた。
小草若『兄さん』の母親である女は、師匠の妻と言われれば納得するが、あれの母親と言われて想像する人物とは全く違っていた。
気持ちが細やかで、落ち着いていて、実際のところ、実の母親よりずっと母親らしいひとで、商社を辞めてからここに来る前の荒れた生活はすっかり落ち着いていたし、逆に、ここを出て行けと言われたら、今より情緒不安定になる気がしているくらいだった。
「師匠の仕事が、青森とか岩手であることはないんですか?」
「そうねえ、そもそもこっちの落語協会には、東北の仕事の話が来ることがほとんどないみたいね。あったところで福井までで、ここから南や西になることはあっても、東に行くことはほとんどないの。そっちは、どっちかというと、東京の落語家さんが仕事してる範囲て感じになるんかな。」
「東京もんの縄張りですか?」と僕が尋ねると、おかみさんは僕を見て、あはは、おかしそうに笑った。
「……そんな風に考えたことは今までなかったけど、確かにシノブの言うとおりかもしれへんわ。縄張りを争うやなんて、なんや鴻池の犬の話みたいやね。」
鴻池の犬というのは、この間草々兄さんが稽古を付けて貰いに来ていた話だった。
師匠のところに来て、二年目で習った話らしい。
犬が特別好きって訳でもなし、なんでこの話をこんなに気に入ってるのか自分でも分かりません、と師匠に言っていた。
逆になぜ、理由が分からないなどとそんな風にとぼけていられるのか、僕にはさっぱり分からなかった。不世出の落語家である三代目草若の芸を最も受け継いでいると目されている二番弟子の男は、不仲の『弟』と、いつかあの犬の兄弟みたいに和解したいと心の底では思っているのだろう。
師匠も、そのことがすっかり分かっているような様子で、お前は、落語以外はほんまにあかんたれに育ってもうたなあ、などと言って笑っていた。
そのアホな兄弟喧嘩に巻き込まれる方はたまったものではないが、三人の兄弟子たちがめいめい落語会の手伝いなどの仕事に行っている今日は、余りにも平和で、僕の心にも余裕がある。
「青森は、いつかねぶたも自分の目で見てみたいのよね。師匠が夏に弱いから、あんまりどこへなりと行きたいとか言えへんのよ。東北は、冬はなかなか行こうと思っていけるとこやないやろ。春と秋は仕事があるし。」
「僕が、」
いつかおかみさんを連れて行きますよ、とは言えないのか。
いくら運転が出来ると言っても、この人の子どもでも配偶者でもない。
「どうしたん?」
「僕は、瀬戸内とか行ってみたいです。鳴門の渦潮が見たい。」
嘘だった。
この間、昼の番組でキャスターが旅行に行っていた場所を、たまたま覚えていただけだ。
僕には行きたい場所などないし、ずっとここにいたい。
そう思った途端に、今は不在の、あのかしましい三人男の顔が思い浮かんだ。
ふう、とため息を吐いて、僕が片付けます、と言って食べ終わった弁当箱を片手に立ち上がると、背中に声が掛かった。
「シノブも、師匠みたいにいつか仕事で色んなとこに行けるといいわねえ。ホールやないとこも多いけど、色んな場所に、電車に乗っていくのも楽しいで。」
僕は、師匠や草々兄さんみたいな落語家にはなられへんと思いますよ、とは思うけれど、あんたがどんな落語家になるのか今から楽しみや、と微笑むおかみさんの顔を見ていると、そんなしょうもない愚痴を口に出すことは出来なかった。
「四草のドアホが、………オレのはじかみ食いよったんじゃ……!」
楽屋の隅でうたた寝していた人間がいきなり大きな声を出したので、支度をしていた妹弟子はぎょっとした顔になった。
あっ、まだ寝てはる、と小さい声で言ってから、恐る恐るこちらを見ている。何か言いたいことがあったら口にしたらどうや、と思ったが、こちらもむっつり口を閉じるしかない。
稽古が長引いてしもた、と言って、中入りの小草々の出番が始まるのを待たずに楽屋に引っ込んで来て、今日の演者でもないのに楽屋でそのまま寝息を立てている。これが今の四代目 徒然亭草若かと思うと、今のこの状態の全てが僕のせいという訳でもないにせよ、亡くなった師匠とおかみさんに合わせる顔がないような気持ちになってくる。
これから妹弟子の出番が始まるというのに、全然袖に戻って来ない。何をやっているのかと呼びに来たら、ご覧のとおりと言う訳だ。
「草若兄さん、いつもながら凄い寝言ですねえ。……このままやと起きそうもないていうか。」
いつもながら、という一言に目を剥きそうになった。
楽屋にも、休憩中のロビーでのざわめきがほとんど筒抜けで聞こえて来るというのにどれだけ疲れているのかちょっとやそっとでは起きそうもない気配だった。ここで起こしたら恨まれるであろうことも分かっている。
「……いつもながらてなんや?」
「いつもながらは、いつもながらですよ。うちの子のお守して、疲れてしもた~てこないしてうたた寝して。四草兄さんとこで仰山子守してた経験値が溜まって来てるのか、うちの子も仰山見てもろてほんまに助かってます。」
「草若兄さん、朝御飯ですよ~。卵焼きも出来てますよ~。早う起きてください。」と若狭が草若兄さんに耳打ちした。
ふご、と妙な声が漏れるばかりだった口が閉じて、ぴくぴくと瞼が動いている。
「……なんやそれ。」
「おまじないです。四草兄さんとこの可愛い子ぉから、こないだ聞いたんです。これやったら草若ちゃんが起きるからて言われたんですけど、ほんまに効果ありますね。そしたら、私もう袖に行ってますから、後はお願いします。」
今のをもう二回くらい繰り返したら、起きるんとちゃいますか、と無責任なことを言って、若狭は草履を蹴立てて楽屋を出て行った。
「狸寝入りしてるんなら、このまま食べてまいますよ。」と言うと、ドアホ、というひとことが返って来た。
今のは流石に寝言ではないだろう。
目覚ましにコーヒーでも飲みますか、と言うと、のたのたと目を開けた男は、「変な夢見てしもた、」と言いながら、ゆっくりと身体を起こした。
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