厄除け
またここか、と目の前にそびえ立つ病院に眉を上げた。
外観に見覚えがあるのも当たり前で、十何年か前には病に倒れた師匠やおかみさんを見舞うために毎日通っていた病院だった。
師匠に最後の稽古を付けてもらった建物を見上げ、今から行くで、と呟いてみる。
すっかり忘れてしまっていた上り坂を歩くと、あの頃は暑い中、こないしての道を歩いて来たな、と思い出した。
今日はびょうびょうと、頬を切るような風が吹いている。
おかみさんの頃も、師匠の入院もここだった。
出来るだけ自宅におって欲しいと思ったけど、こと外科の領域となってしまうと、いつものかかりつけ医の先生の手を離れてしまうのだ。何人か、師匠方の中にはおかみさんの差配で、名医となれば九州でも東京でも、一年でも二年でも順番を待ちます、というという落語みたいなことになった方もいてたけど、毎日見舞いに来たいし、皆にも見舞いに行って欲しい、早く手術を終えて、できたら家に早く帰って来て欲しい、という気持ちが強いせいで、師匠もオレも小草若も、いつものこの病院で妥協してしまっていた。
良かったんやろうと思う気持ちと、良かったんやろうか、と思う気持ちがふたつあって、葬式が終わった後はいつも、ぼんやりとしてしまっていた。
――わたしおじいちゃんが死んだ後、いっつもおじいちゃんの作業場で毎日毎日、泣きながら師匠の落語のテープ聞いてました、泣けなくなっても、元気は出えへんし。立ち直ったな、と思ってもまた思い出すし。しばらくは、それでもええんと違うかな、と思います。
「……っと。」
前ばかりを見ていると足元がおろそかになる。
――この道、そういえばここに段差があったな。
忘れるはずはないと思っていたが、十数年前に聴いた師匠の落語は思い出せても、こうして道を歩き出さないと思い出せない記憶がある。
おかしなもんだ。それとも、ずっと忘れてしまいたいと思っていたせいもあるのだろうか。
段々と痩せて、弱って行くばかりのおかみさんが、今夜は師匠のとこへおはようおかえり、というときの笑顔、稽古が出来るように個室にしてしもた、と言ったときの師匠の顔。
臆してはいられないし、ここに若狭がいたら、ただのお見舞いなのにそんな顔してどないするんですか、とオレの背中をどやしつけているだろう。
これが今の病院か。
そう思った。
正面入口を入ると、二階の受付と書かれた看板横のエレベーターに、人々が吸い込まれるようにして流れていく。
無機質な入口が、模様替えをしたのか、すっかり様変わりしていた。
それ以外にも、職員が忙しく立ち働いている様子が見えた。
エレベーターの看板の横には街で良く見るチェーンの喫茶店のマークがあって、なんならヤクルトの販売員までいてる。
ここには、入院病棟のような病院特有の匂いがないせいか、出来たばかりの駅のコンコースのような雰囲気があった。オレにとっては不吉で非日常の記憶がある病院でも、色んな人にとっては、ここが日常の光景なのだろう。
昔の病院とは違って、早く帰りたいという気忙しさで、皆せかせかとしているように見えた。日暮亭にやってくる年齢層も、年配の人が多いが、悪い足腰をおして来るので、ここのように人々が足を揃えたようにはならない。
ひとつエレベーターを行かせて次のエレベーターが来るのを待って並んでいると、次々とエレベーターを利用したい人間がやって来る。杖を使っている男と配偶者らしい同年代の女性、車椅子の若い女性と付き添いの中年女性、子ども二人と手を繋いだ女性。
そういえば、と頭にひらめいた。
かつて、改装前の天狗座で落語をしていた頃には、朝席や昼席でも、舞台からは遠い隅の方でいびきをかいて寝ている営業らしい若い男を見たものだが――昼寝をして目覚めた後は、時計をちらちらと見て中入りの後で出て行くような人間が多かった。――最近は、というか、インターネットカフェだの漫画喫茶だのが出来たせいか、そうした若い世代の男は落語の会場では見かけなくなった。
ここも落語会の会場と同じやな。
鼻毛の入院先は五階だった。
受付の二階を皮切りに、みんなてんでんばらばらの階で降りていく。
とうとう四階の時点で自分ひとりになったが、五階に降りると、途中で柳眉に顔を合わせた。手にはすらりとした花瓶を持っている。
「あんたもこの時間ですか。」
確かに、見舞いに行くとは言っていたが、お互い時間を示し合わせたわけでもなかった。
「うちのもんには、柳宝師匠が天狗座の昼席に出るから聞きに行く、て出てきたんや。」というと、何がおかしいのか柳眉はほほ、と笑った。
「うちの師匠の落語が見舞いのついでとは。」
「あほなこと言うな。逆や、逆! 鼻毛の見舞いがついでや。」
「まあそういうことにしときましょ。それにしてもあんたが花を持って来るとは。」
「鼻毛の見舞いに花持ってってどないするんや、て言ったんやけどな、こういうのは気持ちや。」
持たされた花は、草々兄さん、安いからって菊とか買いそうやでえ、と言って若狭が今朝駅前の花屋まで走って買ってきてくれたものだ。
これから見舞いにいく尊建にはちっとも似合わない、と思っていたら「あのアホには勿体ない花ですなあ。」と柳眉も好きに言っている。
「まあ色は綺麗やし、香りも悪くない。若狭の見立てですやろ。」
「そうや。」
「あんさんでは花を持って行くことからして気づきそうにないと思ってましたんや。長く持つやろ、て言って鉢植えとか持って来そうで。」
「そのくらいオレにかて分かっとるわい!」というと、しい、と指を立てられた。
それにしても、足元も悪くなりそうなのに、こいつ、いつ見ても着物着てよるなあ。
「お前もたまにはダウンコートとか着たらええんと違うか。病院で風邪貰うで。」
「こないなもんは、最近あったかい下着とか股引とか便利なもんが出てますのや。いくらでも隠せます。それよりあんさん、人の健康より自分の奥さんの健康を気にしたらどうです?」
若狭も、毎年この時期は大変そうな顔しとるやないですか、と言われて、そろそろ確定申告の時期か、と思い出した。
去年は、何にも晩御飯作られへんさかい、と申し訳なさそうにしながら、ほぼ毎晩オチコの手を引いて寝床に行ってたな、と思い出した。
「そういうたら、草々が来たて言うたらあのアホ、ハッスルして入院伸びそうやさかい、ほどほどで帰るのがええと思いますわ。」
ハッスルて、今時死語とちゃうんか……。
「あいつなんや、スキーで骨折したて聞いたんやけど。」
「スノーボードですな。」
まあ似たようなもんや。
「そういうたら、あいつもう今年厄年なんと違うか?」
「……それ今わたしが尊建に言うて来たところですわ。」
「そうか。」
「まあ、言うこと被ってしまったところで、あいつも物覚え悪いですから、少しくらいはええとのちゃうか、とそないに思いますけどね。」
「そうやなあ。」
鼻毛は案の定、「おっ、草々来たんか! スノボ、ほんまに面白かったんやで、こないにならんかったら、お前も誘いたかったわ!」と言った。
「おい、厄払いしても、アホは治らんのと違うか、これ。」と言うと、柳眉は頭が痛いような顔で額を抑えた。
「おい草々。厄払いて、天神さんでもやってるんか?」
「そうやったと思いますけど、」とオレの代わりに柳眉が答える。なんでお前が知ってるねん。
「さっきコイツにも言われたから、次の日暮亭の高座の帰りにでも行ってくるわ。」
「あほか、退院したらどこでもええからすぐ行け。今すぐ厄払いせえ!」
「尊建、ここに来る前に師匠もそない云うてましたから、一人では心もとない言うなら、タクシー使うんでもええから、早うに行って来たらええと思いますで。」
「ええ機会やし、面倒ならオレも付いてったるわ。」
「そらええけど、草々、あんさん、わたしと会うてからこれまで、病気ひとつしてへんやないですか。必要あるんですか?」
「いや、いっぺん熱出したことならあるけどな。厄除けて、病気だけのこととちゃうやろ。」
あん時は若狭が横にいてたんやった。
「……なんや草々、お前、顔赤くないか。」と尊建が言った。「お前みたいなアホでも風邪引くんやな。」
「じゃかあしいわ!!」
とにかくお前はさっさと厄除けに行け!
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