大江戸転生主従パロ 手を放す 13 ~追及~
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火事から三日が経ち、利吉の容態は小康を保っていた。
その日は朝から雨が降っていた。静かに外を包む雨音の中、利吉の浅かった呼吸はわずかに深くなり、冷えていた指先にほんの少し温もりが戻ってきていた。熱はまだ引かず、傷口は依然として痛々しく膿みの気配を孕んでいたが、ひとまずは──というのが伊作の言葉だった。
「今は最初の峠を下っているところです。五日目あたりで、また別の山が来ます」
伊作はそう言って枕元に膏薬を置いた。土井は三日三晩、利吉の手を握ったまま離さなかった。ほんの少しの脈の乱れも逃すまいと食事にもほとんど手をつけず、伊作が差し入れる汁物を半分ほど啜っては残した。休むよう勧められても、土井は首を振るだけで動かなかった。
その朝は土井家の屋敷から使いが来た。母と若殿からの呼び出しだと言う。話があるので戻るように、と。土井は利吉の顔を見て、それから伊作を見た。伊作は黙って頷いた。
「この様子だと、今は大丈夫です。僕がついていますから」
土井は利吉の手を布団の中にそっと戻し、それでも心配げな様子を見せながら立ち上がった。膝が言うことを聞かないことに今更気付く。三日三晩眠りもせずに座り続けた身体は強張り、立ち上がる動作のひとつひとつが鈍かった。土井は玄関で伊作に一礼して表に出た。
早朝からの雨は上がっていて、日差しは眩しく、空気は冷たかった。
屋敷の門をくぐると、家人の動きがいつもと違っていた。
片付けは既に進んでおり、焼け落ちた渡り廊下の残骸は撤去され、蔵の崩れた扉も板で覆われている。けれども人の動きそのものに別のものが混じっていた。若君の姿を見て頭を下げる者は変わらないが、頭を上げた後の目がわずかに逸れ、視線が合いかけてさっと外される。二人連れの下女が廊下の角で何か囁き合っていたが、土井が通りかかると口を閉ざし、深く辞儀をして脇に寄った。
奥の座敷へ向かう途中、台所の板間から声が漏れてきた。戸が細く開いていて、中で下男たちが茶を飲んでいるのが見えた。
「だから、山田殿が若殿様を助けて付け火を報せたんだろう。声を聞いた奴がいると聞いたぞ」
「いや、若殿様の側仕えが助けたのかもしれんし、山田殿は逆に下手人かもしれん。自分で火をつけて誤魔化しとるのかもしれんだろう」
「側仕えは何と申しておるんだ」
「朦朧として何も覚えておらんらしい。そもそもあまり話を聞ける状態でもないと」
「奥方様は、山田殿に助けられたとおっしゃってるんだろう」
「奥方様のことは、奥方様の話だ。若殿様も煙を吸って、気づいたら外に寝ていたと」
「だいたい、忍なんぞを若様に近づけすぎたのがいけないんだ。近頃、山田殿が妙な匂いを纏っておったというのも──」
声が途切れる。下男の一人が土井の影に気づいたのだろう。戸が慌ただしく閉まり、板間の向こうで息を詰める気配が伝わってきた。
土井は歩みを緩めず、足音も変えなかった。廊下の板が鳴る音が普段より低く耳に残る。
(──噂になっている)
三日の間に屋敷の中で何が育ったのかが、その数歩でよく分かった。家人たちは利吉を表立って犯人として語り合うところまでは行っていないが、語り合ってもおかしくないところまで来ている。どれほど利吉のことが心配でもこの家に残り、事態の収束に努めるべきだったか。否──それでもしも利吉を失っていたとしたらこんな仮定は意味がない。土井は奥歯を噛み締めた。
奥の座敷の襖の前で、土井は一度息を整えた。襟を直し、裾を払う。先生の顔でも若君の顔でもなく、土井家四男としての、家の中で弟が嫡男に謁見する時の顔を作った。
「半助です。お呼びにより、参りました」
襖の向こうから若殿の静かな声が返った。
「お入りなさい」
座敷には、若殿と母が並んで座っていた。若殿は床の間を背にした上座に。母はその斜めの脇に。二人の前には茶が置かれ、湯気はほとんど立っていない。話が始まる前から既に長く座していたことが分かる。土井は敷居の手前で平伏し、兄と母に挨拶をしてから指し示された場所に膝を進めた。
若殿は、しばらく黙って土井を見ていた。
「半助。まずは労をねぎらいます」
若殿の声はいつも通り穏やかだった。穏やかで慎重に言葉を選ぶ、長男の声だ。
「視察の報告書は見ました。領地の様子はよく分かりました。そのことは追って改めて話しましょう。今日はその話ではありません」
若殿は茶碗に手を伸ばそうとして、しかし口をつけずに戻した。伝え方を考えている。茶面が揺らぐのを、土井は視界の端で見ていた。
「……山田利吉の処遇について、話しておかねばならぬことがあります」
土井の背が、わずかに緊張する。けれどもそれは顔には出さなかった。出さないように長い年月をかけて作られてきた表情の型が無意識にその役目を果たした。若殿はゆったりと続けた。
「山田殿は母上をお救いしました。それは母上ご自身の証言によって、確かなこととされています。ですから山田家にも、山田殿本人にも、相応の恩賞を与えねばなりません」
若殿は一度言葉を切った。茶碗を見下ろし、茶面の凪を見つめながら続ける。
「……つきましては、しばらく国許にて療養させるのが良かろうと思うのです」
土井は、息を詰めた。
「半助。江戸は気が荒いのです。あのような大怪我の後は、水の良い土地でゆっくりと養生するのが筋でしょう。山田家の領分は空気も良く、医者の目も行き届く。殿にも直にお目通りが叶う。お慰めの言葉をいただけるでしょう」
「……恩賞として、ですか」
「恩賞として、です」
若殿の言葉は滑らかだった。滑らかすぎるほどに。土井が言葉を返しあぐねていると、奥方が脇から口を開いた。
「半助。私は、山田殿に感謝しているのです。あの夜、梁の下から私を抱え出してくれたのは山田殿でした。背中で梁を受けながら、私を抱えて廊下を進んでくれた。あの姿は、生涯忘れません」
母は一度目を伏せ、また上げた。その声にはいつも通り芯があったが、今日はどこかに疲れが滲んでいた。
「けれど──あの方が母屋で私を助けた時のことを、屋敷の者は見てはおりません。そしてそれ以外で山田殿のことを、誰も見た者がいないのです」
「母上……」
「私は山田殿を信じています。ですが、信じている者がこの家に私ひとりでは、山田殿を守り切れません」
「──半助。隠し立ては好みませんから、率直に言いましょう」
若殿が茶碗を脇に寄せながら言う。
「屋敷の中で、山田殿が火を放った下手人ではないか、という話が出ています。それも、私を狙った」
土井の指先が、膝の上でわずかに強張った。強張って動かせないまま、土井は思わずまっすぐに兄を見た。
「……兄上。それは、どういう……」
「ここ数日、奉公人の間で噂が立ちました。山田殿があの夜、なぜか蔵の方へ向かっていたという証言があります。それだけでなく、このところ蔵の周りで妙な動きをしていたと。山田殿が蔵の棚卸しを命じられ、日頃から蔵に出入りしていたことは事実で、蔵の構造に詳しかったであろことも事実です。そして──匂いの件」
「匂い」
土井は眉を寄せた。
「山田殿は近頃蔵によく出入りしていたので、蔵の防虫香の匂いを強く纏っていたという話があります。下女の何人かが口を揃えていて、家老殿も確かにそのような様子だったと申しています。そしてこの頃世間を騒がせている火の現場にも、同じような匂いが残っていたと言います」
(匂い……?)
土井の頭の中で、その言葉が空回った。利吉が匂いを纏っていた憶えは、視察に出る前にはなかった。忍が香など使うはずもないし、たとえ防虫香の匂いが移っても香りを嫌うので湯浴みするなどして落とすはずだ。何かがおかしいが、見ていないことについては言及できない。それに今、この場でそれを問うわけにはいかなかった。問えば距離感について疑念を呈されかねない。主君が側仕えの忍の身辺にそこまで踏み込んでいる──それだけで、この場の話はさらに厄介な方向へ転がる。
土井は、問いを呑んだ。呑んで、先を促した。
「……続きをお聞かせください」
若殿は頷き、淡々と続ける。
「家老殿はこうも申しています。山田殿は蔵に私を閉じ込めて火を着けたものの失敗し、母上を助けることで疑いを晴らそうとしたのではないか、と」
「兄上。それは──」
「私は、そうだと申し上げているのではありません」
土井が反論しかけるのを、若殿は静かに遮った。
「私は、煙を吸って意識を失っていました。気づいた時には庭に寝かされていて、蔵で何があったのか何一つ分からぬのです。誰が扉を開けたのか、誰が私を運び出したのか──」
若殿は一旦言葉を切った。表情には遣る瀬無さが滲んでいる。
「家の者も、誰一人として知らぬと言います。誰も身に覚えがないのであれば、残った山田殿がしてくれたことと取るのが自然です。とは言え目撃者もいない者を下手人と決めつけることができないように、恩人だと決めつけることもまたできません」
「……しかし、誰かが蔵の扉を破らなければ、兄上は」
「それは、そうです。ですが『誰かが破った』ことが、『山田殿が破った』ことになるわけではありません」
若殿の目が、土井を真っ直ぐに見た。
「私が仔細を覚えていれば、まだ話は違っていました。けれども私は覚えておりません。単に私が覚えのないまま蔵を這い出たのかもしれない。ですから今、屋敷には山田殿が私を助けたという事実はないのです。あるのは山田殿がここ数日蔵の周りで妙な動きをしていたという話と、山田殿が甘い匂いを纏っていたという噂だけです」
(──そういう、ことか)
土井は、膝の上で拳を握った。若殿の言葉の意味がゆっくりと輪郭を結んでいく。若殿は利吉を疑っているわけではない。だが、信じるための根拠が若殿の手元にはひとつもないのだ。母の証言は母屋の件だけを保証する。蔵の件については誰も何も言えない。そして誰も何も言えない場所に、家老の声だけが響いている。
「母上の口添えもあり、最終的には国許の殿のご判断を仰ぐこととしました。殿のお裁きがあれば、屋敷の噂も静まりましょう。山田殿も、疑いを晴らした上で療養に入れます」
若殿の声に、わずかな申し訳なさが滲んだ。
──ほとぼりが覚めるまで、国許へ。
口に出されない本心が、その言葉の裏に透けていた。江戸屋敷の家中から、利吉を物理的に遠ざける。噂が鎮まるまで江戸には戻さない。それが表向き「恩賞」とされたものの中身だった。けれども、それだけではない。
土井は、母の目を見た。母も若殿も、土井を見ていた。三日前に「利吉はどこだ」と叫んだ自分のことを、二人は覚えているだろう。家人の肩を掴んで、忍の名を叫びながら走った弟のことを。あの日の四男坊の顔を見て、二人は察した筈だ。察したうえで──今、この話をしている。
土井は、畳の目を見た。細かい藺草の筋がやけに整然と並んでいる。反論したかったし、この場で声を荒らげて利吉は犯人ではないと叫びたかった。国許の父の前に利吉を引き出されて重臣たちに改めて吟味されるくらいなら、今すぐ利吉を連れて江戸を出てゆきたかった。
けれども、そんなことができる筈もない。この場で恋情を露わにすれば本当に利吉を守れなくなる。若殿と奥方は末弟が利吉に入れ込んでいることをもう確信している。けれどもそれを正式に認めるわけにはいかないのが彼らの立場だ。主君が側仕えの忍に情を寄せる──そういう話は屋敷の中だけでは済まなくなるし、そうなれば利吉は口さがない噂の的にされるだろう。利吉の忍そのものとしての力量も疑われかねない。
(私情で語っても……守れない)
ここは理屈で止めるしかない。土井は顔を上げた。
「兄上、母上。恐れながら、申し上げます」
「聞きましょう」
若殿の目がわずかに細まった。弟が反論してくることは予期していたのだろう。だが、その反論がどういう形を取るのかは読み切れていないもいう、そういう目だった。
「利吉を国許へ戻すのは、今は得策ではないと存じます」
「と、申しますと」
「あの夜の火事の下手人は、まだ捕らえられておりません。利吉は出火時に蔵の近くにいたであろう唯一の者です。犯人の姿を見ているかもしれません。札の位置、木戸の開閉、番替えの隙──いずれも、あの夜の屋敷の守りの穴を、忍の目で確かめていたはずです」
土井は若殿の目を見たまま続けた。
「事件の解決には、利吉の記憶がどうしても要ります。意識が戻り話せるようになった時、その言葉を拾える場所に利吉を置いておかねばなりません。いま国許に送れば、下手人は逃げます」
若殿は何も言わなかった。
「利吉を戻すのは、山田家のためだと兄上は申しました。家中から噂を消すには噂の根本を断つしかありません。下手人を捕らえ、利吉の無実を明らかにする。それ以外に、山田家の名誉を守る道はないと存じます」
「……理には、適っておりますね」
若殿の声が、わずかに低くなった。
「確かに、国許へ送れば下手人は追えぬ。半助、あなたの言う通りです。ですが──」
若殿は茶碗を手元に引き寄せ、今度は本当に一口含んだ。冷めきった茶を飲み下し、再び静かに置く。
「山田殿を江戸に置くには、形が要ります」
「形、とは」
「側仕えとしてはもう置けぬのです。療養が必要な身で、護られなければならない身体で若君の側に置くわけにはいかぬでしょう。他の家中の目もあります」
若殿は土井を真っ直ぐに見た。
「であれば、御役目として、置きなさい」
「御役目……」
「下手人が口封じに山田殿に害を為す怖れがある以上、その身柄を屋敷として預かるという名目です。半助、あなたが差配して、山田殿の身辺を守る役目を敷きなさい。山田殿を見張る名目も含めれば、家中にも外にも筋が通ります」
「兄上──」
それは、思いもよらぬ譲歩だった。母と兄が引き離そうとしているのは、自分の中にある恋情の筈だ。けれども若殿はそれを公には認めないまま、役目という形で自分と利吉の繋がりを屋敷内に残そうとしている。家の形で──守ろうとしている。
奥方が、その時口を開いた。
「半助、よろしいですか。これは私情ではありません」
若殿のそれよりも柔らかいその声には、しかし柔らかさの奥に別の硬さがあった。藩主の妻としての、規律を守るものとしての声。
「これは、あなたの役目です。そう振る舞えますね?」
土井は、母の目を見た。
母は全てを分かっていて、分かった上で息子に家の作法を求めている。恋情を家の中に持ち込むなら、せめて家の形で包みなさい。そうでなければ私は守ってあげられない──そう、母の目は語っていた。
「……はい」
土井は、深く頭を下げた。
「役目として、お引き受けいたします」
「結構です」
若殿が短く応じて立ち上がった。部屋を出ていきながら、ひとつ言い残す。
「細部は家老殿と詰めなさい。私からは、これ以上申すことはございません」
家老、という言葉に、土井の指先がかすかに動く。家老を通すことになれば、家老は利吉の動きを監視できる立場を得る。先程の話の中で気掛かりな点のある者に、追い詰める側に回る手立てを与えることになる。けれども今、その懸念を口にするわけにはいかなかった。ここまででも相当な譲歩を兄も母もしてくれたのだ。
「……承知いたしました」
土井は再び平伏した。額が畳に触れる。目の前の畳目が、やけに粗く見えた。
部屋の外では、日が傾き始めていた。
***
永楽屋の奥座敷には、伊作以外の幼馴染たちが揃っていた。
文次郎が上座に座り、留三郎がその向かいに胡坐を組み、長次は壁際で瓦版の束を広げている。小平太は一刻前に同心詰所から抜け出してきたところで、紺の羽織の肩に埃がついたままだ。仙蔵は最後に入ってきて、いつもの定位置──障子に近い位置──に座った。手には古い扇子が一本あった。
「揃ったな」
文次郎が帳簿を脇に寄せ、畳の上に風呂敷の包みを置いた。包みを開くと、中身は留三郎が火事場から拾ってきた燃えかす一式だった。油紙の焦げた切れ端、木栓、縄の切片に、黒く煤けた板片。
「昨日、麻問屋に行ってきた。縄の方を見てもらった」
文次郎は縄の切片を指先でつまみ上げた。焼けて短くなっているが、撚りの部分は辛うじて残っている。
「これを見せたんだ。麻問屋の親父は縄の撚りを一目で判じる。どこの産か、どこで撚られたか。親父はこの縄を見て──上物だと言った」
「上物」
「蔵の荷を縛るのに使う縄だ。町家で薪を束ねるようなのとは違う。麻の筋が太く、撚りが堅い。長年重い物を縛っておいても伸びない、質のいいものだと」
文次郎は縄を板の上に戻して続けた。
「そしてな──親父が面白いことを言った。麻のことだけじゃない、ついでの話だ」
「ついでの話?」
留三郎が顎を引く。
「荷運びの連中の愚痴だ。麻問屋には毎日何人も出入りしている。酒の席で愚痴をこぼす奴もいれば、他の店での仕事ぶりをぼやく奴もいる。そういう話を束ねると、面白い模様が浮かぶんだそうだ」
文次郎は懐に手を入れ、折りたたんだ紙を引き出した。
「この一月ばかり、油を運ぶ量が増えている店が、いくつもあるらしい。一軒や二軒じゃない。それも、これまで手広く油を使っていなかったような小さい店だ。ある荷運びは、普段は月に一樽しか運ばない店に、今月は三度運んだと言った。別の荷運びは、別の店で似たような話をぼやいていた。そういう愚痴が、麻問屋の土間で何人分も重なっている」
「……偶然じゃないってことか」
「そうだ。麻問屋の親父はそう踏んだ。あの親父は縄の撚りだけじゃなく、人の話の撚りも一目で見抜くからな」
文次郎は紙を広げた。墨の滲んだ走り書きが並んでいる。親父から聞き出した店の名と、荷運びの断片的な話を書き留めたものらしい。
「それで俺の方でも少し調べてみた。親父の言う店を当たってみたら、どこも実在はしている。ただしどれも小さい店だ。手広く油を使う商いじゃない。月に一樽で足りるような、細々とした店ばかり。そういう店が急に、倍、三倍の油を仕入れ始めている」
「……仕入れが不自然に膨れてる、ってことか?」
「そうだ。そしてな、そういう小さい店には、掛けで大樽を買えるほどの信用がない。だから店の名義だけ借りて、請け人が別についてるんだろう。請け人ってのは──掛けを保証する奴だ。店が潰れても、こっちが払う、と頷く奴だ。そういう懐の厚い保証人がいないと、油屋は樽を出さない」
江戸の商人は掛け売りで、年末に一年ぶんの清算をする。当然、一年分の代金を支払えないような資金力のない店には卸問屋は卸さない。文次郎は紙を指で叩いた。
「つまり、この油の買い方には、必ず請け人がいる。店は別々でも、請け人は一人かもしれん。請け人の名を洗えば──銭の出元まで辿れる」
「それで、その出元は」
「そこまではまだ掴めていない。だがこの筋なら追える。油屋の帳面を順に見せてもらえば、請け人の判が残っている。俺の顔と名で通る店から回れば辿り着ける」
文次郎は紙を畳に置いて続けた。
「油の買い方、縄の質、木栓の規格、油紙の質──どれも商家や武家の蔵で使われるものだ。手妻師の小細工じゃない。大蔵の中身を知っている奴の仕業だ。そしてそいつの後ろには銭を積める奴がいる。小さい店向けに、判一つ押させる立場の奴がな」
沈黙が落ちた。
そこで口を開いたのは、小平太だった。
「……文次郎の話と合うことがある」
小平太は懐から手帳を取り出した。表紙のない、紐で綴じただけの粗末な帳面。この付け火の顛末を記し続けている控えの帳面だ。
「これは火事場で拾った話だ。表には出せないが、控えには書いた」
小平太は帳面を開き、指で一頁を指し示した。
「納め蔵の火事の時、扉際の焦げ方が妙だった。油が扉の際にだけ引かれていて、中の荷はほとんど無事だ。燃え広げるためではなく、扉を焦がすことだけが目的だったように見える。蔵を狙うための下見のような燃やし方だ」
小平太は次の頁を開いた。
「組屋敷の時は、番替えの刻限に火が出ている。見回りの札が本来の位置からずれていた。一つは地面に落ちていて、もう一つは逆向きに立っていた。番替えの隙に誰かが札を動かしているんだ。そしてこれは内々だが……武家屋敷の出火も同じようだったと聞く。これは屋敷の運用を知っている者の仕業だ」
小平太は帳面を閉じた。
「屋敷町の火事は、外の放火屋の仕業ではない。蔵と番替えの仕組みを知る者が中から手引きしている。もしくは──内部の者そのものだ」
文次郎が、低く唸った。
「小平太の言う通りなら、俺の読みと合うな。油を買い集めて、縄は上物、木栓も規格品。これは貧乏人の放火じゃない」
「上、だな」
「上だ。しかも蔵の運用に口を出せる立場の、上だ」
留三郎が燃えかすを見下ろした。煤の匂いが部屋に漂っている。この三日で嗅ぎ慣れたあの油の匂い。けれどもそれだけではない。かすかに混じる甘い匂いが、相変わらず、気になる。
その時──仙蔵が動いた。
手に持っていた古い扇子を、畳の上にそっと置く。黒漆の地に金泥で笹の意匠が描かれている。ところどころ縁が擦り切れ、骨の一本に小さな欠けがあった。使い込まれた扇子だった。
「──留三郎」
仙蔵が呼んだ。
「なんだ」
「いい加減、何度も現場に行ったお前のことだ。鼻も慣れたろう。これを嗅いでみてくれるか」
留三郎は扇子を手に取り、眉を寄せた。
「嗅げって、お前」
「いいから」
留三郎は扇子を鼻に近づけた。近づけて──動きが止まった。目が、仙蔵を見る。どうして、と言いたげな視線だ。
「……これは」
「分かるか」
「分かるもなにも、この匂いだ。火事場に残っていた──油に混じっていた、甘い匂い」
留三郎は扇子をもう一度嗅ぎ、それから畳に戻した。
「完全に同じかは、正直分からん。だが筋は同じだ。似た系統の香りだ」
「そうだ」
仙蔵は扇子に視線を落とした。
「これは防虫香だ。白檀と丁子を混ぜて、蔵の衣や調度に添えるものだ。私たちの衣装蔵でも似たようなものを使っている。役者の衣装は高値が張る。虫に食われては困るからな」
「防虫香……伊作も言ってたな」
「これは、さる大名家の調合だ。防虫香は各地で独特の調合になる。私も仕事柄多くの大名家から宝物を賜ることがあるが、この調合をしている家は江戸にはひとつしかない」
「それはどこだ」
「まあ、聞け」
仙蔵の声が、わずかに変わった。芝居のためによく通る声だが、今のそれは舞台の声ではない。低く、抑えた声だった。
「私はな、留三郎。最初に匂いの話が出た時から、このことに気づいていた」
留三郎と文次郎が、同時に顔を上げた。
「……気づいていた?」
「気づいていた。だが、言えなかった」
「なぜだ」
仙蔵は答えずに、扇子を指で撫でながら続けた。
「……どうにもおかしいんだ。蔵に日常的に出入りする者なら、この匂いに慣れている筈だ。自分では気づかなくとも、衣や手に染みついていることは承知している。だから普通、犯行の時にこの匂いを持ち込むような真似はしない。足がつく匂いだからな」
「……だが、現場に残っていた」
「そうだ。しかも、はっきりと。油の匂いだけなら他の放火と同じだ。だが甘い匂いが混ざっていたとお前たちは聞いて回っている。伊作が老人から聞き出した時も、別の患者からも同じ証言が出ている。火事を経てなおも残るほどの防虫香など妙でしかない。つまり──匂いは、残すように置かれている」
仙蔵は扇子から指を離した。
「これは犯人の匂いではない。犯人が残したい匂いだ」
畳の上に、沈黙が落ち、文次郎が先に声を出した。
「残したい、というのは」
「誰かに──着せるつもりだろう」
仙蔵の言葉が、座敷の空気を凍らせる。
「蔵に出入りしている者に疑いが向くように。あるいは特定の誰かがその匂いを身に纏っているように仕立てて、疑いをそこに集めるように」
長次が壁際でぴくりと動き、手を止めた。瓦版の束が、膝の上でわずかに傾く。留三郎は扇子を見た。落とした視線を、仙蔵に向け直す。
「仙蔵……。お前、これをいつから知ってた」
「最初の時からだ」
「じゃあなぜ今まで」
「だから、言えなかったんだ」
仙蔵の目が、再び扇子の上に落ちる。
「疑いがどこに向かうかが読めなかった。犯人は誰かに罪を着せたがっていると言っただろう。読めないまま口にすれば間違った相手に火がつく。それは避けたかった」
仙蔵は扇子をそっと持ち上げ、懐に戻しかけて──途中で止めた。手の中で扇子の骨が小さく鳴る。古い扇子だった。留三郎たちは知らない、けれども仙蔵はこの扇子の所以を知っている。これはいつぞや礼にと、ある男から贈られた品だった。
(……土井先生……)
話を聞いてくれた礼にと、以前土井から受け取った扇子。これを仕舞っていた箪笥を開けた時、長年蓄えられた防虫香の匂いが染みついていて、留三郎たちの話していた甘い匂いと繋がった。繋がった瞬間、仙蔵の中で一つの仮説の輪が閉じた。
参勤交代で江戸に屋敷を構える大名家。その蔵に納められた品々。そこから漏れ出た匂いを、誰かに着せようとしている者がいる。仙蔵は扇子を懐に仕舞い、意を決したように顔を上げた。
「──文次郎。お前の掴んだ金の筋、どこまで遡れる」
「筋さえ見えれば、出元まで行けるぞ。時がかかるかもしれんが、必ず行ける。こちとらこれが生業だ。金の流れに不自然な部分があれば、疑って見れば必ず分かる」
「急いでくれ」
仙蔵の声は、静かだった。静かでありながら、そこには急かす響きが混じっていた。
「急がないと──間に合わなくなる」
「間に合わなくなる?」
「罪を着せられる前に、着せようとしている者を暴かねばならん。着せられた後では、どれだけ証拠を集めても疑いの影は消えない」
留三郎が、低い声で応じた。
「……誰が、着せられようとしてるんだ」
仙蔵は答えなかった。答えなかったが、答えなかったことがひとつの答えになっていた。知っている者だ。この中の誰かが。或いは誰もが。
文次郎が縄の切片に視線を落とす。小平太が控えの帳面を懐に戻し、長次は壁際で瓦版の束を丁寧に揃え直した。誰も次の言葉を発しなかった。
行灯の灯りが、扇子の置かれていた跡の畳目を照らしていた。跡はすぐに消えたが、甘い匂いだけが座敷に微かに残っていた。
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