なりたい



朝の八時半。
譲介は近所のファーストフード店で口いっぱいにカレー味のホットドックを頬張っていた。
「テツ、起きてる?」
「……んあ?」
寝ぼけまなこの保護者は、コーヒーを飲みながら半分寝ていたようだ。
今のテツが運転する車に乗っても事故りそうだとしか思えないから、結果的には手を繋いで歩いて来て正解だったと思う。
そんなに眠いなら、朝ごはんを食べに来るのはもう一時間後でも良かったのに、と譲介は思う。
テツがやっと戻って来たんだから、ご飯を一緒に食べて欲しい気持ちがないわけじゃない。テツの方で、譲介にいつもと同じ時間に食事を取らせようとしていることも分かっているつもりだけど、別に無理をしてまで付き合って欲しいわけじゃない。
(嬉しいは嬉しいんだけどさ。)
そう思いながら甘い炭酸水を啜る。いつものハマーⅡを朝のこの時間から動かすのはエンジン音がうるさいので、「近所迷惑だろ、徒歩で行こう。」と車の鍵を片手にじゃらじゃらさせてたテツの尻を蹴ってここまで連れて来たのは譲介だ。
テツは歩いて十五分もすればたどり着くようなご近所に行くにも、なぜかあの愛車に乗ろうとする。
よっぽど自分の車が好きなんだろうと思うけれど、その割には車の中を自分で掃除している気配もない。(時々はいきなりピカピカになっていることもあるけれど、きつい洗剤の匂いがするので譲介の知らないうちに誰かに掃除をさせているんじゃないだろうかと思っている。)
こういうのをものぐさというのだろう。
譲介は、さっきまでうつらうつらと舟を漕いでいたテツが窓の外を眺める様子を見つめながら、最近担任の先生から聞いたばかりの言葉を頭の中に思い浮かべて、小さくため息を吐いた。



テツが帰って来たのは、夜も更けた午前二時のことだった。
寝付けずにトイレに起きた時に譲介が聞いた、玄関のドアノブをカチャカチャ回す音を聴いた時の恐怖と言ったらなかった。
テツの居ない間は僕がこの家を守らなきゃ、という責任感で、誰だ、と真夜中には大きすぎるような声で誰何すると「譲介、オレだオレ。」と間の抜けた声が返って来た。
次の瞬間、そんじょそこらの泥棒よりよっぽど凶悪犯のような顔をしている養い親が、ひらひらと大きな掌をこちらに向けて玄関ドアを開け、大きなボストンバッグと一緒になって家の中に転がり込んで来た。
安心したのもつかの間、テツはそのまま、譲介が夕方に掃除したばかりのマンションの玄関入口で突っ伏して、十分したら起こせ、と言ってそのまま寝入ってしまった。
早く帰ろうと思って、ずっと休憩も取らずに運転してきたのかもしれないと思うと、肩を揺すって起こすのもかわいそうだと言う気持ちが先に立つ。
雪で帰り道の高速が渋滞になっていなければ、テツは本当は一昨日のクリスマスのうちに譲介と暮らす部屋に帰って来られる予定だったのだ。
譲介は、自分では持ち上げられない大きなテツの身体に毛布を掛けてから、部屋から枕を持って来て寝かせ、自分はその横で毛布にくるまってそのまま寝てしまったが、目が覚める頃には布団を被ってベッドの上にいた。
時計の針は七時を指していた。
メシを食いに行くぞ、と部屋の中に入って来たテツに連れられて――途中からは譲介が手を引っ張って――ここに来た。
睡眠不足の時のテツが譲介から見ても元気に見えるのは、単に元気の前借りのようなもので、次の日にはほとんど一日半ベッドの中にいて、ご飯を食べるときだけ起きて来るという具合だ。
今日もきっとそうなるんじゃないかと思っている。
仕事が大変なのだとは思うけど、一仕事を終えてマンションに戻って来たテツは、まるで猫みたいに一日中寝ている。ドアを閉じていても聞こえて来るいびきがうるさいので、譲介はちょっと心配になる。



譲介がカレー味のホットドックを咀嚼していると「今年の正月はどっか適当なとこに遠出するか。」とテツが言った。
譲介は、口いっぱいのカレー味の幸せを頬張るのに集中していたので、虚を突いたようなタイミングで出て来たテツのその言葉に反応して「遠出って、どこに。」と馬鹿正直に聞き返してしまった。
「そこまでは決めてねえが、まあ適当でいいだろ。寺に行って二年参りに鐘突きでもするか。」とテツは言う。譲介の意見を聞いているように見えるけど、実際はテツの中ではその旅行は確定事項として決まっているのだろうと思う。
無駄なあがきとはわかっているけれど、「なるべく近い方がいい。」と譲介は言ってみる。
生活のベースに『金を使って時間を買う』という意識のあるテツとの生活を過ごしているうちに、譲介は、数々の、無為にも思える浪費を目の当たりにしてきた。
そうして、この乱費上等と言わんばかりの金遣いの保護者との生活に妥協するにあたっては、代替案を提案するしかない、ということをやっとの思いで覚えたところだった。
「中軽辺りならここから遠くねえがどうだ。」
中軽。
譲介は、頑張って県内の地図を思い出そうとしたけれど、頭の中には、天気予報の時に見る県の形の白地図が広がるばかりだ。越して来て間もないN県の地理を、まだほとんど把握していない。とはいえ、これまで暮らしていた場所だって、家の周りと学校やスーパーまでの道、父さんの通っていた競馬場までのルートを把握していたくらいだ。
テツの言う中軽、という場所が家から近いのか遠いのか、車で行くとどのくらいなのかも分からないけど、テツが譲介を連れて行くと言うのだから、きっと悪い場所ではないのだろう。
テツは、コーヒーを飲み干した後で「おめぇの食ってるの見てたら腹減って来た。」と言って、窓際のスタンドから取り出したメニュー表を眺めている。譲介は、テツが野菜も食え、と言ったので頼んでみたミネストローネスープを食べる。トマトの酸味が強い。
往生際が悪い譲介が「あのさ、テツの遠くないって、信用できないんだけど。」と言うと、メニューから顔を上げたテツは「今のおめぇにとっちゃ、どこ行くのも遠いか。」と苦笑した。
「どうせ、テツはもう行き先を決めてるんだろ。」とダメ押しすると、おめぇはひとこと多いんだ、とデコピンされた。
「まあ、雪が降ってなきゃ、一時間半は掛からねえだろ。途中でサービスエリアには寄るかもしれねえが、そんなもんだ。まあ、今月は大事な時に仕事を入れちまって悪かったな。」
謝罪なんて滅多に口にはしないくせに、こういうときだけ素直になってこちらの頭を撫でてくるテツに、外に行くと、こんな風にカレー以外の料理も食べなきゃならないことが多いから気乗りがしない、と断るのは難しかった。
クリスマスのその前から仕事で家を空けていたテツは、譲介にそのタイミングでプレゼントを用意していなかったことを、今更ながらに気にしているらしい。普段から必要なものと言えば何でも買い与えているというのに、まさか、そのくらいで譲介が拗ねるとでも思っているのだろうか。
そこらの子どもならどうかは知らないけど、あの親に育てられた譲介が、今のテツとの暮らしに不満があるはずがない。それに、テツの仕事の忙しさはそれなりに理解しているつもりだ。
(そりゃ、腹の立つことがないではないけどさ。)
お門違いの気遣いは、馬鹿らしいと思う。
「あのさ、テツ。一応気にしてるみたいだから先に言っておくけど、僕のこれまでのクリスマスプレゼントって、外れ馬券の紙切れとか、山のような洗濯物とか、いいとこ、寝てる父さんのポケットから取り出した百円玉と十円玉がせいぜいだ。普段から服とか靴とかちゃんと買って貰ってるのに、これ以上何か欲しいとか思ってないから。」
今日だって、頼んでもないのに、おめぇはカレーがいいんだろ、と言って、自分も眠りたいだろうにここまで連れて来てくれて、セットメニューにもならないライチソーダを頼んでいる譲介のことを叱りもしなかった。
譲介がそう言うと、テツは、そうかそうかと唇を枉げて「勘違いしてるみてぇだから言っとくが、オレはおめぇが通知表を持って戻って来た日にうちにいられなかったのを反省しただけだ。プレゼントなら、来年からちゃんとサンタが持って来る。次からもっと成績上げろってこった。」と言って皮肉な顔で笑った。
ああ言えばこう言う保護者に、ぐうの音も出ない。
譲介は「……来年頑張るし。」と言うのが精一杯だ。
確かに、今年の譲介の成績は、前年比で点数が上がり、テツに言われた最低点はクリアはしているものの、トータルで換算すれば、褒められるような成績には届いていなかった。特に、ここを頑張れと言われた算数と国語と社会以外は、テツが設けた基準点を上回ってカレーが解禁されてからというもの、それ以来ずっと低迷したままだ。
これまでのテストの点数から比べれば倍近い点数を叩き出してはいるのだけれど、それはこれまでが地を這うような成績だったからというだけの話で、学年中の成績優秀者と比べれば、話にならないと言っていい。そのことは、テツに指摘されるまでもなく、譲介も自覚していた。
きっと、モチベーションの問題なのだ。
「まあ今年も頑張っただろ。残念賞だ、サンタの代わりにオレが好きなもん買ってやる。今からどっか行くか?」
結局そう来るんじゃないか、と譲介は思ったけれど、別にテツに怒りたい訳じゃない。
テツに引き取られる前は、スキーが滑りたいと言えばスキーに連れて行ってくれる親や、マウンテンバイクが欲しいと言えば自転車屋に連れて行ってくれる親がいる同級生を羨ましいと思ったことは何度もある。
テツは譲介がスキーをしたいと言ってくれたら、道具の一式は買ってくれるだろう。
だけど、スキー場への引率は?
マウンテンバイクが欲しいと言ってくれたら、自転車屋に連れて行って欲しいものを何でも買ってくれるだろう。
そうして手に入れたバイクに乗って、車と接触して怪我をしてしまったら?
不在がちの保護者であるという以前に、テツの、医者と言う特殊な仕事が、仕事と譲介の体調不良とを天秤にかけて、譲介のことを優先出来ないことはもうずっと前から分かっている。
だから譲介は、テツが思い描いているような子どもらしい言葉は、とても伝えられなかった。
「いいよ別に、今日は戻っていつもみたいに寝てたら? 僕も冬休みの宿題片付けたいし。」
「真面目なこって。」とからかうようにテツは言う。
目が笑っているのが、ちょっと腹立たしい。
「テツだって、昔はもっと真面目だったからお医者さんになれたんだろ。」と反論して、譲介はライチソーダを啜る。
「そうさな。おめぇの言う通りだ。」
テツはここじゃない遠くを見ている目をしている。
「……あのさ、医者になるには、もっと成績良くないとダメかな。」
ぽろっと口から転がり出た譲介の言葉に、テツは目を丸くした。
「なりてぇのか、医者に?」とテツは譲介に聞いた。
「うん、なりたい。」と譲介は頷く。
自分でも、驚いていた。昨日までは、いや、ついさっきまでは考えもしなかった。
それでも、なれるかどうか分からないけど、と言い訳をする気にはならなかった。
何かを始める前から、失敗したときの言い訳を探すのは格好悪い。
それに、今何か目標を作らないと、この先も、僕の成績はきっと上がるどころか、下がり続けて行くままだろう。テツとの生活は、譲介にとっては幸せすぎるのだ。
「僕は頭が悪いから、頑張らないと。」
譲介がそう宣言すると、テツは口を引き結んだまま、紙ナプキンを持った手を伸ばして、譲介の口の周りを雑に拭った。
カレーを食べた後の三歳の譲介に、そうしたみたいに。
「頭が悪いんじゃなくて、環境が悪かっただけだ。現に成績は上がってんじゃねえか。」
テツは、こういう時は僕をからかわない。いつものようにからかってくれたなら、腹を立てながら勉強を頑張るだけなのに。
「帰って宿題してえのか?」と尋ねるテツに「そうしたい。」と譲介はもう一度頷く。

僕が、もし医者になれたら。
それは、これまでテツと暮らしてきた中で生まれ、譲介の心の隅に隠れていた願望だった。
自分が、テツも驚くほどの怪我をしてしまったら。
テツがもし、どうにも出来ないくらい悪い病気に掛かってしまったら。
その時、どうしたらいいだろう、とオロオロするだけの自分でいたくなかった。

テツは「一丁前のツラしやがって。」と言いながら、楽しそうな顔をしている。
去年までなら、譲介はそのままテツに頬肉を摘ままれて、むにゅっとされていたところだろう。
「昼飯と夕飯はどうする?」
「うちにルーがあるから、テツが寝てる間に僕がカレー作るよ。」と譲介が言うと、「昼前に起こせ。オレが作ってやる。」とテツは言った。
やった、と譲介は飛び上がる。
二日遅れのプレゼントをショッピングモールに買いに行くよりも、テツにカレーを作ってもらう方が、ずっと良かった。
「テツ、コンビニに寄って、牛乳買って帰ろう!」
カレーには、牛乳だ。
「なくなっちまったのか?」
「ずっと買ってないだけ。飲みたいけど、僕一人じゃそんなに飲めないよ。」
「コーヒーは飲んでねぇだろうな。」とついでのように聞かれて、譲介は笑ってしまった。
自分は毎日コーヒーをがぶがぶ飲んでるくせに、譲介には、カフェインが入った飲み物は、中学になってからだ、と言うのだ、この保護者は。
「飲まないよ。」と譲介はいつものように言った。
ちょっとだけコーヒーを飲みたいときは、砂糖とミルクが入った粉の甘いインスタントコーヒーを買ってお湯で溶かして飲んでいる。そもそも、テツに言わせれば、あれはコーヒーじゃないらしいから、嘘じゃない。
インスタントの方が絶対体に悪いけど、ちょっとくらい構わないだろう。
「じゃあ出るか。」と譲介のトレイと自分のトレイを重ねて片付けつつ腰を上げたテツに、譲介は瞬きした。
「テツ、朝ごはんは?」
さっきまでは、食べる気満々でメニューを見ていたのに、まさか、話し込んでいるうちに忘れてしまったのだろうか。
「コンビニに寄り道するんだろ。適当に買ってうちで食う。」と言って、テツは譲介に背を向けて返却台へと向かっている。
譲介は、持って来たリュックを背負って、テツの背中を追いかける。
うちで食う、というテツの言葉が無性に嬉しかった。
「早く帰ろう。」と言うと、「そんなに宿題がしてえのか。」とからかうように言って、テツは譲介の顔を見た。
テツは大人のくせに、本当に仕方のない保護者だ。
宿題の後で食べられるカレーが楽しみなんだ、と言わなきゃ、本当に分からないんだろうか。
「カレー、ちゃんと作ってよ。」と念を押すと、テツは億劫そうに「分かった、分かった。」と言ってから、肩に掛けていた譲介のリュックをひょい、と取り上げる。
手ぶらのテツに乱暴に持ち上げられたリュックからは、シャーペンや消しゴムが金属ケースの中でカラカラと擦れる音が聞こえて来る。
「何入ってんだ、これ。」
「ペンケースと算数の教科書とテツが買って来てくれた参考書とノート。」
ファーストフードの店では音楽がうるさくて勉強に集中出来ないことは分かっていたけど、もしテツが部屋で寝てる間に図書館に行くなら、マンションには戻らず直接行った方が早いかな、と思って家から持って出て来てしまったのだ。
「教科書のサイズが変わっちまったからか。嫌に重くねえか。」とテツは言う。そうかもしれない、と譲介は相槌を打つ。
これから、コンビニに寄って牛乳を仕入れて、それからうちに帰るのだ。
譲介は、福神漬けも買ってもらおう、と思いながら、コンビニへと続く道を、テツとふたり並んで歩いた。

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