絵葉書



シーツを掴む彼の指先を、僕の指先が捉えて、彼とのキスをもう少し続けていたいと伝える。
キスを始めたのは僕だ。そんなに早く布団から出ないで、というこちらの意思表示を受け入れた彼は、唇を開いて僕の舌を受け入れた。どちらかと言えば、ふたりの間で普段キスが始まるのは、彼からのことが多い。僕のことを黙らせようとか、言うことを聞かせようとする裏の意図が感じられることもあれば、全くの気紛れのこともある。
今日のこれはどっちだろう。
こうして触れあうようになるまでは分からなかったけれど、彼はキスをするのが好きだ。
僕も、彼とするキスがとても好きだ。そして、そのことを隠さなくてもいい今の暮らしが、とても気に入っている。

長いキスの合間に、ぐう、とお互いのお腹が鳴った。僕はともかく、彼の腹時計はかなり正確だ。
満足はしてないけど、このくらいにしておかないと後で困る、と渋々唇を離すと、彼は、鼻先を僕の鼻の横に擦りつけ、息を整えている。うわあ、と僕は思う。この人はいつもセックスがしつこいと僕に不平を言うけれど、こんな風に好きな人に甘えられて冷静でいられる方がよっぽどおかしい。
「今日、十時からいつもの養成所の仕事ですよね。」僕はなんとか冷静を取り戻そうとして、先月からカレンダーに書かれていた、言わずもがなのスケジュールを確認する。
彼との交際が世間に詳らかになった後、一時は目が回ってしまいそうだった僕の仕事量もすっかり数が減ってしまい、その代わりにかつて通っていた俳優養成所で、村井さんが受け持っていた授業を彼が引き継ぐことになった。
勿論、これまでの俳優業とは兼業で、彼はとうとう、「演劇で食べられる定職」を手に入れたのだ。
座学の授業なんざ、オレにどうしろってんだ、と最初は零していたけれど、このところは、不平を言いながらも楽しそうに学校に通っていて、主だった仕事が休日に集中するようになった僕は、こうして彼のサポートをする側に回っている。

「……あーーー。」
どんな風に授業を進めていくか決めてない日の常で、彼はベッドの上でうつ伏せになったまま面倒くさそうに唸って「家出るまでに、演劇入門、探して来てくれ。」と僕に告げた。
「TETSUさん、著者名って覚えてますか?」と聞くと、彼は短い沈黙の後、「多分福田、いや、唐か?」と迷う素振りを見せた。
演劇の専門書や関連本が並ぶ彼の書棚は、基本的にタイトル順ではなくて著者順になっている。
つまり、彼が読みたいと思った本のタイトル、あるいはその一部分しか思い出せない時や、こうした無個性なタイトルが付いた本を見つける必要が出来た時は、当然ながら置き場所を探し当てるのに難渋する。僕は、探す本の題名を忘れないよう、彼が眼鏡を置いているサイドボードのメモ帳に聞いたばかりのタイトルと著者名の苗字の部分を書きつける。
彼が若い頃の本なら、かろうじてタイトルと筆者が紐づけ出来るのでぱっと見つかることもあるけれど、バーコードもない時代の本となると、検索してもヒットしないことがあるから困る。タイミングを見つけて彼の蔵書をデータベース化する必要があるなとは思っているけれど、僕がパソコン前に座る仕事が苦手なのもあって、未だに手を付けられていない。
「食事の前に探して来ますね。」
彼の額にキスしてベッドを出ると、枕元の眼鏡を掛ける小さな音と「オレもメシ作るか。」という彼の独り言が聞こえて来た。僕は今日の卵は何だろう、と口元を緩める。
書斎として使えたはずの小部屋には、彼の蔵書を納めるための書棚が並んでいる。
カーテンを開けると、どこに潜んでいたのか相棒二号がとたとたと音を立ててキッチンの方へと歩いていった。
黒い背中はいつも僕にはつれないけれど、猫と言うのはきっとそんなものなのだろう。僕が家にいることが多くなったのは、確かに家族を増やす良いタイミングだったんじゃないかと思う。
彼の指定する本を、心当たりをぱっと探して見つからない時は、著者のあいうえお順に端から探して行くことになる。
いつものように上の棚から見ていくと、三段目まで来たところで、端の方に栞紐が垂れ下がったままになっている本があった。
あの人は僕よりずっとこういうだらしなさを気にする方だと思っていたけど、急いでいて気付かなかったのだろうか。
飛び出た紐を戻しておこうと本を取り出すと、頁の間から、栞代わりにされていた何かがぱさりと床に落ちる。それは、一葉の葉書だった。

またふたりで海を見に行きましょう。

目に入ってきた、その決して丁寧とは言えない書き文字には見覚えがある。
この部屋は、互いに見られたくないものをこっそり取り出して眺めるには、本当にいい居場所だ。
僕自身、彼へのクリスマスプレゼントを隠す時などは、当日まで本人の目に付かないようにと、一番下段の文庫本が並ぶ裏に隠すことにしている。
葉書を手にすると、遠い島で彼と過ごした幸せで短いバカンスの記憶が蘇って来て、思わず口元に笑みが浮かんだ。
――今は難しいかもしれないけど、来年また旅行に行きませんか、と彼を誘ってみようか。
「譲介、おめぇ今朝の目玉は半熟でいいのか?」
その声に、彼の秘密の思い出のひとつになった古びた絵葉書を、慌てて本の中に挟み込む。
「TETSUさんと一緒で構いません。」
キッチンの彼に聞こえるようにと大声で返事をした僕は、外に出たままの栞紐をそのままにして、取り出した本を、そっと元の場所に戻した。

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