あなたの人生のものがたり


晴れた明るい海だ。
いつかの日に、こんな朝焼けを彼と一緒に見た。
その後も、この光景を気に入ったらしい彼と、何度も、何度もこの海に来た。
一年前、この先の少なくとも数年は暮らす決意で、彼と住むバリアフリーの家をこの海の前に建てた。いつ、その時が来てもいいようにと、休職届を朝倉先生に出したのもその時だ。
最初のうちは、譲介も、朝倉先生と一緒になってクエイドへの再入院を勧めた。
けれど、おめぇが手術してる間に死ぬのは御免だ、死に水、取るんだろと言って彼は笑ったのだ。ここでの入院ならば、仕事を続けながら彼を診ることが出来る、という譲介の我欲は、五年も前の体調ならば、彼の希望でもあっただろうに。こちらが切なくなるような顔で、老い先短いジジイの最期の我儘を叶えろ、と茶化しながら言った彼のために、譲介は彼と、ほとんど二十四時間同じ家での暮らしを始めた。
いつ別れの時が来たとしても、絶対に後悔しない道などないだろう。
その後悔を少しでも少なくしたかった。

高校の頃に同居した頃ですら、こんなに長く一緒にいたことはない。
彼と関わった人が、次々とここへ訪れた。
一也や神代先生、宮坂。彼が取り上げた赤ん坊だった子どもとその親たち。
あさひ学園の職員の人たちは、僕より一回り上くらいの世代になった大人の卒業生をここへと送り込んだ。今日はやけに手向けが多いな、と彼が零すほどに。
クエイドの人脈か、この家を訪れる人はほとんど途切れることはなく、譲介とふたりしかいない家も昼間は賑やかで、彼との思い出を語って行ってくれた。
彼は、育った子供たちの顔を見るや、医師としての、ドクターTETSUの顔に戻り、まるで魔法のように名前を言い当てることが出来た。彼の夜の変調に備えているうちにすっかり夜型になってしまった譲介は、うつらうつらしながら彼らの言葉を聞いていた。譲介が知らない、あるいは知っているはずの彼の一面を、彼らは教えてくれる。それだけでも、ここで彼と暮らしている意味がある。
実際のところ、今の家に隠居して以来、彼は、夜になるとあの頃のように、譲介と会う前の過去のことを良く話すようになった。昨日の天気も思い出せない日もあるというのに、KAZUYAさんとの冒険の話なら、細部まで鮮やかに話すことが出来る。譲介は、今の彼が、もうすっかりぶかぶかになってしまった左手の薬指の指輪を誰と交わし合ったのか、その日のことは覚えているのか、聞くのが怖かった。渡米して早々に、譲介がプロポーズしたこと。譲介が彼と暮らした日々は、過ぎ去った過去で、若い頃の冒険譚だけを抱えて、逝ってしまうのかと。


車椅子は海岸には持ち込めない。
再会してもう十数年は経っただろうか、軽くなった彼の身体を抱き上げ、譲介はゆっくりと海岸線へと歩く。
この年まで生きれば、いつ死んでも往生ってもんだろ。
彼が、か細くなるばかりの息の合間に呟いた昨日の言葉を聞かなかったふりをしたかったけれど。雨の日や、譲介がふと仕事に戻りたいと考えた日に、医者じゃねえオレに価値なんかねぇよ、とうそぶく彼との暮らしに、彼のことしか書かれなくなった譲介のノートに、とうとう最後のページを書いてエンドマークを付ける日が来たのだと譲介は悟った。
――どんなことがあっても、あなたには生きる道を選択して欲しい。僕の人生には、あなたが必要だから。
『ドクターTETSU』が医師を引退する日に、譲介は彼に言った。あの日から、彼は死という言葉を全く口にしなくなった。だから、昨日の言葉はきっと、つまりはそういうことなのだろう。
事前に砂浜に置いておいた椅子に腰を下ろさせて、譲介は彼の隣に立つ。
「……まるでおめぇがオレにくれたこいつみたいに輝きやがる。」と彼は言って、やっとのことで手を持ち上げ、彼と僕が一緒にいる理由を与えてくれた金色の指輪に口づけをした。
そして、彼はゆっくりと目を瞑る。
明日かもしれないし、明後日か、一年後か。
いつ別れが来てもいいよう、悔いがないように伝えてきたつもりだった。あなたといたいのだと。
まだ足りない。
もっと一緒にいたい。
さよならなど言わないで。
眠る前の笑顔がなければ、そんなわがままを口に出していたかもしれない。
「海が綺麗ですね。」と譲介は言った。
今日の朝焼けがやけに目に染みると思いながら。












「――って風になるんじゃないかと、僕もそう思ってたんですけどね。」
すいません、という譲介の謝罪に、九十になってもまだまだ現役で働くつもりのTETSUは、こんの馬鹿ヤロオが、と言って譲介の前で泣いた。十年前なら、彼のいつもの杖で殴られていたかもしれない。
クエイド財団のVIP用の個室のベッドで、譲介は横になっている。彼の涙を拭いてあげたいと思うのに、自力で身体を起こすことも出来ない自分がもどかしい。
譲介が自身の変調に気付いたのは、長い間不調とは無縁だったTETSUの容体が急変して、すわ再手術か、となった前後の頃だった。緊張に次ぐ緊張で、寝る暇もなく彼の診療方針を検討した。小康状態に陥った時期に検査をすれば良かったのに、彼の主治医は自分だ、まだやれるはずと言い張って、心の中で出してはならないOKサインを出した。医者の不養生とは言いたくはないが、あの時期がきっと、分かれ道だったのだろう。
肺の吐血などを含む身体の変調は、思ったより早く彼に露見し、譲介は久しぶりに彼に殴られた。出会った頃の力の、半分くらいだったというのに、譲介はそれで倒れて、自分の職場に緊急入院する羽目になった。あれから三か月。
目を覚ますまでの間隔が、徐々に長くなってきていた。
同じ病気の人間を何度か看取って来たという医師に、話を聞いていた。譲介自身も、心の準備が出来るようにしていたが、意識のある間に彼と話しておきたい、と思うと、居ても立っても居られないような気持で枕元の呼び出しボタンを押し、小児科で問診中だった彼と、もうひとりの家族を呼んでもらった。それが、ちょっと前のことだ。
室内には、脈拍を、血圧を、酸素飽和度を知らせる音が響いている。それが甲高い音を鳴らす時が僕の最期。K先生がいつか僕に、命に諦めが悪くなれ、と言ったけれど、僕が諦め悪くいられるのは、ただ患者の命だけ。そして、目の前にいる愛するこの人の――。
今日もまた杖を付いてベッドの上の譲介を見下ろす彼のことを、隣で、キャラメル色の肌をしたベスが支えている。女王の名を冠した、TETSUと譲介のプリンセス。
『ベス、僕がいなくなっても徹郎さんをよろしく。』というと、ベスは『ダディ、こんな気難しいダッドを私ひとりに押し付けて先にいくつもり?』と泣き笑いの顔になっている。
怒った顔が、徹郎さんにそっくりで、笑った顔は少し譲介に似ている。MITに入って、コンピュータサイエンスを勉強中だが、僕の緊急入院が決まって以来、今は一時帰宅してリモートで勉強をしている。子どもの頃から彼女の二親は共に忙しく、勉強を見てやる時間も、一緒に食事をする時間も短かったのに、良くここまで育ったものだ、と譲介も思う。
譲介とTETSUは、彼が病院の外で取り上げた親のいない子を養子に迎えた。所謂シングルマザーだったベスの実母は出産時に交通事故に逢い、そのまま死亡している。現場に居合わせた彼が、手持ちの器具で執刀したのだ。日本にいた頃にも同じような事件があり、その時に彼が取り上げた子は、あさひ学園に預けられたという。
譲介は、クエイドの外の施設に引き取られてしまった子どもに会いに行く、と積極的に暇を作っては足しげく通う彼に、運転手として付いて行った。寛解前の彼が、医師として夜も昼もなく働いていた日本にいた頃には、決して出来なかったことだ。二度、三度、と会いに行くたび、彼が、自分が取り上げた子どもと別れがたく思っていることに気付いた。長い白髪でなつかしさや愛情を湛える目を隠そうとする彼に、子どもの方も、同じ気持ちでいることが分かった。
いかないで、とどこで習ったのか片言の日本語で前髪を引っ張る子どもに、穏やかな顔で笑っている彼の様子を見れば、それは明らかだった。譲介は、法的な手続きをクエイド付きの顧問弁護士に任せて、彼女を養子に迎えることにした。コイツが十八になる頃には、オレはくたばってるだろうよ、としり込みする彼を説き伏せるのは手間だったけれど――セックスの最中に僕より体力があることひけらかしてるくせに、縁起でもないこと言わないでください、と言うと静かになった――彼女は一年後、彼と譲介の住まう『家』にやって来た。譲介が彼に返したあの五千万とふたりの貯金を合わせて、戸建てで、庭付の家を買ったのだ。
それから数年。
譲介が四十を越える年に、彼と約束をした。

――万が一、僕が、あなたの死に水を取れない日がやって来るとしたら、あなたが僕の死に水を取ってください。
ねえ、徹郎さん。あなたが最初に僕に言った、あの言葉の通りになるなら、僕はそれでもいいんです。

いつかの話ですよ、と言ったのに、彼はあの日、縁起でもねぇ繰り言を抜かすんじゃねえ、と怒鳴って、それから譲介と小さなベスの前で涙を流した。
譲介は、七十過ぎの彼に、涙もろいところがあることを知った。
本当は、彼の心の中にある寂しさを、ずっと知っていた気がする。置いて行かれるより置いていく方がずっと傷が少ない。朝倉先生について渡米した時に、窓の外を見ながら、彼が譲介を置いて行った日に何を考えていたのだろうと思いを馳せたことを、譲介は思い出していた。
ぐずぐずに泣いている彼の手を取って、ベスが掛けたレコードで、チークを踊った。
僕を杖代わりにしてください、と言って、譲介が手を差し延べると、格好付けてふらつくんじゃねえぞ、と彼は笑って、譲介の手を取った。
譲介は、彼と共に夜のテラスに移動した。
スポットライトはないけれど、空には星が瞬いていた。愛しい人の腰に手を回してゆっくりと身体を揺らす。かつては世界を股に掛けた彼と、譲介は、狭い自宅のテラスで、何度も、何度も、くるくると円を描いた。シニミズってなあに、と言って、日本語を勉強中のベスが、ベランダの手すりに腰かけて笑っていた。あの夜。世界から、祝福されていると感じられた。

八十になった彼は、譲介に愛してると言うようになった。
ベスがいい子に育つには、育ての親の仲が良いのを見せつけといた方が良いんだとよ。
そんな口実に、一日に少なくとも三度は目の前でキスするところを見せてますよ、と譲介は、笑ってしまった。あの頃にはセックスの代わりに、ふたりでベッドで寝るだけとなっていたけれど、譲介はそれでも幸せだった。
彼を一生分愛した。
そうして今、九十を過ぎようとする彼の前で、譲介は笑っている。
「もし僕がいなくなったとしても、あなたの人生から逃げないで。一人で死にたいと思ったりしないで、次の十年も、あなたを愛する人のために生きて欲しい。寂しいけど……それが僕じゃなくても、いいんです。」
誕生日でも、クリスマスでもないけど、最期の我儘を聞いてくれますか、と問うと、譲介の唯一の人は、膝をついて、譲介の目を見て、約束する、と言った。
その目に浮かぶ涙に、いつか彼と見た海が見えた気がした。



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