カレーの日



仕事を終え、マンションのエントランスホールに着いたのが七時を回ったところだった。
遅くなると連絡した後の譲介の返事は、Come back soon.だ。
珍しいことに、今日はとっくに帰宅を終えているらしい。
途中のハンバーガー屋でテイクアウトしてきたチリドックとコーヒーを片手にエレベーターを待ってはいるが、ボタンを押すタイミングで両方とも上層階で止まっていたせいか、地上に降りて来るのがやけに遅く感じる。手持ち無沙汰に、ポケットに突っ込んでいたスマホを取り上げると、気づかないうちに新しいメッセージが入っていた。
Hot meal is waiting for you.
クソ。そういう話はまとめてしろってんだ。
あの野郎、いつもの冷食を温めりゃいいだろという顔で自分は出来合いの食事を好きに使ってるくせに、こっちの食事にはケチをつけやがる。
まあ、メシがある可能性をすっかり忘れちまっていたのはオレも同じだが。
どうすんだよこれ、と紙袋を眺めた瞬間に、ちらりと何かが違和感が頭を掠めていったが、食事を作って待ってます、といつものエプロン姿で笑う譲介の顔が頭に浮かんだところで消えてしまった。
エレベーターの扉が開いたので、慌てて中に入ると、箱の扉が閉まっただけで動きはしない。
っ、たく。間抜けにもほどがある。ガリガリと頭を掻きむしりたいような気分で、あいつが待つ階のボタンを押した。
まあ、腹が空いてねえ訳でもねえ。
両方食うか、紙袋の中身は明日の朝飯にでもするか。
そんなことを考えているうちにエレベーターが動いて、譲介の待つ部屋へと疲れた体を運んでいった。


鍵を開けて中に入ると、出入り口まで漂って来た懐かしい匂いに気付いた。
夕飯はカレーか。道理でメールの返事が浮かれていたはずだ。
「――すいません、先生、忙しい時間だろうとは思うんですが。久しぶりに声が聴きたくなって。」
お願いします、という言葉が続き、そろそろと脚を運ぶと照れたように頭を掻く譲介の様子が目に入った。
(……浮気かァ?)
譲介が先生と言う相手は多くはない。オレが知っている限りで朝倉か神代。
朝倉には基本苗字を付けて呼ぶので、相手は後者だと知れた。
電話をすること自体は、まあいい。普段から、ビデオ通話をしていることはオレも知っている。
ただし、あいつの声がベッドの中でしか聞けないような猫撫で声ともなれば、話は別だ。
一気にメシを食う気が失せたような気がしたが、食べ物に罪はない。
「帰ったぞ。」と言ってダイニングのテーブルにテイクアウトの紙袋を置こうとすると、「徹郎さん!」とキッチンスペースにいた譲介がこちらを振り向いた。十数年前には、カレーを食った後にもちょっとお目に掛かることのなかった満面の笑顔だ。
エプロンはもう外しているから、調理は終わっちまったってことだろう。
朝に結んでやったタイは、ピンで留めりゃいいものを、いつものように端を二つ目と三つ目のボタンの間に突っ込んである。
「すいません、あの人が帰って来たのでちょっとこのまま待っててください。切らないで、十秒だけ!」
いきなりこっちに近づいて来て、おかえりなさい、とスマホ片手にハグとキスだ。
……十秒?
味見をしたばかりのカレーの味がするキスはたっぷり一分も続く勢いで「そういうのは、国際電話を切ってからにせぇ!」とでけぇ怒鳴り声がスマホから飛び出した。
「――誰だ?」
神代の声ではないことは、直ぐに分かった。
「僕がT村で世話になっていた方です。いつもの荷物の。」
荷物。いつもの定期便か。仕送りというほどもない小さな通い箱の中に、譲介のためのカレーが入ってやってくる。その送り主が神代の診療所の人間であることは聞いていた。
譲介は、暇があればスパイスだのなんだのをこっちで買い足して、丁寧に箱詰めして日本に戻している。時折は手紙を付けて。
久しぶりに声が聴きたいってのは、そういうことか。
叱られた犬のような顔をしている譲介に、オレが話を付けてやるから電話を貸せ、と手を出すと、譲介は、普段はこっちに触られるのを嫌がるスマートフォンを大人しく差し出した。
「真田です。譲介のヤツが世話になってます。」
「やれやれ、やっと声が聴けたわ。」
開口一番、相手はそう言った。
診療所にいた、あのバァさんか。
女の方が長寿が多いことを考えりゃ、珍しいことでもないが、まだくたばっちゃいねえとは。
早合点の妬心に穴を掘りたいような気持になっていると「おたくじゃろ。こいつがアメリカで仕事を続けると言うた理由は。」と言われて、苦笑した。
背中に張り付いて電話口の声を聞いていた譲介が、イシさん、と口を挟みたいのかそうでないのか、声を震わせている。
どうやら、あの山奥で随分とモテてたようだと思っちゃいたが、相手の年は関係ないらしい。
「そうさな、こいつのせいでくたばり損ねたようなもんだ。おまけに、まだ離せそうにない。」と言うと、電話口で笑う声がした。
「こっちで返せと言っても、そいつがこっちに帰ろうとしないんじゃしょうがねぇ。」
分かってんじゃねえか。
徹郎さん、僕も電話、と背中からくっついてくる譲介をいなしていると、同じように、神代の声が向こうの電話口から聞こえてくる。
どうやら、あっちの電話口でも「イシさん」が、オレと神代の間の防波堤になっているらしい。
「それにな、オラたちのようなもんにゃ、面倒を見る若いもんが必要なんだ。」
いつまでも達者でいるにはな、という言葉には、百歳まで秒読みという年代のババァの実感が籠っている。
オレはそこまでフケちゃいねえが、まあ同感だ。
「診療所を出て行ったとしても、そいつはうちの子だ。頼んだぞ。」
神代の代わりをするようにババァが言った。
「あんたも、元気なうちは、譲介の面倒を見といてくれ。」と言うと、愉快そうに笑う声の後で、金が掛かるからそろそろ切るぞ、と挨拶もなく通話が切れた。
始まったのも唐突なら、終わりも唐突だ。
いつもの、食事を作っています、という譲介からのメッセージが、暖かい食事があなたを待っています、という言い回しに変わっちまっていた理由も分かったことで、妙に愉快な気分だった。
出来合いのカレーを暖めるだけというなら、確かにあのメッセージが正しい。
電源ボタンを長押ししてスマホの電源も切ってから、ほらよ、とシャツのポケットにスマホを戻すと、譲介は「あ、はい。」と妙にしゃちほこばっている。
「おい、譲介。」と言って、首元を締め付けているタイの結び目を引っ張り、顔を近づける。
目を見開いている譲介に、メシとさっきの続き、どっちがいい、と聞いてみると、年下の男は喜色満面で素早くこちらに唇を寄せ、その返事の代わりにした。

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