ぼくらのさよなら
王冠とは、果たして幸福なのだろうか。
全ての子供達は大人になる通過点として、自身の頭部に王冠を宿すこととなる。この戴冠を経て、人は強く願う一つのことに深く囚われるようになり、豊かな人生を手に入れることが出来るのだ。それ故に戴冠とは、戴冠式とは、素晴らしい様式である。
~詩節、歴史より抜粋~
豊かな人生。その定義は間違ってはいないだろう。それが良い方向へ働けば、の話だ。何かを得て、その感情に深く取り憑かれる。日々の糧となる感情は毎日をより精力的なものにし、一切を関さない。
確かにそれはそうなのだ。あの子だって、初めはそうだったんだ。
ぼくらのさよなら
森の支配者。それはすなわち王を意味する。
ツクヨミは幼少の頃から再三言い聞かされていたそれを当然のように受け入れ、その素質を養っていかねばならなかった。
──彼は、人に優しすぎる。
手を差し伸べる心意気は美徳だ。器の広さというものは元よりある程度決まっているようだから、その人徳というものは称賛に値する。
但し、王となるには全てに責務が伴うのだ。話す人、内容、接し方、距離感。どれも中立を保ち、血を分ける者との一線を区切らねばならない。
この区切りの外側全てに同じように接する、というのがツクヨミに与えられた一つの試練であった。
「また本を読んでいるの」
先天的に生まれ持ったものを抑圧させるのは酷く難しい。意識的に無意識を扱うことは簡単なことではなかった。それ故にツクヨミは一度、社会を見ることをやめようと試みた。暗い部屋に引きこもったこともある。人を目に入れなければ考えて接する必要もないと思ったのだ。
勿論将来的に支配者として生きていくツクヨミにそんな逃避は与えられるはずもなく、そして彼自身も耐え切れず、最終的に、本を読む今の生活へと落ち着いたのだった。
「君だって、絵を描いているだろう」
「それはそうだけど」
本はどんなものでもよかった。ただ小説の方が面白かった。結局のところ、どんな形であれ人に触れねばツクヨミは生きていけなかったのだ。
隣に座った彼女は、ツクヨミにとって区切りの内側だ。たしかに心を開き関われるその子のことがツクヨミは好きだった。妃となるのだ。他でもない、自分の。
「そんなものばかり見ていても訓練にはならないよ」
だから外へ行こうと、彼女は手を引いている。
草木は瑞々しく、葉先までをうんと伸ばして育ち続ける。その物言わぬ姿は健気で、人間よりよっぽどまともに見えた。
家を出れば柔らかな風と虫の鳴き声が二人を出迎える。そこから彼女は一度スンと鼻を鳴らしたばかりで、湖までの道中、二人はずっと沈黙を保っていた。
ツクヨミはその性格から人との交流も比較的上手くやっていける人だと彼女は解釈している。だけれど自分は、他人と話すことはそこまで得意ではない。でもその気になれば、ある程度打ち解けて人並みに話せる、とも思う。
自負というのは第三者から見て本当に正しいのか。確立した絶対的自認は果たしてどこにあるのか。人の言葉により生かされている生涯で、本当の自分とはいかようなものだろうか。
「いろいろ考えたんだ」
「ツクはいつも考えてる」
「それは君もだろ」
私にとっての彼は、彼から見た私は、一体何者だろう。
訓練と称し気晴らしで外へ連れ出したものの、ツクヨミが王として自らに向き合うのと同様に、彼女もまた何かへ向き合い続けていた。人とは誰しも、腹の中に何かを抱える生き物なのだろう。
「やっぱり、そんな簡単に人との一線は区切れない」
「人に優しい王様。別にそれもありだと思うよ、威厳がないだけで」
戴冠を迎えれば、ツクヨミは王となる。深い青は正式に夜の森となり、真夜中の太陽を迎える基盤へと変わっていく。支配者。それは揺るぎない上位者として、非常に強い効力のある言葉だ。ツクヨミは変わらねばならない。
「うん。でも戴冠で変われると思う」
「……優しさを捨てるつもり?」
「感情を、捨てるよ」
ひゅっと息をのむ音が耳に届く。それはツクヨミの幻聴だったのかもしれない。現に目の前にいる彼女は一切の表情も崩さず、ただじっとツクヨミを見つめている。聞こえるのは風の音と、虫のさざめきだけだ。
「じゃあ、私が優しさを引き継いであげる」
「君が?」
「不満? これでも人に優しくできる心は持ち合わせてるんだけど」
彼女はその容姿から受ける印象とは少し違う性格の持ち主だった。それは以前よりツクヨミが感じていたものだ。人が想像する柔らかさだけで構成されない、美しく芯のある人格性。決して淑やかなだけではないそれは、ツクヨミが求めなければならないものと似ている。総じて覚悟と記されるものだ。
支配者、王様。その妃。どれになるにも、相応の覚悟が必要だった。二人は今引き返せない道にいる。そうなることが、ずっと昔から示されていた。
感情まで捨てずとも、それに対する優しさだけを失えばよかったのに。本当に愚かだ。今ではもう、それを愚かとすら思うこともないのだけれど。
優しさとは、いわゆる愛だ。
ツクヨミは人という存在を愛していたのだと彼女は信じている。だからこそ、その姿勢が魅力だった。こんなに高貴な支配者の子種が、他者へ手を差し伸べる。まるで感動的な物語に登場する王のような彼。美しさとは、外見だけでは定まらない。
昏々と夜は訪れ、自然音が窓を微かに震わせる。もうすぐ真夜中の太陽がこの森へ訪れる。深い夜闇に浮かぶ金色の太陽は、人の運命を決定づける神聖なものだ。
戴冠式。その前に言葉を交わしたのは、あの日が最後だった。
「死のうかな」
掛け布団を土に見立てれば、ベッドに埋まる体はさながら土葬の最中だ。埋葬にも種類があるが、灼熱で灰と化すより土に戻る方がずっといい。火は私達にとってあまりにも刺激が強すぎる。
さて、そうなれば腰まで伸びた白髪は、冬に訪れる真雪だろうか。或いは理想であり、苦難の証明か。はたまた、土中の白骨か。淡々と渦巻く思考に思わず笑みが零れる。これが|elämää《生きている》ということなのだろう。
布団にくるまれたまま朝日が昇っていく様を見るのは心地がいい。もう少し暖かくなれば窓辺に立って、白みゆく空を彼と見るのもいいだろう。それが叶うのは、戴冠を迎え、二人が共に生きるようになってからだ。
「ホゥ……」
輪郭が無彩色のまま部屋へ溶けていく。初めから、ありはしなかったように。
・・・ ・・・ ・・・
戴冠の儀式を迎える前には、よくよく身を清める必要があった。ツクヨミは水を浴びた後、布に身を包みながらじっとその時を待っていた。真夜中の太陽はもうすぐ観測される。
聖堂は、拓かれた森の中、湖の中央にそびえ立っている。窓から見える湖面はキラキラと輝き、僅かに届く滝の音は心を静めていく。今頃本堂では神官が二人の王冠を用意していることだろう。冠がどのような形で顕現するのか、それは誰にも想像できないことだ。王冠とは人それぞれ異なる形を有する、自分だけの聖約。それは枷であり、茨であり、果てなき終わりである。
「真夜中の太陽」
空が明るい。数か月に一度の観測が、戴冠が、今音もなく訪れている。神聖な光を放つ頭上の遍く存在は、我々の後光となり、二人の成長を眺めている。
「儀が始まります」
「行こう」
二人はそっと手を繋いだ。
どちらが差し伸べた手かは分からない。だがそれは王が見せる最後の優しさであり、妃が最初に育んだ愛だった。手のひらを伝う体温は、もう二度と見られない唯一の形だ。
寂しさが掠める。今となっては互いの感情すら理解できるものではなくなっていた。人間という生き物に不変などありはしない。人は成長し背丈を変えると共に、選択も思考も独立していく。そしてその根底にはいつも、起因となる環境の全てがあった。
二人はただ黙って、厳かな空気感を身に受けながら前へ進んでいく。
「──sinulle、siunaus」
白を基調とした厳粛な本堂は少しの肌寒さを感じさせた。
二人が首を垂れれば、金色の冠を纏った神官が虚空を頭上へ掲げながら言葉を捧げる。祈りの言葉だ。これは古くから伝わる、世界最初期の言葉であると二人は知っている。幻想のような、それこそまだ顕現しない空の王冠のような。まるで|fikti《架空》である。
神官が一歩下がると同時に、虚空がきゅっと頭を締め付けた。波紋のように波打ち朧気ながら現れる表紋は、今まさに彼らが戴冠したことの証明だ。二人の王冠は、正反対だった。
「|kuu keskipäivällä《真昼の月》」
そう呟いた神官が残念そうな顔をしていたのを、ツクヨミは今でも覚えている。
戴冠の儀を執り行えば、戴冠式は終了となる。二人は控え室に戻って身支度を済ませた後、頭部を囲う冠の存在を気にかけながら家路についた。
「真夜中の太陽」
「真昼の月」
ツクヨミの頭部にはギザギザとした黒色が浮かんでいる。彼は正真正銘、森の支配者だった。深い森を宿しながら真夜中まで手中に収めたも同然なのだ。王冠を得たことにより、彼自身が太陽の化身であるといっても過言ではなくなった。
まさに王の器である。全てに受け入れられたツクヨミは、これから唯一たる支配者の椅子へ堂々と腰掛けることになる。
これさえなければ、きっと幸せになれたのだ。いや、全てが幸せじゃなかったとは言わない。そんなことは言えるはずもない。幸せとは、きっと一つだけではないのだから。
「ようやく分かった。戴冠で分からされるなんて、全部糸を引かれてるみたいだけど」
真昼の月。妃の冠は、王の隣で輝くには随分と不釣り合いだった。それは単に人々の思い込みのせいだと一蹴していたが、自分にも同じ刷り込みが刻まれていることに彼女はようやく気が付いた。
歴史の一節にもあった真昼の月。丸みを帯びた王冠から形作られた流物は、支配者のそれと違って下へと垂れ下がる一方だった。
「私、ツクとはずっと一緒にいられない」
「それでも君がいなくなるまで、君は僕の妃だ」
二人は森の上位者として教育を受けているから、この森の歴史を知っている。最初期の言葉だってある程度は理解できる。真夜中の太陽と真昼の月、それがどういった性質を持つかも、よく分かっていた。
脳がじわじわと染色されていく。痛みなく焼き爛れていく思考は、やがてその傷跡すら誇りへ変貌していくだろう。王冠とはそういうものだ。
一週間。それが二人に残された、幼気な情景を焼きまわせる最後の期間だ。人は変わっていく。二人も、変わっていく。
ぐるぐると頭を巡るのは、過去の思い出ばかりだ。全てがいいものではない。後悔や反省、繰り返される自戒。負の感情へ立ち向かうのは容易いことではなかった。
自分が短命種であることに寂しさは感じない。辛さも、苦しみもない。むしろ真昼の月ならば太陽に目を焼かれることも当然と言える。端から性質の違うものは、咀嚼できても嚥下が難しい。
「死にたい」
ツクヨミはこういう人間をどう思うだろう。全ての原因は真昼の月であると割り切り、そしてそれすらも個性と受け入れてくれるだろうか。
ここまで思い馳せたところで、彼が戴冠を使って選んだ道が脳裏に蘇った。感情を捨てるのだ。ならその容認の所以も優しさではない。私が、それを愛してやらねばならない。
今日も柔らかな綿に埋められたまま、妃として生きる道を探っている。
人へ愛を向けなければならない。優しさを手にしたなら、それを献身として捧げるべきだ。人より特別な立場にいるのなら、相応である必要がある。ツクヨミが支配者としての選択をした、その覚悟を背負わねばならない。私だって、それを選んだのだ。
するべきというのは酷い呪いだった。追いつかれては食われてしまいそうな、正体の分からない化け物から逃げる。それを生き急ぎと名付けるなら、紛れもない焦燥感を自覚する人はそう少なくないだろう。
「生きている……生きて、いる」
他者へ施しを。偽の無き善意を。差し伸べた手を振り払われても、無視されても、諦めない心を。生涯をかけた博愛を。王冠が密やかに、小さな肩に手をかけようとしている。
そしてそれはやはり、戴冠を経た者全てが通る道なのだ。別所、ツクヨミもまた静かに真夜中の太陽を見上げていた。
「私は、支配者として生きなければならない」
少しだけあの子が苦しんでいるように感じていた。昔からだ。故に神官が|kuu keskipäivällä《真昼の月》と告げた時、腑に落ちた気がした。真昼の月はどうしてか、性質性として負に引き寄せられがちなのだ。
だからこそ、彼女が優しさを引き継いでしまったことが裏目に出そうで怖くなった。初めから彼女の性質性について知っていれば、引き継ぎ自体を止めることだって出来たはずだった。その負い目は自責の念となったのだが、ここ数日間のうちに薄まってきていることをツクヨミははっきりと自覚している。今では他者との関わりによる心の揺れ動きも随分少なくなっていた。戴冠を経て、頭の中で喋り続けていた何かが死んでいったのだ。
有り余るほどの情熱も、慈愛も、励ましも、既に鳴りを潜めている。ツクヨミがあの子にかけたかった言葉も、すっかり闇に屠られてしまった。
「ねえ、ツク」
「ん?」
「……本当に、反応が薄くなった」
戴冠を経て、人生は豊かになる。愁いを感じないのなら豊かになるのは必然か。王の表情は日に日に消えていき、妃の感情は肥大化していく一方だ。傍から見れば、その王冠すら互いの取り違えなのではないかと疑ってしまうほどに。
「随分支配者らしくなったね。真っ直ぐ前を見てる感じ、すごく好き」
「それが務めだ」
この子の表情は変わらない。そうツクヨミはぼんやりと考えていた。今では王冠に頭を支配されているものだから、その思考も長くは続かない。ただ目の前にいる妃が笑って好意を告げている事実だけを受け止めていた。
ツクヨミは血を分ける内側の一線すらも消してしまって、今では素っ気ない対応は彼以外の全てに向けられるようになった。口数が減り、淡々と言葉を並べるだけになった王に、妃は愛を告げている。まだ彼の心中には区分があるのだと信じているからだ。
そしてその区分に則り、自らへ愛の還元が行われると願っている。今は還ってこずとも、いつか必ず。
ツクヨミとしては、その返答として選べる表現方法などたかが知れていた。寄り添う。彼女のことを妃と認め、隣に立つことを許している。それだけだ。
優しさを、感情を失ったツクヨミが心からの愛を囁くことなど、もう二度と出来るはずもない。ツクヨミは漠然とした事実を理解していたが、あの子はまだ認めてはいなかった。
「貴方に話があるの。前に話した奥さん、もうすぐ子供が生まれるんだって」
支配者らしくなったと言う彼女も、その振る舞いは随分と妃らしくなっていた。もしかすると、これも戴冠の影響かもしれない。今では昔より綺麗になった容姿に見合う慎ましさを身につけ、一線の外側と頻繁に交流を続けている。
「祝福の時は貴方も一緒に来てね、ツク」
「勿論」
「……sinulle、siunaus」
ぽつりと彼女が零した言葉は、今度こそツクヨミの幻聴ではなかった。
「私達にも、あればいいのに」
森の温度は変わらない。それでも人は変わっていく。冠に書き換えられた思考で、感受性のコントロールが効かないでいる。だけれどそれに気付いても、簡単に認識を逸らすことは出来ない。
目に入ったものに意味を見出そうとして、概念を手探ろうとする。欲しくてたまらないものを前に泣き叫ぶ子供のように、手っ取り早く簡潔に表現してしまえれば、少しでも理解が及んだのかもしれない。
でももう駄目だ。何もかもが手遅れだ。自分がおかしいことは、とっくに分かっていた。
・・・ ・・・ ・・・
同じ屋根の下、別の部屋。それが二人の関係性だ。
所詮人というのは完全に分かり合えないし、いつも新しい一面が更新される。先日まで好きだったものが、いつの間にか嫌いになっているように。
「月は人を狂気へ陥れる」
ツクヨミはかつて読んだ本に書かれていた一節を声にした。
「子供って可愛い。動物も、草木も、水の一滴も。私は全部を愛している」
彼女の愛は少しずつ方向が変わっていった。人に優しすぎるというツクヨミの性格を引き継げていたのは最初の数年だけだった。今では物を問わず全てを慈しみ、それを当然と自らに強要している。強迫観念というべきか、以前よりもずっと妄執に取り憑かれた姿は、感情を失ったツクヨミに言わせれば愚かの一言に尽きた。
何よりもツクヨミにその単語を選ばせた原因は、彼女がその異常な当然を他者へも押し付けようとしている点だった。自分が愛しているのだから同じだけ還元されるはずである。以前はただの欲望ともとれた思想は、限度を超えた今、見ていて痛々しさすら感じさせる。
「……あの子は」
やはり、苦しんでいるのだ。それはツクヨミが読み取った事実だった。
それでもツクヨミにはどうすることも出来ない。自らが手放したせいで彼女が苦しむのなら、慰めとして与えられるものは懺悔だけだ。あの子はそれを受け入れないだろう。そもそもツクヨミから出る言葉はもう事実のみとなっているのだから、それは懺悔とは言わない。彼女の選択に対する否定だ。
ツクヨミはもう何も考えられない。思考の枷は外せない。妃に対して最適解となる接し方も、隣に立つ者として欲求を僅かに満たす方法も、全ての思考が途中で霧散して先に進まない。悲しいかな、それに対する思考すら彼の脳は許さない。
首を絞めることに快感を覚えるようになった。良くない傾向だ。首を絞めれば苦しくて、それは自分の欲しいものだからやめられない。
──本気で死を望むようになった。
世界のことも、人も動物も植物も、自分を取り巻く全てが愛しい。ツクヨミのことはいっとう愛している。それだというのに今ではすっかり苛まれ、互いに言葉を交わすことも随分減ってしまった。
部屋には昔使っていた画材が埃を被っている。自己表現として振るっていた筆は数年前にこの手で折ってしまって、色のついたキャンバスは邪魔にならないよう積み重ねられていた。そろそろ燃やすことも考えていた頃だ。
「その人が強く願う一つのことに深く囚われるようになり、人生が豊かになる。とんだ暴論じゃない」
愛を願ったのに、王冠を愛することが出来ないのは戴冠の欠陥だろうか。人の作ったものに感銘を受けるのに、筆を折ることにしたのはなぜか。真昼の月という性質は全てを破壊するのだろうか。
「王冠は茨。枷であり、蓋であり、帽子であり、抑圧」
記憶。感情。思考。支配。もし真昼の月が王冠に打ち勝てるだけの負を抱くのなら、こんなものは早く壊してしまった方がいい。そうすればもっと自然な形で彼の隣にいることが出来るだろう。ツクヨミの表情が変わらずとも、言葉に温度を感じられずとも、求めなければ気になることもない。戴冠式で触れた肌の温もりは、きっと今も変わってはいない。
真昼の月は短命種で、真夜中の太陽は長命種だ。初めからある寿命差なのだから、具体的な差など大差ないだろう。全部を壊して生きていきたいと思えば、突然死について考え始める。性質性が楽観を許さず、すぐさま卑屈な悲観へ変わっていく脈略無いこの様は一体なんだろうか。散乱した脳内の、あまりの滑稽さに思わず失笑する。
「……ツク」
もし死ぬのなら。せめて彼には一言告げておこう。今の彼は、私のように悲観などしないだろうから。
翌日。晴れた夜空には星が点在して、ちらちらと瞬きながらそこに居座っている。二人は家を出て夜の森を散策していた。
「死のうと思う?」
視線がかち合う。思わず逸らしてしまいそうになる真っ直ぐな瞳は、全てを射抜こうとせんばかりだ。それはツクヨミという人間が一切を振り切った証拠なのだろう。ただ深く見通す意味合いだけが図体に残されているようだった。
「……どう思うのか、聞きたかったから」
「私にお前の求める答えは出せない」
ふぅと息を吐く彼女は緊張しているらしかった。久しぶりに二人で長い時間を過ごそうとしているからか、逃げられない状況下でなんとか苦痛から逃れようとしているのか。
心を読み、事実を受け取る。口はつぐんで、決して言葉にはしない。今あの子はなんとか誤魔化そうと、必死に心を隠している。
「寂しいとか。なんか。そういうの、ないの」
「ない」
「……ごめん」
自負と言うのは所詮独り善がりの自信だった。それでも自分がこんなに会話をするのが下手だったとは思いもしていなかったのだ。以前はもっと上手く喋れていたのかもしれないが、どんな表情仕草で人と接していたのか思い出せないほど記憶が曖昧になっていた。
ツクヨミは歩幅を合わせてくれている。まるで優しさが健在しているようだ。そういえば、幼い頃の彼は低身長で私の方がお姉さんぶっていたものだ。今では見上げるほどの身長差になってしまって、もうすっかり、知らない人みたいだった。
水辺まで来れば木々も拓けて、天から光が差し込む。二人の色素の薄い髪は水面よりも美しく輝いて、その光景を特別にしてみせた。
「お前の選択なら咎めはしない」
「嘘」
「事実だ」
どうして彼の声色は一つも変化をみせないのに、私ばかりが弱っていくのだろう。
足を止めたツクヨミはじっと目を見つめている。ここで初めて、ツクヨミを信じられなくなっていたことに気が付いた。これでは妃として失格だ。いや、人として。誰かを愛する一人の人間として、他人を信じられないことは他者への冒涜だ。
「それで、自死を望むのか」
「……」
「私は今もお前を妃だと思っている」
これはツクヨミの誠意だ。感情を失ってもなお、客観的に推測した物事に適切なものを回答とする。戴冠により変わった在り方の中で折り合いをつけた、ツクヨミの生き方。
息が苦しい。喉につかえるやり場のない感情はなんと表現すればいいだろう。死ぬまで妃である、それを認めてくれたのは紛れもない彼なのだ。
あの子はもうずっと泣きそうな顔をしていた。心中の告白から溢れる慟哭を理性で押さえつけようとでもしているのだろうか。いっそ吐き出してしまえば、もう少し楽に生きることが出来たのかもしれない。震える口を開き彼女が絞り出したのは、馴染み深い、祈りの言葉だった。
「sinulle、siunaus」
「君に、祝福を」
その日、彼女は一人で泣いた。
本当は殺してほしかったのだ。他でもない最愛の王、ツクヨミに。だけれどそれが叶わないことを理解している。
支配者。王。それは絶対的な存在。その器へ変化していった彼は、もう妃に対しての熱意すらも事実上のものでしかなくなっている。今となっては、彼が身勝手な一存で何かへ肩入れしようとすることすら許されない。民が許さないのではない。真夜中の太陽が許さないのだ。
末恐ろしいものを身にまとってしまったという自覚が芽生えたのは、もう全てが手遅れになった後だった。
もし。もしツクヨミがただの民衆の一人であったなら。あの太陽ではなく、周りに散りばめられる星の一つであったなら。きっと彼は、私を殺してくれる。
「……祝福。私達の、祝福」
儀式も解放も救済も、やはり全ては夜に還るのだろう。ふらふらと森を彷徨う彼女の姿は、あまりにも美しい亡霊のようだった。
白色は神聖な空虚の色。その身に宿した妃もまた、神聖な空虚である。ならば隣を歩くツクヨミは果たして何に相当するだろうか。
「死に場所を探しているのか」
「ツクは馬鹿だよ。無関心なら、知らないふりして首の一つでも絞めてくれればよかったのに」
虹彩が僅かに照らされて、少しばかりの明るさが取り戻される。絶望の瞬間に光を見出した時のそれとよく似ていた。今彼女がツクヨミを通して見ているのは、今のツクヨミではなく、戴冠以前の記憶だろうか。
それは他愛もない、ぼくらの姿だ。
「そうだな」
あの子の頬はもうすっかり夜風で冷え切ってしまっていた。ツクヨミはそっと手を伸ばしその頬に触れる。そして少しずつ肌をなぞり、細い生命線へ手をかけた。
「例えそれが、お前の最後の望みだとしても」
王の最愛と、その妃に対する感謝だとしても。
男の手に少しだけ力がこもるが、あの子へは少しばかりの息苦しさが与えられるだけだ。それでもずっと続けば呼吸が苦しくなって生理的な涙が零れる。ぼやける視野の中、彼女は考えていた。
私達は一体、何をしているのだろう。
「私にはお前を殺せない」
細くも力強い指が首に食い込んで、すぐに手放された。たった一瞬。それでもツクヨミは本気で彼女の首を絞めたのだ。
「ツ、ク」
溢れた涙は自分で拭う。それを彼に求めることは出来ない。
人は変わっていく。そのピークは戴冠だ。戴冠が終わり思考が凝り固まってしまえば、後はどうということはない。ただの日常へと戻るか、今より世界が輝いて見えるか。或いは嘆き悲しむか。もっとも王冠は豊かな人生を送れるようになるものだから、嘆き悲しむ人など滅多に存在しないだろう。
妃は王の手を取った。彼の表情は変わらないが、確かな脈動で彼が生きていることを知る。大きくなってしまった手から感じる久しぶりの温もりは、昔と何一つ変わってなどいなかった。
「ねえ。一人で死ぬよ。でも覚えててほしい」
悲しむ人が多ければ、あんな馬鹿げた歴史の一節は刻まれない。それでも確かに、王冠によって苦しんだ人もいるのだ。苦しんで、その果てで僅かな幸せを感じられる人もいる。私はそうだった。きっと私以外にも同じ道を通る人がいる。恐らくそのほとんどは真昼の月だろう。
「やっぱり隣にいたいんだよ、ツク」
王冠の聖約、その具体的な線引きは分からない。これに関してはツクヨミも分かってはいないだろう。だが戴冠前の記憶が生きているのだから、記憶そのものに枷は与えられないはずだ。そも、彼の事実は現実と記憶から作り出されている。昔はこれが好きだった、求めていた。そんな具合に。
「真昼の月は短命種だから。仕方ないって思ってね」
この地に足をつけ生きていくのは、あまりにも難しく耐え難い。だが人も草木も風音も、どれもが愛しい世界だ。私は死してなお、美しい日常と生まれ逝く命をまだ愛していたい。
そういえば、これは彼から引き継いだ感情だった。人に優しすぎる王様が正しく森を支配する為に捨てたもの。あの時の私には確かに覚悟があった。だけれどそれ以上に、彼の美徳を傷物にしたくなかったのだ。大好きな彼の、人としての美徳。過去をあんなに繰り返し再生していたのに、どうして大切なことを忘れてしまったのだろう。
「好きだった。ずっと好きだから、またね」
「さよなら。長い時の後で、また逢おう」
あの子の白髪は美しい。ツクヨミは去りゆく妃の背中をじっと見つめている。
その姿が木々の向こうへ消え去ってもまだ、彼は動かずにいた。
ぼくらのさよなら
葬式は大袈裟でなくともいい。それはあの子が望んだことだ。
参列者は多いとは言い切れない。それは親愛を隠して泣く者が多い証拠だ。
本人がいなくなってようやく流される嗚咽と感謝の言葉をツクヨミはただ静かに聞いていた。どれもきっとあの子には届いていないだろう。人は変化するが、死はいつだって不変である。人は死んでしまえば、消えてしまえば、もう何一つ届くことはない。記憶の中でどれだけ大切に愛でられようと、届かなければただの戯言だ。
あまりにも勿体ないものだとツクヨミは一瞬だけ考えた。その一瞬に妙案が浮かんだものだから、思わず蓋の閉じられた棺を見る。事実より感情論を大事にしているなら早々に切れていた縁だろうから、きっと彼女は素直に受け取ってくれるだろう。そしてこう言うのだ。
「どうして私に直接言ってくれなかったの?」
ツクヨミは聖堂に響く人の声と姿を記憶に焼き付けようとしていた。真夜中の太陽という長命種が死んだ果てで再会した時、全てを思い出せるように真意すらも事実としたかったのだ。
真夜中の太陽が日向であるなら、真昼の月は日陰である。例え生涯その日陰で暮らすことになろうとも、誰からも忘れられる影の一つであろうとも、彼女は確かに愛されていた。
やはり全部が勿体ないのだ。だからこそ今、言葉にする必要がある。
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