今夜だけは完敗
レギュラー出演させて貰っている番組の収録を終え、挨拶をして帰ろうとしたところをプロデューサーに呼び止められた。何かやらかしただろうか、と今日の自分の動きを頭の中で振り返ってみたが思い当たらない。俺はいつでも仕事は完璧にこなすし、なんてどこかの誰かみたいなことを思いながら呼ばれた方へ向かうと、そこには蝋燭の刺さったホールケーキが鎮座していた。白いプレートに書かれている文字を促されて読み上げる。『天城くんお誕生日おめでとう』……
「俺っちすか⁉」
「天城くん自分の誕生日忘れてたの? 明日だよね、おめでとう」
それはもう、すこんと忘れていた。というかこれまで誕生日を祝う文化に触れてこなかった。故郷で祝い事と言えば季節毎の祭事だし、こちらに来てからも気にしたことがなかったというか、なんと言うか関心がない。去年だってクビ騒動でそれどころじゃなかったし。
だからこういう時どんな反応をするのが正しいのかわからない、だなんて弟のような感想を抱いてしまったのだけれど、今自分を取り囲む感情が紛れもなくあたたかいものだということはわかる。それは少し擽ったくて、どこか居心地が悪いようなむず痒さを伴ってこちらへと伝わってくる。嬉しくて照れ臭くて、「アザッス」と一言返すのが精一杯だった。
「ただいまァ〜っと」
合鍵を使って入った玄関先でいつものように呼び掛けてみたけれど、出迎えたのは静寂のみだった。同居人は泊まりがけの地方ロケだとかでここ三日家を空けている。ニキのアパートに厄介になっても良かったが、この一年弱で染み付いた習慣から、なんとなく家主のいないこのマンションに来てしまっていた。確か明日まで帰らないと言っていたはずだ。
誕生日。誕生日か。
別に全然気にしないのだけれど、十八日を迎える瞬間はひとりなんだな、とほんの少しの寂しさを覚えてしまった。さっきまで忘れていた癖に何を、と自分で自分に呆れるが、思い出してしまったのだから仕方がない。何より彼と恋仲になって初めて迎える誕生日なのだ、特別な日を好きな奴と一緒に過ごしたいという甘酸っぱい望みを抱くことは、決しておかしなことではないと思いたい。まあでも、俺が忘れていたくらいだし、あいつも売れっ子で忙しいし。仮に忘れられていたとしても全然まったく、これっぽっちも、毛ほども気にしないのだけれど。
「……。抜くかァ」
現場でもらった色鮮やかな花束をテーブルにそっと置くと、自分は一台しかないノートパソコンを立ち上げてソファに沈んだ。検索窓によく利用するアダルト動画サイトのタイトルを打ち込んでアクセスする。これまでも彼が不在の間にこっそり抜くことはあったものの、あの潔癖な恋人にバレたらお叱りを受けるような気がして、ブックマークはしないようにしている(俺っちってばデリカシーのあるいい男)。
「俺っちもオトコノコなンでねェ〜、このくらいは許してくれよなァ〜?」
誰も聞いちゃいないのに、なんとなく言い訳を並べながらスクロールする。女子○生、熟女、人妻、素人、妹……なんだろう、どれにも股間が反応しない。抜こうと決めているのに手頃なオカズが見つからない時の焦燥感はとにかく嫌いだ。すぐにでも始めたいが何でもいいわけではないし選り好みはさせてほしい、我儘だろうか。苛立ちを抑えながら何気なく目に止まった動画を再生してみる。初めて見る女優だった。
淡い色の髪をワンレングスのショートボブに切り揃えた垂れ目気味でスレンダーなその女性は、清純そうな雰囲気も相まってどことなく彼に似ていて。半ば無意識にチョイスしたものだが、否応なしに今はいない恋人に焦がれていることを自覚してしまってかなり気恥ずかしい。気恥ずかしいが、ナニが勃ってしまったのだから仕方がない、今日はもうこれで抜いてやる。ボトムスの前を寛げてそこに手を添えると、しっかり握って上下に扱き始めた。
「ッ、ん……」
吐き出される息が熱い。さっきまで興奮しねェとか言ってたのに、意識した途端にこれだ。指先で根本から裏筋を辿ってカリのくびれ部分を擽ってやると、すぐに透明な先走りが溢れてくる。PC画面の中では女優が衣服を半端に乱した状態で男優のナニを握って何か言っている。多分「すごぉい……♡」とか「おっきい……♡」とかだろうが、ウブで可愛い俺のハニーにはまだ一度もそんなことを言われたことはない。別に悔しくない、今度言わせるし。
男というのは悲しい生き物で、無心で手を上下させていると射精してしまえる。全ての感情を捨て置いて頭を真っ白にすることが出来る。それはある種情けない現実逃避のようで、しかし今も確実にその瞬間は近付いてきていた。
「あ゙~、っ、出そ」
少しだけ冷静な部分を残した脳味噌をなんとか働かせ、ボックスティッシュを引き寄せようと身を起こして手を伸ばした、その時だった。
「ただいま……。燐音?」
「ヒェッ⁉」
玄関のドアが開いて閉まる音と、荷物を下ろす音、思わず似たAV女優を探してしまうほど焦がれた彼の声が耳に飛び込んできた。ソファから三十センチは飛び上がったと思う。ナニを握ったまま。こうして三日振りの邂逅は予想だにしない形で果たされてしまったわけだが。
「……」
「お、おかえりィ……あれ? 意外と早かったじゃねーの……メルメル?」
強張る表情筋を無理矢理動かして歪な笑顔を作り、空いている左手をひらひらと振った。廊下から顔を覗かせたHiMERUは一瞬だけ顔を顰めたかと思うと、つかつかとこちらへ歩み寄ってきた。ヤッベエ怒られる。
「メルメルそのォ、勘違いしないでほしいンだけど、これはァ~……あン?」
冷や汗をかく俺を余所に彼は目の前まで来るとすっと屈んだ。ソファに座って開いた脚の間、フローリングにぺたんと座るような格好だ。そうして何をするかと思えば、彼は勃ち上がったままの性器に両手を添えてその小さな唇へと運んだ。驚きのあまり呆然と一連の動作を見ていたが、先端がぬめる粘膜に包まれると腰がぴくりと跳ねた。
「ッ、まて……ってメルメル、どしたァ? は、っ、積極的じゃん」
「んむ……ふるふぁいれすよ」
HiMERUが帰ってくる直前にイキかけていたのを図らずも寸止めされる形になっていたから、与えられる刺激に従順に高められてしまう。それでなくてもこんなの、目に毒だ。自分の股座に綺麗な顔をした男が座って、度々零れてくる髪を指で掬って耳に掛けながら、懸命に逸物を咥えて奉仕してくれている。上手いとか上手くないとかはこの際関係なくて、苦しげに眉根を寄せる表情が色っぽいとか、細くてしなやかな指が竿を這う様が蠱惑的だとか、時々漏れるくぐもった声がエロいだとか、全部が全部欲しかったもので素直に嬉しくなってしまう。軽く腰を揺すって張り出したところで上顎を擦ってやると涙目で喘ぐものだから、それも愛おしくて堪らない。
「メルメルゥ、俺っちの舐めて、感じてンのかよ? 随分、ヨさそうじゃん……?」
「ン、ぷぁ、感じてな……、っふ」
「だァれが止めて良いって言ったァ? 手がお留守だぜ、ちゃんと握って……、そ、イイ感じ」
脚の間で小さな頭が健気に動く。王様にでもなった気分だ。戯れに彼の柔らかな髪を弄んでやると、しっとりと汗をかいていることに気が付いた。HiMERUは耳に触れられるのにも弱いから、耳の裏を辿って耳殻を擽ればふるりと喉の奥が震えた。見れば内腿を擦り合わせるような仕草をしている。もっと、と強請られているようで、とびきり甘やかしてやりたくなる。可愛い。俺ももっともっと、もうたくさんってくらい愛してやりたい。そんなあたたかな感情で満たされたら、次は急激に精液がせり上がる感覚を覚える。
「ん、イきそ……、メルメル、はなして」
軽く肩を押したつもりだったのだがHiMERUは何故か離れてくれなかった。それどころか今にも破裂しそうな性器をより深く咥え込んでしまう。待て、こんなん無理。
「うぁ、ちょッ、駄目……イくから……ッ」
「んう、」
「んッ、~~~っっ!」
駄目だ駄目だと頭の中で唱えていたのに、必死の抵抗虚しく真っ白な光がスパークする。少しの間全身の筋肉が強張って、ありったけを目の前の小さな口に注ぎ込んで、身体の力がどっと抜ける。腑抜けみたいにソファに背中を預けて放心した後、さあっと血の気が引いた。ウソ、やっちまった。
慌ててティッシュを引っ掴んでHiMERUを見ると、晒された白い喉の出っ張りがこくりと上下して、嚥下したことがわかる。唇の端から漏れ出て顎までのラインを伝う白濁をうつくしい所作で拭ったかと思うとその指先を口に含み、赤い舌をちろりと出して舐め取る。その仕草があまりにも扇情的で、もう彼の背後で流れ続けているAVなんて少しも目に入らなかった。
「ふふ……いっぱい、出ましたね?」
「おっ……まえなあ……」
変わらずフローリングに座ったままこちらの太腿に置いた両手に頬を乗せ見上げてきつつ、どこか楽しげに笑う彼にすっかり毒気を抜かれてしまう。色々と尋ねたいことがあったような気もするが全てどうでもよくなってしまった。もぞもぞとナニを仕舞い、背もたれに頭を預けて暫しぼんやりと天井を眺めていると、HiMERUが「あっ」と小さく声を上げた。
「お誕生日おめでとうございます、燐音」
「へ?」
「ほら、日付、変わりましたよ」
差し出されたスマートフォンの画面には確かに五月十八日の文字が表示されている。隣に腰掛けた彼は相変わらず上機嫌に笑って、それから肩に頭を預けてきた。
「よかった。今日、一番最初に、祝いたかったのですよ」
つまり、この可愛い恋人は俺の誕生日を祝うために、本来は明日までかかるはずのロケを急ピッチで終わらせて、恐らく走って汗をかいてまで十七日のうちにここへ帰ってきてくれたと言うのか。一緒に十八日の0時を迎えるために。 HiMERUはテーブルの上に置かれたままの花束に目を留めると、その双眸を柔らかく緩めた。
「現場でも、祝って貰ったのですね」
「ん、あァ、昨日な」
「それは幸いです。ねえ燐音、どうですか。愛されることには、慣れましたか?」
そう静かに問い掛けるHiMERUの表情は見えないが、その声音からは先程までのような揶揄いの色は感じられなかった。
「……慣れてほしーの?」
「――どうでしょう」
「慣れねェな。多分一生慣れねェっしょ」
本心だった。慣れないし、慣れていいものだとも思っていない。
「でも昨日、嬉しかったんでしょう?」
「ンン、いや、そうだけど。そうだな……嬉しくて、照れ臭くてさ、俺もこれと同じかそれ以上のモンを返してえなと思ったよ」
ひとつひとつ言葉を選びながらそう伝えると、HiMERUは驚いたように目を瞠った後、満足そうに破顔した。
「ふふふ、あなたから、そのような言葉を聞けるとは。人とは変わるものなのですね、面白い」
「なんでてめェがンな浮かれてンだよ……」
「――わかりませんか?」
くい、と顎を掬われ、顔の向きを変えられる。熱っぽく潤んだ蜂蜜色の瞳と視線が絡む。彼の唇の動きがどこかスローモーションのように感じられた。
「あなたを愛しているからです」
空気の読めないスマートフォンが断続的にメッセージの通知音を奏でる。それにすらHiMERUは嬉しそうに目元を綻ばせた。
「ほらね、あなたを愛したいと思っている人が、こんなにたくさんいるんです。わかりますか? ひとりでどこかへ消えてしまおうだなんて二度と思えないでしょう? アイドル、続けてきて良かったですね」
「……はは、だからなんでおまえが偉そうなんだよ……」
「俺の恋人は最高でしょう、と」
そんなてらいのない言葉を年相応の無邪気さで聞かされてしまえば、もうどうにかなりそうだった。蓋の出来ない感情が次から次へと溢れてきて溺れてしまいそう。目頭が熱くてどうしようもない。誰かを愛おしいと思う気持ちで泣ける日が来るとは思わなかった。
わかってるさ。貰いっぱなしは性に合わないんだ。注がれた愛のぶんかそれ以上に輝いてこそのアイドル屋さんだ、そのお手本はずっと目の前にいてくれている。愛は呪いみたいに俺を縛り付けるけれど、その重みだってちゃんと背負って前へ進んで見せる。今ならそう言える。
「……すっげえ嬉しい……」
「――ん、いい顔するじゃないですか」
「わかったよ俺の負けだ負け、何とでも言えよ」
「可愛いところもあるじゃないですか、燐音?」
「クッソ、んっとにおまえは……」
――ああ、格好つかないな。
嫌われるのが怖くて遠ざけた。わざと嫌ってくれるよう仕向けた。相手のことなど少しも見ていない癖に、愛しているからと言い訳をして傷付けた。今だって、好きな奴の前で格好つけたいのに欠片も取り繕えなくて、自分が嫌になる。それでもいい、その方がいいと、言ってくれる物好きな奴がいる。
心の底から敵わないと思う。貰ってしまったものを、一生かかっても返しきれる気がしないけれど。
「俺も、愛してるよ」
「――知ってます。俺に似た女優が出てるAVなんか観ちゃって、可愛いですね」
「今その話は良いだろ……」
可愛い可愛い歳下の恋人の減らず口をキスで塞いで、繋いだ手の指を絡めて、どこにも隙間なんてないくらい身体を寄せて。彼の好きな低くて甘い声をたっぷり耳元に注いでやった。
「おまえがあんまり可愛いこと言うから、今夜は朝まで離してやれそうにねえ……愛してもらった返礼に、ぐちゃぐちゃになるまで愛してやるよ」
無論今夜どころか、地獄の果てまでだって離してやるつもりはない。細い肩が期待にふるりと震えたのを、俺は見逃さなかった。
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