観天望気

 言葉が己を形成する。いつの日か、作詞の授業で学んだことだ。
 ある学生が講師に訊ねた。言葉はただの音に過ぎない、然しそれ故に言葉は音楽の一つなのではないか、と。講師は黒板から目を逸らさず「君の言うよう言葉は音楽──芸術の一端を担っているだろう、だが音ではない」と返した。
「風の音と言葉は違うだろう。言葉には伝えたいことがあり、意味がある」
 学生は言う。
「けれど、風の音に心を動かされ、何かが生まれることだってある。これは風の音に意味があることなのではないか」と。
 講師はようやく学生を見た。そして、微笑みかぶりを振った。
「残念だが、風の音自体に意味はない。意味を持たせているのは、受け手──乃ち人だ。」
 講師は言い終えると、「まだ板書を写し終えていない人は今のうちに書いておきなさい。最終課題に取り組むヒントになるかもしれませんからね」と穏やかに言った。慌てた数人はノートを開き、その他は本来の授業内容から逸れてしまっているこの時間が早く過ぎてゆくことを待っている。
 ただ、質問をした学生だけは自身の頭に浮かんだ考えを言葉で捕らえようとしていた。
「しかし……。それなら、言葉はどうなのでしょう」
 この時、講師は微笑むことを止めた。指導者としての膜が破れ、眼光が鋭くなった。老者の変化に構うことなく、若者は続ける。
「言葉は……。言葉そのものは意味を持っているのでしょうか。まるでこれじゃあ、言葉は風の音と同じで意味を持たないみたいだ。けれど、言葉はたしかに人に伝わる、堂々巡りでしかない。先生、俺は何を言って……」
「構わないさ。君の言うよう、言葉そのものは意味を持っているのか。それはね────」
 その時、授業終了のベルが鳴った。途端、老者は講師へと戻り、「つい、話が長引いてしまいましたね」と話の流れを切った。ほとんどは片付け始め、席を立つ者もいたが、僕は何となく立ち上がらなかった。心のどこかであのクラスメイトの問いの答えを求めていたのかもしれないし、講師が会話を再開することを望んでいたのかもしれない。
 予想通り、老者は言葉をつづけた。教室に人はわずかに残っていたが、どの程度の学生がそれを聞いていたのかは分からない。
「彼の問いはすぐに答えを出すべきではないと私は思います。だから、これは私からも問い返しましょう」
 彼はそのとき初めて僕を見て、言った。
「もし、言葉それ自身が意味を持たないのだとしたら、なぜ人は歌うのか?」
 君は考えたいだろう。そう言われた気がした。なぜ歌に言葉を載せるのか、それは僕の紡ぐ言葉と風の音はどう違うのか。どうすれば「心を惹く言葉」になるか。明確に言葉として発せられはしなかったが、この講師は問うていた。
 暫くして講師はどこかへ行き、教室には僕とあの学生しか残っていなかった。話したこともない男だったが、どうしても彼が今考えていることを知りたかった。彼は同じように問うた。

 僕は確かに答えていた。けれど、彼に何と答えたかをどうしても思い出せない。

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