好物



アクシデントもなく連荘の帝王切開を終わらせ、さあ帰るか、という段になったところで、診察室の扉から見慣れた顔が現れた。診療時間が終われば私服に着替える者が多い中、和久井譲介は白衣を脱いだだけの様子でそこに立っていた。
「早いじゃねえか、和久井センセイ。」
午後から休診です、とは言っているのを聞いてはいたが、休診と言えども医者がその時間遊んでいるわけではない。ことに新米はこき使われるもので、カンファレンスの準備や手術前の患者のカルテの見直し、最新術式の確認だのなんだので、帰宅は午前様になる。譲介が、こうしたまだ明るい時間に家に戻ることが出来る日は稀だ。まあ、今となってはオレも似たようなものだが、それでも毎日帝王切開が必要な妊婦がいるわけでもない。
今日が早々に店じまいとなったことを知っているのだろう譲介は、診察お願いします、などと軽口を叩き、帰り支度を済ませた様子ですたすたと中に入って来る。
今朝見たジャケットに白シャツ。ネクタイはどこかへと消えているが、きっと手提げ鞄の中に仕舞ってあるのだろう。
「おめぇのその様子じゃ、診察より睡眠が必要なように見えるがな。」
「ここで寝ちゃったら、もう明日まで起きられない気がするから止めときます。」
時間を合わせて一緒に家に帰れる日は、譲介と一緒に途中でゲルソンズに寄って出来合いの総菜の買い出しをして、夜はさっさと寝ると決めている。
そのせいか、譲介は晴れ晴れとした顔をしてこちらを見つめていた。一瞬、看護師はナースステーションか、などと頭の隅で考えてしまう自分の頭をその思考回路ごと叩き割りたくなったので、ラップトップの画面を眺めてやり過ごそうとするが、譲介に見られていると思うとどうも巧く行かない。そもそも、もう少し電子カルテの整理でもしていくか、と思ってはいたが、さっさと片付けて上がった方が良さそうだ。
そんなことを考えていると、患者用の寝台に腰を掛けた譲介が、「あの、徹郎さん、今晩いいですか?」と妙に遠慮がちに言った。
「ああ?」
まだ真ッ昼間だって言うのに、何言ってやがる。
仕事場で妙な気を起こすんじゃねえ、という目で睨みつけ、のぼせあがったガキに一発活を入れてやるか、と傍らにある杖を握りしめると「夕食は、いつもより時間あるので今夜は久しぶりに僕が作ろうかと。」と相好を崩したままの譲介がこちらを向いて微笑んでいた。
「ええと、米を炊くところからになるから、給水の時間も併せてちょっとお待たせすると思いますけど。」とそこまで言いかけて、やっとこちらの様子がおかしいことに気付いたのか、あれ、という顔をしている。
「今からスーパーに寄って買い物しても五時には食べられると思いますけど、駄目ですか?」と言いながら、ちらりと壁掛けの時計で時刻を見ている。どうやら、自分の妙な物言いに自覚はないようだ。
「………。」
十数年前に一度引き取った時から、それなりの勤勉が身についたヤツだった。
大学を出ただけあって論文を素読する速度も上がり、医学の専門用語もポンポン口から飛び出すようになったと感心していたが、まあ現実はこんなもんだ。日本語の単語がすっぽり頭から抜け落ちたとしても、本人に自覚がねぇことには何を言っても無駄だろう。
はあ、とでかいため息を吐くと、それを了承のしるしと受け取ったようで、決まりですね、と譲介は言った。
「いつもの総菜の店で、ポークカツと卵も一緒に買いましょう。カツと目玉焼きを乗せて、ええと、足りなくなって来た蜂蜜と冷凍のナンを買い足して。」と言いながら、スマートフォンを取り出して買い物のメモを取っている。
いつものノートと、生活用のメモを分けて書くようになったのは進歩のひとつではあった。
「昨日、台所で箸のスペア探してたら、全部使っちゃったと思ってたルーが奥から出て来たので。」などと言って、スマートフォンの画面から顔を上げた譲介は、呑気な顔をこちらに向けた。
「譲介ェ、おめぇなぁ。」
引き取ったばかりの頃の十五のガキは、その日食べた夕食やら、オレの飲んでいた豆の種類やら、ノートのあちこちに、やたらときっちりした字で、日記じみたメモを残していた。そうすることで、自分の中にある空白を埋めようとするような子どもだったのだ。
それがどうだ、三十を過ぎてのこのアホ面。
公私を分けましょう、と始終うるさい朝倉のガキの横にいちゃ、まあこうなるのも道理かという気もするが。
「……まあいい、支度をするから、カルテでも読んで待ってろ。」と鍵を閉める前に取り出していたカルテを渡す。
ロートルと言われようが、情報の共有のためという名目でほとんどが電子カルテに変わっていく中で、今でも旧式のカルテを併用するのは、こうして取り出し易いからだ。
「いいんですか?」
「どうせついでだ。省吾のヤツにも、オレが老眼で誤診しねぇか見張っとけ、くらいは言われてんだろうが。」と言うと、あれは先生の冗談ですよ、と言って譲介は慌てている。
あれは先週のことだ。食堂のランチで出くわしたあの時の省吾の発言を冗談たらしめているのは、あの確信がありげな微笑みと政治的権力を持つ両手のおかげだ。朗らかな二代目の顔は、鋭い頭脳を持つあの男のペルソナの裏面であり、ロートルの『ドクター真田』に与えられたこの小部屋は、実際には和久井譲介という男に与えられた賄賂でもある。
そのことは、今の譲介には分かるまい。
まあいい。
パソコンの電源を落として、今日の業務は仕舞いだ。
少し目を離した隙にカルテに見入っていた譲介は、気になる箇所があったのか、ぶつぶつと何事かを呟いている。
「……帰るんじゃねぇのか?」
「あ、はい!」
「後で車の中で所見を聞かせろ、」と言って譲介が手にしたカルテを受け取り、鍵の掛かるキャビネットに仕舞う。杖を付くのに邪魔くさいので、普段はほとんど身一つで帰る。何か気になることがあったとしても、セキュリティ対策を施したインターネット回線が病院から繋がっているので、家のパソコンを立ち上げれば十分だ。さぁ行くぞ、と言うと、譲介が隣にくっついてきた。
「今日の患者さんに聞いたんですが、たまには別のスーパーに行ってみませんか?」品揃えが全然違うらしいですよ、と譲介がどこぞの主婦のようなことを言うので、所帯くせぇことを抜かすな、と一蹴する。
「いいんだよ、いつものとこで。肉屋や野菜のフロアも分かってるし、時間も食わねえだろ。さっさと作って、さっさと食って、さっさと寝るぞ。」というと、譲介は、デートはまた別の日にしましょう、などと浮かれたことを言っている。
診療室を出て鍵を掛けながら「それにしても、おめぇはまだカレーに執着してンのか。」と尋ねる。
「今はそうでもないですけど、特別な日には食べたくなるんです。好きな人と一緒に。」
妙なところで不意打ちを食らって、年下の男の顔をまじまじと眺めていると「子どもの頃の好物ってそういうものでしょう。」と譲介は訳知り顔に言った。
「早く帰れる日はいつでも特別か。」
「あなたといられる日は、いつもそうです。」
さァ、帰りましょう、と言われて、前を向く。
クエイドの廊下は白く明るく、ふたりの目の前に広がっている。
ふと、いつまでもこの廊下を歩いていたいような、そんな気がした。


powered by 小説執筆ツール「notes」

742 回読まれています