そうして世界は救われた - デプ+ウル+ローラ
「Good morning, sunshine」
ガチャリと無遠慮にドアが開いたあと、安い合板の壁材を叩く音と軽薄な声にローガンは瞼を持ち上げた。嗅ぎなれたにおいに聞きなれた足音。意識の奥で薄く認識していた隣人の来訪に、起きていることを伝えるためにただ「ああ」とだけ、喉の奥でくぐもらせる。
「おじいちゃんもう昼よ、いつまで寝てんの」
「………寝てない」
「ラジオかけっぱで新聞床に落っことしてよく言う。カーテン開けてるだけ昨日より進歩か?」
「ローラが開けていった」
勝手知ったる風情で部屋に踏み入ったウェイド──目につく赤い全身スーツではなく、くたびれたスウェットパンツにふざけたキャラクターの顔がちりばめられたTシャツを着ている。昨日も同じ格好をしていた──は、大仰に肩を落とし、大仰に溜息をついた。
「知ってるよおバカさん。ロッキングチェア買ってやろうか? ついでに毛糸と編み針も用意してあげる。暖炉と薪は自分で用意しろよ。薪割り得意? それにしてもよくもまあ一日だけでここまでとっ散らかせるよな」
一挙手一投足をやかましく主張しながら、ウェイドはローラが食べ終えてそのままにしていたボウルやスプーン、2日で1ガロンが消費される空の牛乳のボトルを手際よく片づけていく。もしただの隣人であるならば極まりきったお節介野郎だが、ローガンにとってのウェイドを『隣人』で括るにはあまりにもバックストーリーが大きすぎる。
「ウェイド」と「ローガン」以外に呼び合う名前があって、それぞれトレードマークになるスーツとマスクがあって、不死身の体で戦いに身を投じ、共に救った世界がある。すべてが終わったあと招かれたそこはローガンになじみのない様相をしていたが、数か月を経て、すでにそれらもローガンの居場所となりつつあった。お互いの居場所が隣にあるから隣人と呼んで相違はないが、例えば今ローガンがウェイドを誰かに紹介するとして、彼の位置を正しく簡潔に表せる言葉はまだ見つかっていない。
「ハァ~ア、これ以上ハウスキーパーさせられんなら金取るからな」
「頼んでない」
「憎まれ口のつもりか? 言っとくけど、お前のためじゃない。ツンデレのテンプレでもない。ローラのためだ」
ゴミをまとめ終えたらしいウェイドはやはりとめどなく取り留めもなくしゃべりながら、ソファ脇のローテーブルに置かれたマグカップをひょいと取り上げた。中を覗き込み、ひょいと片眉を持ち上げて「……何コレ」と訝しげにローガンに伺う。
「コーヒーだ」
「フゥーン、酒浸りクズリちゃんもコーヒーの淹れ方は知ってたのか」
そう言って一口、マグカップを煽ったウェイドはすぐさま茶色いしぶきを噴き出し、ローガンは広げた新聞で隣から湧いた噴水を避けた。げほげほとキッチンシンクに駆け込みせき込むウェイドにバレないよう、新聞の影でローガンの口の端がわずかに上がる。
「ッんだこれ!!」
「コーヒーだ。ウィスキーで割った、な」
「これはウィスキーだ。ほぼ原液に近い、コーヒー二、三滴で割ったウィスキー。中毒者め、油断も隙もない…………朝メシは食ったんだよな?」
聞いて、返事の代わりにマグカップを指さすローガンに、ウェイドは無言でマグカップを傾けシンクに中身を流した。台拭き代わりに使われている「OH MY SEXY」Tシャツを床に叩きつけ、雑に足先で床を拭う。ちなみに、ローガンの引っ越し祝いでウェイドがプレゼントしたシャツだったが、当日のうちに端切れになり台拭きとなり、今雑巾となった。
「禁酒しろよ、アルコホリックダディ」
「してるだろ」
「禁酒の意味を確認する? お前の『禁酒』は『ローラがいる間アルコールに口つけてない』ってとこか? 血中アルコール濃度は24時間パンパンだろ。ちなみに俺ちゃんの意味する『禁酒』は『このキッチンの棚の中に詰まってる瓶全部捨てろ』って意味だよ!」
「あーあー、うるせえ」
「コラッ! 肝臓加虐癖はさておいても、朝飯は食うべきだ。作っとくからシャワー浴びてこいって。それともローラに口汚く罵られて傷つきたい?」
慣れた様子でキッチンの戸棚からフライパンを出し、冷蔵庫からバターを出す。ローガンすら未だ物の位置が不正確なこの生活空間で、ウェイドはとっくに把握して自由に振る舞えている。
「…………………」
しばし反論を検討したローガンだったが、結局大人しく立ち上がることにした。髭も煩わしく感じる長さになっていたし、何よりウェイドがキッチンに収まってしまった以上、そこから引きずり出して外に投げ捨てない限り、さらに文句をつけても子どもの駄々と同じになる気がしたからだ。気怠い全身を持ち上げてバスルームに足を引きずって向かう。背後で聞こえた「アラいい子ね。ようやく更年期が終わったのかしら」というふざけたセリフには中指を立てて。
夜に寝て、朝に起き、飯を食べる。
ローガンは冷たく勢いもろくにでないシャワーを頭からかぶりながら、思考がここに来てからの数か月を巡るのに身を委ねた。日中は時折アルに買い物を頼まれ、世にいう週末にはローラの要望次第で街をぶらつく。ウェイドが請け負って持って帰ってくる便利屋のような仕事を適当に手伝うときもあり、帰りがけには二人で治安の悪いバーで酒を浴び、お互いを引きずって帰路につきベッドに倒れ込む。そしてまた朝が来る。
ほんの数か月、まだ一年にも満たない時間で、ローガンは自身が作り変えられていくのを感じていた。嫌ではなかった。疎ましさを覚えても、それもどうしようもない懐かしさに瞬く間に飲まれて消えた。いつだったかにも感じたことがある、柔く、ねじ曲がったプライドを解かれる心地───突き返して、二度と取り戻せなくなった日々のかけら。
「まるで人間だな」
頭にかぶったタオルの隙間から、フライ返しを持ったウェイドを覗く。当人はローガンの視線に気づいているのかいないのか、フライパンを見つめて顔も上げないまま睨むなとばかりに手を振る。
「────って思ってそうだな、クズリちゃん。アル中生活の異常ぶりにようやくお気づき? まあ俺が言えることでもないけど。実際、病んでると曜日も時間も機能しなくなるよな。正気なんざクソくらえって」
くるり、フライパンから飛び立ち宙を舞ったパンケーキが、気の抜けた音を立てながら皿の上に着地する。朝食──すでに昼食だが──を食べる気はしなかったが、やたらに芳しく食欲をそそるにおいが部屋に立ち込め、胃の隙間がくすぐられる。空腹と同時に乾きを覚えて冷蔵庫を開けると、いくつか納めていたアルコール類はミネラルウォーターにすり替えられていて、ローガンはため息と共にボトルを取り出した。
「さーて、わがままメイド・ウェイドたん特製モーニングパンケーキセットでお待ちのお客様~」
「甘いのは食わねえからな」
力加減を間違えてひしゃげたボトルのキャップをゴミ箱へ投げ捨て、冷たい水を喉に流し込む。清涼で無味のそれはただ喉を潤すだけで、もちろん陶然とした酔い気はもたらされない。意識はシャワーを浴びているときよりも明瞭になって、ここがどこで、自分が誰なのか、間違いようもないほどはっきりとわかる。ウェイドの言う通り、こんなに長く正気で居続けていては、以前なら気が触れていた。
「アルコホリックのエサには香付けにブランデーをひとたらし。今ならなんとトイアーツもついてくる!」
バカげたハイテンションを耳から耳へ聞き流し、バターの滑り落ちた一枚目を指でつまみ上げて一口、口の中にねじ込む。ふんわりと柔らかいそれは簡単に口の中に収まって、食いしばってきた顎の強張りをほどくようだった。じんわりと口腔を満たしたあたたかな小麦の甘さと、ブランデーの香りだけで、不思議と満足感がある。
「ワーオ………そのビッグマウスにナニがどれだけ入るのか考えちゃうな」傍らで頬杖をついたウェイドが、芝居がかった声色で言う。皿の上には焦げ目のついたソーセージが二本。うっとりと視線の端でちらりとそれを見て、今度は唇を舐めている。どこまでもふざけたやつだ。
ケチャップを掴むと必要以上に絞りかけ、血の海に溺れたソーセージをローガンは容赦なくフォークで刺し抜いた。それを見て、ウェイドが肩を竦める。
「残念、俺を萎えさすならもっとぶっといヴルスト用意しなきゃ」
「……悪影響があるのはどっちだかな」
「俺ってばレイティング規制はちゃんとしてんだ。スタジオに買収されたときはヒヤッとしたけど────」
そこで、聞き慣れないベルの音が廊下伝いに響いた。ジリリリリ、と壁を経てもそこそこの音量のあるそれはやかましく続き、誰かが応えるのを待っている。
「何あの音?」
「電話だろ」
「固定電話? 俺もアルもスマホ使ってんのに、誰があのヴィンテージトイにかけてくんだよ。……あ~嘘、学級委員長が前にかけてきたことあったわ」
水を口に含み、ローガンはもう一枚パンケーキを頬張る。ウェイドはすたすたと廊下に出て、開けっ放しのドアから固定電話の位置を探した。今日はアルは近くのビンゴ大会でサクラをしに出掛けている。空席の一人がけソファーの傍ら、ミニテーブルの足元に転がったそれを拾いあげて、二度三度咳払いをしてから受話器を取る。
「ハイ、こちらウェイド・ハチャメチャハンサムニンジャ・ウィルソン」
電話口の向こうからは、一瞬ためらった間を置いたあと、教師らしい男が自分とハイスクールの名前を名乗った。
「ちょっと、ちょっと待って……ローガン! 入学書類にこの番号書いたのお前?!」
返事はない。耳が遠くて聞こえていないか、遠いふりをして無視してるか、単純に無視しているかのどれかだ。
「あのファッキンアダルトコンテンツジジイ……あー失礼。それで?」
『おたくのローラさんが、同級生とぶつかって怪我を…』
パンケーキはなかなかにうまいものだった。最後の一枚を口に放り込み、ローガンは少しだけウェイドを見直してやろうという気持ちができていた。本物のコーヒーも飲みたくなってくる。ごくり、そしゃくしたパンケーキを嚥下し、指についたバターを舐めとる。ローガン自身、完全な禁酒は無理でも、意識的に少しずつアルコールとの距離を作ってきた。ウェイドはさておき、ローラが隣に立った時に、彼女が恥ずかしさを覚える人間のままではいれる時間も限界がくるかもしれない。彼女が────彼らが誇れる人間に、なれるだろうか。
「────ローラが怪我?!」
バン、とシンクを殴りつけ、ローガンは即座にキッチンを出た。普段は気を配っている足音も、今はそれどころではない。ゴッゴッゴッゴッとドアからドアへ足早に抜けて、ソファーの上に棒立ちになっているウェイドの傍らに耳を寄せる。
『いえ、同級生が骨にヒビ……』
「骨にヒビ?! ローラの父親が何でできてるか知ってる?! アダマンチウム製だぞ! お砂糖とスパイスとその他ケミカルX諸々を真理の扉にデリバリーして生まれた純正アダマンチウムスーパーガールの骨にヒビなんて相手は一体どこの星のクリプトン人ッ────」
受話器をウェイドの手から奪い取り、ローガンは口を開いた。
「5分で向かう。相手を縛りつけておけ、逃すなよ」
「3分だ!!」
「………」
「だから電話するなって言ったのに」
ローラはそう言って、面談室で大きくため息をついた。スマホを持って茫然と立ち尽くしている担任の表情と、騒がしい通話口からの音漏れで状況はだいたいわかっていた。おおよそ、ローラの予想通りになったという状況が。
ローラはもちろん、骨にヒビなど入っていなかった。
ローラが諸々の手続きを経て通い始めたのはどこにでもある郊外の高校で、いわゆる「ふつうの」高校生が通っている。ローラの骨にヒビを入れられるやつがいたらそれはそれで面白いことになりそうだが、残念ながら骨にヒビが入ったのはローラの同級生のほうだった。転校生として話題の渦中にあるローラを、転入当初からやっかむ連中がいた。どこにでも、自分が一番目立っていなくては納得がいかない性質のやつはいるらしい。ローラは特定の誰ともつるまず、かといって人を跳ねのけず、それなりに周囲とはうまく溶け込みはじめていたところだったが、それが彼ら──不思議と、前述のような人間は群れを成す傾向にある──にとっては余計に気に入らなかったようで、とくに身長のある一人が「クールぶってんなよ」すれ違いざま、吐き捨てるようにそう言って肩でぶつかろうとしてきたのだ。
あいにく──当然──ローラは微動だにせず、ぶつかってきたはずの同級生が床に転がった。可哀想に、悲痛な悲鳴を上げた同級生は救急車で運ばれ、ぶつかった方の肩にヒビが入っているとわかった。
同級生は、自分の過失を認めたそうだ。もちろん、それなりの衝撃に対し二の足を踏むこともなく「大丈夫?」と見下ろすローラの眼光の鋭さに怯えてというわけではない。
「ローラ、君の……保護者は……」
念のため入学以後の暴力行為や精神的被害の有無などの確認を受けるため、ローラは面談室に呼び出された。やっかみは受けても被害と呼べるものはなかったし、椅子の背もたれは固く座り心地もよくなかったので、家族には事情は自分から説明すると言って帰ろうとしたのだが、担任がそれを許さなかった。
「うちの家族は特別なの。最初に出たクソおしゃべりな……」
「ローラ」
「……超おしゃべりなのはパパのバディ。最後の地獄の底に住んでるアル中の悪魔みたいな声がパパ。実際、アル中だけど」
担任は未だ放心状態のまま、「……いい声だった」と頷いた。
「私もそう思う。……先生、逃げるなら早くしなよ。私が校門で二人の誤解を解いて止められればいいけど、あの二人結構手強いから」
担任は今一つ事情が飲み込めないようだったが、電話口からも二人の異様さはじゅうぶん伝わったらしい。さっとスマホをカバンにしまい、机の上に広げていた書類をまとめ始めた。そしてすぐに手を止め、今一度ローラに視線を向けた。
「一つだけ質問しよう、君が答えたら私はアフリカに逃げる。ローラ、君の家族は……君にとって安全か?」
ローラはすぐに、酒瓶だらけのリビングと、Fワードを連発しあうヤク中の隣人たちと、かわいいペットを思い浮かべ、顔をうつぶせた。どこをどうとってもひどい有様だ、愛らしく無害なメリー・パピンズ以外は。住環境だけでいえば完全にアウトだろう。自他ともに認めざるを得ない悲惨さだ。
でも彼らが、口汚く喧嘩しながらローラのためを思っていろんなことに手を尽くそうとしてくれていることもわかっていた。電話口でウェイドが騒いで、ローガンが完全にキレているのを聞いた時、面倒になったと思ったと同時に、ローラは自然と微笑んでいた。
すでにトップスピードのエンジン音が遠くから響いてきている。それを耳にして、ローラが顔を上げる。
「二人が救ったこの世界に、あの二人がいる限り、私は誰にも傷つけられない。……まあ、私たちが世界にとって無害だとは言えないけど」
サングラスをかけて、ローラは面談室の窓を開け放った。さっと飛び込んできた風が、ローラの髪を撫でてなびかせる。窓から飛び出し、二階という高さからも難なく着地して、すぐさま駆けだした。エンジン音を唸らせるバイクに駆け寄り、大きく手を振る。
バイクを捨てるように飛び降りた二人に、ローラは腕を広げて飛び込んだ。
@amldawn
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