ずっとこうして

 帰宅したら、一緒に住んでいるパートナーはリビングにはいなかった。彼女の部屋に向かっていつものように扉越しに「いる~?」と呼びかけても、出てくる気配はない。
 いちごは胸に抱えたままの小さな紙袋をもどかしそうに抱え直した。今日のテレビの収録で差し入れとしてもらったマフィン。三つもらったのを早速楽屋で一つ食べて、それがとてもおいしかったから、残りは帰宅してから彼女と一緒に食べようと持ち帰ってきたのだ。
 扉をノックするとようやく、「ああ、おかえり」という声が聞こえてきた。返事をしたら大抵その後、彼女はすぐに出て来てくれる。それは分かっていたけれど、待ちきれなくていちごの方からドアを開けてしまった。
「蘭、ただいま!」
「おかえり、いちご」
 蘭はちょうど椅子から立ち上がろうとしているところだった。机の上には彼女が最近新しい機種に買い替えたアイカツフォンだけがある。あれ? と首を傾げた。声をかけてもすぐに蘭が出てこない時は、舞台の台本を読んだり、仕事関係の動画を見たりしている時なのだが、今はそんな感じではない。
「何してたの?」
 他意もなく単に疑問を口にすると、蘭はわずかに目を反らして、あー……とため息が混じったような声を出してから、何でもないよとそっけなく言った。
「何でもないことないでしょ! 何かあったんなら教えて」
「全然、大したことじゃないんだけど」
「それでも! 言って?」
 引き下がらずにそう言ういちごに、蘭は観念したように息を吐いてから言う。
「その、今日は四月一日だろ?」
「うん、そうだけど……?」
 どういうことなのだろうと更に首をぐぐっと傾げていたら、蘭は頭を掻きながらアイカツフォンを手に取った。
「昨日、先輩の舞台の告知動画がSNSに上げられたって聞いたから、ちょっと見てたんだけど……今日がエイプリルフールだからか、色んなネタの投稿とかが流れてきてて。えっと、こういうの、見ちゃってさ」
 液晶には、『私たち、入籍しました』という投稿が表示されている。写真も添えられていて、最近注目されている女性アイドルの二人が抱き合っているものだった。『#エイプリルフール』というハッシュタグもついている。投稿にはファンからの好意的なコメントが続いているのが見える。そのことの意味が分かって、いちごは頷いた。
 ネタとしての同性同士の結婚。
 『嘘』の姿に投げかけられている『尊い』という言葉。
「なんか、ちょっと前まではこういうの何とも思ってなかったっていうか、本当にあたし、何も考えてなかったんだなって思って」
「……うん」
「男女のアイドルがこういうことやると、『ネタ』だと思われなくて騒ぎになる可能性があって、でも女同士だとすぐに『ネタ』だとみんなが思って、分かった上で応援のコメントして……こういうことの意味を分からずに生きてきたんだと思ってたらなんか、ちょっと気持ちが落ちちゃってさ」
「うん、そうだよね……私も同じ気持ちになるよ」
 お互いのことを、恋人の意味で好きだと確認し合ったのはほんの数か月前のことだった。
 恋をすることの楽しさ、切なさ、ほろ苦さ。好きだと言い合って、慈しみ合うこと、そこに生まれる何ものにも代えがたいような幸福感。それを初めて体験して理解した。恋は素敵なもので、異性同士にしかそれが許されないのはおかしいのだということ。
 そうして今は、自分たち自身の感情や認識についてだけでなく、周囲が、社会が自分たちのようなカップルをどのように眼差し、考えているのかということも気になるようになってきた。ネット上に流れてきたニュースの『LGBT』という言葉が目に留まるようになって、ニュースで婚姻制度についての訴訟が取り上げられていると、じいっと見入ってしまって。
「蘭のこと、好きになって、付き合うようになって。初めて知ったことはすごくたくさんあるよ」
「ああ。本当に」
「だから、もっともっと色んなことを知って、私たちみたいな子たちのために発信したりとか、出来るようになったらいいな~って思ったりもするんだ」
「そんなことまで考えてるのか? すごいな、いちごは」
「そんなことないよ。蘭と一緒の、全然初心者だよ~」
 そう言うと、蘭はいちごを眩しそうに、それから愛おしそうに見つめて微笑んでくれた。こんな風に自分を眼差してくれる彼女のことを、やっぱり愛おしいと思う。
 気が付けば、言葉に出していた。
「蘭、大好き! 結婚しよう!」
「えっ!? け、けっこん……!? いきなりすぎないか!?」
「言われてみればそうかもしれないけど……でもしようよ、結婚」
「えっと…………うん」
 真っ赤になりながら頷く蘭を見ていると、愛しさは更に胸のうちからあふれ出てきて止まらなかった。蘭と結婚したい、結婚しよう、そう思う。
 ふと、蘭の長い指先がいちごの方に伸ばされて、下まぶたの辺りに触れてきた。
「自分でプロポーズしといて泣くなよ」
「え? あれ? 私――……」
 その瞬間、瞳に溜まっていた熱い涙が、頬の上をポロポロと流れ落ちていく。すぐに蘭の親指が優しく雫を拭ってくれた。
「だって、結婚しようって言ったら、蘭が『うん』って言ってくれて、それがうれしくて……!」
 言葉を返す代わりに蘭はいちごをふわりと抱きしめた。日々の稽古でしなやかな筋肉が付いているその背中をぎゅっと抱きしめ返す。涙はなかなか止まってくれなかった。
 
 ようやく落ち着いたので、お茶を淹れてマフィンを食べようということになった。
 テーブルに向かい合って座って、おいしいマフィンを一緒に頬張る。
「日本ではまだ法律上はできないけど、式とかだけでも挙げてみたいなぁ。みんなも呼んで」
「そうだな。ちょっと調べてみようか。あと、海外でなら結婚できるかもしれないし……あおいに聞いてみるか」
「だね。あおいも彼女さんと結婚のことも考えてるって前に言ってたもんね。……だけど」
「ん?」
「いつか日本でもちゃんと結婚できるようになったら、改めて結婚しようね」
「もちろん。早くそうなればいいのにな」
 自然と、彼女の手を握っていた。マフィンを食べ終えたばかりで、バターの香りがしている手のひら。自分のそれも同じ匂いがしているはずだ。すぐに彼女も握り返してくれて、一人じゃないんだと思えた。
 いつか、書類の上でもパートナーだと胸を張って言える時まで、ずっとこうしていたいと思った。

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