Barber Shop Chronicles

 客のいない時の定位置は窓近くに置かれたソファだ。もう夜が近いが外は明るく、極端に日光が入らないこの居住環境においては自然光だけで日中を過ごせる最高の物件であり、誰でも芸能雑誌を読むことができる。彼女は古くなった雑誌を開き、乾いたロットペーパーを広げて挟む。雑誌の重みで皺を伸ばすためだ。
「こんばんは」
 ドアはいつも開いている。それにしても男が急に出現したように思い、彼女は驚いた。
 長身の男は張少祖と名乗り、ここの一角を借りて理髪店をやりたいと彼女に持ち掛けた。初対面の男は見た目の年齢の割に老成した話し方をし、彼女は初めから不安を感じることはなかった。そして思い出す。
「あんた知ってるよ。向かいの棟の踊り場で床屋やってるね」
 実際にはつい昨日パン屋に降りていく途中で初めて気づき、彼の後ろ姿は遠目に見ただけだったのだが。店の入れ替わりは激しく、見慣れぬ店があるのはいつものことだ。彼女は同業者でないことを素早く見極め、近くに寄ることもなく過ぎ去った。
「ああ、手狭になってきてね」
ここは日当たりもいいし、手入れも良く、あの紅い窓枠が好きだと彼は言った。それは彼女が指定して塗らせたものだった。
「一部じゃなく、全部使わせてあげるよ。あんたのとこのチェアはそこに置いたらいい」
その代わり週払いの賃料は高めに吹っかけた。彼女が設備を整え、後を継がせたかった娘は一通りの手技を覚えるとこんな所に未来はないと言って2週間前に中環の店にあっさり就職してしまった。美容師は流行商売であり、基本的には近い世代の客しかつかない。娘の客は娘と共に去り、彼女はのんびりすることが多くなった。今思えば男はそういった事情も知った上で来たのだろう。それはしばらくして、あの全ての抗争が終わり男の通り名が龍捲風であることが判明してから考えたことだ。





 朝一の客の顎を当たりながら、ずっと頭から離れない吐息の音を無意識に反芻していた。壁の向こうの音しか聴いていないはずなのに、記憶では男が女に覆い被さって目を閉じたまま無心に腰を振る姿まで付随している。それは何度も髭を剃る時に見た美しい頬のカーブ、煙草の火を分け合う時に嗅ぐ整髪料の僅かな匂いの記憶を伴い、まるで自分が抱かれているようだった。
 あの時間に空室がある連れ込みの壁が厚いはずはなく、全てが筒抜けになることは予想すべきことだった。予想外だったのは自分の興奮だ。毎週のように落ち合って飲み歩くようになってから2人が時折他の男達との喧嘩を織り込みつつ4人になり、2組のカップルとなって自然に別れていくのはよくあるパターンだったが、その晩ジムは前日修理に出したせいで車がなく、それならばと出会ったばかりの娘2人も乗せて宿を探したのだった。その頃2人とも九龍城寨に住んでいて、自室に連れ込むほど興が醒めることはなかった。向かい合わせの寝室に落ち着いてしばらく経ったのち、龍捲風には隣の物音、しかも大きいはずの女の喘ぎよりも親友の時折洩らす呻きの方が耳に入るようになり、いつしかそれを聴くために体勢を変え、自分が挿入している女を腹の上に乗せていた。腰を上に揺らすと自分の相手も矯声を上げてしまったので、龍捲風は優しく笑いながら女の唇に人差し指を当てる。壁の向こうの息が徐々に荒くなることで終わりが近づくのを見計らい、ジムの射精の瞬間を感じた時には龍捲風も大きく腰を突き上げていた。
「終わったよ」
 髭剃りを終え、静かに眠ってしまった客の肩を軽く押す。
 朝はそのまま帰ってきてしまったので、ジムがまだ宿にいたのかもよくわからなかった。根拠はないが、次に店に来るかどうかも不明だという気がした。昨晩の飲み始め、何かを言いかけては切り出せない様子のジムの顔を思い出す。いつもと違っていた。それをとりなすように店舗移転の計画の話を始めてしまったが、お互い唯一無二の存在だったジムが自分に言えないことがあることそのものがひどく不穏だった。





 冰室でのさりげない身辺調査により、男の息子であると確定した新入りの髭を剃りながら遠い記憶が蘇る。ジムとの最も親密な記憶は何十年経とうと最後の晩であることは動かし難いのだが、あんな夜があったことを忘れていた。後から思い出せば直後にジムは龍捲風の仲間を襲い、終わりが始まった。ジムの温かさを失った肉体からは急速に生身の記憶が失われ、それでいて唐突にあの男の分身が目の前に現れたのだった。洛軍は社交性の塊だった父親と違い木訥として語らず、普段はジムを思い起こさせる要素はない。そのくせ相手を見つめながら話す目、自分に完璧な信頼を寄せる態度はあの男の息子以外の何者でもなかった。今日もまた昼間の肉体労働で疲労した洛軍は全てをやり終える前に入眠してしまい、龍捲風は結局彼に髭剃りすら教え切ることは出来なかった。





 客のいない時の定位置は窓近くに置かれたソファだ。信一にとっては小さい時分からパーマのロットからシートを剥がしたり、ゴシップ雑誌を整理したり、従業員や客の昼飯の注文を取っては使い走りに行ったりといった率先した小間使いをする場であり、そうやって日々培った信用から理髪店や不動産業の帳簿を任されるに至った重要なオフィスでもあった。開店休業である今となっては冰室の喧騒を逃れて一服する場所ではあるが、龍捲風の不在を感じないわけにはいかず、かつてのように頻繁に訪れることは無くなっていた。
「ここの大家はお前か?」
 両手に水のバケツを抱えた洛軍が店の前に立っていた。見かけと違い仕事の合間に立ち寄ったわけでもないらしく、そのまま店舗に入ってくる。
「他にいないだろ」
 実際には店の権利関係は少し複雑だったのだが、信一は頷いて言った。
「貸してくれ」
 何のためにと聞くとこう答えた。
「理髪店をやる」
「はぁ?」
「兄貴に頼まれたし、教わった」
 こいつは何を言っているんだという気持ちと、自分はそんなことを言われたことはないという失望が8の字のように頭を巡る。
「本当だ。ここに座れ」
 となぜか強引に椅子に座らされてしまう。洛軍が慣れた手つきでヘッドレストを引き出し、信一は狼狽した。見上げた男が余裕といってもいい笑顔を見せていたからだ。その時信一は思った。この男の父親に龍捲風が惚れてしまっていたのも無理はない。



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