ずるいこと

昼休み。すっかり出し忘れていた提出物のノートを、職員室の教科担任に出し終えてから、教室に戻るため、階段を登っていた。色々なところから、ぱたぱた、と、生徒の足音や、にぎやかな笑い声が聞こえてくる。
その途中で。応接室近くの踊り場で、何気なく立ち止まった。打ってかわって、ここは、基本的には、いつも静かだ。誰もいない、ガランとした廊下。こんな、どこにでもある、なんの変哲もない空間が、時に、とんでもなくいかつい男(と言っても、自分と同じ生徒だけど)たちが、ひっきりなしに出入りする任侠映画の撮影現場みたいになることを、果たして、誰が想像できるだろう。もちろん、並中に関係する人以外で。
そして、この時間、その男達を束ねる部屋の主は留守だろう。早く戻ろう。と、ふたたび、階段に足を掛けた時。

「?」

おかしなことに、今度は、ぎゃー!と、楽しそうな子供の声が、耳に飛び込んできた。一瞬、空耳かと思ったが、また、すぐに聞こえてくる。そして、バタバタ、ドタッ、という、部屋の中を駆け回るような足音も。驚いたことに、その出どころは、応接室のようだ。本来なら、あんな、アウトローな感じの場所(普通なら、応接室がそんな場所じゃないことは分かってるけど)で、あんな、幼稚園や保育園から聞こえてくるようなわんぱくな声、聞こえてくるはずがない。しかも、その声に、なんとなく聞き覚えがあったから、反射的に、そっちに足を向けた。たしか、ヒバリは見回り中のはず、と思いながら、扉を開いた。その途端、

「わああああっ!!?」
「おわっ!?」

まず、中にいたツナ(なんで?)の、怯えきったような叫び声にびっくりし。
そして、白い壁一面に、クレヨンらしきもので描かれた、カラフルな動物やら兵器やらの絵に、びっくりし……つつ、壁に近づき、指を沿わせる。
全体的に、ごちゃごちゃはしているものの、なかなか、色使いがいいし、荒っぽいながらも、うまいこと特徴をとらえていて。

「すげー。大胆なタッチだな。」
「や、山本!?褒めてる場合じゃないよ……!!」
「あっ。悪い。そうだな。」

ついつい、見とれてしまい、ツナからツッコミを入れられ、われに返る。苦笑いをしながら、頭をかいた。

「ガハハ!ぜーんぶ、ランボさんがかいたんだもんね!」
「こら!調子乗んな!」

「だから、おまえを学校に連れてくるのイヤだったんだよ…!」と、嘆くツナの顔をよく見れば、そのほっぺたにも、クレヨンらしきもので、迷いのない、見事な一本線が引かれている。それだけで、捕まえるのに相当手こずったのが見て取れた。
どういう事情なのは分からないが、ツナには、今日、どうしてもランボを学校に連れてこなきゃいけない事情があったようだ。そして、ほんの少し目を離した隙に、とんでもないことをされてしまった……。と、なんとなく察する。

「よりにもよって、応接室に落書きするなんて……。」

そりゃあ、目を離したオレが悪いけど……!と、弱々しく言ったツナは、気の毒なことに、すっかり青ざめて、もうほとんど、泣きそうになっている。
彼がここまで取り乱している理由は、よくわかる。たしかに、この状況は、かなりまずい。もちろん、学校の壁にいたずら書きをした時点で、もう、だいぶまずいことだが、それよりも、ここが、「応接室」であることが、大問題だった。それはつまり、事件現場が、〝あの〟ヒバリの縄張りだということを指していた。
あいつが、根城を荒らされて、やすやすと許してくれるわけがない。そもそも、ヒバリの愛してやまない、この校舎を汚した(自分からすると、どれも愛嬌のある絵だが)ことが、すでにアウトだろう。うーん、と、眉間を押さえる。

(こんな状態、見せらんねーよな……。)

ヒバリが、今、どこにいるかは分からないけど、だいたい、長くても10分くらいすれば、戻ってくるんじゃないだろうか。あまり考えたくないが、短ければ、5分ちょっと。まあ、ただの勘だけど。とにかく、なんとしても、そのあいだに、この惨状を、どうにかしないと……。いや、ここを、本物の惨状にしないために、どうにか……。でも、クレヨンって、どうやったら消せるんだ?水拭き、じゃ無理だよな……?

「山本っ!!!」

名前を呼ばれ、はっとする。すると、タックルかなにかと間違えそうになるくらい、勢いよく、ツナがこちらに距離を詰めてきていた。その迫力に驚きつつ、よく見れば、その腕のなかで、ちいさな犯人は、力作の制作に疲れたのか、眠そうに目を擦り、あくびをしていた。

「ヒバリさんのこと、足止めしてくれないかな!!?」
「オ、オレが?」

思わず、聞き返すと、ツナが、「頼むよ!この通り……!」と言いながら、ぶんぶんと、頭を縦に振る。もう、ほとんど、土下座に近い。絵を消すことに注力することしか考えていなかったが、たしかに、ヒバリが帰ってきてしまえば、即お陀仏だ。
けど、あいつを足止めって、それも、猫騙し的に一瞬、じゃなくて、けっこうな時間、足止めをし続ける、なんて、そんなこと、一体、この星に生きているどれくらいの人ができるんだろうか。なんて、ちょっとばかり、弱気になった時。

「無理を言ってるのはわかってるよ…。けど、山本にしか、頼めないんだ……!!」
「……っ。」

心から、申し訳なさそうに紡がれたのは、確実に、オレの弱点を突く台詞だった。それだけじゃない。あの、大きな目が、一心にこちらを見つめてくる。ちょっと潤んで、まるで子犬みたいだ。
なによりも、極めつけは、視線とともに注がれる「信頼を寄せてるおまえだったら、力を貸してくれるよね……!」という、まっすぐな期待。わかってる。こいつが、意図してこんな顔ができるほど、したたかじゃないってことくらい。ツナはただ、必死なのだ。だから。

「わかった。まかせとけって。」

オレの返事は、最初から決まっていたようなもんだった。


ツナと目配せをしてから、応接室を出て、駆け出す。さいわい、あたりにヒバリの姿はなかった。いったい、今、どこにいるんだろう。ていうか、もし、幸運にもヒバリが部屋に戻らなかったとして、昼休みはあと、20分くらいだから、それまでには、なんとかしないといけない。

「まずは、ヒバリを探さねーと……!」
「僕に用事?」
「ヒ、ッ………???」

思わず、変な声が漏れてしまった。
まるで、ホラーゲームで、一度振り向いたら誰もいなかったはずの薄暗い廊下で、また前を向いて、先に進もうとしたら、突然、背後からものすごい至近距離で、聞こえるはずのない声がした、みたいな怖さだった。要するに、ヒバリは化け物ってことだ。そんなこと、口が裂けても言えないけど。

「ヒ…!バッ、リじゃねーか!ど、したんだよ?」 
「君がどうしたの。」

バクバクと、すごいスピードで鳴り続けている心臓に、落ち着け、と言い聞かせながら、どうにか普段通りを装うが、なかなかうまくいかなかった。ヒバリが、声が裏返ってるよ。と、不思議そうに言う。その声色が、少なくとも、まだ、訝しそうじゃないのが、なによりの救いだった。

「急に後ろから話しかけられたから、驚いちまっただけだって。」
「ふうん。」

口調とは裏腹に、じろ、と、あのつり目が、見定めるように、こちらを向く。
それをかわすようにして、とりあえず、いつものような笑顔を浮かべることに集中する。よかった、笑えてるっぽい。よし、少しは落ち着いてきたみたいだ。なんて、思ったけど。

「用がないなら、僕は戻るよ。」

興味が逸れた、と言いたげに、ヒバリがそっけなく背を向ける。やばい!一応、ごまかせたかもしれないけど、それはそれで、いや、それだけはまずい!

「も、戻るって、どこに」
「君、さっきからなんなの。応接室に決まってるでしょ。」
「だ、だめだッ!」

気がつけば、めいっぱい、目の前の手首を掴んでいた。あ。と思ったのと同時に、ヒバリが、少し驚いたみたいに、目を開いて、それから。

「……なんのつもり。」

それ、から。

(やべー……!)

オレは、ヒバリがこういう時に向けてくる眼差しを、こっそり、絶対零度、と呼んでいる。それくらい、恐ろしいのだ。そして、それが、強硬手段に移行する前の最後通告を指すことも、重々、知っている。

「お。」

次の言葉を、間違えるわけにはいかない。
〝あの〟ヒバリの行く手を阻んだくらいの。待て、と、叫んで、乱暴に手首をひっ掴んだくらいの、その暴挙にふさわしい、なにかを言わなければ。でも。そんなの。

「オレ、実は、」

どうにか、考え出したそれは、あきらかに、ただの苦し紛れでしかなくて。でも、それを押してでも、言わなきゃならなかった。

「ふ。風紀乱すこと考えてる、つーか……。」

ひでー。口に出してみたら、想像した何倍も、苦しかった。オレ、なんてことを言ってるんだろう、と、思いつつ、同時に、もう、これしかない、とも思っていた。

「だから、ヒバリに、し、指導、してほしーのな……?」

いや、だから……。指導、って、なんだよ……!と、心底そう思いつつ。だけど、もしかしたら、ヒバリの興味を惹けるかも、って思えるくらいのインパクトがあることって、オレには、これくらいしか思いつかなかった。
だって、わざわざ、自分が咬み殺されるための材料を、自ら進んでヒバリに提供するやつなんて、この学校に、いや。この並盛町に、いるわけがないから。もちろん、代償として、多少痛い目を見る覚悟は、もう済んでいた。

「へえ。」

向けてくる瞳の鋭さは、そのままに。だけど、その口調は、ちょっと楽しそうだった。も、もしかしたら、これ、意外といけるんじゃ……。そう、安堵しかけて。

「なに考えてるの?」
「っ、えーと。」

やばい。話し出しのインパクトのことばっかり気にして、肝心の続きを、なんも考えてなかった。なんか、なんか風紀が乱れそうなこと、考えねーと……!

「や、焼きそばパンの強行値下げのために、購買のおばちゃんを人質にとって……。」
「ウソだね。帰る。」
「ま、待てって!」

オレの悪あがきなど、たやすく見破ったヒバリが、無情にも踵を返し、歩き出す。視線の先。応接室までの距離は、たったの5メートルくらい。ダメだ、ダメだ!そっちに行かせるわけには行かない。
ツナと約束したんだ。絶対に、ヒバリを足止めするって。だから、そのためだったら、オレは、なんだってする。だけど、オレに、なにができる?そんでもって、ヒバリは、どうしたら??だめだ、そんな奇跡みたいなこと、考えつくわけが……

(いや。オレだけにしかできないって、ツナが言ってただろ。考えろ。考えるんだ……っ!)

そう。考え……ごとは、残念なことに、最初から、向いてない。でも、考えなきゃ、今だけは……!なんでもいい、ヒバリを足止めできそうなことを……!そう、思えば思うほど、頭が、だいぶぐるぐるしてきた。……あっ!

「ちゅ、」

これだっ!!!

「ちゅー!したい!!!」

やべ、けっこう声がでかくなっちまった。もし、誰かに聞かれてたらどうしよ。まあ、応接室に近い廊下をわざわざ歩く奴なんかいないから、きっと大丈夫なはず……そう思いたい。
口元を押さえたのと同時に、背を向けていたヒバリが、足を止めた。それを見て、ごくり、と、息を呑む。こ、この反応は……どっちだ……?いや、とりあえず、畳み掛けないと。

「こ、校内だって分かってるけど、オレ、おまえと……。」

ヒバリとオレは、こんなんでも、一応付き合ってる。けど、もちろん、学校のなかで、それらしいことはしない。
あくまで、超絶おっかない風紀委員長と、そのへんの生徒、っていう関係にしか見えないように、振る舞っている。それは、あえてのことだ。そして、オレが言ったことは、そんな、これまで維持されてきた、暗黙の約束みたいなものを、破棄する表明になる。さあ、鬼が出るか蛇が出るか。

「……ら。」

ドキドキしながら、一語一句聞き逃さないぞ、と耳をそばだてていると、ゆっくりと振り向いたヒバリは、わずかに斜め下を見て。

「だったら、応接室でいいでしょ。」

え……?い、いいのか……?
こころなしか、いつもより柔らかな口調の。おまけに、ちょっとごにょごにょした感じのヒバリの返事が、信じられないくらい、かわいくて。感動すら覚えて、気づけばオレは、思わず目を閉じていた。
まじで?そんなこと、了承してくれんの?信じられない。絶対、ふざけてる、とかで、殴られると思ってたのに。だから、今まで、チラッと、こういう気持ちが過ることはあったけど、口にしたことは一度もなかった。うわ、なんだ。こんなことなら、試しに、言ってみたらよかった。
緊急事態じゃなかったら、「ソーデスネ!」と、全力で飛びついて、肯定するだろう。だけど、今のオレは、その嬉しい提案に、うんと言うわけにはいかなかった。

「や。その……なんつーか、たまには、ス、スリルが欲しい、って言うかさ。」

こんなこと、ほんとは全然思ってない。ほんとは、落ち着いた場所で、長いこと、ひっついてるほうが好きだ。いつ、誰に見られるかって考えたら、それだけでもう、気が気じゃない。ヒバリにも、迷惑かけちまうし。だからこそ、校内でその希望が叶えてやれるのが、唯一、応接室だって、ヒバリが言いたいのは、そういうことなんだろう。きっと、外から見るよりもこいつは、自分のこと、よく分かってくれているのだ。

「どこだったら満足なの。」

その要望も、一応尋ねてくれるんだ。
ヒバリの言うとおり、心底、応接室がいい。だけど、今回だけは、それ以外じゃなきゃ、ダメだ。捻り出せ。

「ぶ、部室……?とか……?」

なんか、思いがけず、変な話になってきたな、と思いながらも、答える。
あんまりやりたくはないけど、忘れ物をした、と言えば、きっと怪しまれずに、部室の鍵は借りられるはずだ。昼休みギリギリに返せば……いや、でも、予鈴が鳴る頃には返さなきゃいけないよな。それだと、ちょっと、まずいかも。唸りつつ、ヒバリのほうを見れば、彼は、あいかわらずの無表情だったけど、なにやら、考えごとをしているようにも見えた。




結局、顧問から鍵を借りるのはやめて、ヒバリと、その特権に、甘えることにした。
校舎を出て少し歩けば、見慣れた、野球部の立て札。無人の部室に足を踏み入れる。黙ったまま、扉を閉めれば、すぐに、薄暗さが戻る。おたがいの足音が、そんなはずないのに、やけに大きく響いている気がして、思わず、息を呑んでしまった。
いけね。さっそく雰囲気に飲まれかけてる。なにか言わなきゃ、と思って「わるい。ちょっと、汗臭いな。」なんて、とってつけたようなことを、奥へと進むヒバリの後ろ姿に投げると「べつに。」と、そっけない返事が返ってくる。
ベンチに腰掛けたヒバリ(普段見ない光景だから、ちょっと違和感がある)に、手持ち無沙汰気味に、自分も続けて座った。いつもよりか、ほんのちょっと、隙間を開けて。
そして、やってきたのは、ふたたびの沈黙。そりゃ、そうだよな。オレがお願いしてきてもらったんだから、こっちから切り出さねーと、と思いつつ、なかなか話し出せない。ど、どうしよう。あんなこと言っちまったけど、マジですんのか……?

「あ、えっと。じゃ、じゃあ……。」

普段の騒がしい部室だったら、絶対に流れたりしないような、独特の雰囲気と、意味ありげな静かさに、ついに耐えきれなくなって、「ちゅーする?」なんて、茶化して言おうとしたら、その前に、ヒバリに、両肩を掴まれた。えっ、と思って、顔を上げると、ヒバリの顔が、近づいてきた。や、やっぱり整ってるな……!?っ、ていうか、

(ま、まじで……?ほんとにすんの……?)

自分から言ったくせに、戸惑ってしまう。いつもなら、耐えられなくて、力いっぱい目を閉じてしまうけど、今日は、そんな余裕もなくて。気がつけば、ほんの少し、唇がふれあう。やわらかくて、あったかかった。はじめてした時は、何が何だかわからなかったけど、ヒバリの口って、やっぱ小さいんだな、と思ったことだけは、よく覚えていて。ここのところは、キスをするだけで、ふわふわした感覚になることが増えた。今もそうだ。もしかすると、微熱がある時に、似てるかもしれない。
どこか、ぽーっとしたまま、ヒバリを見ていると、彼も、腕に手を添えたまま、オレを見てくる。なにか言うのが、もったいない気がして、しばらく、おたがいに、何も言わないまま、見つめ合っていた。

「……。もう、いいでしょ。」

どこか、われに返ったようなヒバリの声に、こちらも、現実に呼び戻されたような気になった。

「お、おう。ありが……。」

名残惜しさを感じながらも、照れくさくて、目をそらす。ちょうど、壁に掛けてある時計が、ヒバリの肩越しに、目に入った。うそだろ、ま、まだ10分くらいしか経ってない……!全然、足りねーじゃねーか!

「や、ッ、いやだ!」

オレの声に振り返ったヒバリが、めずらしく、驚いたような顔をしたのが見えた。まさか、オレが、こんなことを言うなんて、思っても見なかったのだろう。
だけど、背に腹は代えられない。これじゃあ、駄々をこねる子供みたいだ、と思いつつ、ぎゅうっと、薄い背中に抱きついた。こんなことをして、もしかしたら、殴られるかも。だけど、それにしては遅いな、と思っていると、ヒバリが話しかけてくる。

「ほんとに、どうしたの。」

や、やさしい。しかもこれは、ちょっと心配してくれてる時の声だ。そりゃあ、普段と態度が違いすぎるのだから、困惑して当然だ。自分でもそう思う。

「ま。まだ、行くなって。」
「……。」
「っ、頼むから。な?」

目を合わせて、懇願する。正直、ヒバリに、どのくらい同情心なんてものがあるのかは、アマゾンの奥地くらい未知すぎるし、もしかしたら逆効果かもしれないけど、ツナとの約束のために、自分にできることは、すべてやらなきゃならない。どれだけ情けなくても、格好悪くてもいいから、縋りついて、そんで、ちょっとでも、足止めを……。

「誰か、咬み殺したほうがいい奴がいるの?」
「なっ……!?」

なぜ、そうなる……??
ヒバリの思考が全く読めず、絶句してしまう。すると、

「君、教室に戻りたくないように見えるけど。」

な、なるほど。こいつからは、そういうふうに見えたってたことか。もしかして、廊下で考えてたのは、このことだったのかもしれない。それにしても、あの凶暴なヒバリが、こんなにオレのことを心配してくれるなんて……。と、やっぱりまた、ころっと状況を忘れて、感動すらしながら、その澄んだ目を見つめていると。

「山本武は、ああ見えて尻軽だ、とか、実は顧問と懇ろだから、試合の出場機会がやたらと多いんだとかなんだとか、そういうことを吹聴する輩が……」
「か、偏りすぎじゃね……?」

つらつらと。普段の、どちらかといえばゆったりした喋り方が嘘みたいに、あまりにも饒舌に、ヒバリは喋った。こいつ、こんなに早口で喋れたのか……。いや、それより、内容が問題すぎる!
少なくとも、それは違うって、訂正しなきゃいけない。そうしなくちゃ、無実の誰かが、咬み殺されることになるかもしれない。いや、かも、じゃなくて、確実にそうなるだろう。そうじゃないんだ、と、首を振り、ヒバリの顔を見つめる。すると、彼も、じっと、見つめ返してきてくれる。

「おまえと、ちょっとでも一緒にいたい、っていうか。ほら、あんまり、昼休みって、会えないだろ?」

これは、本当のことだ。

「だから、顔、見たくなってさ。」 

これも、まあ、ギリギリ、嘘じゃない。
正直に言えば、今日は、できるだけ会いたくなかった、が、正しかったけど。だけど、それじゃあ、足止めすることなんて、絶対にできなかったわけで。

「そしたら、我慢、できなくなって。おまえに、……えー…と……。」

言いながら、恥ずかしくてたまらなくなる。もちろん、全部、嘘じゃないからこそだ。もともと、心にもないことを言うなんて、そんな器用なこと、自分には、できない。だからこそ、言おうとした言葉の続きを、一瞬、ためらって、口ごもってしまう。もっと照れくさい内容になるって、分かっているから。でも、そんなこと、今さら何だって言うんだ。もう、決めただろ。言うんだ、このまま、勢いで!

「さ……っ、さわって、ほしくなったっつーか。」

もう、言った瞬間、猛ダッシュで外へと飛び出していきたいくらい、恥ずかしい。だけど、白状すれば、今言ったことと似たようなことも、思ったことがある。できるだけ、顔を見たいし、許してくれるなら、近くで過ごしたい。
ヒバリは、もともと口数が多いほうじゃないし、きっと、ひとりで気ままに過ごすほうが、好きだろうから、ふたりで過ごす時間があっても、ほとんどオレが話してばかりだけど、そんなこいつが、時々、オレの話に相槌を打ってくれるのが、こっちを見て、話を聞いてくれるのが、嬉しくて、たまらなかった。

「だ、だから。」

もう一回、と、お願いしようと顔を上げて、

「ヒバリ?」

ふたたび、肩を掴まれた。だけど、さっきより、ちょっと力が強かった。爪が少し、食い込んでる。やばい。もしかして、さすがにむちゃくちゃ言い過ぎて、怒らせちまったか?

「わ、悪かっ……」

慌てて謝ろうとするが、薄暗くなった視界と、ヒバリの髪が、目蓋にあたって。気がつけば、無意識に、口を噤んで、

「……?」

意図せず、オレの「おねがい」は、叶えられた。だけど、こんなこと、身勝手な自覚はあるけど……!

「~~……!?ッ、ん、ぅ……!!」

ここまでしてほしい、なんて言ってない!!また、ちょっとだけ、く、くちをくっつけるとか、それくらいで、よかったのに。し、舌入れてくれ、なんて、一言も、なんて言ってないのに……!!
ヒバリのあたたかな舌が、口の中で動く。好き勝手に、気ままに。よく分かんないけど、じゅーりん?されるって、きっと、こんな感じなんだと思った。数日前、部活の間に切ってしまったところも、ゆるくなぞられて、思わず、びくっと、身体が跳ねてしまった。

(は、恥ず………!)

腰から背筋にかけて、よく知った、鈍く、くすぐったいような感覚が走る。堪らずに、先も分からないまま縋った手のひらで、ぎゅう、と、ヒバリの大切な学ランを掴んでしまった。しまった、と思った瞬間、吊り目が、わずかに斜め下を見る。だけど、ヒバリは何も言わなかった。何事もなかったようにふたたび、視線を戻すと、今度は、顎を掴まれる。
やらしい水音も、ぬるぬるとして、あたたかい感覚も、全部、知っているはずなのに、全然うまくやりすごせない。鼻で息をすることも忘れて、ままならない呼吸に、だんだん、頭がぼうっと、惚けてきた。やがて、自分とヒバリの息づかいが、遠くに聴こえはじめる。

「……、は、っ…。」

なんのタイミングかは分からないが、突然、解放された。はじまりも、終わりもマジで急だ。けど、よかった。危なく、死んじまうところだった。酸欠で、ガンガンする頭を押さえながら、どうにか、ベンチの端を掴んで、そのまま崩れそうになる身体を支える。
ちら、と。ヒバリの背中側。ふたたび、盗み見た、掛け時計の長針は、もう少しで昼休みが終わることを告げている。ツナは、間に合っただろうか。そうであってほしい。いずれにしても、きっと、そろそろ、潮時だろう。

「あ、ありがとな。ひばり。もう……。」

彼の薄い胸元に、やんわりと、制止するために、手を添える。空いたほうの手で、ぐいっ、と、自分の口元を拭った。
だけど、ヒバリは動かない。あれ、と、思いつつ、もう満足(なんてもんじゃねーけど)したことを伝えようとして、また、目線を上げると、

「あ、?えっ?」

やりすぎた、と思った時には、遅かった。爛々と光る瞳には、あきらかに、さっきまでは宿っていなかった色が。それは少し、戦闘前の表情にも似ていた。
まるで、狙いを定められた獲物になったような気持ちになって、わずかに、身体を縮める。けれど、そんなことをしても、意味はないことも、頭の隅では分かっていた。あっという間に、手首を掴まれたかと思えば、ベンチにひっくり返されて。

………なんつーか。
やっぱり。ヒバリは、ヒバリだった。




はた、と、意識を取り戻す。いまだ、部室の中。背中に、ベンチのかたさを感じるが、不思議と、冷たさは感じなかった。
身体を起こせないまま、目だけで周りを見回すと、ヒバリが、そばのベンチに座り、無表情のまま、こっちを見下ろしていた。見る、というよりは、まるで、観察されているような感じがするのは、いつものことだ。その目を見ていると、さっきまでのことが、よくできた夢だったんじゃないかとすら、思う。オレが目を覚ましたのを確認すると、彼は、腰を上げた。

「あと10分遅刻したら、咬み殺すから。」
「はは……。ヒバリだって、遅刻だろ。」
「いいんだよ。僕は。」

おうぼーだ、と、つぶやくと、ヒバリはこちらに目をやり、何も言わないまま、部室を後にした。

「……。まじ?」

扉が閉められてからも、オレは、ベンチの上、ちょっと変な格好のまま、しばらく固まっていた。なぜなら、外に出るときに、あいつが、ちょっと笑ったように見えたから。気のせいかも、しれないけど。

「……。」

少し離れたところに立てかけられた姿見を見れば、ありがたいことに、最低限、衣服は整えられている。股は、ちょっとおかしな感じがするけど。つーか、最後まで、シた、のか?いっぱいいっぱいで、あんまり、覚えてないけど。正直、あいつが、ここまでするって、思わなかった。というよりも、オレが、ほとんど勢いで頼んだようなもんでもあるから、してくれた、って言ったほうが、きっと正しいだろうけど。

「………、っ。」

うん。した、やっぱ、した!
さっきまでのことを思い出してしまい、わしゃわしゃと、頭を掻く。だけど、それだけじゃ、済まなくなって、また、ベンチに勢いをつけて、崩れるように寝転んだ。
ごろん、と、横向きになっては、また、反対を向く。何度か、繰り返して、弱く、長い息を吐いた。

(こーふん、した……。)

自分たち部員が、部活のために使うべき空間で、ほんとは、こんなの、ダメなことだって分かってるけど。ここは、普段、みんなと打ち合わせたり、着替えたりする、馴染みの場所なわけで……。
けど、だからこそ、絶対に、聞けないはずの場所で、ヒバリの、ちょっと意地悪な囁き声と、体温に包まれて。そのうちにすぐ、あの、前後不覚、みたいな感覚になって。浅まし過ぎるだろ、自分。

「あ。」

そこで、ようやく、身体の下敷きにしてしまっていた、指ざわりのいい、やわらかさの存在に気がついた。ベンチの端。視界に映える、赤い腕章。それは、ヒバリが日頃、身につけている学ランだった。いつの間にか、自分のために敷いてくれていたらしい。しわになっちまう、と、慌てて、飛び起きて、手に取った。

「あいつ……。」

こんな大事なもん、そう言いかけて、唇が、勝手に震えて、ゆるんでいく。こうやって、あいつが、心から大事に思っているものを、嘘みたいに自然に、自分に分け与えてくれる。あの、掴みどころがなくて、誰にも囚われない、ヒバリが。その事実を噛みしめるたびに、どうしようもなく、うれしくて、しかたがなくなる。しわにならないように、そっと、抱きしめた。

(ごめんな、ヒバリ。だましたりなんかして。)

もちろん、言ったこと、すべてが嘘ってわけじゃない。それどころか、そのほとんどが、本当のことだ。だけど、あいつには明かせない目的のために、これまでの関係性と、あいつの分かりづらい、けど、確かなやさしさを利用したのは、事実で。
もうしないからな、と、脳内のヒバリに釈明しながら、いや、けど待てよ。だけど、もし、ツナからの頼みだったら、オレは……と、また、頭を抱えてしまう。

(……って、一番大事なこと忘れてるじゃねーか!)

ツナ。そうだ。ツナは、どうしただろう。間に合ったんだろうか。事のはじまりは、親友からの頼みだったのに、途中から、ヒバリとのやりとりに必死になり過ぎて、頭から、すっかり抜けちまっていた。ほんとは、目が覚めたあとも、ヒバリをもうちょっと足止めしとかなきゃならなかったんじゃ……。なにやってんだ、オレは。
時計に目をやれば、昼休みが終わって、すでに20分が過ぎていた。た、たしか、おぼろげに、チャイムが鳴る音を聞いたような……。とにかく、応接室を経由して、教室に行こう。
ヒバリの学ランを脇に抱え、そのまま、部室を出て、小走りで、教室まで向かう。誰もいないグラウンドから、校舎まで、もうすぐ、と言ったところで。

「!?」

頭上から響いた、激しい爆発音に、思わず、立ち止まった。爆弾でも落ちたのか?と思うくらいだった。
見上げれば、煙は、なんと、応接室から上がっている。唖然として、目を見張る。しかも、窓が割れているじゃないか。あんなの、絶対に、ただごとじゃない。ツ、ツナ……?

(まさか、クレヨンを消すために、危ない薬剤を混ぜたりしたのか……!?)

と、とにかく、ツナとランボの無事を確かめないと。すぐさま、走り出そうとして、よろけてしまう。足に、うまく力が入らないせいだった。あれっぽっちで、情けない。普段の筋トレ不足だな、と、苦笑いしながら、ふたたび、目線を上げた時、

「うわっ!?」

応接室の窓から、まるで、ゴミでも捨てるかのように、乱雑に、何かが投げ出されるのが見えて、思わず、声を上げてしまった。もくもくとした煙で、よく見えなかったけど、けっこうな大きさだったように思う。あと、見ようによっては、人のかたちをしていたように、見えなくもなかったような……。嫌な予感がして、すぐさま、そっちへと駆け出した。ガサッと、音を立てて、木の上に落ちた「それ」は、細い枝と、葉っぱとともに、生け垣にバウンドしてから、地面に落ちて来た。

「ツナ!!」

学ランを右肩に掛けながら、近づいて見れば、全体的に、灰色に汚れてしまっていたが、彼の姿だった。
やっぱり、見間違いじゃなかった。と、思いながら、身体を起こすと、ツナは、うっすらと目を開けて、こちらを見た。よかった、意識はあるみたいだ。

「や、まもと……。」
「大丈夫か!?なにがあったんだ?」

チビは!?と、尋ねると、息も絶え絶えに、ラクガキ消してる間にヒマになったみたいで、どっか遊びに行ってしまったと、教えてくれる。「また、変なことしてないといいんたけど。」と、力なく笑うツナに、胸が痛む。少なくとも、ランボが巻き込まれなくてよかったけど、気の毒だ……。何があったのかは、よくわかんねーけど、パンツだけになっちまって……。きっと、すげーがんばったんだな……。

「ごめ……、せっかく、時間…稼いでくれ……」

言い終わる前に、がくん、と、腕のなかで頭が垂れる。ま、まさか。と、すぐに呼吸を確認すると、少し間をおいて、すよ…すよ……と、規則正しい寝息が聞こえてきた。怪我によって意識を失った、と言うよりは、疲労困憊から来る、強烈な眠気に勝てなくて、気絶してしまったたようだ。さいわい、木がクッションになったおかげで、怪我もなさそうに見える。
よかった、と思いつつ、一応、肩を揺すってみたが、苦悶したような表情を浮かべ、「イーピン…。」とか「なんでこのタイミング…。」と、譫言のように呟くだけだった。状況は分からないが、とにかく不測の事態が起こったらしいことだけは、確かなようだった。

(……まてよ。)

よくよく思い出せば、ツナは、爆発の反動で、部屋から投げ出されたのではなかった。「誰か」によって、窓から放り出されたのだ。そして、いくらツナが小柄だからって、男の体を腕一本で、外へと投げ出すような馬鹿力と、こんなふうに、人を人とも思わない扱いをするのは、どう考えても、1人しか思い浮かばない(さすがに、仮にも付き合ってるのに、この言い方は、自分でもどうなんだ、とは思うけど)。ってことは、やっぱり、あいつにバレちまって……。

「悪い、ツナ……!オレがもっとうまく、ヒバリの足止めを………、っ???」

言いかけた瞬間、頭上から、刺すような視線。ついさっきまでは、感じなかったのに。ぞくり、と、肌が粟立った。
聞かれた。と、瞬間的に悟る。校舎の2階と、グラウンドの距離感で、普通は聞こえるわけがない、そんなこと、頭では充分、分かってるけど。だけど、察してしまった。そもそも、あいつは、「普通」なんて枠には当てはまらないのだから。
額から、じわりと汗が滲む。それなのに、背中はどんどん、冷たくなっていく。
だめだ、見るな、だめだ。と、思いながら。だからといって、このまま、顔を上げないわけにもいかないことは、よく分かっていた。ぎこちなく、顔を上げる。
ようやく、薄くなりつつある煙の、その向こう。そこに見えたのは、割れた窓のそばに立つ、生徒の姿。ゆるやかな風に、黒髪を揺らしながら佇むその姿は、不釣り合いなほどに涼しげで、優雅にすら見えて。そして、その口元には、なぜか。

(あ、あいつ、笑って……?)

オレは、ヒバリの笑顔が好きだ。めったには見られないけど、びっくりするくらい、やわらかく笑ってくれることがある。だから、それを見るたびに、しあわせだって、思ったりする。だけど、今日のは……。

―――そこにいなよ。

薄い唇が、その六文字を形作ったのが、はっきりと見えた時、もうすでに、ヒバリの姿は、そこにはなかった。

(お、終わった………。)

当然、オレが悪い。人のやさしさに付け込んだ罰だな、と、思いながら、肩にかけたままのヒバリの学ランを、無意識に、握りしめたのだった。



その直後のことは、あまり詳しく話したくないし、細かいところの記憶が若干あいまいだけど、とりあえず、見かけたそのへんの草食動物を、片っ端から屠殺しかねないくらい悪化したヒバリの機嫌をなおすのに、オレは到底、人様には言えないようなことをしなきゃならなくなってしまったことは、覚えておかなきゃならない。そんでもって、その時は、気づいたら、どこかもよく分からない部屋にいて、全身、噛み跡やら、傷跡だらけの、まさにキズモノになってしまったわけだけど、どうやら、ヒバリが、もらってくれるらしい。掛け布団にくるまって、部屋の隅にいたら、そんなことを言われた。
だいぶ、突拍子もない話だったけど、たぶん、あいつのことだから、本気で言ってるんだと思う。……ってことは、オレはたぶん、何年経っても、なにがあっても、ヒバリからは、離れられないみたいだ。だから、とにかく、ヒバリと、今後とも末永くお付き合いをさせていただく上で、今後の自分の身の安全のためにも、この件は、記憶に刻みつけることにした。
……ただ、さすがの自分も、その時のヒバリには言えなかったけど、やっぱり、ツナから、どうしてもって頼まれることがあれば、きっと。

 





「懲りないね。君も。」
「おまえだってそうだろ……。」

つーか、分かってただろ……!途中から!
事が済んでから、だいぶ時間が経っているというのに、腰がまるで言うことを聞かない。うつ伏せになったまま、ベッドから立ち上がれずにいるオレに、ヒバリはどーでもよさそうな視線をくれる。そして、カーテンを閉め切った窓際の椅子に座ったまま、テーブルのピッチャーを傾けると。なにやら、ちら、と、瞬きをしながら、こちらを見る。おぼろげな灯りに照らされた横顔は、悔しいけど、ただそれだけで、様になって。

「ね。水、ないんだけど。」
「おまえ……クソ男みたいなこと言うなよな……。」

と、思ったのに、とんでもない。ちょっとは休ませろよ、と。苦々しげにつぶやくと、何が楽しいのか、ヒバリは、ふふ、と、小さく笑う。日頃の彼は、表情豊かでも何でもないのだが、こういう時の笑みだけは、いつからか、やたらと堂に入っていた。
今夜は、とある場所で、ヒバリが前々から気に食わないらしい(理由はわかんねーけど)某ファミリーとの、諸々の交渉を兼ねた食事会が、秘密裏に行われている。そんなことを、ヒバリに気づかれたら、何をされるかわかったものじゃないので、その間、絶対に、刺激せず、事を荒立てずに、本部から遠ざけてくれ、というのが、我らがボスからのお願いであり、命令、であった。だから、柄にもなく、お高いディナーの予約を取って、部屋まで予約して、ヒバリを捕まえる準備をしていたのだけど。

「君がやけくそみたいに積極的な時は、決まって、何かあるからね。」

ご明察。どうやら、薄々勘付かれていたらしい。今振り返れば、誘った時に、ちょっと笑ってたもんな。だけど、やけくそみたいに積極的、って。日本語おかしくね?そりゃあ、いまだにそれっぽく誘うのは、苦手だから、そう言われても仕方がない気はする。プライベートなら、なおさら。

「恋人を疑ってかかるのは、どーなんすかね。」

なんて、我ながら、いけしゃあしゃあと。自分のやったことは、遥か高く棚に上げて、訴える。そして、鈍痛が消えない腰を押さえながら、慎重に身体を起こした。ヒバリはと言うと、なにやら、ゆっくりと瞬きをしたかと思えば、肩を竦めて。

「君から、学ばされたのに?」

と、どこか被害者ぶったような口ぶりで、こちらを見る。こうやって、飽きもせず、もう10年くらい前のこと(まあ、その後にも何回も似たようなことをしてきたわけだけど)を掘り起こしてきたヒバリに、あの時、どれだけ、埋め合わせに奔走したと思ってるんだ、と、言いたくなる気持ちを、自分が言える立場じゃないしな、と押さえつつ。それでもなんだかんだ、愛想尽かさずにいてくれるこいつって、けっこう物好きだし、短気に見えて、意外と気が長いのでは?と、最近ではそんなふうにすら、思うようになった。言わないけど。

「ごめんな。いたいけなおまえのこと騙しちゃって。」

そのかわりに、これぐらいは言わせてもらおう、と、わざとらしい口調で、首を傾げてみせると。

「かまわないよ。いたいけな僕にしたみたいに、埋め合わせしてくれればね。」

それ、もはや「埋め合わせ」までがセットだよな。正直、だいぶ割に合わない気がする。えげつなさは、あの頃の比じゃないのだから。このやりとり、これ以上続けると、完全にドツボだな、と思い、両手をちょっとばかり上げて、ゆるゆると首を横に振る。降参の意を察したらしく、ヒバリは、微笑を浮かべた。こいつ、この手の笑い方、本当に上手くなったな、そりゃ、遠くから見てる分にはキレーだけど、内実を知ってる立場からすれば、あんまり褒められたもんじゃない。苦笑いしながら、やけに均整の取れた笑みを眺めていると、「それにしても。」と、ぴったりと合わせられていた薄い唇が、わずかに開く。

「誰が、そんな噂を流してくれたのかな。」
「噂?」

ちょっと、嫌な予感がして、やや、食い気味に尋ねてしまった。しまった、と思う。基本的に、こういうことは、したくないのに。いつまで経っても、ままならない。

「僕が、〝彼ら〟のことが気に食わない、なんて、根も葉もない、ね。」
「おまえ……。うそだろ……。」

薄々、どころか、全部お見通しってこと?どこから?なにから?ていうか、「流してくれた」って、そのとってつけたような言い方、まさかそれ、おまえが噂の出元ってこと?たしかに、わざわざヒバリ本人に、「なあ、あいつらの何が気に食わねーの?」と、直球で尋ねるなんて、そんな危ない真似、最初からできるわけがないと思っていたから、しなかったけど。

「けど、そんなことくらい、沢田も分かってるんじゃないかな。」
「……つまり?」
「君は、僕に対する誠意を見せるために使われたってこと。」
「いやいやいや……。」

はあ、と、脱力して、眉間を押さえる。もう、何を信じていいのやら。

「貢ぎ物になった気分はどうだい。」
「……最高。」

こういう時、ちょっとばかり、考えるのをやめたくなる。ただでさえ、出来の悪い頭なのに。どうにでもなれ、と、ふたたび、身体を投げ出すと、

「君は、男の趣味が悪いからね。昔から。」

と、ベッドが軋んで、傍らから、めったに聞けないような、同情心を含んだような声が降る。頼むから、失恋したばかりの割と好みな女を引っ掛けにいく時、みたいな話し方と、声の出し方するな。演技って分かってても、ちょっと、揺らぐから。不本意だけど。

「お嫁にいけない?」
「そーですよ!誰かさんのせいでな!」

なにやら、懐かしさを感じさせる問いかけに、こんな身体にされて、と、わざとらしく返せば、ヒバリは、また、わずかに目を細めた。気のせいじゃない。今日、こいつ、めちゃくちゃ機嫌がいい。むしろ、後がこわいくらいに。

「もらってあげるって言ったでしょ。」

あの日と同じ台詞を言いながら、ヒバリの指が、髪を撫で、まるで、機嫌をとるかのような動きをする。思い出せば、それは、あの日と、同じような手つきだった。たぶん、わざとだな、と思う。

(……高尚なご趣味で。)

その時のオレは、とにかくヒバリの怒りを鎮めることばかりに必死だった。だから、全然気づかなかったけど、振り返ってみれば、たぶん、けっこう早い段階で、人知れず、こいつの機嫌は直っていたんだと思うし、もしかすると、表出していたよりも、怒っていなかったんじゃないかとすら思えるようになって。いずれにせよ、やっぱりオレにとっては、知る由もないことで、都合のよい想像でしかない。
ただ。もし、オレの趣味が悪いって言うんなら、それは、おまえにだって、当てはまることになっちまうけど、いいのかよ。なんて、思いはするものの、やっぱり、恐ろしくて口にはできない。

「捨てたりしないでくれよ。」

そのかわりに口にしたのは、あの日の自分には、思いもつかなかった、ずるいこと。すると、わずかに、指先が揺れる。どこか嬉々として、不規則に。ほら。やっぱり、趣味悪いって。そう、内心で毒づきながら。
だけど、そんな、取り留めのない思考も、気まぐれに、けれど、飽きもせず与えられる刺激と、その指先に、すべてを明け渡すような感覚に麻痺させられて。あっという間に、輪郭を失っていくのだった。

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