【原利土1819IF】頸と心5
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五 赤の記憶
あれから、黒が近くで眠るようになった。
以前は洞窟の奥で、闇に紛れるようにして眠っていた。息を殺し、気配を消し、捕虜として当然の距離を保っていた。それが、変わった。
最初の晩、黒は五歩の位置で眠った。次の晩は四歩。そして今は三歩のところにいる。利吉が線を引いたその内側に、黒は何食わぬ顔で収まっている。
利吉は何も言わなかった。言わないまま、夜ごと縮まる距離を眺めていた。
焚き火の明かりに照らされた黒の寝顔を見る。眉間の皺が消えている。口元が僅かに緩んでいる。あの夜──この男に息を吹き込んだ夜から、黒がうなされることは減った。悪夢が消えたわけではないだろう。けれども利吉の傍では、少なくとも穏やかに眠れるらしい。
山の獣が気を許したようだった。過酷な地に棲む野生の獣が、焚き火の温もりに釣られて人の傍に寄ってくることがある。いつ牙を剥くか分からない。それでも今は腹を見せて眠っている。
利吉は火に薪をくべた。
あと二十日──二十日でこの男は消える。補給部隊に引き渡す。その後のことは知らない。知らないが想像はつく。抜け忍だ。敵国の情報を持っている。利用価値がある間は生かされるだろう。だがその後は──処分される。
処分。便利な言葉だ。殺すとも始末するとも言わずに済む。物のように。道具のように。
黒が寝返りを打った。その拍子に距離がまた縮まる。手を伸ばせば届く。触れようと思えば触れられる距離。
利吉は手を膝の上に置いたまま動かなかった。
触れてどうなる。二十日後にはいなくなる男だ。自分の手で引き渡す男だ。情が移ったところで何になる。
情──その言葉に利吉は眉を顰めた。情など移っていない。これは監視だ。管理だ。近くにいた方が効率がいい、それだけのことだ。そう言い聞かせても、胸の奥は軋んだ。
黒の寝息が聞こえる。静かで規則正しい呼吸。あの夜自分が吹き込んだ息がこの呼吸を取り戻させた。この男の命を繋いだのは自分だ。繋いでおいて引き渡す。繋いでおいて──処分させる。それが正しい判断だと分かっている。それが正しい仕事だと。
利吉は焚き火を見つめた。炎が揺れている。赤く燃えながら、形を変え続けている。
黒は眠っていなかった。
閉じた瞼の向こうで、利吉の気配を測っている。視線の重さ。呼吸の乱れ。薪をくべる手の躊躇い。すべてが肌に伝わってくる。
この男の傍傍は安全だと、何か直感めいたものが言っている。息が止まりかけたあの夜から、この男の傍にいると呼吸が楽になった。悪夢が遠のく。理由は分からない。身体が覚えてしまったのだ。この距離を、この温度を。この男の呼吸の音を。
利用価値があるからだ、と黒は自分に言い聞かせた。距離を縮めれば警戒が緩む。警戒が緩めば逃げる機会も増える。そういう計算だ。そういう計算のはずで、けれども計算だけでは説明のつかないものが胸の底に澱のように溜まっていく。
黒はそれを認めたくはなかった。けれども否定もできなかった。野良の傍にいたいと思っている。傍にいると安心する。それは計算ではない。もっと根深い、名前のつけようのないどうしようもない何かだった。
あの夜、野良の息が自分の中に入ってきた。赤い炎を押し流し、白い空気で肺を満たした。あの瞬間、黒は確かに救われた。地獄から引き上げられたその感覚が身体に確かに刻まれている。消えないし、消したくない。黒は薄目を開けた。
焚火の向こうに、野良の横顔が見えた。息を吐く音が聞こえる。深く、重い息。何かを堪えている息だ。
(……何を迷っている)
黒には分からなかった。けれども想像はついた。この男は自分を引き渡すつもりだと言った。その後自分がどうなるかも分かっている。分かっていてそれを迷っている。
迷うな、と黒は心の中で呟いた。迷えば苦しいだけだ。割り切れ。捨てろ。──忍とはそういうものだ。
それでも野良は迷っている。その迷いが黒には眩しかった。自分がとうに捨てた何かを、この男はまだ持っている。
(馬鹿な男だ)
黒は目を閉じた。利吉の気配を感じながら、白い眠りに落ちていく。今夜も悪夢は来ないだろう。この男が傍にいる限りは。
***
眠れない夜が増えた。
利吉は焚き火の番をしながら、過去を思い出していた。焚き火を見つめていると、炎の向こうに過去が透けて見える。
見たくない。見たくないのに、瞼を閉じれば余計に鮮明になる。あの日の光景。父の未来を奪った、春の日の記憶。
氷ノ山は静かな山だった。
人里から遠く離れ、獣道さえ途切れがちな深い山。利吉はそこで生まれ、そこで育った。父は忍術学園の教師で、利吉の誇りだった。
あの日──あの春の日。珍しく休みが取れた父が、野遊山に行こうと言い出した。
山桜が咲いていた。足元には菫や蒲公英が顔を出し、木漏れ日が地面に淡い模様を描いていた。母が早起きして作った握り飯の香り。父が選んだ陽だまりの柔らかな草の感触。あの時利吉はまだ十二だった。守られることしか知らない、無力な子供だった。
氷ノ山の、自分たちが住む場所に人が来ることなどそうそうない。だから油断した。父でさえそうだ。忍が現れたのは、陽が傾き始めた頃だった。
何人いたのか、今も分からない。気づいた時には首筋に冷たいものが当たっていた。呼吸をするだけで肌が切れそうな、研ぎ澄まされた暗具。利吉は声を出せなかった。身体が石になったように動かなかった。心臓だけがひどく煩く鳴っていた。
父が叫んでいた。何と叫んでいたのか、言葉は覚えていない。ただ声の響きだけが耳に残っている。母が父の名を呼んでいた。制止する声だったのか、懇願する声だったのか、それも分からない。利吉はただ震えていた。初めて知る死の輪郭に怯えて、何もできずに震えていた。
父が動いた。
利吉を取り戻すために。人質にされた息子を救うために自分の身体を盾にした。忍と組み合い、刃を躱し、利吉を引き剥がした。その瞬間、銀色の光が父の背を走った。
血が、飛んだ。
春の陽光の中で、父の血は赤く、透き通って見えた。桜の花弁のように宙を舞い、草の上に散った。温かかった。利吉の頬にかかった血は、温かかった。
そこから先の記憶は曖昧だ。気がつけば忍はいなくなっていて、母が父を抱きかかえていて、利吉は血に濡れた草の上に座り込んでいた。父は息をしていた。目を開けていた。利吉を見て、笑った。大丈夫だ、と言った。
父は生き延びた。傷は塞がった。だが身体のどこかが、あの日を境に壊れた。忍術学園の教師を続けることはできなくなった。長年愛し続けた教壇を、父は静かに降りた。利吉には何も言わなかった。責める言葉も、恨み言も、一度たりとも口にしなかった。
だからこそ、利吉は自分が許せなかった。
父が責めないから、利吉は自分を責めた。自分が弱かったから。油断していたから。子供だったから。父の夢を、父の未来を、父の誇りを、自分が奪った。
強くならなければならない、と利吉は誓った。
完璧にならなければならない。もう二度と誰かの足を引っ張らぬように。もう二度と誰かの未来を壊さぬように。感情を殺し、迷いを断ち、正確に、冷徹に、機械のように動かなければ。
それが、あの春の日に利吉が自分に課した枷だった。
──それなのに。
利吉は焚き火の向こうを見た。黒が眠っている。自分から三歩の距離で、穏やかに眠っている。感情が揺れている。これまでずっと揺れなかった、揺れることを許さなかったものが。黒を引き渡すと決めたはずなのに、その決断が揺らいでいる。
利吉は黒のことを誰にも報告していなかった。本来であればもっと早い段階で報告すべき事柄だ。敵国の抜け忍を捕らえた、情報源として価値がある。そう伝えれば指示が来たはずだ。だが利吉は報告しなかった。
最初は本当に確度が低いからだった。けれども今は違う。今は報告しないことを意識的に選んでいる。報告しなければ黒は自分の手の中にある。報告すれば黒は組織のものになる。それが、嫌だった。
報告しなければ、この男を逃がせる。その考えが何度も頭をよぎる。黒のことを報告せず、補給部隊にも引き渡さない。傷が治ったら逃がす。どこへでも行けと言って背中を押す。そうすれば黒は生きられる。死なずに済む。だがそれは裏切りだ。それは忍務の放棄であり、利吉がこれまで積み上げてきた全てを崩すことになる。完璧であろうとした自分を否定することになる。
利吉は頭を振った。考えるな。迷うな──決めたことを実行しろ。二十日後に引き渡す。それだけだ。
そう頭では思うのに、心が従わない。黒の寝顔を見るたびに胸が痛む。黒の声を聞くたびに何かが軋む。あと何日。あと何回。この男の顔が見られるのは。この男の声が聞けるのは。
焚き火が爆ぜた。火の粉が舞い上がった。利吉はその赤を見つめた。あの日の血の色に似た、透明な赤だった。
***
日が昇り、日が沈む。
朝靄の中で粥を炊き、傷の具合を確かめ、陽が落ちれば焚き火の番をする。繰り返される日常は、変わらぬ日常だ。黒は相変わらず陽だまりの中で目を細め、時折思い出したように孫子の一節を諳んじる。利吉がそれに応じる。言葉が続かなくなれば二人とも黙り込む。空に雲が流れていく。鳥が啼き、風が木々を揺らす。何も変わらない中で、何かが、少しずつずれていく。
黒が笑うと、利吉は目を逸らすようになった。なぜ逸らすのか自分でも分からない。黒が近づくと半歩退くようになった。なぜ退くのか、それも分からない。分からないままに目を逸らし、距離を取る。考えないようにしていた。考えれば、何かに気づいてしまいそうだった。
黒は利吉の変化に気づいていた。
視線が合わなくなったこと。近づくと退くこと。些細な変化だが、見落とすほど鈍くはない。気づいていて、黒は何も言わなかった。問い詰める理由がなかったからだ。
黒は三歩の距離を保った。近づきもせず、離れもしなかった。居心地が悪いわけではない。むしろ奇妙なほど落ち着く。それが少し、名残惜しかった。
あと十五日。十五日で自分はここを去る。去って、どこかへ消える。それだけのことだ。それだけのこと。
ある夜のことだった。
焚き火が爆ぜ、火の粉が闇に散った。薪が燃える音だけが洞窟に響いている。黒は目を閉じたまま口を開いた。
「……野良」
「何だ」
「お前は迷っている」
利吉は答えなかった。炎を見つめたまま、黙っていた。
「迷うな」
黒の声は淡々としていた。
「迷えば判断が鈍る。判断が鈍れば死ぬ。お前も、私も」
長い沈黙があった。薪が崩れる音がした。
「……分かっている」
「なら迷うな」
「分かっている」
同じ言葉を繰り返した。分かっている。分かっているのにできないのだろう。黒は目を開けなかった。それ以上は踏み込まなかった。
焚き火が燃えている。赤い炎が二人の影を壁に落としている。影は揺れて、時折重なり、すぐに離れた。
あと十五日。
利吉は自分の手を見下ろした。この手で引き渡す。この手で送り出す。これは忍務だ。そう言い聞かせた。これは忍務だ。正しい判断だ。それ以上でも以下でもない。
考えたところで、何も変わらない。十五日後にこの男は消える。自分の手で送り出す。それだけのことだ。
三歩先で、黒が静かに息をしている。
その音を聞きながら、利吉は夜明けを待った。
***
その日は朝から風が荒れていた。
洞窟の口から吹き込む風が焚き火を煽り、火の粉を奥へと散らした。乾いた風だった。湿り気を奪い、木々の葉を裏返し、枯れ葉を礫のように巻き上げていく風。利吉は焚き火に薪をくべながら、本能的に眉を顰めた。
嫌な風だ。こういう日には、何かが起きる。
昼を過ぎた頃だった。
「煙の匂いがする」
黒が目を開けて言った。いつもの陽だまりの位置で、壁にもたれたまま。その鼻腔が微かに動いている。利吉も気づいた。焚き火とは違う匂い。もっと大きな──もっと獰猛な何かが燃えている匂い。
洞窟の入り口に走った。
息を呑んだ。
東の山肌が赤い。樹々の輪郭が炎に縁取られ、黒い煙が空を塞いでいる。風が火を煽っている。炎は生き物のように膨れ上がり、斜面を這い上がってこちらへ向かって広がってきていた。山火事だ。
振り返る。黒が壁に手をついて立ち上がろうとしていた。脚はまだ完治していない。
迷う暇はなかった。
利吉は黒の傍に駆け寄り、懐から苦無を抜いた。手首を縛っていた縄に刃を当てる。繊維が断ち切れる乾いた音。
「歩けるか」
「走れはしない」
「それなら運ぶ」
黒の腕を自分の肩に回した。骨張った身体は思ったより軽い。体重を引き受けながら洞窟を出る。
外は地獄だった。
煙が喉を灼く。風が熱を孕んでいる。東から吹きつける空気は炎の吐息そのものだった。火は近い。思っていたよりずっと近かった。樹脂が爆ぜる音があちこちで響いている。枝が燃え落ちる音。何かが倒れる音。獣が逃げ惑う気配。山全体が悲鳴を上げていた。
風上の西へ走った。黒を引きずるように、時に担ぐようにして走った。黒は歯を食いしばって利吉についてきた。脚を引きずりながら、それでも遅れまいと必死に足を動かしている。痛むはずだ。だが声を上げない。利吉の肩にしがみついて、ただ前へ進もうとしている。
火の回りが早い。乾いた風が炎を育てている。振り返れば、さっきまでいた方角が既に赤い壁に塞がれていた。木々が次々と松明になっていく。煙が視界を奪う。目が痛む。涙が出る。息ができない。
轟音がした。
利吉が顔を上げた瞬間──燃え上がる大木が倒れてきた。避けられないと思ったとき、衝撃が身体を襲った。何かが利吉の身体を突き飛ばした。地面に叩きつけられる。後頭部を打った。視界が白く弾け、明滅し、音が遠くなる。煙の匂いと、焦げた土の匂い。意識が溶けていく。そのまま意識を失いそうになったところで誰かに腕を掴まれ、引き起こされた。
「──立て」
声が聞こえる。遠い。近い。頭の芯に響く声。
「歩け。いいから歩け」
黒の声だった。利吉は朦朧としたまま足を動かそうとした。動かない。膝が折れ、視界が傾ぐ。黒が利吉の腕を自分の肩に回している。さっきと逆に、今度は黒が利吉を支えている。黒が利吉を引きずっている。治りかけの脚で、走れないはずの脚で。
「待て……」
利吉は声を絞り出した。喉が煙で焼けている。
「お前の脚が……」
「黙れ」
「離せ。私は、自分で——」
「いいから言うことを聞け、クソガキ!」
利吉は目を見開いた。怒鳴り声だった。黒が利吉の襟首を掴み引き寄せる。顔が近い。煤と汗にまみれた顔。その奥で黒の目が燃えていた。
「お前は頭を打った。まともに立てもしない奴が何を偉そうに言っている! 私の脚より今はお前の頭の方が問題だ!」
腹の底から絞り出すような、剥き出しの激情だった。この男がこんな声を出すのを聞いたことがなかった。いつも静かだった。いつも醒めていた。損得を計算し、感情を殺し、飄々と皮肉を吐く男だった。何を考えているか分からない男だった。
その男が、利吉の襟首を掴んで怒鳴っている。声が割れていた。荒い息が利吉の顔にかかる。黒の手が震えている。怒りなのか、恐怖なのか、それとも別の何かなのか。
「分かったらつべこべ言わずに足を動かせ! 死にたいのか!」
「……分かった」
頷くことしかできなかった。黒は利吉の襟首を離し、再び腕を肩に回した。
「走るぞ」
有無を言わせない声だった。利吉は黙って従った。黒に引きずられながら、煙の中を走った。
***
どれくらい走っただろう。
気がつけば炎は遠かった。煙も薄れ、空気が吸えるようになっていた。
黒が足を止めた。利吉を大きな樫の根元に座らせ、自分も幹に背を預けるようにして崩れ落ちた。荒い息。煤と汗にまみれた顔。脚を押さえる手が微かに震えている。痛みが戻ってきたのだろう。
樫の葉が風に揺れていた。焦げた匂いを含んだ風だったがさっきまでの熱はない。木漏れ日が地面に斑を落としている。どこかで鳥が啼いた。山火事を逃れた鳥だろうか。利吉の意識も少しずつ戻ってきた。視界の揺れが収まり、吐き気が引いていく。後頭部の痛みが鈍い疼きに変わっていく。
利吉は黒を見た。
「……動けるのか」
自分でも驚くほどに低い声が出た。黒は答えなかった。脚を伸ばし、座り直しただけだった。
「お前は走れないと言ったな。それなのに走れた」
「……まだ本調子じゃない」
「走れるのに?」
「火事ならともかく、忍者隊からは逃げられん」
黒の声は平坦だった。言い訳をしているのではない。事実を並べているだけの声だ。
「隠していたな」
利吉の声には怒りがあった。
「お前は脚が治っていないふりをしていた」
「……だから、信用するなと言っただろう」
黒は利吉を見なかった。遠くを見ていた。煙が流れていく方角を見ていた。
利吉は黙った。怒りはあった。騙されていた。信じかけていた。あれほど用心していたはずなのに、いつの間にかこの男の言葉を疑わなくなっていた。そんな自分への苛立ちがある。
だが──それだけではなかった。分からないことが一つあった。
「なぜ、助けた」
黒は答えなかった。視線を遠くへ向けたまま黙っていた。風が吹き二人の間を抜けて、焦げた匂いをどこかへ運んでいく。
「……分からん」
長い沈黙の後、黒が言った。
「そこが一番、分からん」
その声には嘘がなかった。この男は本当に分かっていない。自分がなぜ利吉を助けたのか、自分自身で理解できていない。逃げられたはずだ。利吉が倒れたあの瞬間、見捨てて走れば自由になれた。縄は既に切れていた。脚は動いた。火事の混乱に紛れて姿を消すこともできた。なのにこの男は、利吉を担いで走った。治りかけの脚で。走れないと嘘をついていた脚で。
利吉は黒の横顔を見た。何を考えているのか読めない顔だ。けれどもそこには確かに困惑がある。自分の行動を、自分で持て余している者の困惑。
利吉は口を開きかけて閉じた。問い詰めても意味がない。黒自身が分かっていないのだから。代わりに別のことを言った。
「……洞窟は燃えただろうな」
「ああ」
「寝床がなくなった」
「そうだな」
黒が初めて利吉を見た。疲労の滲む目だった。だが警戒はない。敵意もない。ただ静かに、利吉を見ていた。
「野良は、どうするんだ」
「探す。別の場所を」
立ち上がろうとして、足元がふらついた。黒の手が伸びかけて止まる。利吉は自分の力で立った。その時ふと──先程のことを思い出した。
「……さっき、クソガキと言ったな」
「ああ、言ったな」
悪びれる気配もない黒に、利吉は言い返した。
「お前の方がガキだろう」
「はあ? お前、歳はいくつだ」
忍が己の素性を明かすのは愚行だ。名すら言わぬと突っぱねてきた男に利吉も答える義理はない。けれども黒には借りができた。あの炎の中で担いで走られた。命を助けられた。その借りを返す術はない。せめてこれくらいは答えてもいい気がした。
「……十八」
「なんだ」
黒が呆れたように言った。
「お前の方がガキじゃないか。私は十九だ」
利吉は目を見開いた。
十九。この男が。てっきり年下だと思っていた。陽だまりで目を細める姿。無防備な寝顔。懐きかけの野良犬のようだと、どこかで思っていた。
「……嘘だろう」
「嘘をついてどうする」
黒が肩を竦めた。口元が僅かに緩んでいる。
「まあ、お前は年相応だな。年相応に生意気で、年相応に青い」
「なんだと」
睨んだが、声に怒気はなかった。黒がからかっている。以前は死にかけていた男が、涼しい顔でからかっている。
「……もういい。行くぞ」
利吉は歩き出した。背後で足音がする。黒が少しばかり足を引きずりながらついてきている。利吉は前を向いたまま思った。この男は逃げない。縄は切れているのに。火事の混乱に紛れて消えることもできたのに、それでもついてくる。
胸の奥で何かが緩んだ。認めたくなかった。認めたくなかったが、それは確かに嬉しさに似ていた。
(馬鹿馬鹿しい)
利吉は自分を叱った。喜んでどうする。この男は捕虜だ。いずれ引き渡す。いずれ別れる。それは変わらない。変わらないはずだ。だが捕虜は火事で逃げたという言い訳ができてしまった。だから利吉は黒の縄を結び直す気にならなかった。足取りも以前より軽かった。
二人は焼けた山を背にして、西へと向かった。
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