星屑の雨、欠片の恋 Ⅱ
開け放った窓からは、二ヶ月前には聞こえなかった蝉の声。その鳴き声がどこか控えめに感じられるのは、最盛期を迎える前だからだろうか。
梅雨入りから間もなくやってきた蒸暑は、夏本番を前にしてすでに真夏と相違ない暑さ。であるのに。いよいよもって夏の到来を知らしめるかのごとく鳴り響く音は、まだまだこれからが盛り──。
生徒達の伸びしろを感じる瞬間は胸が熱くなる。が、彼らに感じた伸びしろと共に増していく暑さを想像すると申し訳ないが気が滅入りそうだ。室内に蟠ったじめじめと重い空気も相まって眉が寄る。窓を開けただけではなかなか霧散してくれそうにない暗鬱を早々に追い出そうと首振りに設定した扇風機が、ぎぎぃっ、と軋みを響かせながら右を向く。数歩歩いただけだというのに額に浮いた汗がこめかみを伝い落ちた。
ここに来るのは二週間ぶりだ。
最高気温三十度越えが連日続いた六月の最終週、職員室も教室もとうとうクーラーを稼働させることになったのだが、各部署ごとに設けられた職員室を数えただけでもいくつになるか。加えて一年から三年の各教室で稼働するとなると使用電気量は莫大だ。そのためこの時期は気休めでしかなかろうと少しでも節電を図るために職員室の照明を落として過ごすこともしばしば。ちょうど定期考査一週間前で、各職員室内への生徒の立ち入りが禁止になった時期でもあったため、自分一人のためにクーラーをつけるのもどうかと思い準備室の使用を控えていた。
今日は昨夜の雨に引き続き曇り空で、日差しが遮られているおかげか暑いことに変わりはないが体感的にはだいぶ過ごしやすいように感じる。廊下を吹き抜けていく風も涼やかで、ここしばらく開かずの間になっていた準備室の換気でもしておくかと久しぶりに訪れたわけなのだが。
二週間分の熱気と湿気が混ざり合った空気は想像以上に重苦しく、靄がかかっているようにすら見えた。窓を開けて扇風機の電源を入れるまでの間、無意識に息を止めていたほどだ。
ようやく一息ついたあともなんとなく椅子には座らないまま辺りを見渡し、たまには整理整頓した方がいいだろうかと手に取った資料が自分の体温とそう変わらない熱を持っていることに再度唸った。
なにもこんな暑い時期にしなくてもいいか…。
そんな思いがよぎったが、蝉の声を跳ね除ける勢いで聞こえてきた掛け声にすっと背筋が伸びた。野球部だろうか。暑さに挫けず生徒が頑張っているというのに教師がこんな体たらくでどうする。とはいえ、四日間に渡り行われた定期考査を無事に終え、定期考査終了後の恒例行事になっている球技大会も昨日で幕を閉じ今日から自由登校。部活顧問でない教員は補習などの特別な用事がなければ午前中だけ顔を出して帰る者もいる。あまり大きな声では言えないが、ここにいた方が涼しいからという理由で出勤する者もいるし、昼に出前を取ったりランチに出たり。夏の長期休暇中、お盆が明けるまでは教員も割と自由に過ごさせてもらっている。
自分はというと、一応剣道部の副顧問を請け負ってはいるが今のところ八月はじめに行われるインターハイの引率を頼まれているくらいで、夏季講習が始まるのも来週二十日の終業式以降。急ぎで済ませなければならない用事でもあるのかと言われたら特になく、端的に言ってしまえばまあ暇なのだが。だからといって帰ったところで一人住まいのアパート。誰かが待っているわけでもない。涼みに来ているつもりはないが、手持ち無沙汰に時間を潰すくらいならと何かしらやる事が見つかりそうなここへ来た。
それで何をしているかと言ったら、窓を開けて扇風機をつけて、どう片付けるか考えてもいなかった棚の前で手持ち無沙汰に佇んでいるのだからどうしようもない。屁理屈のような理由をつけてまでここに来たのは、あわよくば、彼に会えはしないだろうか──心のどこかでひそかにそんなことを思っているからだ。
『天体観測してみませんか』
二ヶ月前、日直に当たっていた生徒に課題プリントの回収と提出を頼んだ。それがたまたま竈門少年で、そして偶然にもその日は俺の誕生日だった。少年が去った後、ほんの少しの束になった課題プリントの影に隠すように置かれていた飴玉の包装に書かれていた「天体観測してみませんか」というメッセージ。もちろんはじめから印字されていたものだ。
全ての生徒に公平であるため教師と生徒の間に公私混同があってはならない。だから個人的な贈り物は受け取らない。常日頃からそう心掛けていたのに。あの日俺は、テーブルの上に置かれていた飴を自分の引き出しに仕舞ってしまった。公平であるべきだというならたとえ飴玉一つでも返さなければ。けれども、俺が気が付かなかっただけでそれ以前からそこにあったのかもしれないという可能性もある。ならば竈門少年が置いていったものだという断定はできない。
あの時もそうやってなんだかんだと屁理屈を並べ立て、いつ誰が置いていったかもわからないのに処分することもしなかった。
もしやこのメッセージは、以前の星屑の話にかけたものだったのだろうか。他にはどんなメッセージがあったのだろう。メッセージの下に書いてあった秘密の流れ星味とは、一体どんな味がするのだろう。
処分するどころか、誰が置いていったものか断定できないなどと言っていた頭でしっかりと送り主を断定したうえで思考を巡らせ、いつ置かれたのか、そもそも自分宛てなのかもわからないそれを自分への誕生日プレゼントだと受け取って、その借りを返さなければと今日ここにいる。
誰かに白状するつもりもないが、今日の出勤理由を大きな声で言えないのは多分俺が一番だ。だが決してやましい思いからなどではない。ただ、借りを返しておあいこにしなければ。それだけだ。
しかし生憎なことに、彼の誕生日らしい十四日から自由登校という、前回のような偶然の巡り合わせを思うと俺にはそういう運がないのではないだろうか。まず職員室自体、基本的に理由もなく訪れる場所ではないから不用意に出入りさせることはしない。だが入室禁止の場合は理由があろうとも禁止だ。そうなるとクラス担任ではない俺が最も長く生徒と接することになる時間といったら必然的に教科担当である歴史の授業中ということになるが、それこそ一人だけを特別扱いすることなどできるわけがない。不思議な巡り合わせもあるものだと思っていた二ヶ月前のあの日から今日まで、残念ながら竈門少年との偶然はおもしろいくらいに噛み合わない。
自由登校期間でも毎日登校しているのは部活動関係か、学校祭関係の生徒が大半だろう。竈門少年はどちらなのか、どちらでもないのか。校舎内を闊歩する活気は平常時に比べると随分と大人しい。仮に、その中に竈門少年がいたとして、用もないのにここに来るだろうか──
そこまで考えて、ふっと意識が浮上する。
気付けばデスクの上に積み上げられた資料たち。資料棚の真ん中部分がすっぽり綺麗に抜けていた。
いつのまに。
目の前の光景を眺め、浮かんだ疑問に自分以外の誰がいると自問自答して唖然とほうける俺に現実を叩きつけるように飛び込んできた蝉の喧騒が耳奥で騒々しく反響する。
「……どうかしているな……」
涼やかとはいったが、いくらかマシだというだけで暑いことに変わりはない。ふつふつと浮いた汗が胸元を伝っていく感触と背中に張り付くシャツに、一体なにをやっているのかと情けなくなった。
「戻るか…」
どうにも暑さにやられて沸いてしまったらしい己の頭の中を先に整理整頓した方が良さそうだ。知らぬ間に積み上がっていたアンバランスな塔は、まるで今の自分の心情を表しているかのようで。
「はあ。不甲斐なし…」
なんとも言えない居た堪れなさに項垂れた時だった。
「煉獄先生?」
「……!」
不思議なほど透明感を持った声がすう、と透り抜けた。一雫の波紋がざわめく水面をのみこむように、他の一切の音が消えた。待っていたんだろうと指摘されても否定のしようもないくらいの勢いで振り返ろうとして、その弾みで積み上がった山に肘が触れてぐらりと揺れた。
「あっ!」
「む…!?」
そのまま傾いて崩れ落ちていくのがスローモーションのように見えた。駆け寄ってきた竈門少年の伸ばした腕が目の端に映るのと、宙に投げ出された参考書やファイルたちがばさばさと音を立てて床に散らばるのはほぼ同時だった。
数冊だけを残してあとは足元で散乱している惨状をしばらく無言でみつめ、久方ぶりに聞いたような気がする扇風機の苦しそうな音に視線をあげると竈門少年と目が合った。
「……あの、よければお手伝いしましょうか」
「いや……、うん。もし時間があるなら、お願いしてもいいだろうか」
「はい…! もちろんです!」
即座に帰ってきた元気の良い返事に頬が緩みそうになる。どうして、少年の声はこんなにも心地よく響くのだろう。
「換気ついでに、整頓でもしようかと思っていたんだ」
「そうなんですね。実はですね、俺の特技は掃除なんです!」
整理整頓ならお任せください! そう言って晴れやかに笑った彼の笑顔が眩しく、好ましいと。そんなことを思ってしまった。
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