ゆびのさきまで 5

 そよ、と風が頬を撫でる心地よい感覚で、はっと目を開く。
「水木……」
 すぐ隣に、肘をついて寝そべるゲゲ郎がぽつりと俺の名を呟く。着流しを羽織ったその手には、団扇が握られていた。
 逆側からは、すうすうと幼子の寝息も聞こえる。首を捩り振り返ると目を閉じて穏やかに眠る鬼太郎がいた。
 ゲゲ郎と俺と、鬼太郎。三人、川の字になり普段から寝室としている部屋に居るということだ。
 雨が止み、すっかり雲も晴れたのか、部屋には外から薄らと月の光が差しているのがわかる。
 ゲゲ郎へ向き直るとその頬や髪、開き気味の襟からのぞく胸板の肌が仄かな月あかりに照らされていて、うつくしいと感じた。
「雨が止んで、少々蒸すせいかおぬし汗をかいていての。だから煽いでいたんじゃが。起こしてしまった。すまん」
「そんな。ていうか俺こそすまない……」
 ほぼ素っ裸の姿でゲゲ郎と抱き合っていたというのに、きちんと寝衣を着て布団の上にいるこの状況。どう考えてもゲゲ郎に随分手間をかけたということが理解できる。
「その、さっきの。なんというか……終わったあとな。おぬしがすとんと気を……それで着替えやら」
 強烈な快楽と、そしてこの男へと向かう想いの強さ。そういう感情の奔流に飲み込まれて、ぷつんと電池が切れたようになったのかもしれない。
「だよな。や。悪い。ほんと、悪かった」
「いや、わしが加減も考えず」
「違う、俺のほうこそ」
 ゲゲ郎の声に被さるように詫びようとしたが、二人で謝りあうさまが、なんだか可笑しくなってきてふっと笑ってしまった。
 すると、ゲゲ郎も優しく笑んでみせる。団扇を枕元にそっと置き、空いた手が伸びてきて額を撫でられた。
「よかった」
「何がだ」
「……おぬしがこのまま目を開けなかったら、どうしようか、と少し心配しておった」
「おおげさな。俺はいたって健康だぞ」
 それに俺はあんな酷い場所から、酷い状態からどうにか生きて帰って来れた。それも二度も。そうそう簡単にくたばったりはすまい。
 今のところは、だが。
「……ああ、そうじゃな」
 頷きながらも、どこか納得のいってなさそうな表情のゲゲ郎。その表情の意味と理由が、こちらはこちらでどこか納得ができてしまうから曖昧に笑うしかできなかった。
 明日明後日、そういう喫緊の話ではないにしろ、そのいつかはくる。
 いつか、この二つの目が本当に、二度と開かない時が来るだろう。
 かならずのいつか。
 俺もお前も頭のどこかに、そのいつかのことが在る。互いに、はっきりと言及したことはないが、せずとも分かる。
 何気ない日々を同じ家で共に過ごせば過ごすほどに、そのこと。いつか訪れる今生でのわかれは、より一層確固たる輪郭を帯びてゆく気がしている。頭の中で、心のうちで。
 それでも、俺はまだいい。
 人間とのしての寿命は、例えどれだけ長かろうともこの、幽霊族の男のそれとは比にならない。
 必然、置いていく方になる。だけど、こいつは。
 どこまでも柔らかい手つきで額を撫でてくるその手に触れた。そして長いゲゲ郎の指に自分の指を絡める。
 そんなことは多分きっと承知の上で、こうしていてくれることが。
「ありが、」
 礼を言いかけたところで、もう片方の側の手、人さし指がすっとこちらに伸びてきて一旦唇を塞ぐ。
「わしにも言わせておくれ」
「え」
「ありがとう。水木」
「……な、んだよそんな、あらたまって」
 ただただ、素朴なまでのたった五文字の言葉が、俺を呼ぶ声が、たまらなく優しく響いて、じわりと胸に沁みる気がした。
 ゲゲ郎の言葉から伝わる感謝のおもいは全身をめぐり、俺の感情をあらためて、静かなかたちで昂らせる。
「いつもおもっておることじゃよ。だが思っているだけでは、いくら強くおもっていても伝わらぬものだからの」
「そりゃ、そうだけど」
「ありがとうな。おぬしと鬼太郎とこうして暮らしてゆけることが、わしは本当にうれしくて」
 絡めた指をそのまま、腕を顔のそばまでゆっくりと持ち上げゲゲ郎は俺の手のひらに自分の頬を重ねた。
「……しあわせじゃ」
「そうか……」
 この胸に溢れてやまない、愛もさいわいも、そしてこのたった一つの己の命も。全てが永遠ではないことをもう知っている。だって俺は人間だからだ。
 だからこそ、それらは途轍もなく大切で尊いものなのだろう。
 ずっと、漠然とそんなふうに考えていた。
 なのにいまは、永遠に続けばいい。続いて欲しいとそう思う。どこかでそう願っている自分がいる。
 静かに、でも確かに昂る感情は胸を強く揺する。
 縁の方から、雨上がり特有の湿りけを帯びた風がさあっと通った。
 ゲゲ郎のさらりとした前髪も揺らす風。
 それはさなかに嗅いだ梔子の香りを伴っていた。
 ゆっくりとゲゲ郎の頬を撫でた。向かい合う俺たち二人の間にも漂う梔子の甘い匂い。
 香りというものは、記憶との結びつきが強いと聞いたことがある。そのせいだろうか、たったいま子供の頃に聞かされたことがはっとよみがえる。
 梔子。
 その花言葉は。
「とてもしあわせ、だよ俺も」
 嬉しそうに笑うゲゲ郎に笑顔を返し、肩先に顔を埋めた。梔子の甘さと相まって、常よりも更に甘く感じるゲゲ郎の匂いが肺に満ちる。
 うれしい気持ちのまま、唇は笑みを形作ったままだ。なのに。
「……」
 ああ、もしかしたら着流しを少し濡らしてしまったかもしれない。申し訳ないな。
 そんなことを考えていたら、さっきまでゲゲ郎の頬にあった、重なる二人の手、ゲゲ郎は小指同士を絡めてくる。
「……約束じゃ。おぬしがそうおもってくれるなら、わしは決して……」
「ああ。約束だ」
 必ず。
 そう言って交わした、いつかの約束を思い出す。
 あの時の約束は、結果としてちゃんと叶った。
 この約束も、きっと、必ず。
 祈りよりも強く、誓うような気持ちで指切りの、その、ゆびのさきまでぎゅっと力をこめた。




おしまい

powered by 小説執筆ツール「notes」