月曜日、朝、憂鬱

 誰かに金槌で頭をかち割られたのだと思った。
 例えば、どこぞで長いこと監禁されていた髭面の男が、格闘ゲームみたいに横スクロールアクションで襲ってきたとか。あるいは、ゆうべ江南のショットバーのモニターで観た、雷の神様が呼び寄せたハンマーが頭のてっぺんに落っこちてきたとか。そうでもしないと説明がつかない。目が覚めてからかれこれ十五分、両方のこめかみを一秒おきに押し潰さんとする激痛に、ドンシクは半ば涙目になりながらベッドの上で悶えている。
 おそらく隣で眠る男も、同じように最悪な夢を見ているに違いない。先ほどからごろごろと寝返りを打っては「う〜ん」と低い唸り声をあげている。どういうわけか、お互いすっ裸なのだが、調整が効かない空調のせいなのか、はたまたどれだけ鍛えてるか自慢でもしあったのか。ここがモーテルだと気が付けば、なるほどその可能性もあるのかと、ドンシクの頭痛はさらに増すばかりだった。
 
 
 話は数時間前まで遡る。
 江南でも一、二を争う人気のクラブは、日曜の夜にもかかわらず若者で溢れていた。
 爆音のダンスミュージックに合わせてフロアで踊り狂う人々の顔をひととおり確認してから、ドンシクはバーカウンターの隅に腰をおろした。
 警察を辞めても、人探しの機会は意外となくならなかった。マニャンにも、それ以外の町にも、そこと波長が合わない人間はいるものだ。なにもドンシクのように、殺人事件の被害者家族及びその容疑者なんてたいそうな肩書きがなくとも、十分『浮いた存在』として認識されてしまう。カン・ミンジョンもそうだった。ミンジョンはいつか、自分を宇宙人のようだと言っていた。男手ひとつで彼女を育てた父に対して、「愛情なんてない。嫌悪感だけ。わたしが宇宙人だからだ」と、そんなふうに。今となっては彼女の感覚は正しかったのだが、いまさら気がついたところで、彼女はもう昔のように生意気な口を聞くことも、いたずらに笑うこともできない。
 一瞬の静寂ののち、ターンテーブルを回していた男が片手を高く掲げた。感傷にひたる間もなく、四つ打ちの重低音が靴の底から内臓を揺らす。フロアに密集した人間が飛び跳ねる度、飲み込んだ酒が喉まで迫り上がりそうだった。耳が馬鹿になる前に早く帰ろう。スマートフォンを取り出して、探し人の顔をもう一度確認した時、「イ…シクさん」と、どこかで名前を呼ばれた気がした。
「イ・ドンシクさん!」
 大声でそう言われ振り返る。見知った顔だった。相変わらず透き通った白目が印象的だ。
「ハン・ジュウォン」
 タメ口はやめてください。そう言われるかとも思ったが、彼は最大限まで眉間に皺を寄せて、ドンシクの耳元に顔を近づけた。
「なん…こん……に」
「え⁉︎」
「なんでこんなところにいるんですか!」
「ちょっと頼まれごとで」
「え? なんですか⁉︎」
 お互い、耳が遠くなった老人みたいに耳元で大声を張り上げる。しびれを切らしたドンシクは、ジュウォンのジャケットの袖を掴んで、「外に出ましょう」とまた大声で言った。
 
 
 驚くべきことに、ドンシクの頼まれごとは、ハン・ジュウォンの登場によってあっという間に解決してしまった。
 スマートフォンに映った女性を見て、ジュウォンは「この子ならつい今、僕の署で送り届けました」とあっけなく言った。聞けばジュウォンが探していた家出人と彼女は友達で、一緒にいたところを捕まえたらしかった。世間は狭いがなんにせよ、家族の安心した顔が見られるならそれでいい。それから、オ・ジフンには今度高い牛肉を奢らせよう。元警察とはいえ民間人に人探しの手伝いをさせるんじゃない(当然ながら断れない自分も自分なのだが)。
 店の外に出てもまだ耳鳴りがしている。ジフンにメッセージを送って、タバコを咥えた。ジュウォンも電話を一本し終えて、手持ち無沙汰とばかりにポケットに手を突っ込んだ。
「お元気そうで」
 そっぽを向いたまま、ジュウォンが言う。二人だけで話すのはひさしぶりだ。彼と最後に会ったのはいつだっただろうか。ジファの昇進祝いをしたのが半年ほど前だから、たぶんその時だ。
「あなたも。仕事は忙しい?」
「ええ、まあ」
 立ち話であれば、まあこんなものだろう。「それじゃ」とどちらから言い出すこともなく、タバコの煙がぷかぷかと夜空に登っていく。
「ドンシクさん、車は?」
「んー。今日は置いてきた」
「送っていきましょうか?」
「いや」
 飲みに行きましょうか。ドンシクがそう問いかけると、ジュウォンは一度驚いたような顔をしてから、ほんの少し口角をあげて頷いた。突然ぽっかりと空いてしまった時間をどうしようかと考えているのは、彼も同じようだった。願わくば、あなたともう少し話がしたいなんて。それは自分だけが知っていればいい感情だ。
 
 
 繁華街をしばらく歩くと、細い路地にひっそりと店を構えるショットバーがあった。先ほどの爆音とは打って変わって、店内は往年のジャズが静かに流れている。カウンターで肩を寄せあう中年の男女を横目に、いくつか間をあけてふたり並んで座った。
「こっちのほうがよっぽど落ち着きますね」
「あなたはガヤガヤしている店のほうが好みかと」
「たまには静かに飲みたい時だってあるさ」
 ひさしぶりにハン・ジュウォンに会った時とか。せっかくなら、彼の発する心地よい低音がよく聞こえる場所がいい。
「ハン警部補は明日も公務でしょうから、あまり長居はしませんよ」
「……明日は夜勤なので」
「あら。そう」
 まんまと面食らってしまった。なので、なんだ。この男は時々こういう思わせぶりな言い方をする。おそらく無自覚であろうことがなおさら恐ろしい。無自覚な年下の男は、ひとこと「ギムレット」とバーテンダーに注文した。いきなりかよ、とドンシクはまたも面食らう。夕方からとはいえ明日は勤務だろうに。そういえば、この男が泥酔するところを見たことがない。酒に強いのか、節制するタイプなのか。ドンシクも決して酒に弱いわけではないし、職業柄まぁそれなりに場数も踏んできたつもりだ。それでも、いい日も悪い日も、めちゃくちゃに飲みたい夜というのは確かにある。というより、この澄ました顔で初っ端からギムレットを頼むような若者の、それはもうみっともなくべろんべろんに酔ったところが見たくてたまらなくなったのだ。だからふっかける意味で、「じゃあ俺はもっと強いやつ」なんて一番ダサい注文の仕方をしたら、案の定バーテンダーは心底めんどくさそうに苦笑いをした。
 チーズをちまちま口に運びながら、ジュウォンの泥酔した姿を想像する。泣くのか笑うのか、ふて寝するなんてつまらない真似はいただけないが、寝顔は見てみたい気もする。
「あの、なにかたくらんでます?」
「いいや。なんも」
 言いながら、顔がにやける。いつの間にか嘘をつくのが下手になったのかもしれない。そもそもこの青年の前ではもう嘘をつく必要もさほどないのだが。ドンシクは頬杖をついて、疑心暗鬼になっている青年の顔をまじまじと見つめた。いたずらにぐっと顔を近づけると、彼は妙に慌てて「やめてください」と顔を背けた。
 そうこうしてるうちに、ふたりの前にカクテルグラスが差し出された。ドンシクが適当にオーダーしたものは、透き通るように美しい青い液体になった。面倒ながらも、きちんと仕事をこなすタイプのバーテンダーだったらしい。「ブルーマンデーです」それだけ聞けば、このカクテルの意味するところはお察しだ。
 おつかれさまです。そんな、なんの面白みもない言葉でグラスを合わせる。ひとくち含むと、オレンジの爽やかな甘味が広がった。なるほどこれは確かに、ついつい飲み過ぎてしまいそうな口当たりの良さだ。三口ほどで飲み干すと、ジュウォンも一杯目のグラスを空けたところだった。いいね、どんどん行こうじゃないか。楽しい夜はこれからだ。
 
 
 ハン・ジュウォンの生態その一。ほろ酔いの時はいつもより饒舌になるらしい。
 一時間ほどすると、ジュウォンは『ほんわり』とでも効果音のつきそうなほど柔らかい表情になった。同時に彼の口から、普段なら知り得ないであろう情報がほいほい勝手に出てくる。「イライラした時はふわふわのバスタオルに顔を埋める」「本当は生クリームがアホほど乗ったパンケーキとかひとりで食べたい」「ハードボイルドに憧れていたことがある。というか今も憧れている」等々。それから。
「僕はずっと、自分のことを宇宙人だと思っていました」
 冷静沈着な彼が発したとは思えないほど、ジョークのような、けれど真実味のある不思議な言葉だった。ふわふわした頭の中で、ミンジョンのことを思い出す。
「家の中にいても、両親と言葉も心も通じ合ったことなんかなかった。イギリスに行っても、ようやく言葉が通じたと思っても、結局誰にも心なんて開けなかったし、帰ってきてからも、警察官になっても。今は少しだけましになったけど、それはあなたのおかげなんです。だから、嬉しかった。あなたと心が通じて」
 いつの間にかがっちりと握られていた両手の体温が、赤ん坊みたいにあたたかくて。
 耳障りのいい独白の最後に、なんだかすごい爆弾を落とされたことにしばしの間気が付かなかった。気がついた時には、彼の目はもうとろりと座っていて、もう一段階進化を遂げる直前だった。
 ハン・ジュウォンの生態その二。酩酊初期、突然、甘え上手口説き落とし男が現れる。
 いいかげん痺れてきた両手を、ジュウォンが離す様子はまったくない。むしろさも愛しい人にするみたいに、手の甲をさすったり、指を絡めたりしている。俺がわるかった、そう謝って勘弁してもらいたかった。もしかしたらなんて淡い期待をまるっきり裏切られた。だってこれはもう、完全に。
「ジュウォナ…? そろそろ手をだな、離してもらえたら嬉しいなぁなんて」
「どうしてですか? ドンシクさんは僕のこと嫌いなんですか?」
「そんなことないよ〜? ただほら、トイレに行きたくて」
「じゃあ僕もいきます。あなたと離れたくない」
 め、めんどくせえ。しかしかわいい。
 うるうるとした目で訴えられると、もうどうにでもなれと半ば投げやりな気持ちになってくる。バーテンダーも目のやり場に困って、ずっと無表情でモニターのアベンジャーズを観ている。もう少し楽しそうにしてくれ。アベンジャーズだぞ。
「……ジュウォニはアベンジャーズで誰が好き?」
「僕はドンシクさんが好きです」
「あーわかるなぁ。やっぱハルクだよねぇ」
「ドンシクさん、すき」
「うんうん、ありがとう。じゃあこの手を離してもらえるかな?」
「いやだぁ……」
 突然ジュウォンがひっくひっくと肩を震わせはじめる。これはもしや第三形態。そう思った時にはもう、彼の目からぼろぼろと涙がこぼれていた。
 ハン・ジュウォンの生態その三。泥酔状態で泣き上戸発動。
 カクテルという飲み物は実に恐ろしい。こうやってじわじわじわじわと脳内の正常な機能をぶち壊していく。ドンシクは、冷静なふりをして己の理性との最終決戦に突入していた。ひさしぶりに会ったかわいいかわいい元パートナーの、少しだけ酔ったところが見たいなぁなんて思ったら、想像以上に知らない顔がごろごろ出てきた挙句に、手を握られ好きだと言われ、おまけにかわいい泣き顔まで見せてくれた。これで「さぁここでお開きにして帰ろうか」なんて言える男がいるだろうか。否。
 そうなのだ。ハン・ジュウォンの泣き顔はかわいい。ひさしぶりに見てグッときた。
 よし、連れて帰ろう。そう決意をして、拘束されたままの両手の拳に力を入れた。そのまま手首をかえして。
「えっ?」
「えっ?」
 なぜかきれいに一本背負いが決まってしまう。なんでだ。
 ツルツルの床に投げ出されたジュウォンは、まさに鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていた。バーテンダーも。奥にいた中年の男女ふたりも。そしてドンシクも。こんなところで警察時代の鍛錬の成果が出てしまうとは。とりあえずドンシクはその場を切り抜けようと、アメコミのヴィランのように高笑いをし、寝転がるジュウォンを拾い上げて、「マスター、お会計」と爽やかに言った。
 
 
 カーテンの向こうで、ちゅんちゅんと雀が鳴いている。そこまで思い出して、ドンシクはうなだれるように頭を抱えた。隣で寝ている男の背中には、くっきりと青いアザが残っていた。どうしてそんな雰囲気でモーテルに入れるのか不思議で仕方がない。けれど肝心のそこが思い出せないのだ。
「うぅ……あたまが、いたい」
 地を這うような声で彼が目を覚ます。三白眼がゆっくりと見開かれ、そのまま二秒ほど目が合った。
「おはようございます、ハン・ジュウォン警部補」
「……おはようございます、イ・ドンシクさん」
「気分はいかが?」
「えっと、最悪です」
「そう、俺も」
 青白い顔をしたジュウォンは、ドンシクの顔を見て、裸の自分を見て、布団の中の下半身を見て、それから頭を抱えた。
「そんな……酒の勢いで……」
「やっぱあなたもそう思う?」
 思い出そうとしても頭痛が邪魔をする。おまけに吐き気までしてきた。ベッドから起きあがろうとしたら腕を掴まれた。
「ジュウォナ? 俺トイレに行きたいんだけど」
「嫌です。僕が先です」
 ゆうべの恨みか? というよりゆうべのほうがまだいい雰囲気だったのでは、と今の地獄のような状況に天を仰ぐ。よし、風呂で吐こう。そう決意をしてトイレに駆け込むジュウォンを見送った。
 結局したのかしていないのか、つまりはヤったのかヤっていないのか。真実は悪酔いのせいでどこかへいってしまった。まぁそのうち思い出すだろう。ドンシクはフラフラとした足取りで風呂場へ向かう途中、トイレのドアを三回ノックした。
「酔いが覚めたらセックスしましょうか」
 ドアの向こうでゲホゲホとむせる音が聞こえた。夕方まで、まだ時間はたっぷりあった。

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